井原西鶴の商家経営原則
『 正しきによりて滅びる店あらば 滅びても良し
古くして新しきもののみ 永遠にして不滅 』
今から約2800年前、地中海をはさんだイタリアの対岸、現在のアフリカ・チュニジア。
その地に拠点を置くフェニキア人によって建国された、都市国家カルタゴ…
地中海貿易の拠点として繁栄を極め、独自の文化を育んできた。
世界遺産が8ケ所も点在するチュニジア。
その地中海文明の至宝の数々が、はるばる石川県立美術館にやってきたのです。
「古代カルタゴとローマ展」と題して、160点が展示公開されている。
エジプト文明、ローマの栄枯盛衰に興味を持ち、様々な書物を読み漁ってきた私…
8月29日の初日、早速見学に訪れた。
(期間は9月20日まで)
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 696】
~歴史から学ぶ~「ポエニ戦争」
■人間愛に満ちた明治の日本人
日露海戦における幾多のうるわしい逸話が、今に伝えられている。
○波間に漂う敵兵を出来うる限り救助し、医療・食事など万全を期し、
俘虜として暖かく遇している。また惨敗を喫して、総崩れになった
敵艦隊から逃れ行く一隻の駆逐艦に対し、「武士の情け、深追いはするな」
と、見逃してもいる。
○敵の提督ロジェストウインスキーは、重傷を負い、人事不省になった
ところを救助され、佐世保の海軍病院に収容された。
東郷は直ちにこれを見舞い、なぐさめの言葉をかけた。
「敗れたとはいえ、私は、閣下のような立派なお方と戦ったことを、光栄に
存じます」…万感こみあげたロジェストウインスキーの目に、涙が光って
いた。
○敵兵への暖かい思いやりは、軍人だけでなかった。
敵兵の水死体が海流に乗って、山陰の海岸に漂着した。付近の住民はこれを
引き上げ、手厚く葬り、冥福を祈った。万里の波濤をけって、はるばる来航、
武運つたなく祖国に殉じた勇者に対する思いは、それが敵であろうと変わり
なかった。
明治の日本人には、うるわしい"人間愛"があったのです。 (論語の友から)
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 659】
~歴史から学ぶ~ 「明治の日本人気質」
「己の欲せざるところは 人に施すなかれ」 (顔淵第十二)
(自分がして欲しくないことを、人にしてはならない)
日露戦争で、乃木大将が激戦の後旅順を陥落させ、敵将ステッセルと会談した時の逸話から、明治の日本人気質を知ることが出来ます。
敗将ステッセルの一行が、白旗を掲げて乃木の陣営にやってきた。
戦勝国日本の新聞社のカメラマンたちは、この歴史的一瞬を撮影して、勝利をはなばなしく故国に報道しようと、待ち構えていた。
ところが乃木は、これを差し止めて、記者たちを遠ざけてしまった。
「何故そんなことをする…」と、記者たちは乃木将軍に詰め寄った。
乃木曰く「軍人にとって降伏することは、この上もない不名誉である。ましてや、その屈辱の情景をこれみよがしに報道されることは、
当人にとって死ぬ以上に辛いことです」
かって、西南の役において軍旗を奪われ、一死をもってそのつぐないをしようとして、果せなかった乃木には、
ステッセルの心中が痛いほど分かるのです。
武士の情がわかる乃木は、心細かに気配りして、手厚く敗将ステッセルを遇したのです。
この会談は、勝者のおごりも、敗者の卑屈も感じられず、ともに祖国のために堂々と戦った、将兵の誇りと満足が相互尊敬となって、
静寂をとり戻した戦場に、暖かい雰囲気をかもし出したのです。
東亜の小国日本が、大国ロシアを破った…輝かしい勝利もさることながら、当時の日本人が、武士道精神にのっとって、 立派に戦ったことが、全世界から好評を博すことになった。以降、国際社会における日本の信用を、いやが上にも高らしめたのです。
ところが、日露戦争に勝利した小国日本…国難に出会えば"神風が吹く"と慢心し、武士道的道義心は低下するばかり…ついには、
米国に戦争を挑み、敗戦を迎えることになる。
戦後直ちに、我が国の学校教育から、軍国主義的残渣が一掃されることになり、占領軍の係官が、学校を査察して廻った。
ある小学校で運悪く、乃木、東郷の肖像が、物置から発見された。
随行の校長、ハッと顔色を変えたが、査察官の口から意外な言葉が発せられた。
「乃木、東郷は、日本が生んだ世界に誇るべき武将であります。私は偉大な二人を尊敬しています。日本が今日、 このような不幸に会ったのは、彼らのような立派な武将がいなかったからではないでしょうか。この肖像の廃棄を私は認めません」
二宮金次郎の銅像が取り払われたのは、当時、左翼思想の強い日教組によるもので、進駐軍は「二宮金次郎は日本の偉人、 尊敬すべき人物である」と言っている。
戦後の教育の場では、日本の歴史上欠かすことのできない、こうした偉人たちを、子ども達に教えなかった。 日本に生まれながら日本を知らず、日本という国を尊敬できずに、今に生きる私たち…自らに誇りが持てない民族… そんな民族のままでいいのでしょうか…。世界一愛国心の薄い国民と、笑われているというのに…。
「坂の上の雲」「論語の友」より
■司馬遼太郎の遺言
「坂の上の雲」を大河ドラマにしたいと、30年以上も前から交渉し続けてきたNHK…OKが出たのは5年前。
司馬遼太郎は生前、映像化することを好しとしなかった。NHKの熱心な説得に遺族側が折れ、大河ドラマが実現することになったのです。
その内容はあまりにも壮大。零下15度の中国内モンゴルでの撮影に始まり、当時のロシア王朝の面影を残す、
サンクトペテルブルク宮殿での舞踏会シーン、ヨーロッパでの撮影など、今秋放映開始に向け、大掛かりな撮影が行われている。
3年にまたがる放映は初の試みです…壮大なスケールで繰り広げられるスペシャルドラマ…11月29日スタート…今から楽しみです。
3人の主役…秋山真之を本木雅弘さんが、秋山好古は阿部寛さんが、正岡子規を香川照之さんが演ずる。秋吉兄弟の両親は、伊東四朗さん、 竹下景子さん、伊藤博文を加藤剛さん、高橋是清を西田敏行さん、東郷平八郎を渡哲也さん、子規の妹・律を菅野美穂さん、 そして児玉源太郎を高橋英樹さん…と、ワクワクする布陣です。
NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」より
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 657】
~歴史から学ぶ~「坂の上の雲」
毎朝8時BS2で、「私が選ぶ一冊の本」を見ている…私はちゅうちょなく、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を選ぶだろう。
内容を解説できるほど、繰り返し読んだ。
自ら志す道を懸命に歩み、歴史に残る偉業をなしとげた、3人の若者の物語です。その「坂の上の雲」が、この秋、
NHKの大河ドラマになるのです。
物語の舞台は明治の日本。小国日本が清国との戦いに勝ち、大国ロシアに戦いを挑む…そんな明治とはいったい、
どんな時代だったのか?
原作者・司馬遼太郎は、明治を以下のように表現している。
「維新によって、日本人ははじめて近代的な"国家"というものをもった。 |
当時の若者の多くは、ほんの少し前の時代まで、立身出世を夢見るなど、考えもしなかった…それが明治になって、
何でも叶えられるようになったのです。
「坂の上の雲」は、そんな時代に生きた、3人の若者の物語です。
1人は「秋山真之(さねゆき)」。1986年四国の松山に生まれる。
日本海軍の作戦参謀として、瀬戸内海・村上水軍の戦術からヒントを得た「T字戦法」で、バルチック艦隊と国家の命運を掛けた海戦に臨み、
勝利を収めるという、大きな役割を担うのです。
1人は真之の兄「秋山好古(よしふる)」。真之とは九つ違い…陸軍に入り、広大なシベリアの最前線で、ロシアとの戦いに勝利するため、
日本で初めての騎兵隊を創設して、獅子奮迅の活躍をするのです。
もう1人は、真之の幼なじみ「正岡子規(まさおか しき)」…身体が弱く、病と闘いながら"俳句"を革新した人物として…
歴史にその名を残すことになる。
秋山兄弟も子規も、幼い頃から、自らの進路を決めていたわけではない。
子規は、学問をして、太政大臣になる夢のために、東京に出たいと思うようになる。
真之は子規に刺激され、偉くなりたいとの思いが募り、親の許しを得て東京に出る。
この先3人、明治という時代に何を目指し、どう生きていくのか…
「坂の上の雲」では、明治の若者が、国家のため、社会のため、悩みながらたくましく生き、人生を掛け、
国の運命を左右する熾烈な戦いの場へと突き進んでいく…。
秋山兄弟が描く壮大な人生ドラマ…読み重ねるほどに、ぐいぐい引きこまれていく。
「坂の上の雲」だけでなく、今、後編を上映中の三国志「レッド・クリフ」も、「天地人」も、原作小説を読んで、 時代や歴史背景を知ってから見ると…ドラマへの興味が深まり、面白さも倍加するというものです。
■小学修身教科書より
「第十五 礼儀」
人は礼儀を守らなければなりません。
礼儀を守らなければ、世に立ち、人に交わることができません。
人に対しては、ことばづかいをていねいにしなければなりません。
人の前であくびをしたり、人と耳こすりしたり、目くばせしたりするような、不行儀をしてはなりません。
人に送る手紙には、ていねいなことばを使い、人から手紙を受けて返事のいる時は、すぐに返事をしなければなりません。
又、人にあてた手紙を、ゆるしを受けずに開いて見たり、人が、手紙を書いているのを、のぞいてはなりません。
その外、人の話を立ち聞きするのも、人の家をのぞき見するのも、よくないことです。
人と親しくなると、何事もぞんざいになりやすいが、親しい中にも礼儀を守らなければ、長く仲よく付き合うことはできません。
「親しき仲にも礼儀あり」です。
【心と体の健康情報 - 652】
~歴史から学ぶ~
尋常小学校「修身教科書」から
戦前の学校教育に「修身」という科目があり、古今東西の偉人・賢人達の具体的エピソードを通じて、「正直・謙虚・礼儀・勤勉・
公益・勇気」といった科目を子ども達に教えていました。
修身教育の根本方針は、明治23年10月30日の「教育勅語」(メルマガ583号・585号・587号に掲載)
によって定められた、全文315文字の短文からなります。
勅語は、「自己・家族・友人・社会・国家」に対する、国民が守るべき十四の徳目を説いています。
例えば「博愛の精神」…「博愛」と言われても、抽象的で、その意味がよく分かりません。修身の教科書では、エピソードを通して、
小学生にも十分理解できるよう、血の通った道徳教育がなされているのです。
■小学校修身教育 「博愛」の教え
紀伊の国の水夫寅吉は、蜜柑を積んだ船で江戸へ行った。 それからこの捕鯨船は、北の方へ鯨を捕りに行き、半年ばかりたって、帰りに船長は便船に頼んで、
寅吉たちを香港まで送り届けました。 そこで寅吉たちは、支那の役人の保護を受け、便船に乗り継いで、やっと日本に帰ることが出来ました。故郷では、
三年も便りがなかったことから、死んだと思い、葬式を出して墓までしつらえていました。 知っていても知らなくても、「博く愛する」のが"人の道"です。 明治37年、日露海戦において、上村艦隊が敵艦を打ち沈めた時、敵のおぼれ死のうとする者を、 六百余人も救い上げたのは、名高い美談です。 |
戦後の教育の現場からは、「修身」や「教育勅語」が排除されてしまった。
私たちは修身の内容を知らず、軍国主義の思想教育であるかのような、固定観念で見ている…。
徳目に書かれている内容をよく読むと…政治・マスコミ・日教組などで、"修身"が話題になっただけで、トラウマになって反対する…
その理由が分からない。
(論語の友)
問題の箇所があれば、そうした箇所を削除し、今の学校教育にふさわしい内容に改め、修身を復活すべきと思うのですが…。
なぜ、薪を背負った二宮尊徳像が、小学校の校庭から撤去されなければならないのか?なぜ、二宮尊徳が教育の現場から排除されたのか?
■火事と喧嘩は江戸の花
「火事と喧嘩は江戸の花」と言われるくらい、江戸は火事が多かった。
長屋が密集していて、火事が起きると、直ぐに燃え広がった。
消防体制など無いに等しく、水をかけて消すよりも、周りの家を壊した方が手っ取り早い。
その役割をするのが「いろは四十八組」の、威勢いい若い衆。
夜中に火事を発見すると、半鐘を鳴らす。
二度打ちから五度打ちまで4パターンある。
「ジャン・ジャン」の二度打ちは、火事場が遠い時。
「ジャン・ジャン・ジャン」と三度鳴らされると、近いので避難しなければならない。
ちなみに四度打ちは、火事ではなく、水害などの他の災害になります。
五度打ちはめったなく、江戸城のま近かが火事になった時に鳴らされます。
この時は、四十八組総動員して消火に当たります。
家財道具を揃えても、火事になれば焼けてしまう。
従って自前で揃える人は少なく、必要な家財はレンタル…質屋を頻繁に利用した。
質屋には蔵があって、焼けません…。
ところで、火事をネタ噺にした落語といえば、「味噌蔵」「富久」「火事息子」
「鼠穴」などがある。「味噌蔵」は、2008年5月13日No.566で配信しています。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 647】 ~歴史から学ぶ~ 「六代将軍・家宣」
パリの下町で暮らす母娘…高等学校に通うおてんば娘が、ある日突然、ヨーロッパの某王国の後継女王になった。 桧舞台で次々引き起こす騒動…映画「プリティ・プリンセス」そっくりの夢物語が、江戸幕府・将軍家世継で起きていたのです。
六代将軍徳川家宣がその人…甲府藩主綱重の長男として江戸藩邸に生まれる。
(綱重は、三代将軍家光の三男。長男は四代将軍家綱、四男の弟は五代将軍綱吉)
父・綱重がまだ正室を迎える前の19歳の時、身分の低い女中に子を産ませた。
世間をはばかり、家臣の新見正信に預けられ、正信の子・新見左近として育てられた。
ところが、正室を迎えた父綱重…世継の男子に恵まれず、呼び戻されて、17歳のとき、
思いもよらない甲府藩の家督を継ぐことになった。
その後、伯父の四代将軍家綱に可愛がられて、"綱豊"と名乗る。
43歳の時、五代将軍綱吉にも世継が無く、世継候補も死去したため、綱吉の養子に迎えられ、"家宣"と改名して、
江戸城西の丸に入る。
思いもよらぬ幸運で、将軍職にまで上り詰める…昨年の大河ドラマ、篤姫のようです。
西の丸に入った時、諸大名や旗本が、賄賂に近い祝いの品を持参したが、家宣はこれらの一切を受け取らなかった。
家宣48歳の時綱吉が亡くなり、ついに六代将軍の座に…。
将軍になるや、人事を一新…悪しき慣習や不正を、厳しく取り締まった。
悪評高かった「生類憐れみの令」や「酒税」を廃止するなど、気概を示したため、庶民から喝采でもって迎えられ、期待は高かった。
先代の綱吉は、「生類憐れみの令」を継続するよう遺言したが、家宣は葬儀の二日前、綱吉の柩の前で、側近の柳沢吉保に言った…
「生類憐れみの禁令に触れ、罪に落ちた者は数知れない。私は天下万民のために、あえて遺命に背くことにする」…この時、
罪を許された者は、八千数百人になるという。
先代は、老中を遠ざけ、ご用人・柳沢吉保を重用したが、家宣は、吉保を免職…新井白石を登用して、文治政治を推し進める。
財政改革に熱心だったが、在職わずか3年、51歳で惜しくも死去。
次の七代目将軍職は、家宣の子の"家継"が継いだ。
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■徳川家康「東照宮遺訓」
一. 人の一生は 重き荷を負うて遠き路を行くが如し 急ぐべからず
一. 不自由を常と思えば不足なし
一. 心に望みおこらば 困窮したる時を思い出すべし
一. 堪忍は無事長久の基
一. 怒りを敵と思え
一. 勝つことばかり知りて負くる事を知らざれば 害その身に至る
一. 己を責めて 人を責むるな
一. 及ばざるは 過ぎたるより勝れり
いずれも、不況風が吹く今、座右の銘にしておきたい、自らの生き方を諌める心得です。
中でも、最初の文章「人の一生は重き荷を負うて…」は、ズッシリ胸にしみます。
"千利休"が言った言葉というのが、最近の歴史家の通説です。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 643】
~歴史から学ぶ~ 「五代将軍・徳川綱吉」
家康から265年、15代続いた徳川幕府…家光や吉宗は、よく知られる将軍です。
が、その他の将軍についてはよく分からない?
そこで、歴代将軍にまつわるエピソードを取り上げて、その時代を見ていきます。
今回は「五代将軍・綱吉」です。
五代将軍・徳川綱吉は、三代将軍家光の四男。
綱吉将軍職就任に功労した"堀田正俊"を大老に据え、積極的に政務に関わっていく。
先代の家綱時代、政務一切を重臣たちに任せ、「左様せい様」という異名が付けられていた将軍の権威を、取り戻そうとしたのです。
関が原の戦いから80年…戦国の殺伐とした気風を排除して、"徳"を重んじる文治政治を推し進めた。これは、
父"家光"が綱吉に儒学を学ばせたことに影響している。
幕臣を集めて"四書"や"易経"を講義する、学問好きな将軍として知られている。
儒学を学んだ影響から、歴代将軍の中で最も皇室を尊び、皇室領を増額して献上したり、巨額の資金を投じて、 河内国一帯の66陵を修復したりした。
在任中に起きた刃傷沙汰で、赤穂藩主・浅野長矩守を、大名としては異例の、即日切腹に処したのも、 朝廷との儀式を台無しにしたことへの、綱吉の激怒が背景にあったのです。
綱吉のこうした儒学を重んじる姿勢は、新井白石、荻生徂徠らの学者を輩出するに至り、この時代儒学が隆盛を極めた。
また、近松門左衛門・井原西鶴・松尾芭蕉などの文化人が一世を風靡した、元禄時代の将軍です。
将軍就任4年目に、将軍の片腕、堀田正俊が若年寄"稲葉正休"に刺殺される事件が起きた。以後、大老を置かず、 "柳沢吉保"らご用人を重用し、老中を遠ざけるようになった。
この頃に、後に"悪政"と言われる「生類憐れみの令」を発したり、悪化しつつあった幕府財政を建て直そうと、「貨幣の改鋳」
を実施したが、世間を混乱させるだけに終わった。
側近・寵臣の意見にしか耳を傾けなかった弊害が、民衆を苦しめることになったのです。
綱吉の評価が、実際より低く見られるのは、忠臣蔵や水戸黄門に絡むTVドラマが、悪い印象を与えているのしょう…。
元禄11年、数寄屋橋より出火した大火は、300余町を焼き尽くし、三千人の死者を出した。
また、富士山が噴火…関東一円火山灰の被害に合い、庶民は飢饉に苦しんだ。
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■いま出世する者、しない者
大久保彦左衛門(1560~1639)が著した「三河物語」の中に、「いま出世する者としない者」という記述がある。
[いま出世する者]
・主君を裏切り、主君に弓を引く者 ・
口先だけうまい者 ・算盤勘定のうまい者
・ひきょうな振る舞いをして、人から笑われる者 ・前歴がよくわからない者
※今でいえば、社長の片腕でありながら、自らの野心のために、密かに部下の
引き抜き、お得意様の横取りを企むなどして、独立の期をうかがう幹部社員。
[いま出世しない者]
・絶対に主人を裏切らない者 ・
合戦一途に生きる者 ・算盤勘定の下手な者
・お世辞が言えず、世渡りが下手な者 ・最後まで主人に仕え続ける者
※今でいえば、現場一筋、身を粉にして会社に仕え、現在の地位・境遇に甘んじて、
生涯宮仕えしようと心に決める、実直な社員。
当時幕府は、武断政治から文治政治へと移行しつつあり、武家も、武功派より文治派が重用されるようになった。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 641】
~歴史から学ぶ~ 「四代将軍・徳川家綱」
家康から265年、15代続いた徳川幕府…家光や吉宗は、よく知られる将軍です。
が、その他の将軍についてはよく分からない?
そこで、歴代将軍にまつわるエピソードを取り上げて、その時代を見ていきます。
今回は、「四代将軍・家綱」です。
徳川家綱…三代将軍家光の嫡男。家光が48歳で死去(1651)したため、11歳で四代目将軍の座に…幼少で将軍家を継承したため、
政情不安になり、由比正雪の倒幕事件が起きた。
叔父の保科正之や、家光時代からの大老・酒井忠勝、老中の松平信綱など、優臣の補佐により危機を乗り越え、
以後29年の間安定政権をみた。
家綱は、関が原以降武力に頼った武断政治から、文治政治へと政策の切り替えを行った。
温厚な人柄の家綱は、絵画や魚釣りを趣味とし、政務を重臣たちに任せ、「左様せい」の一言で決済を済ませていたことから、「左様せい様」
という異名を付けられた。
エピソード(1)
将軍就任間もない少年の頃、天守閣に登った。
その際、近習の者が遠眼鏡をすすめたが、家綱はそれを受け取ろうとしなかった。
「自分は少年ながら将軍である。もし将軍が天守閣から、遠眼鏡で四方を見下ろしていると知れたら、恐らく世人は、
嫌な思いをするに違いない」と…。
エピソード(2)
ある時、島流しになり、流人となった者の話を聞き、「彼らは一体何を食べているのか?」と側近に尋ねたが、誰も答えられなかった。
家綱は「死罪を免れ、流刑に処せられたのに、なぜ食糧を与えないのか?」といぶかった。それを聞いた父・家光は喜んで、「これを竹千代
(家綱)の仕置きはじめにせよ」と家臣に命じ、それ以降、流人に食糧を与えるようになった。
エピソード(3)
家綱、食事中に汁物をすすろうとしたところ、髪の毛が入っていた。
家綱、何事もなかったように髪の毛をつまみ、取り除いた。
慌てた小姓、替えの汁物を用意しようとした。
家綱「その汁は途中で捨て、椀を空にして下げるように」と、小姓に命じた。
お椀を空にして下げれば、普段のお代わりと同じ扱いになる…咎められる者が出ない。
家綱の優しい心配りがうかがえる逸話です。
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米国はすごい国
1967年、黒人エリート医師と、白人女性との結婚話を題材にした映画「招かざる客」が、
米国社会の人種差別に強烈な問題提起を行った。
娘の父親は新聞社主…苦悩の末、娘の結婚を認める…そんな物語です。
当時は、黒人とキスするなどもっての外…殺されかねない時代でした。
全米16州で、黒人と白人の結婚が禁止されていた。
劇中、主人公の黒人医師が、恋人の父親から子供について聞かれ、答える場面がある…「彼女は、子供は大統領になって、
多人種の政権を作るって、考えています」
42年後、このセリフが現実になった。
ケニア人の黒人男性と、カンザス州の白人女性との間に生まれた政治家、バラク・オバマ氏が大統領になった。
わずか40年の時の流れの中で、かつては不可能だったことが可能になった。
米国は、そんなすごい国です。
1/22 読売新聞
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 635】
~歴史から学ぶ~ 「国家のために何をなすか」
第35代合衆国大統領ジョン・F・ケネディ…
1963年、人気半ばに暗殺されたことはよく知られる。
大統領就任演説で、「国民は国家に何をして貰うかでなく、国家のために何をなし得るかを考えよ」
と述べ、名演説として歴史に残った。
2009年1月20日正午過ぎ、第44代大統領に宣誓したバラク・オバマ…
リンカーンが1861年の宣誓で使ったのと同じ聖書を、左手に置いての宣誓です。
就任演説では「世界は変わった。だから我々も世界と共に変わらなければならない」と強調。ケネディの言葉を引用して 「我々は責任を果さなければならない…米国民一人ひとりが、自分と自国、世界への義務を喜んで果さなければならない…」と促した。
1/22の読売朝刊
平和な国日本…そこに住む私たち…世界有数の充実した医療制度、治安、教育等々、生活の隅々まで手厚く国の保護に守られ、
国に依存した暮らしをしている。
世界に誇りうる、豊かで安全な国に住みながら、どこまで国を思い、恩に報い、国のために奉仕する気があるだろうか?
日本の総理が、ケネディにあやかって、「国民一人ひとりが、国家に何をして貰うかでなく、国家のために何をなし得るか、
考える時が来た」と国民に訴えたとしら、私たち国民は、それを素直に受け入れられるだろうか?
日本の政治家が言えば…各方面・マスコミから、格好の攻撃材料にされるのがオチだろう。
今年の秋NHKで、"明治の日本"を題材にした、司馬遼太郎「坂の上の雲」が大河ドラマになる。明治の日本は貧しく、 国は多額の負債を抱え、国民は極度の貧困にあえいでいた。
以下、「論語の友・明治の日本人と平成の日本人」から…
明治の国家は、国民に充分に与えるものを持たず、国民は国から何の保護も受けられなかった。それでも国民は、素直に礼節を守り、
国家に身を捧げて、国恩に報いんとした。
今の日本人…国を慈しみ、国の恩に報いようとする意志は薄い。
国民の国防や納税に対する義務意識は極めて薄く、免れようとさえする。
そのくせ"権利"は声高に主張する…。
「愛国心」を鼓吹するつもりはない…が、わずか百年足らずの間に、
これが同じ日本人かと…精神の堕落ぶりを、嘆かざるをえない。
■二代将軍秀忠にまつわるエピソード
武将としては評価が低かった家康の三男"秀忠"。大坂の陣の後のある日、弟"義直"と共に能を観劇している最中、地震が起きた。
場内がパニックになりかけた時…
「揺れは激しいが、壁や屋根が崩れる兆候はない。下手に動かないほうがよい…」
と、素早い対応を示し、混乱を回避した。
イザという時、いち早く状況を把握し、統率力を発揮するという、人には見えない才能があったのです。
その一方、妻で信長の姪"お江の方"には、頭が上らなかった。
生涯側室を持たず、一度だけ手を付けた女中に、男児(後の保科正之)が生まれた。
正室からの追求を恐れて、会うこともなく保科家へ養子に出してしまった。
頭が上らないと言っても、信長も家康も生きてはいない。"お江の方"と不仲になったところで、将軍の地位が揺らぐわけではない。
側室を持つことに何の問題もなかった…
恐妻家だったことは事実だが、秀忠は律儀さゆえ、愛妻家を押し通したのであろう。
なお、息子の"保科正之"に会ったのは、妻"お江の方"が亡くなって後である。
その保科正之…後に、兄にあたる三代将軍家光をしっかり支え、幕政に多大なる貢献をしている。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 631】
~歴史から学ぶ~ 「二代将軍・徳川秀忠」
歴史上の出来事をあれこれ探っていくと、思わぬ事実にたどり着くことがある。
それは結構楽しいものです。
家康から265年、15代続いた徳川幕府…家光や吉宗は、よく知られる将軍です。が、その他の将軍についてはよく分からない? そこで、
歴代将軍にまつわるエピソードを取り上げながら、人と為りを見ていくことにします。
今回は「二代将軍・秀忠」です。
秀忠は家康の三男。「秀忠は律儀すぎる。人は律儀一点張りではいかぬものだ」と、家康を嘆かせた。これに対し秀忠は、 「父のウソを買うものはいくらでもいる…しかし、私のウソを買うものはいないだろう」と、己を分析している。
兄の信康や秀康、弟の忠吉などは、武勇や知略に優れた"将"と評価されていた。
一方の秀忠、性格は温和で、戦は苦手。しかし、政務には抜群の才能を発揮した。
そんな性格故、関が原の戦いに遅参するという失態を招いている。にもかかわらず、兄・秀康を差し置いて、家康の後継者となり、
将軍の座に就いている。
家康亡き後、期待に違わず、幕藩体制を揺るぎないものにし、徳川265年の礎を築き上げたのです。鎌倉・ 室町両幕府が短命に終わったのは、二代目後継者に、それだけの能力がなかったことを示唆している。
政権を担うに当たり、酒井忠世、土井利勝、安藤重信を重臣に取り立て、他方、自分に従わない六男の松平忠輝、娘婿の松平忠直、
譜代の重鎮・本多正純を改易した。
更に、外様有力大名の福島正則(広島50万石)、田中忠政(筑後柳川32万石)、最上義俊(山形57万石)、蒲生忠郷
(会津若松60万石)を改易。
最終的に、外様23家、親藩・譜代16家を改易した。また"転封"も忠輝の時がピーク。
こうして、親藩だろうが大大名だろうが、遠慮無しに改易・転封する姿勢を示し、幕府に刃向かう芽をことごとく潰していった。
弟たちの処遇については、9男義直は尾張家、10男頼宣は紀州家、11男頼房は水戸家と、御三家を発足させた。
全国の諸大名に対しては、参勤交代を強いたり、築城・治水工事を命じ、藩財政に多大の負担を負わせるなどで弱体化を図り、
幕府に武力反抗するエネルギーを削いでいった。
在職中、「公家諸法度・武家諸法度」などの法を整備・定着させ、鎖国政策を推し進め、外国船の寄航を、平戸・長崎に限定した。
秀忠に将軍職を譲ったあとの家康がそうしたように、家光に将軍職を譲った秀忠は、"大御所"となり、
引き続き政務ににらみを利かせた。
海音寺潮五郎は著書の中で、「家康は全て自分で決めた。秀忠は半分自分で決めた。家光は全て重臣に任せた」と、
まつりごとに対する三人の違いを評している。
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■除夜の鐘
今年もあと5日…除夜の鐘を聞いて、今年いろいろあった"煩悩"を、消し去りたいものです。ところで、除夜の鐘を百八回鳴らす習慣?… 中国から伝わってきました。
"煩悩"とは、心身を悩まし、わずらわせ、惑わし…"さとり"を得ることを妨げる、あらゆる精神的作用を言います。
仏教では、百八の煩悩があるとしていますが、他に、八万四千の煩悩があるという説もあり、数についてはこだわる必要がなく、
"大変多い"という意味に解釈すればいいようです。
仏様をお参りするとき"数珠"は欠かせない…珠の数は普通百八個ある。
珠を一つ繰るごとに、念仏を唱える。念仏を唱えることで、煩悩を退治し、滅ぼすことができるのです。
カトリック教徒が、祈りをささげるときのロザリオも、この数珠が転じたものと言われています。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 628】
~歴史から学ぶ~ <徳川幕府の年表>
NHK大河ドラマ「篤姫」が終了した。13代将軍"家定"に嫁ぎ、14代"家茂"、15代"慶喜"の母となり、回を追うごとに、
しぐさ・言葉づかいに"らしさ"と貫禄がそなわっていく…徳川幕府、大奥の最後を取り仕切った篤姫を、みごとに演じきっていた。
ドラマに登場する3人の将軍…時代の波にほんろうされる姿が痛々しい。
ドラマも終盤になると、篤姫に関わるかけがえのない人たちが次々亡くなり、去っていく…楽しくも悲しいドラマでした。
家康から265年続いた徳川幕府。家光や吉宗はよく知られるが、その他の将軍についてはよく分からない? そこで、 歴代将軍を年表にして書き出してみました。
1603 | 初代 | 徳川家康 | 将軍在職 2年 |
1605 | 2代 | 徳川秀忠 | 将軍在職18年 (家康の三男) |
※律儀な性格で、戦は苦手。政治向きには抜群の手腕を発揮。 | |||
14 | ・大坂冬の陣 | ||
1623 | 3代 | 徳川家光 | 将軍在職28年 (秀忠の嫡男) |
35 | ・海外への渡航、国内への帰国禁止 | ||
37 | ・島原の乱 | ||
39 | ・ポルトガル人来航禁止 | ||
41 | ・完全鎖国 | ||
1651 | 4代 | 徳川家綱 | 将軍在職29年 (家光の長男) |
※武断政治から文治政治へ、政策の切り替えを行った。 | |||
1680 | 5代 | 徳川綱吉 | 将軍在職29年 (家光の四男) |
85 | ・生類憐みの令 | ||
※近松門左衛門、伊原西鶴、松尾芭蕉を生んだ"元禄時代" | |||
02 | ・赤穂浪士の仇討ち | ||
1709 | 6代 | 徳川家宣 | 将軍在職4年 (家光の孫) |
・幕政改革を断行し、歴代将軍の中でも名君と評される。 | |||
1713 | 7代 | 徳川家継 | 将軍在職3年 (家宣の四男) |
※4歳で即位、7歳で婚約、8歳の時風邪で亡くなる。 | |||
-------------------------------------------------------- | |||
1716 | 8代 | 徳川吉宗 | 将軍在職29年 |
(紀州2代藩主四男・家宣の養子になる) | |||
21 | ・享保の改革(目安箱を置く) | ||
32 | ・享保の大飢饉 ※破綻しかけていた幕府財政を復興…名君と言われた。 ・江戸火消し、小石川養生所の設置 |
||
1745 | 9代 | 徳川家重 | 将軍在職15年 (吉宗の長男) |
1760 | 10代 | 徳川家治 | 将軍在職17年 (家重の長男) |
82 | ・天明の大飢饉 | ||
-------------------------------------------------------- | |||
1787 | 11代 | 徳川家斉 | 将軍在職50年 (一橋家2代当主長男) |
1828 | ・シーボルト事件 ・松平定信の寛政の改革 ※徳川を、一橋徳川の天下にしたいと、19男・27女の子供をもうけ、 諸大名との婚姻を推し進めた。 |
||
1837 | 12代 | 徳川家慶 | 将軍在職16年 (家斉の次男) |
※幕府財政の破綻、幕政の腐敗、網紀の乱れ…"大塩の乱"を招く | |||
41 | ・天保の改革 | ||
1853 | 13代 | 徳川家定 | 将軍在職5年 (家慶の四男) |
・ペリー来航 | |||
54 | ・日米和親条約 | ||
-------------------------------------------------------- | |||
1858 | 14代 | 徳川家茂 | 将軍在職8年 (紀州13代藩主) |
・日米修好条約 | |||
60 | ・桜田門外の変 | ||
63 | ・下関事件。薩英戦争 | ||
1866 | 15代 | 徳川慶喜 | 将軍在職1年 (一橋家9代当主) |
67 | ・大政奉還 |
※「御三家」…尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家
※「御三卿」…田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家
将軍家に跡継ぎがないときは、他の御三卿とともに、跡継ぎを出す資格を有する。
家格は「徳川御三家」に次ぎ、所領は十万石だが、他の大名のように、領地や城は持たなかった。
・この制度で、御三家・御三卿から跡継ぎを出したのは、紀州藩と一橋家だけです。
■「忠臣蔵」、もう一つの知られざる真相
内匠頭が吉良への刃傷に及んだ背景は、従来「勅使饗応の作法を教えてくれなかったから」と言われてきたが、そんな作法は毎年のことで、
誰もが知っていること。
原因は他にあるのでは…?
当時、将軍綱吉の生母・桂昌院への「従一位授与」を強行しようとする、柳沢吉保による朝廷工作が、秘密裏のうちに着々と進んでいた。
親朝廷派の内匠頭が、朝廷と幕府の交渉に気づき、交渉役でもあった吉良をとがめて、口論になったのではないか…?
柳沢は刃傷沙汰の真の理由を、多くの情報から推測した。
大石内蔵助もまた、一年以上の雌伏の末、ようやく主君の真意に思い至る。
時の権力者である柳沢は、すべてを抱えたまま黙って切腹した内匠頭に同情した。
柳沢は同情心から、事前に「討ち入り」の情報を入手していながら、動かなかった。
「討ち入りで、浪士が1人も死ななかった」…謎が解けてくる。
新潮社/加藤廣著「謎手本忠臣蔵」より
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 625】
~歴史から学ぶ~「忠臣蔵・知られざる真相」
「風さそう 花よりもなほ我はまた 春の名残をいかにとやせん」
世に"忠臣蔵"で知られる、浅野内匠頭の辞世の句である。
この句で、桜のように散っていった赤穂四十七士の物語は、謎めいた事件として、巷説おびただしい。この刃傷(にんじょう) の顛末には、世間には知られていない事実が、隠されているのです。
この事件で幕府は、「浅野内匠頭は切腹」「吉良上野之介はお構いなし」の裁定を誤下し、これを不満とする赤穂浪士が、
1年9ヶ月後に、吉良邸に討ち入ることになる。
そもそも、内匠頭が刃傷(にんじょう)に及んだ理由を"不詳"として、幕府は動機不明の事件として処理したが、世評は
「吉良が求めた賄賂に、内匠頭が十分に応じなかったため…」と記録している。
裏を返してみれば、幕府にとって都合の悪い事実を伏せてしまったため、事件の原因を、世間はあれこれ詮索するようになったのです。
大石蔵之助以下、四十七士が命がけで仇討ちするには、もう一つ、世間には知られていない理由があった…
それは、幕府がひた隠しにしてきた大名同士の"仲たがい"です。
遡って、豊臣時代や関ヶ原合戦で、恨みを持つ大名同士、末代まで"仇同士の仲"として、江戸城ですれ違っても挨拶も交わさず、
広間で同席しても知らん顔…こうした大名家が多かったのです。
列挙すると、加賀の前田家は、熊本の細川家や二本松(福島県)丹羽家と絶交したまま…。飫肥(おび・宮崎県) 伊東家と薩摩の島津家…島津家は参勤交代で飫肥を避けて、船を使ったほどである。
福岡の黒田家と、熊本の細川家や阿波(徳島)の蜂須賀家。盛岡の南部家と仙台伊達家。池田家(岡山と鳥取)は、永井家(高槻市・
岐阜)と…不仲は一族の支藩にまで及んでいた。
そして注目すべきは、芸州(広島)浅野家と、仙台伊達家も不仲で、ここに"忠臣蔵"の謎を解く"鍵"があるのです。
事件の原因は、不仲大名を仲直りさせることに熱心だった、老中稲葉丹後守と、
林大学頭の江戸城での会話にあった。
林大学頭が老中稲葉丹後守に尋ねた…
「伊達と浅野が不仲になったのは、いつの頃からであろうか…?」
この会話は、"松之廊下"の刃傷事件が起きる少し前の、正月のことである。
二人は、浅野と伊達を"和睦"させようとしたらしい。
それにはまず支藩からと、「来る3月14日の勅使と院使のご馳走役は、
伊達左京亮(伊予)と浅野内匠頭(播州赤穂)を相役とする…」と命じた。
これが2月のこと。この日から浅野内匠頭は「"ウツ症状"に悩まされるようになり、頭痛に襲われるようになった」と、記録にある。
先祖の遺言で、末代まで"仇"とされている家同士が、"相役"を勤めなければならない
とは…浅野内匠頭は、苦悩の毎日だったのです。
お互い口もきかず、饗応役を勤めた。軽んじられた浅野内匠頭、勅使饗応の準備を終えてから、堪忍袋の緒が切れ、 刃傷に至った。
その間、幕府の意を体した指南役の吉良上野介は、口を聞かず心を開こうとしない浅野内匠頭を、叱責したのだろう。
「このあいだの雑言、覚えたるか」と内匠頭が叫んで、切り付けたという記録が残っている。
浅野内匠頭が切腹させられた田村右京太夫邸も、伊達の支藩。
「和睦」を拒否し続けた内匠頭への、幕府の懲罰である。
この事件は、"不仲大名"を強権で和睦させようとした、幕府の失政にある。
"不仲"を貫いた内匠頭と、"喧嘩両成敗"を求めた赤穂四十七士の行動は、幕府への痛烈な批判だったのです。
こういったことを含んで、冒頭の辞世の句を読み直すと、味わい深いものになってくる。
法人「江戸異聞」より
■映画・レッドクリフ(赤壁)
先週の休日、私の大好きな、三国志"赤壁の戦い"を映画にした「レッドクリフ・前編」を鑑賞した。魏の曹操が、全国制覇を夢見て南下…迎え撃つ劉備と孫権の同盟軍は、"赤壁"に陣を敷く。
上映2時間半…3/2が戦闘シーン。黒澤監督の七人の侍を彷彿させ、趙雲・張飛・関羽そして、中村獅童が演ずる呉の将軍/甘興など、1人ひとりが見せる戦闘シーンは圧巻。
軍師・諸葛孔明の"八卦の陣"など、奇策と知略がふんだんに組み込まれ、スケールの大きさでは、タイタニックに劣らないだろう…先行上映された中国では、タイタニックの興行収入を塗り替えたという。
制作費100億円、アジア映画史上最大のスペクタル巨編。是非見ておきたい映画です。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 615】
~歴史から学ぶ~ 「禅寺に名園」
今年の紅葉は、例年になく美しいという。毎年11月になると、夫婦で京都を散策する。京都の楽しみは何といっても、木々が色づく美しい庭園巡り。
そして、夜には秋の味覚に舌鼓をうつことです。
お寺回りをしていて気がつくのは、美しい庭園があるお寺の、そのほとんどが"禅寺"であることです。
石庭で有名な龍安寺、苔寺として有名な西芳寺、京都三大名園の一つ天龍寺、ねねの大徳寺、金閣寺、銀閣寺など…数えればきりがない。このように禅寺に名園が多いのは、禅と庭園の間には、深い因果関係があるからです。
以下、枡野俊明「夢窓疎石・日本庭園を極めた禅僧」からの抜粋です。
禅は、「心の問題を追及していく教えであり、ものごとの心理を見極めていく訓練の場」である。
そして、禅の修業を重ねる目的は、「本来の自己と出会うこと」にあり、「人間の持つ心の本性を、明らかにすること」にあります。
禅は、心の教えの根本となる"哲学"を説いていく。従って、禅そのものには形がなく、目に見えるものはない…。
鎌倉後期から室町時代の禅僧たちは、この目には見えない自分の境地そのものを象徴化し、何かの形に置き換えて表現しようとした。ここから"禅の芸術"が生まれた。己を"無"にして"美"を極めていく中から、禅文化が育まれたのです。
こうした禅文化を象徴するのが「禅の庭」なのです。
禅僧たちは、自己を表現する場として庭造りに取り組み、自ら修行を重ね、会得した心の状態を、庭園という空間造形芸術に、落とし込んでいったのです。
「禅の庭」の父と呼ばれ、京都における「禅の庭」の原点となる庭園芸術を生み、完成させた"夢窓疎石"(むそうそせき1275~1351)。
室町初期の禅僧"夢窓疎石"の存在は、その後、日本の庭園芸術が開花していく中で、忘れてはならない存在になる。
夢窓疎石は、これまでの庭には見られなかった"石組み"を積極的に行い、庭園に"空間造形"を造り上げた。この作風がその後、京都における西芳寺、天龍寺などの造園の原点となり、やがて「禅の庭」は"枯山水"へと、たどり着くのです。
数ある京都の名園中で、私が好きなのは、大宮御所に隣接する"仙洞御所"庭園…17世紀に造営されたが、"空間造形"をみごとに演出している…。
■心に残ることば
「修身教授録」で知られる、教育者の故"森 信三"先生は、
人との出会いについて、次の言葉を残している。
「人間は一生のうち 逢うべき人には必ず逢える。
しかも一瞬早過ぎず 一瞬遅すぎない時に…」
人生を振り返ると…
大きな岐路に指しかかった時、志を立て、何かに挑戦し始めた時、
なくてはならない人が現れてきて…手を差し伸べ、援助してくれる。
遅過ぎず、早過ぎず…
最も必要な時に、かけがえのない人との出逢いがあるのです。
その後、目的が叶えられると、「もう用はないでしょう」と言わんばかりに、
スゥ~と、その人は離れていく。
何度となく、そのような体験をした…"縁"とは不思議なものです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 592】
~歴史から学ぶ~ 「生ましめんかな…」
東京の繁華街で…1945年の8月6日と9日、日本に何が起きたのか?
若者にマイクが向けられる。「何だろう?地震とか…」誰も答えられない。
今、原爆投下を知らない若者が4割を占め、日本がアメリカと戦争したことを
知らない中・高生が、増えてきているという。
一方で、悲惨な戦争体験、原爆体験を伝える語り部が、80歳を超え、老齢化していく。
栗原貞子さん(1913~2005)は、生涯を原爆の非人間性を告白し続けた
反核・反戦詩人として知られる。
1945年8月6日、32歳のとき爆心地から約4キロの自宅で被爆。
その夜広島市内に入り、惨状を目の当たりにする。
その時、広島貯金支局の地下室で、産気づいた被爆者を、重傷を負った産婆が立ち会い、赤ちゃんを誕生させた…という話しを聞いた。
その感動を、「生ましめんかな」という詩に書いて発表…大きな反響を呼んだ。
■「生ましめんかな」 反戦詩人 栗原貞子
こわれたビルディングの地下室の夜であった。 この地獄のような地下室で、今、若い女が産気づいているのだ。 と、「私が産婆です。私が産ませましょう」と言ったのは、 |
赤ちゃんは女の子で、"和子"と名づけられた。誕生日は原爆投下の2日後。
現在、息子さんと広島市内で、食事と酒の店を営んでいて、もうすぐ63歳になる。
しかし子ども達には、一度も被爆体験を語らなかった。
暗がりの地下室で生まれた和子さんは、高校に上るまで、自分が詩のモデルであることを知らずにいた。胎内被爆した娘であることを、 世間に知られないようにとの、母親の気遣いだったのです…。
今は、母の詩が朗読されると、生まれ出る自分のことではなく、地獄のような夜の暗がりで、命がけで産んでくれた母の身になって、
また、赤ちゃんを取り上げた後、死んでいった産婆さんの身になって…聴くという。
何度聴いても涙が溢れてくる。
「地下室の産声」は、いつまでも言葉なき語り部であり続けるだろう。
■昭和二十年、終戦直前の思い出
昭和二十年春、当時私は三歳。満州事変で出兵し、傷痍軍人になって帰郷した父は、病が癒え、香林坊の自宅で、ロープ・
梱包材料の商いを始めていた。
店は畳敷き。手回しの機械をコロコロ回して、麻ヒモの玉を巻き直ししている父の姿を記憶している。
戦争の影はわが家にも及び始めた。隣家の軒先にはいつも、村田銃を担ぎ、キャハンを巻いた兵隊さんが、数人屯していた。
向かいのNさんの家は、空襲時延焼を防ぐためと、強制取り壊しに遭い、引っ越していった。
各家、防空壕を掘らされた。私の家は、店の造作を取り壊して床に穴を掘り、形ばかりの防空壕を作った。
掘っているところを覗いていた私…こんな小さな洞穴…爆弾が落ちたら、焼き芋みたいになってしまうだろう…と、子どもながらに思った。
6月、母は祖母・姉と兄、そして私を連れ、弟をおぶって、金沢山手の母親の実家の、農家の納屋の2階へ疎開した。
その頃、夜中に何度も空襲警報が鳴り、頭上をB29が飛んでいった。
暑い夏の夜更け、物凄い数の飛行機がやってきて、富山の空が真っ赤に燃え上がるのを 見た。ポコン・
ボコンと焼夷弾が落とされるたびに、医王山が炎に浮かび上がる…
60年経た今も、脳裏の奥深く…忘れることがない。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 590】
~歴史から学ぶ~
「金沢が空襲に遭わなかったわけ?」
我が故郷金沢…一発の焼夷弾も落とされず、一人の被災者も出さず、空襲に遭うことなく終戦を迎えた。
もし空襲されていたら、市の中心部にある私の家は、焼けて無くなっていただろう。
米軍の資料によれば、金沢は、爆撃対象から除外されていたという。
その理由を求めると、金沢は第九師団がある軍都でありながら、当時師団が台湾に駐留していたため、兵卒はもぬけの殻…
極めて戦略価値が低かった…という説。
米軍の機密文書によれば、石川県の爆撃目標は、国鉄松任工場と、七尾港の2ヶ所だけ。それに対し、富山県は、不二越本社工場、
日満アルミニウム富山工場など、
工場8ヶ所、港湾3ヶ所、水力発電所10ヶ所、変電所1ヶ所の計22ヶ所もあった。
工業県としての圧倒的な実力の差が、石川と富山の明暗を分けることになった。
昭和19年秋から終戦まで、全国で、米空軍の焼夷弾攻撃にさらされた都市は、58ヶ所にのぼる。福井市は、
20年7月19日に焦土と化し、次は金沢と、誰もが覚悟した。
ところが8月2日、B29の編隊は、金沢の上空を通り過ぎて、富山市に1万2千7百発の焼夷弾を雨アラレと投下した。
11万人が焼け出され、2,776人の死者が出た。
市の焼失面積は95%、焼失率全国一の焼け野原になった。
(2005年8月12日・なんだかんだ89「富山大空襲」)
金沢が空襲をまぬがれたのは、原爆投下の実験候補地として、無傷のまま残したかったから…と、
まことしやかに噂されたこともあった。
逆に米軍は、歴史的街並みを残す金沢や京都への爆撃をためらい、保護しようとした…との見方もあるが、それはかいかぶりというもの。
あの姫路城も焼夷弾にさらされたが、炎上しなかったことで知られている。
終戦がもう少し先に伸びていたら、金沢も無事では済まされなかったと思う。
昨年、アメリカの日系3世が制作した、ドキュメンタリー映画 「ヒロシマ・ナガサキ」の冒頭のシーン…東京渋谷の雑踏の中で、 若者達に「8月6日は何の日?」と質問をぶつけたが、誰一人答えられなかった。
近頃の若者は、原爆投下の日など意識になく、関心を持とうともしない。
原爆投下で、何十万人もの死者を出し、今も尚、後遺症に苦しむ人がいることを…「自分には関係ない」と、他国の出来事のように、無関心…
。
当然、歴史にも興味を示さない…平和ボケの日本人。
日本人であれば忘れてはならない大東亜戦争。
遠い昔の出来事として、忘れ去られてしまっている。
お盆を真近にした護国神社…国を守り、命を捧げ、死んでいった人達を追悼し、手を合わす人影はまばら…今の日本の姿を見たら、
浮かばれないことだろう。
■「教育勅語」といえば、中村昭文さん
「教育勅語」といえば、中村昭文さんの顔が浮かんでくる。
中村さんは、伊勢市でレストランとウエディング事業を手がける青年社長です。
彼は若いながら、教育勅語をスラスラと空んじることが出来る…今の時代、大変めずらしい青年です。
「お金ではなく、人のご縁ででっかく生きろ!」と題した、中村さんの講演を幾度か聴いた。
高校卒業の時、学校の就職斡旋を断り、宛てもなく東京へ…。
ひょんな出逢いが縁となって、人生を切り開いていく…自らの青春体験記…聴衆に感動を与え、ヤル気・元気をいっぱい与えてくれる…。
彼が高校3年の時、悪さをして、35日間自宅謹慎処分を受けた。
その時罰として、毎日筆で「教育勅語」を清書し、暗唱するよう命ぜられた。
教育勅語を書いて覚えたのです。これが後に、彼の人生に大きな"幸運"をもたらすことになる。
事業経験豊かな年配者に目をかけられ、ご縁が広がり、起業家を志す中村氏を助けるのです。中村さんをして、教育勅語は「人生の宝」
と言わせることになる。
【心と体の健康情報 - 587】
~歴史から学ぶ~ 「教育勅語(3)」
「教育勅語」は、大きく分けて第一段の前文、第二段の本文、第三段の後文から成り立っています。今日は、前回の本文に続き、 第三段の後文を紹介します。
「コノ道ハ、実ニ我ガ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、
子孫臣民ノトモニ遵守スベキ所、
之ヲ古今ニ通ジテアヤマラズ、之ヲ中外ニ施シテ悖(モト)ラズ」
「このような道徳は、実にわが皇室歴代の遺された教えであり、また、あなた方の子孫も、末永く守ってゆくべきものですから、 古今を通じて誤りがなく、どんな世界でも通用する立派な道徳であります」
「朕、ナンジ臣民トトモニ拳拳服膺
(ケンケンフクヨウ)シテ、ミナソノ徳ヲ一ニ
センコトヲコイ願ウ」
「これは、我が皇室の祖先がされてきたことであり、また一般国民も昔からやってきたことだから、私もあなた方と共に、
これらの徳目を一生懸命守り通したい。
決して一方的に"ヤレ"と命令しておられるのではなくて、むしろ明治天皇ご自身が、これを率先実行していこうと、
決意を表明しておられるのであります」
以上、3回に分けて「教育勅語」を紹介しましたが、どのように受け止められたでしょうか? 道徳で、一番よくないのは、
教える立場の親や先生が、自分がやりもしないのに、一方的に子ども達に道徳を押し付け、守らせようとすることです。
勅語の中で明治天皇は、我が祖先が実践してきたことであり、また私達の祖先もやってきたことだから、国民の皆さんも守って欲しい。が、
その前に天皇ご自身も、率先して一生これを守っていくと、決意しておられるのです。
教育勅語は、天皇が国民と共に守るべき道徳の根本を、明らかにしたものです。
つまり、天皇の独占的な命令でも、強制でもないことが、教育勅語に書かれているのです。
この学びから、道徳教育を考えるとき、私たち自身が、それを本当にヤルという覚悟を持ち、率先垂範する姿勢を見せることが、
大事になってきます。
口先だけで道徳を説いたり、職場に、何項目もの尊守事項を張り出して、守らせようとするのは…効果を期待するだけ、
野暮というものでしょう。
論語の友より
明治・大正の頃に日本人が持っていた、高い倫理感と道徳心は、論語と教育勅語によるところが大きかったように思う。 野口英世や渋沢榮一の伝記を読むと、幼い頃の母親は偉かった。その影響が大きかった。
渋沢榮一の母親は、ハンセン病の人をお風呂に入れて、背中を流してあげていました。
渋沢少年が「お母さんやめてください」と言うと、「おまえは何を言っているのですか。この病は、
自分がなろうと思ってなったのではありません。運が悪く病気になったのです。私はそれだから、何でもやってあげたいのです」と、
諭したそうです。
当時の日本人には「無私の精神」を内面化され、「私利私欲」がない人が多かった。
渋沢榮一は「片手に論語、片手に算盤」を唱え、「道徳経済合一論」を主張し、「会社を経営するには、
高い倫理感と道徳心をもって行うべきである」という思想に基いて行動している。
「理念と経営7月号/対談・不可能を可能にする経営」より
■昭和天皇
私たち国民が啓して已まない昭和天皇。天皇が崩ぜられて、早や20年になります。
昭和天皇が、生涯国民から敬愛の念で尊ばれたのは、その謙虚なお姿、高貴さにあります。一言で言えば「至高の徳性」にあったといえます。
昭和天皇は明治39年、大正天皇のご長男として誕生されました。生まれて僅か3ヶ月の頃、親元を離され、
一民間人の"川村伯爵"の許に預けられ、約2年間、将来の帝王となるべき、しつけ教育を受けられたのです。
川村伯爵は、薩摩出身の軍人さんで、しつけは厳しかったという。
その教育方針は…
一.健康な御体に育て、持てる天性を伸ばし、曲げぬこと
二.ものに恐れず、人を尊ぶ性格を養うこと
三.困難に耐え、我がままを言わぬ習慣を身につけること
その後、学習院の初等科に入られましたが、当時の学長は乃木希典でした。
乃木大将は、道徳を身にまとった見本のような人。その許で、厳しく鍛えられたことが、後の昭和天皇のお人柄を育まれたのです。
【心と体の健康情報 - 585】
~歴史から学ぶ~ 「教育勅語(2)」
「教育勅語」は、大きく分けて第一段の前文、第二段の本文、第三段の後文から成り立っています。前回は前文を紹介しました。
今日は第ニ段、本文です。
「日本人が道徳を身につける上で、何が大事か」…明確に述べられています。
「ナンジ臣民、父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信ジ、
恭倹(キョウケン)己レヲ持シ、博愛衆ニ及ボシ、学ヲ修メ業ヲ習イ、
以テ智能ヲ啓発シ、徳器ヲ成就シ、進ンデ公益ヲ広メ、世務ヲ開キ、
常ニ国憲ヲ重ンジ、国法ニ従イ、一旦緩急アレバ、義勇公ニ奉ジ、
以テ天譲無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」
「まず国民は、家庭の一員として、両親に孝行を尽くす、兄弟仲良くする、夫婦も仲睦まじくする。そして、
近所や学校などの友達とも、信じ合えるようになる必要があります。
ついで、社会の一員として、謙虚に自己の本分をわきまえ、思いやりの心を多くの人々に及ぼし、また学業を身につけ、知恵を磨いて、
広く世のため役立つようになる必要があります。
更に国家の一員として、ふだん平常の時には、憲法や法律を守って生活し、いざ非常の時には、正義のために勇気を振るって、
全力を尽くす必要があります」
「カクノ如キハ、独リ朕ガ忠良ナル臣民タルノミナラズ、
又以ッテナンジ
祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン」
「このような道徳を身につけて、日本の進運を担っていく、立派な日本国民になることは、あなた方の祖先が永らく続けてこられた、
立派な在り方を評価し、受け継いでいくことになるのです。決して難しいことではなくて、あなた方の祖先が、
そうやってこられた実績のあることだから、それを実践すればいいのです。
我々は新たに西洋の道徳を借り、真似をしていくのではなくて、祖先が昔からやってきた当たり前のことを、
我々も受け継いでいくことが大事なのです」
(論語の友より)
ここまでが本文です。
このように読み辛く、大人でも難しいい文章を、少し前の世代の子ども達は、学校で素読し、暗唱したのです。
ゆとり教育が問題になっている昨今、難解であることを理由に、覚えなければならない当用漢字を減らす動きなどは、
ナンセンスに思えるのです。
建設業のK社長さんと、JRで京都からの帰路…お互い、孫の話になった。
聞くとお孫さんは、仏教系の幼稚園に通って、浄土真宗の聖典「正真偈(しょうしんげ)」や、「念仏・和讃」を暗唱させられ、
小学生になった今も、おつとめがあると、お経を唱えることが出来るという…。
私の外孫は3歳。保育所で「♪ABCD…EFG…HIJKLMN…」と、英語の歌を覚えてきて、嬉しそうに歌って見せる。
意味が分からなくても、上手に歌うのです。
幼い頃に暗唱させられる「教育勅語」。文章は理解できなくても、刷り込まれた言葉は、大人になって生きてきて、潜在意識の中で、
自らの考え方・行動を律するようになるのです。
■「ポーラ美術館・名作展」(7/27まで)
モネ、ルノワール、セザンヌなどの印象派の巨匠の作品。マティス、ゴッホ、ピカソ、ルソーなど、私の好きな作品がまとまって、
21世紀美術館にやってきた。
絵画鑑賞が趣味の私。海外から名作がやってくるたびに、東京や京都の美術館へ出かけていく。が、こんなに沢山の巨匠の名作が、
一ヶ所でまとまって見られるのは初めて…。
国内では、日本最大級のコレクションを誇る"ポーラ美術館"。以前から見たいと思っていたが、まさか金沢に居ながら、鑑賞できるとは…。
13日の日曜、私の夫婦、息子夫婦、娘夫婦、3家族揃って、墓参りを兼ねて見学してきた。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 584】
~歴史から学ぶ~ 「中国一人っ子政策の弊害」
終戦と同時に、何百万人もの引揚者が、海外から日本に戻ってきた。
それが、空前のベビーブームを呼び起こし、日本経済発展の原動力となった。団塊の世代である…以降、20数年周期で、第二次、
第三次のベビーブームの波がやってきた。
不思議なことに赤ちゃんは、女児100人に対して、男児は3~5人多く生まれる。
結婚適齢期には男女同数になり、年をとれば女性が長生きして、役目を果した男性は減っていく。「天の力」がなせる技であろう…。
ところが、医学が発達した現代…男女の産み分けが出来るようになった。
かつては男児が望まれたが、今は、いつまでも可愛いうえに、親を手助けしてくれる女児を望む親が多い。高齢化社会を背景に、
年寄りを介護してくれる女児を望むのも、少子化時代ゆえの防衛反応でしょうか…。
中国政府は、止め処もなく増え続ける人口増加を食い止めるため、「一人っ子政策」を実施して28年になる。この間、
中国の新生児数は3億人減少し、現在人口増加率は2%を下回り、先進諸国の水準にまで改善された。その一方で、
一人っ子政策がもたらした問題も多く、社会問題に発展しようとしているのです。
昨年5月下旬中国自治区で、「一人っ子政策」の徹底を図った当局に、市民が反発。約1万人が政府建物や車両に放火するなど、暴徒化して、
警官隊と衝突…5人が死亡、負傷者が多数出る大事件になった。
当局は一人っ子政策を徹底させようと、1980年以降、第二子を産んだ家庭に対し、最高2万元(約32万円)を、
生まれて数日以内に納めるよう命じ、出来なければ財産を没収する…という、強行手段に出た。現地住民の平均年収は2千元…
何と10年分に相当する。
更に、子どもを持つ女性に避妊手術を強要したりして、住民の不満が溜まり、暴動に発展したのです。
当局は上級政府から、一人っ子政策の徹底が不十分と批判され、数ヶ月以内に事態の改善が見られなければ、
当局の担当責任者を免職処分にすると通達…。
危機意識を持った当局は、一人っ子政策を守らない住民には、5百元の罰金を課すことを、ノルマにしたのです。
5/26 北国新聞
中国農村部では、男児は大切な働き手…一家の跡取りでもある。 女児が生まれると、密かに闇に葬ったり、第二子に期待して、
無戸籍の子にしたり、捨て子にしたりする。そこで農村部では、一人目が女子の場合、二人目を生んで良いことになった。
現在、中国の人口は約13億人。その裏には、約1億人の隠れ人口が存在すると言われている。
中央政府は、日本の靖国参拝を非難したりして、国民の不満のはけ口を国外に向けさせ、ガス抜きをしてきた。安倍内閣以降、
政治の行き過ぎを是正しようと、自粛していた矢先の暴動…。
農村部では、男女のバランスが崩れ、女児100人に対し、男児が144人に。
2020年頃には、結婚適齢期を迎える青年に、お嫁さんの来てがなく、3千万人も不足するとの予測…このままでは、
深刻な嫁不足に発展してしまう。
一人っ子政策で、王子様のように大切に育てられ、甘やかされて育った子ども達が、大人になっていく…冒険や苦労を嫌う、 ひ弱な青年が増えつつある中国。
そんな中、四川大地震が発生…一人っ子が大勢死んだ。子どもを失った親の嘆きようは、いかばかりか…。中国政府は、
子どもを亡くした親に、急遽もう一子認める通達を出した。
震災で、両親を失った子どもも多い。
中国政府は、里親制度を積極的に推し進めていくという。
急速な人口の増加・減少は、社会にひずみを生み、それ以降百年近くに渡り、国民生活に深刻な影響をもたらすことを…中国は、 日本の過去と現在から、学ばなければならない。
明治期、日本に滞在した英国の言語学者チェンバレンは、日本見聞録を「日本事物誌」に著した。当時、彼が見た日本人の姿は…
「金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下する様子がない。実に、貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない。そして、 周りの人たちはみな同じような人間だと、心底信じる平等精神が、社会の隅々まで浸透しているではないか」
中日春秋より
わずか50年前、子どもの頃を思い起こせば、家族は"早起きは三文の得"と朝6時には玄関前を掃き清めていた。それも、 自分の家の前だけでなく、隣近所もごく当たり前のように掃き清め、ジョウロで水を撒いていた。
ちょっと所用に出かけ、家を空にしても、鍵をかける習慣などなく、勝手口のくぐり戸は、夜も開けッぱなしだった。 暮らしは貧しかったが、近隣の人たち皆暖かく人情みがあり、助け合って暮した…。
【心と体の健康情報 - 583】
~歴史から学ぶ~ 「教育勅語(1)」
新聞・テレビを見ていると、同じマンションに住む若い女性を、自宅に呼び入れて殺傷してしまう…思いもしない凶悪犯罪が相次ぎ、
「もう、日本は駄目になってしまうのでは…」と思うほど、嘆かわしいニュースが頻発する。
企業犯罪、青少年の退廃、凶悪犯罪の低年齢化、学力の低下など、いったい日本人はどうなってしまったのでしょうか?
今、教育の在り方を、根本的に見直さなければならない時に来ているようです。
現在の日本人が、喪失してしまったものに「公徳心」がある。今こそ、1人ひとり、社会人としてどうあるべきか…見つめ直す時でしょう。
明治から昭和にかけて、日本人の公徳心を育んできたものに「教育勅語」がある。
その良さを、今一度見直してみる必要があるようです。
書かれている内容は、「家庭の道徳・社会の道徳・国民の道徳」です。
それは、昔も今も変わりません。だからこそ、今の時代に合った内容に作り変えて、再度、教育の現場に取り入れたらどうか…
と思うのですが。
ところで、教育勅語には、どんなことが書かれているのでしょうか?
内容も知らずに、戦前の天皇崇拝・軍国主義の復活を、イメージしている自分…「食わず嫌い」になっているようです。
そこで、今回から3回に分けて、書かれている内容を解説・紹介します。
「教育勅語」は、大きく分けて第一段の前文、
第二段の本文、第三段の後文から成り立っています。
まず第一段の前文から紹介します。
出だしは、私も耳にしたことがある書き出し文で始まります。
「朕オモフニ、
我ガ皇祖皇宗、国ヲハジムルコト広遠ニ、徳ヲ樹(タ)
ツルコト
深厚ナリ」
「私(明治天皇)が思いますに、わが皇室の先祖たちが、遥か昔にこの国を始められて以来、人間としての道徳、とりわけ君徳を、
あたかも樹木を植え込むように、代々樹立してこられました」
「我ガ臣民、
ヨク忠ニ ヨク考ニ、億兆心ヲ一(イツ)
ニシテ、世世ソノ美ヲ
ナセルハ、此レ我ガ国体ノ清華ニシテ、教育ノ淵(エン)
源、マタ実ニ
此処ニ存ス」
「また、我が日本の全国民は、よく忠義と孝養を重んじ、皆心を一にして代々仲良くやってきました。
これが日本の国柄のもっとも良いところであり、教育の原点も、ここにあるのであります」
文中の「忠義」という言葉に、天皇崇拝・軍国主義の臭いを感じるかもしれません。
三省堂の"広辞林"には、「主君や国家に対して忠誠を尽くすこと」とある。
今、諸外国と比べ、日本人に欠けているのが、この「国家への忠誠心」…言葉を変えれば、「愛国心」の欠落でしょうか…。
海外へ出かける時、日本国の国民を証するパスポートがなければ、どこの国も、一歩たりとも入国は認められません。 世界の多くの国々で、日本人はビザ不要…日本人というだけで、信用されるのです。
数年前の7月3日、ハワイのショッピングモールで…通りがかりに、高校生のブラスバンド演奏に出くわした。
独立記念日前夜祭の行事でした。
イベント開始前に、国歌が吹奏された。と、開始を待っていた米国人…"全員"起立して(座っている人は皆無)、背筋を伸ばし、
右手を左胸に当て、国歌を歌い始めたのです。
(日本では「国家吹奏です。全員ご起立下さい…」と促さない限り、人前で歌うことはしない…立たない人もいる)
日本の建国記念日が何時かを知らず、建国の意味を知らない若者たち…無関心といってよい…。
日本をここまで導いてきた先祖への感謝…日本という国を慈しむ心…この平和な国を、子々孫々にまで繁栄させていく、
良い意味での愛国心を育んでいかなければなりません。
次号で、道徳心を育む"本文"へと続きますが、読んでみると、教育勅語の文言は現代になじまず、難しく固くるしい。しかし、
そこに示されている内容は、日本人が受け継ぎ、守ってきたことを、伝承していこうとする心理が、書き込まれているのです。
■西郷隆盛 「敬天愛人」
NHK大河ドラマ「篤姫」…藩主斉彬に登用された、若き日の西郷吉之助が初々しい。
斉彬が急死した後、西郷吉之助は、国父・島津久光に疎んじられ、沖永良部島に流された。彼は主人久光を憎み呪った。そんな吉之助を、
島民は暖かく遇した。
島には、吉之助より先に流されていた、"川口雪蓬"という学者がいた。
ある日吉之助に会い、「いつまで、久光公を恨んでいる…」と、一冊の本を置いていった。 「嚶鳴館遺草(おうめいかんいそう)」
という本である。
冒頭に「政冶家は民の父母にならなければならない」「民の心を天の心とし、それを政冶家の心とする」と書いてある。孟子の流れを汲む
「朱子学」の思想である。
吉之助は思わず「これだ!」と、閃くものを感じた…長年求めてきたものが、この本によって、はっきりと示されたのです。
全文に流れているのは、「民を愛せ」という"愛民"の思想である。
吉之助は「愛民」を「愛人」にまで広めようと考えた。同時に、「人を相手にせず、天を相手にしよう…」と思った。天を相手にするというのは、
「天を敬う」ということである。
西郷隆盛の信条「敬天愛人」
は、沖永良部島で誕生したのです。
童門冬二「歴史に学ぶ知恵」より
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 582】
~歴史から学ぶ~
「薩摩藩と、木曾3河川分流大規模工事」
今朝5時過ぎ、バケツをひっくり返したような豪雨に目が覚めた。
1時間に90ミリの雨が降ったと、ラジオが報じていた。
温暖化の影響でしょう…全国、記録的豪雨に見舞われるニュースが増えたが、7月は梅雨時、災害の無いことを祈りたい。
江戸幕府が、250年の長きに渡って国家統一を継続し得たのは、治世術に長けた諸制度によるところが大きい。
徳川幕府が最も恐れたのは、外様を中心とした諸大名の反逆。諸藩の力を徹底して削いでおく必要がある。そこで「参勤交代」と「土木事業」
を諸藩に命じた。
ただでさえ苦しい大名家の台所に、強烈なパンチを食らわせたのです。
普請工事は、戦闘行為と同じで、命じられた大名は、石高に応じて必要な資金、資材、人員を差し出し、 期間内に工事を終わらせなければならない。
幕府は号令を発するだけ。金は出さず、手も下さない。諸大名は、ご下命が降りると、ここが忠誠心の見せどころと、 先陣を仰せつかったときのように、「ありがたき幸せ」と平伏して、武者震いする振りをした。断れば、幕府への反逆と見なされ、改易・ 廃藩の厳しい処分が待っている。
当時、どの大名も土木工事の施工技術を持っていた。秀吉は、美濃の斉藤道三との戦いでは、一夜にして城を築き、毛利との戦いでは、
高知城の周囲に長さ3キロの堤を12日間で築いて、水攻めにしている。
「土木も合戦と同じじゃ。将軍家にご奉仕せよ」と、大名に公共事業を請け負わせた幕府。 なかなかの知恵者である。
2年ほど前、NHKで放映された時代劇、薩摩藩に下された「木曾3河川分流大規模土木事業」を見た。 過酷で凄惨な難工事に苦悶する藩士たちの姿を、今も鮮烈に覚えている。
宝暦3年(1753)、洪水が頻発する木曾3河川(木曽川・長良川・揖斐川)の合流箇所に堤防を築き、分流せよと、
薩摩藩に下命された。江戸時代屈指の大規模難工事である。
二度に渡って将軍家から沙汰のあった、「姫君の降嫁話」を、巧みに破談にしたことへの嫌がらせと言われている。
当初10万両と見込んでいた工事費はみるみる40万両に膨れ上がり、窮した藩は、大坂の豪商から借金に借金を重ね、
逆さにしても鼻血も出ないほど困窮した。
遠路派遣された薩摩藩士は、難工事続きによる過労と伝染病で、次々倒れ、33人が病死。幕府の過酷な命令に憤って、
腹を切った者は52人にも及んだ。
1年3ヶ月で、何とか奇跡的に堤防は完成した。家老で総奉行の"平田靱負"は、藩の財政を破綻させたことと、人的損失の責任を取り、
切腹して果てた。
分流工事のお陰で、以後洪水はなくなり、濃尾平野は緑の大地に生まれ変わった。ドラマの終わりは、240年を経た現在も、
当時のままの姿で、松並木が美しい堤防堤を映し出す…。
当時の悲劇は、恨みとなって薩摩藩に語り継がれ、非情な難工事を押し付けた幕府への怨念となった。百年の後、西郷・
大久保を中心とした倒幕運動へ、駆り立てていく一因になったのです。
古川愛哲「江戸の台所事情」より
飛騨牛偽装事件「丸明」の社長は、部下に不始末一切をなすりつけ、必死に言い逃れ…。経営破たんしたNOVAの元社長は、
社員積立金横領で逮捕。
雪印、ミートホープ、船場吉兆…不祥事が発覚した時、何れも、潔く責任を取ろうとせず、悪あがきをしている。
新渡戸稲造の著書によって、世界から賞賛された「武士道精神」"日本人の美学"。
戦前まで、庶民の間に一般的に見られた、日本人の姿である。
今は、これが礼節を尊ぶ日本?日本人?と、諸外国からヒンシュクをかうほど、お粗末な国になってしまった…。
■自爆テロ
イスラムの国、イラクやアフガニスタンでは、自爆テロが後を絶たない。
毎日のように、罪のない市民が巻き込まれ、死んでいく。
狂信的イスラム教徒にとって、テロは"聖戦"…神のために誇り高く、
爆弾を抱いて死んでいく。
この「自分で自分の命を断つ行為」、その元祖といえば、日本の"神風特攻隊"
その精神をさかのぼれば、「切腹」に行き着く。
「カミカゼ」は、世界中に知られるテロの代名詞なのです。
ところが、ヨーロッパやアメリカには、このような自らを死に至らしめる行為は、
見受けられないのです。
キリスト教の国では、生命は"神から授けられたもの"…との意識が高い。
(2~3世紀前まで…「全ての大地と生命は、神が創造した」と信じられてきた)
故に、自らを死に至らしめる行為は、神を冒とくする行為になります。
キリスト教徒から見れば、日本人もイスラムも異教徒…
不可解で、理解できない人たちに見えるのです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 572】
~歴史から学ぶ~ 「日清戦争・日本の戦略」
前号に続き、日清戦争から…
日本は大国「清」と戦争することになった。清国海軍には「定遠」と「鎮遠」というずばぬけて巨大な戦艦があり、
巨大な大砲が積まれている。
その巨艦から打ち出される砲弾は、届く距離が長く、命中すれば甲板を貫き、船内で破裂して、一発で敵艦の航行を不能にする破壊力がある。
当時、ヨーロッパの列強は、海戦を有利に導こうと、巨砲を積んだ戦艦の建造に
しのぎを削っていた。(その名残りは、戦艦大和や武蔵の建造に行き着く)
しかし、砲弾の命中率は低く、巨艦だけに、迅速性に欠けるところがある。
清国海軍が所有するその他の戦艦は、軽量・遅速まちまちで、速力も全体に鈍い。
国力は衰え、規律は乱れ、旧来の固定観念に囚われた海軍幹部が、指揮をとっていた。
一方の日本は貧乏国。戦争に必要な資金がなく、国力は弱く、短期決戦でしか戦えない。
清国と対等に戦うだけの艦隊も保有していない。
唯一の強みは、当時の陸海軍には海軍大臣の"西郷従道"、海軍大将"山本権兵衛"、
後の日露戦争で名をなす大本営司令官"大山巌"、"児玉源太郎"、"乃木希典"などの逸材が揃っていたことでしょう。
大国清国海軍に勝つために立てた、日本の戦略・戦法とは…
「狼の群れで、
犀の群れを襲う戦法」
(1)小粒だが高速で、同じ速度、迅速にまとまって戦える戦艦を外国に発注。
(日本が得意とするチームワーク作戦です)
(2)戦艦に速射砲を沢山積み込み、敵が発する巨砲をかいくぐって、小口径の
砲弾を短時間におびただしく敵艦に浴びせ、
敵の艦上建造物と敵兵をなぎ倒す。
艦上を無人の状態に陥れ、
軍艦としての機能を消滅させる作戦。
(3)敵艦の甲板を貫く大砲が無い代わりに、何かに触れるとすぐ爆発し、
敵艦上を焼き尽くす、焼夷弾のような砲弾を開発した。
こうした戦術で、敵艦を沈めることよりも、艦を航行不能に陥らせ、敵海軍の戦意を削ぐことに重点を置いた。
(4)敵艦の戦力が低下したスキを突いて、漁船を改造した魚雷艇が敵艦隊に
忍び寄り、敵艦を撃沈させる戦法で臨んだ。そして、
清国に勝った。
司馬遼太郎「坂の上の雲」より
相手の強みにばかりに目を奪われ恐れていては、何一つ解決しない。
どんな強い相手にも必ず弱点があるはず。それを何とか見つけ出し、対応を考え出したことが、清国に勝利する勝因になった。
先々週の土曜日、女子バレーが北京五輪最終予選で、6戦全勝という快挙をやってのけ、オリンピックの切符を手にした。サッカーも、 昨日のオマーン戦で3対0と快勝…本大会出場へ向け、一歩前進した。
身長が低く、体力やパワーに劣る日本人が、バレーボールやサッカーで、世界の競合と互角に戦うことが出来るのは、 軽量を強みに変える戦術…敏捷さ・素早い動きを武器にし、加えて、日本人特有のチームワークの良さを、存分に発揮する戦術が、 功を奏しているのです。
対応を誤らないためには、味方の強みを探り、相手の弱みを見つけ出すことです。
相手に勝とうと、弱みの改善に努めても、あまり効果は期待できません。
それよりも、自らの弱みには目もくれず、強みを更に強める努力をした方が、
効果も高く、戦意も高まろうというものです。
■無血革命で、明治の新政府誕生
徳川幕府が瓦解して、明治新政府が誕生した時、平穏に政権が譲渡されたことに西欧諸国は驚きました。西欧では、 権力が入れ替わるときは、フランス革命に象徴されるように、必ずといってよいほど、多くの流血と犠牲を強いられるからです。
明治維新に、新政府がまず実行したのは、三千六百万両(約3兆円)という、全国の諸藩が抱えていた途方もない負債を、
明治政府が肩代わりして、全額棒引きしにしたことです。
これによって殿様は、領主の地位を失いはしたものの、借金地獄から解放されることになったので、泣いて喜んだのです。
今なら、膨大な負債で倒産を覚悟してでいた会社社長が、社長を退く代わりに、借金の全てを肩代わりしてもらうようなものです。
維新で一番得をしたのは、藩主ということになります。
それ故、世界史に例をみない「藩籍奉還」という、無血革命がスムーズに行われたのです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 570】
~歴史から学ぶ~ 「日清戦争とカキ殻」
司馬遼太郎の「坂の上の雲」が、来年から2年間NHKでロングラン放映されることになった。既に撮影に入っているそうで… 楽しみです。
私が過去に読んだ書物から一冊を選ぶなら、躊躇なく「坂の上の雲」を選ぶでしょう。
次いで三国志でしょうか…繰り返し読んだ本は、この両書です。
歴史小説なのに、経営書のように、あちこち鉛筆で線を引いたり、ページの端を折り曲げたりしてあります。
明治新政府樹立直後から、政府の重要政策に、朝鮮の「排日的鎖国主義を討ち、開国を求める」というのがある。
明治8年、日本の軍艦が韓国・漢江の砲台と交戦し、占領した。
翌年、アメリカに習って、釜山ほか2港を無理やり開港させ、不平等な日韓修好条規を締結した。以後日本は、宗主権を主張する清国と、
激しく対立することになる…。
朝鮮半島では、日本人の米の買占め阻止と、朝鮮政府の重税、官僚の腐敗などに苦しむ農民が、一斉蜂起した。
日本軍はこの機を逃さじと、朝鮮を清から独立させ、在留日本人保護を大儀名分に、朝鮮から清国の勢力を排除すべく、軍隊を動かした。
7月25日、ついに、日清両国艦隊は朝鮮・豊島沖で交戦。
日本の命運をかけて、東洋の大国"清"と、戦争を始めたのです。
「坂の上の雲」、日清戦争のくだりを読んでいくと…
戦いに勝つために、海軍省の山本権兵衛(ごんのひょうえ)大将が最初にやったことは、
戊辰戦争で功労のあった、海軍幹部の首を切ったことです。
清国と戦争を始めるに当たり、既成観念に凝り固まっている管理職を、一掃してしまったのです。
その後任に、若手の士官を抜擢して、黄海に押し出した。
日本海軍は縦横機敏に活躍し、"カキ殻"がいっぱいついた清国艦隊を、次々と沈めていった…。
艦船は、遠洋航海に出て帰ってくると、船底に"カキ殻"がいっぱい付いて、船足が落ちる。人間も同様です。経験は必要だが、 経験によって増える知恵と同じ分量だけ、カキ殻が頭に付く。知恵だけ採ってカキ殻を捨てることは、人間にとって大切なことだが、 歳を重ねると、過去の経験に囚われて、これが出来なくなってくる。
人間だけではない。国も古びる。海軍も古びる。
「海軍はこう…」「艦隊はこう…」「作戦はこう…」と、固定観念が邪魔をする。
恐ろしいのは、固定観念そのものではなく、固定観念に囚われていることも知らず、平気で司令室や、艦長室の柔らかい椅子に、
どっかり座り込んでいることです。
一方、素人というのは、
知恵が浅い代わりに固定観念がないから、必要で合理的と思えば、過去に囚われることなく、どんどん採用し、実行しようとする。
私たち零細企業に共通する課題は、古参幹部社員にとって代わる人材がいないことです。社長と労苦を共にし、
現在の会社に育てあげた功績で、経営幹部に居座っている。
過去の経験に囚われ、時代の変化に適応できなくなっている自分に気付いていない。
パソコンが苦手で、覚えようとしない経営幹部などは、その良い例です。
これは、経営する立場の私にも言えることで、いつまでもトップにいることの弊害に気付き、早めに後継者にバトンタッチすべきでしょう。
また、社長を引き継いだ二代目経営者が頭を痛めるのは、古参経営幹部の処遇です。
※[日清戦争]
明治27年7月から翌年4月、日本と清国は、朝鮮の覇権をめぐって戦争。
日本陸軍は9月に平壌、11月に遼東半島を占領し、北京・天津を脅かした。
海軍も9月、黄海海戦に勝利して制海権を握り、翌年1月の威海衛攻撃で、中国北洋艦隊を全滅。
戦費総額2億円、動員兵力24万人、戦傷者1万3千人(戦死者数百人)。
4月17日講和条約(下関条約)締結。日本は領土と賠償金を手にした。
その後日露戦争を経て、明治43年韓国を併合。
太平洋戦争終了までの間、朝鮮は日本の保護国となる…。
■今日のことば
~度を過ぎた"徳"は害をなす~ 伊達家の家法(壁書)
「仁」過ぐれば 弱くなる
「義」過ぐれば 固くなる
「礼」過ぐれば へつらいとなる
「智」過ぐれば 嘘をつく
「信」過ぐれば 損をする
中でも傍が迷惑するのは、常軌を逸した"義"(人として行うべき正しい道)だろう。
当の本人は、正しいことをしていると、信念に凝り固まり、反省することもない…。
ときにそれは、悪人より始末が悪い。
日銀人事を巡る与野党の攻防を見ていると、「義過ぐれば固くなる」に思えてくる。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 568】
~歴史から学ぶ~ 「国家の品格」
以下、藤原正彦「国家の品格」より
歴史を振り返ると、日露戦争当時の日本人は、本当に立派だった。 16世紀後半に日本を訪れたイタリア人宣教師ブァリニャーノも、 |
戦後、欧米型民主主義が日本に持ち込まれ、言論の自由や個人の自由が、国民の権利と叫ばれるようになった。
欧米型の資本主義、市場原理が日本に定着するにつれ、日本人から、弱者への思いやりや、
ひきような振る舞いを戒める心意気などが失われていった。
世界に誇る高潔な精神を持った日本人は過去のものになってしまったようです。
私が生きてきた世代…戦後の混乱期から、高度成長に至る日本は、家庭より会社を第一に考える時代だった。私たちは、
自らを犠牲にして会社のために働いてきた。
今のように、自分の家族や家庭を第一に考える人は稀だった。
週休二日制が浸透し、週末の接待ゴルフを断って、家族サービスを優先する…今はそんな時代なのです。
家族のために働くが、国や社会に人生を賭ける気にはならない。
どんなに一生懸命働いても、会社の都合で、突然リストラされるかもしれない。
終身雇用制は過去のものとなり、会社は命を懸けるほどの重みのある対象ではなくなった。
国や会社よりも、個人の利益が優先される今の時代、食品偽装事件に象徴されるように、日本人が持ち続けてきた倫理観は、
消え失せてしまったのでしょうか?
銃を乱射する凶悪事件が日本でも報じられるようになり、アメリカ社会にどんどん似てくる。物の見方、
考え方が大きく変わってしまった日本…モラルの欠落したつまらない国になろうとしている。
■老舗の多い金沢
「越中強盗、加賀乞食、越前詐欺師」…北陸の県民気質を言い表した言葉です。
家業がにっちもさっちもいかなくなった時、越中富山は"強盗"してでも…、越前福井は、 "詐欺"をしてでも…あきらめずに、
歯を食いしばってこらえ、何とかしようとする、
へこたれない。
それに引き換え、加賀金沢のわんさんは、へなへなと、なす術もなく乞食になる…。
金沢市は、富山市や福井市のように、戦災や地震で焼け出され、辛酸をなめた辛い経験がない。昔ながらの古い町屋・老舗が建ち並ぶ金沢…
土蔵のある家も珍しくない。
多くの老舗は貸家や不動産を持ち、おんぼら~と商をしている。
代々、謡曲をたしなみ、お茶屋遊びをする、粋な土地柄。富山や福井の商人ほどには、働かない…。
福井市の問屋団地、衣料品問屋の社長さん…「石川県は商いやすい」と言う。
富山県・高岡の卸問屋…能登の商圏に入り込み、金沢の問屋のお得意先を取っていく。
それをやっかんで、このような言葉が生まれた…。
京都で活躍する商人の多くは、滋賀の"近江商人"だという。
同じように金沢で活躍する商人は、富山県人が多いのです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 221】
~歴史から学ぶ~ 「老舗企業大国日本(2)」
仏像・仏具の装飾に欠かせない金箔。金箔の99%が、我が故郷金沢で生産される。
加賀藩を興した前田利家が、京都から職人を呼び寄せたのが、その始まりという。
明治32年(1899年)創業の"カタニ産業"。金沢の金箔業界の一翼を担う老舗。
戦後養子に迎えられた三代目社長は、台湾に目を付けた。
台湾の人々はお寺参りする時、金色の紙に火をつけ、パチパチと派手に燃えれば
燃えるほど、ご利益があると信じた。
その金色の紙とは、紙にアルミ箔を張りつけ、黄色く塗ったものです。
三代目社長、このアルミ箔を自社で製造し、台湾に売り込んで、莫大な利益を得た。
カタニの箔の生産高は、金箔1割に対して、アルミ箔が9割…全国のアルミ箔シェアの半分はカタニ、と言われた時もあった。
富山県から来たよそ者…当然、同業者から妬まれ、異端児と白い目で見られ、風当たりは強かった。養子だからこそ、
保守的な金箔業界の観念にとらわれずに、実行できたのです。
蚊谷社長の座右の銘は「伝統は革新の連続」…伝統で受継がれてきた金箔の技術を守っていくだけでなく、その技術を生かし、
その時代時代に即応した商品・技術を次々開発していった…だからこそ、現在のカタニがあるのです。
私は繁華街香林坊育ち。商店街の名の知れた薬局、九谷焼、家具、ブティックの店主は養子でした。何れも、
店を廃れさせては養子の恥と、よく働き、店を繁盛させた。
私も某老舗から、養子に欲しいと打診されたことがあるが、片町の帽子店の同級生(次男)が、同じ商店街の老舗家具店の養子になっている。
一方で、「家督は長男に継がせる」と、決めている経営者も多い。
苦労して築き上げた会社…「有能な他人より、信頼できる血族…我が息子に」の思いが強いのです。
大坂の船場や東京の日本橋には「息子は選べないが、婿は選べる」という言い伝えがある。百年以上続いてきた老舗には、
男子を後継者にせず、経営者の資質に優れた人材を、
婿養子に迎え入れて、暖簾を守ってきたところが多い。
そういったことから、船場には、娘が生まれると赤飯を炊く風習があった。
NHK篤姫が嫁いだ、徳川家十三代将軍"家定"のように、跡取り息子がとんだ"アホのぼんぼん"でも、長子相続にこだわる限り、
経営を委ねざるをえない。
これで店を潰すくらいなら、赤の他人でも、優秀な娘婿に任せたほうがいい…。
船場や日本橋の老舗…家訓にしてまで、店を守ろうとしたのです。
NHK・BS朝の連続ドラマ、「京都の風」の再放送が3月末に終了した。
京都・老舗呉服屋の三姉妹が、店の暖簾を巡って繰り広げるドラマ…。
店を継ぐことになった次女は、店の番頭ではなく、外から養子を迎え入れた。
その養子、商いに失敗して店を潰しかけた。次女は「店を出ていってほしい」と、
夫である養子に三くだり半を突きつける…そんなシーンが印象に残っている。
役に立たない養子は、離縁して縁を切る。
養子縁組の裏には、そのような打算が働いているのです。
角川書店/野村進「千年、働いてきました」より
■自分が変われば、相手も変わる
イスラム教の開祖マホメットの教えです。
ある日、マホメットが奇跡をやってのけるというので、大勢の人が集まってきた。
なんでも、遠くにある山を、ここに呼び寄せるというのです。
「オ~イ、山よ、こっちへ来~い」
人々が見守る前で、マホメットは呼びかけます。けれども山は動きません。
彼は再び、山に呼びかけました。それでも山は動きません。
三度目、マホメットは呼びかけます。「山よ、こっちへ来~い!」
やはり山は動きません。人々は「なあ~んだ」という顔をしています。
その人々に向かって、マホメットは言いました。
「諸君!ご覧のごとく私は三度、山に呼びかけた。だが、山は動かぬ。
ならば、今度は私が山に向かって歩いていく番である」と…。
そして彼は、山に向かって歩いていきました。
山が動かなければ、自分が動けばいいのです。
こちらが動くと、向こうが近寄ってきます。
私たちは、相手に変わって欲しいと願っています。
でも、それではなかなか奇跡が起きません。自分が変わればいいのです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 220】
~歴史から学ぶ~ 「老舗企業大国日本」
世界最古の会社はどこにあるのだろうか?
約二千年の長きに渡って世界に君臨した、ローマ帝国イタリア?それとも中国?
実は、我が日本にあるのです。
江戸時代?安土桃山?鎌倉?まさか平安時代? いや、もっとずっとずっと前…
西暦578年、なんと、飛鳥時代から続いている会社があるのです。
大坂の「金剛組」です。創業千四百年…寺社仏閣を建ててきた建設会社です。
世界一の長寿企業が日本にあるのです。
他にも、創業千三百年になろうかという、石川県粟津温泉の老舗「法師旅館」、
千二百年以上の京都の和菓子屋さん、同じく京都で千百年以上の仏具店、
千年を優に超える薬局、と"創業百年"を超える企業は、2002年の東京リサーチ調べで、15,207社もあるのです。
調査の対象から外れた零細企業を加えると、全国に十万社はあるという。
老舗が、これほど沢山ある国は日本だけ。
お隣の韓国には、百年以上続いている店舗や企業は一軒もないし、ヨーロッパで
最古の企業は、1369年設立のイタリアの金細工メーカー…日本には、これよりも歴史の古い会社が百社近くあるのです。
世界の中で、日本にだけ見られる特異な現象です…何故なんでしょう?
(1)日本は、植民地になるなど、他国に支配され、屈服させられた歴史がない。
(2)日本の老舗の半数は製造業…日本は他国に比べ、職人の社会的地位が高かった。
(3)インドや西欧では、職業がカースト制度や職階によって細分化され、
製造技術全てを、親から子、子から孫へと受継ぐことができたのは、
日本だけ。
※茶道や歌舞伎のように、技術を伝承していく家元制があり、
柔道のように、
○○道として、代々優秀な高弟に引き継いでいく文化がある。
(4)日本は、お上(国家)への信頼度が高く、国が安定していた年数も長い。
(5)同族経営ながら、長男は分家させ、優れた人材を養子に迎え入れる。
優秀な他人の血を入れることで、企業の永続を計った。
※政情が安定しないアジアの国々は、血族以外は信用しなかった。
(6)老舗でありながら、時代や環境の変化に、しなやかに対応してきた。
(7)時代に即応した製品を生み出していく努力は怠らなかったが、
創業以来続けてきた本業は、頑固に守り通した。
(8)相場や株に手を出すのはご法度。儲かるからと、本業からはずれた商いに
手を出したりせず、それぞれ"分"をわきまえた商いをしてきた。
(9)"創業の精神・家訓"を大切に守り、「町人の正義」を守り通した。
角川書店/野村進「千年、働いてきました」より
■「戦陣訓」
昭和16年1月、陸軍省・東条英機陸相が、軍人に公布した行動規範。
特に、「本訓其の2-第8 名を惜しむ」の項は、戦後、軍国主義の悪の代名詞の
ように言われた。
『恥を知るものは強し。常に郷党家門の面目を思い、愈々奮励して其の期待に答ふべし。
生きて虜囚
(りょしゅう)の辱
(はずかしめ)を受けず、
死して罪禍(ざいか)の汚名を残すことなかれ』
「戦陣訓」は全将兵に、死を覚悟して戦地に向かうべし…と説いた。
欧米では、戦いに敗れ捕虜になることは、何ら恥ずかしいことではなかった。
しかし、日本国軍人は、降伏して、生きて捕虜になることは、最大の恥辱であるとされ、
「非国民」としてさげすまれた。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 219】
~歴史から学ぶ~ 「横井庄一さん、グアムで28年間」
昭和47年(1972)私は31歳。この年の正月、グアムへ観光に出かける日本人が急増した。
グアムへ訪れた観光客の7割が日本人です。
この年以降、お正月になると大勢の日本人が、海外旅行に出かけるようになった。
1月27日、日本人観光客がにぎわうグアム島で、日本人生き残り兵隊、横井庄一さんが見つかったという、
ビッグニュースが飛び込んできた。
この時の報道を思い起こし、振り返ってみることにします…。
横井庄一さんは、名古屋の仕立て職人。26歳の時満州に出征。
昭和19年、グアム島に配属された後、米軍の猛攻撃を受け、部隊は全滅。
生残った横井さん、命からがらジャングルに逃げ込み、洞穴に隠れて生活した。
発見される恐怖におびえながら、毎日乏しい食料で、どうにか生き永らえた。
過酷な生活は28年にも及ぶ。横井さんが、地元の猟師に発見された時には、
57歳になっていた。
発見直後の記者会見で、車椅子の横井さん、集まった記者達を見渡し、両手がブルブル震えていた。前に居並ぶ人たち…
長髪でパーマにサングラスといういでたち…とても日本人には見えなかったのです。
記者会見の後、隣の部屋で「バン!」と処刑されるのでは…と、本気でおののいていた。
28年ぶりに帰国した横井さん、この年最も有名な人物になっていた。
2月2日羽田到着。その時の帰国第一声は、あまりにも有名です。
「グアム島敗戦の状況を、つぶさにみなさんに知っていただきたいと思い、恥ずかしながら…帰ってまいりました」
これは、グアムで亡くなった戦友と、上官に向かって言った言葉です。
もう一つは「生きながらえて帰ってきて、ごめんなさい!」
更には上官や天皇に、「おめおめ生きながらえて帰ってきた自分が、恥ずかしい…」
そんな複雑な心境だったのです。
病院で2ケ月間静養…故郷名古屋に戻ってきた。
市民が日の丸の旗を振って大勢出向かえ、まるでお祭りのような騒ぎ…。
横井さんが最初に向かったのは、母親が眠る横井家の墓地。
ここで彼は、母親によって建てられた、自分自身の墓があることを知った。
Q.ジャングルで何を食べていたのか?
A.<動物系> 毒ガマガエル、野ネズミ、鹿、カタツムリ、川エビ、山猫、ウナギ、
子牛、
野ブタ etc
<植物系> パンの実、ヤシの実、ソテツの実、タケノコ、パパイヤ、
山芋etc
Q.何で出てこなかったのか?
A.戦陣訓「生きて虜囚の恥ずかしめを受けるなかれ」の、軍人心得を叩き込まれていた。
ジャングルから出て捕虜になるのは、軍人最大の恥辱なのです。
日本中が、「28年間ご苦労様でした」と、横井さんを温かく迎え入れた。
島では、見つからないように夜暗くなってから行動した。
語りかける相手もなく、電気も水道もない孤独な生活に…28年間も…よくぞ耐えられたものです。
横井庄一さん、発見された9ケ月後の11月、美保子さんとお見合い結婚した。
その11日前、フイリピン・ルバング島で、生き残り日本兵二人と、地元警察が銃撃戦。
一人が殺され、生き残った一人は、ジャングルに逃げ込んだ…そんなニュースが飛び込んできた。小野田少尉である。
日本から、直ちに捜索隊が派遣された。
晩年は、講演活動の傍ら、陶芸に打ち込んだ。何度も個展を開くほどの腕前だったという。
平成9年、82歳で亡くなった。新しく作られた墓の脇に、寄り添うように、小さな慰霊碑が立てられた…「グアム島・小動物の碑」である。
横井さんの人柄が忍ばれる。…
■「具志堅用高の座右の銘」
ある時記者が、具志堅に尋ねた…「座右の銘は?」
思わぬ答えが返って来た…「左右どちらも2.0です」
記者…「??…アッハッハ」
具志堅用高は沖縄県石垣市出身。昭和52年ジュニアフライ級タイトル奪取。
その後13回も防衛に成功した、日本人チャンピオン最多防衛記録保持者です。
昭和47年、日本に復帰した沖縄が最初に出した英雄で、日本中が感動した。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 217】
~私の昭和~「忘れられない昭和47年」
昭和47年は、1月から2月のわずか1ヶ月の間に、大事件が4つも続いた。
この年は、大きな出来事が続く。私には、忘れられない年になった。
●1月27日、日本人の生き残り兵隊"横井庄一"が、グアム島で発見された。
●2月、サッポロで冬季オリンピックが開かれ、6日のジャンプで笠谷選手が金。
日本が金・銀・銅全て独占「やった~!」…快挙の瞬間を今も鮮明に覚えている。
●2月19日、赤軍派が浅間山荘にたてこもった。その一部始終が日本全国に
放映され、警官が撃たれた瞬間も見た。仕事を忘れ固唾を呑んで見守った。
視聴率は、ピーク時98.2%と、驚異的数字を残した。
●2月27日、ベトナム戦争の真っ只中、ニクソン大統領が突然訪中。毛沢東と会談。
●5月、沖縄が日本に返還されたことも、忘れてはならない。
●7月、田中角栄が自民党総裁になり、「日本列島改造論」をぶち上げた。
列島改造論ブームが巻き起こり、異常な地価高騰時代へと突入していく。
●9月、田中首相は中国に出かけ、周恩来首相と「日中国交正常化」の調印。
最大の戦争被害国中国…一切の「戦争賠償権」を放棄。
以後日本は、経済大国への道を突き進むことになる。
●お土産は、パンダの日本初公開。ひと目見ようと、上野動物園は長蛇の列。
列に並ぶこと3時間。ようやくパンダのオリの前へ。
立ち止まることが許されたのは30秒だけ。
夕食を食べながら、そんな上野動物園の中継を見ていた。
翌々年の昭和49~51年にかけて、二度のオイルショックに見舞われ、諸物価が急騰。
日本経済は大打撃を受けるが、昭和47年は好景気で、国民の消費熱は、住宅、自家用車などへ。本田が「シビック」を発売し、
一家に一台の大衆車時代へ…。
昭和47年は、35年頃に始まった高度経済成長が、一つの峠を迎えた年です。
少し遡る昭和45年。当時、額ニュータウンの坪単価は3万円だった。
住宅新築単価は坪8万5千円。47年には5万円台に…建築価格も坪12万円に高騰。
2年後、第一次オイルショックの昭和49年の建築価格は、坪16万円に。
第二次オイルショック後の昭和52年には、坪24万円と、異常に高騰。
日本全国、不動産投機熱に沸き立ち、株価が上昇し、バブルが膨らんでいく。
昭和47年、私は31歳。10月、会社の同僚と台湾へ…初めての海外旅行です。
台北は、国慶節を祝う市民が昇り旗を立て、列をなして繰り出し、爆竹や鳴り物で、市内はお祭りムードいっぱい。
宅地建物取引主任資格を取得した年でもある。
テレビでは、中村敦夫「木枯らし紋次郎」の、「あっしには関わりのないことでござんす」が、30%を超える高視聴率をマーク。 時代劇では珍しく、女性に人気があった。
◎12月、政府は第二次ベビーブーム到来を発表。
この年、205万人のベビーが誕生。(平成18年度は…109万人)
◎スーパー・ダイエー。
この年の年間売上げ、三越を抜いて首位に立った。
◎この年ヒットした流行歌
「喝采(ちあきなおみ)」「女のみち(ぴんからトリオ)」「せんせい(森昌子)」
「瀬戸の花嫁(小柳ルミ子)」「そして神戸(クールファイブ)」
■帝国海軍軍人が残した言葉
○25歳にして、南太平洋の凄惨な戦闘で亡くなった、
海軍主計大尉小泉信吉が、22歳の夏に書き残した言葉です。
「十歳の頃から、海軍士官になることが理想になりました。
落日の下に今や沈まんとする艦のブリッジに立ち、艦と運命を共にする艦長に
わが身をなぞらえたり。
幕僚を従えて海戦に臨む司令官に、未来のわが身を描いております…」
※海軍軍人に憧れた青年の、平均的姿です。
○戦艦大和が、燃料片道の沖縄突入作戦に出動を決定した時、
青年士官の間で、特攻で死んでいく意義をめぐって、激しい議論が起きた。
死生論議が堂々巡りする中、混迷を断ち切ったのは、若手士官を束ねる立場の、
哨戒長"臼淵 磐"大尉の言葉だった。
「日本は、進歩ということを軽んじすぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、
本当の進歩を忘れていた。敗れて目覚める…俺たちはその先導になるのだ。
日本の新生に先がけて散る…まさに本望じゃないか」
吉田満「戦艦大和ノ最期」より
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 216】
~歴史から学ぶ~「東京大空襲(2)」
以下、当時中学1年だった"滝 保清"さんの地獄の体験記、前号の続きです。
「お母さん!」『どうしたの、お爺さんは?』「ダメ!行ってもダメ!お婆さんは何処へ行ったかわからないし…探しに行っても無駄!
それより由美子の所へ行こう」
異様な私に、母も大変な事態になったことを察し、由美子の所へと走った。
途中「バリバリ」と、雷が何十個もまとまって落ちたような轟音に、二人は一瞬頭を抱え、地面に伏してしまった。至近弾の炸裂です。
炎を逃れて逃げ惑う人たちの頭上に、雨アラレと降り注ぐ焼夷弾…。
つんざく炸裂音と同時に、中から、真っ赤に燃える生ゴムのようなものが四散。
目の前の家の羽目板に付き、「パッ」と明るくなる…と同時に燃え出すのです。
「ゴー」と、鼓膜が破れんばかりの地響き…見上げると、B29が超低空で飛んでいく。
炎の照り返しで、物凄く大きな悪魔のように、機体は真っ赤。
空をにらみ上げ、無念の唇を噛みしめる。
無抵抗に逃げまどう女・子どもを、皆殺しにしようと空から嘲笑っている鬼のようです。
何とか小学校に逃げ込んだ。中はすでに人でいっぱいだったが、私と母は廊下の隅にへたり込んだ。
校庭を見ると、真っ赤な火の粉が渦巻き、校庭に高く積んであった古材が燃えて、「ボンボン」舞い上がっていた。
火焔と烈風は凄まじく、この世の地獄…「外にいるほとんどの人は助からないだろう…」。
恐ろしさで震えが止まらない。
逃れてくる人たちは、どの人も衣服が燃えていた。その人達を中へ入れようと、校舎の扉を開けると、
同時に凄まじい火の粉と煙が中に舞い込んでくる。
そのうちに、衣服の燃える火を消す水も絶えてしまい、衣服から飛び散った細かい火の粉が校舎内に散らばり、煙が充満し、
むせかえるような息苦しさ…。
しばらくして、校舎を火災から守り、中に避難している1,500人の生命を守るために、校舎入り口の鉄扉に鍵をかけた…
断腸の思いでの決断だったのです。
更に、強風と外圧に耐えるように、内側に下駄箱を積み上げた。
「開けてくれ…助けてくれ…」、扉を叩く悲壮な叫び。皆、耳を塞ぎ、神仏を拝んだ。
しばらくして、扉を叩く音が途絶えた。
力尽きた人たちの後から、後から、扉の前に人が積み重なり、熱風で焼死していった。
「がやがや」する声に目覚めた。窓の外は朝日が差している。
校庭に積んであった古材は、跡形もなく燃え尽き、校舎の入り口には、真っ黒な塊が山になっている。
「何だろう」と窓にすり寄ると、それは30人ほどの焼死体の大きな塊だった。
衣服は燃え尽き、髪は焼け、皮膚はどろどろに溶け、焼けただれ、顔もどこが口だか鼻だか、原型をとどめない。手も足も引きつって、
人間の最後の苦悶の表情を呈している。
このような地獄絵を、13歳の私が見たのです。
私は人間の気丈さをつくづく感じました。平常なら失神してしまうでしょう。
悲しくて涙が出るのは、まだ余裕があるからで、恐ろしさで体が震えるときは、まだ震える余裕があるのです。
その時は、恐ろしくも悲しくもなく、「母さん、助かって良かった。生きていて良かった」と、母と手を握り合い、喜びの涙を流したのです。
母と私は、末の妹を預けた避難場所に向かって歩いた。
昨夜は私たちが入る余地が無いほど、人と荷車で込み合っていた避難所…一面、おびただしい数の真っ黒な焼死体が散乱している。
うつぶせになったり、のけぞったり、親が子を、家族をかばうように、幾重にも折り重なっている様は、言葉では到底表しつくせない、
気の遠くなる光景です。
「むごい」…妹由美子の安否も絶望に近く、深い悲しみが私の心を捉まえた。
(以下略)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今の平和な世の中は、戦争で散っていった、数知れない尊い命の上に、成り立っているのです。 それを忘れることなく、次の世代に語り継いでいかなければならない。
合唱
■東京大空襲
63年前の3月10日未明、東京に352機のB29爆撃機が来襲。
36万発の焼夷弾を下町の密集地帯に投下…犠牲者約10万人、罹災者100万人、焼失家屋27万戸という、広島の原爆を上回る、
悲惨きわまりない大災害に見舞われたのです。
今の中・高生の中には、東京大空襲はおろか、日本とアメリカが戦争したことも知らない生徒がいるという…学校で何を学んでいるのでしょうか?
60数年前の、終戦前後の出来事を、語れる人が少なくなってきている。
66歳になる私、終戦当時は3歳…富山の空襲や、戦時中のことを記憶する、最年少の世代になるでしょうね…。
2005年8月12日には、「富山大空襲」
を、2006年3月10日には「大坂大空襲」
を、そして、2007年7月27日には「宇部市の空襲」
を、私のメルマガで配信しました。
合わせて、当時私が記憶していたことも書き添えました。
お読みになりたい方は、私のブログの「歴史から学ぶ」
カテゴリーをご覧ください。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 215】
~歴史から学ぶ~「東京大空襲(1)」
以下、当時中学1年の少女だった"滝 保清"さんの、地獄の体験記です。
明治時代から桐タンスの製造と、家具の販売をしていた父は、数年前に病死。
家族は、私に母と祖父母、妹三人の7人暮らし…母は万一のため、家財道具を埼玉の実家に預け、2人の妹をそこに疎開させた。
私と5歳の四女を、母の手許に残した。
昭和20年3月9日、運命の夜がきた。
その夜は強い北風が吹き、レーダーが揺れて、 低空で迫り来る敵機編隊を補足出来ず、 空襲警報が発令されたのは、
爆撃が始まった後だった…。
0時過ぎに隅田川方面から火の手が上った。
火の手はみるみる広がり、大火の模様なので、近所の人たちと、私の家の前にある神明神社の境内へ、避難し始めた。
私は、足の不自由な祖父を背負い、家族全員避難。
「ここにいれば大丈夫」と思ったのも束の間、風はますます強く、火の手は北の空を真赤に焦し、神社の裏門近くまで迫ってきた…
更に西門の裏も燃え始めた。
火の粉は、きらきらと強風にあおられ、夜空を舞い、頭上に降りかかってくる。
母は危険を感じ、「ここにいては危ない!もっと広い所へ…」と言ったのですが、叔父は「自分の家が焼けるのを見届けてから…」
と言うので、「じゃ、由美子(末の妹5才)を安全な所に預けてくるから…保清はお爺ちゃんと一緒にいるように…」と言って、
祖父母と私の三人を置いて行ってしまった。
それから間もなく、神社裏門の火は東側にも移り、境内は三方火に囲まれ、火の粉が激しく振りかかってきました。そのうち、 火の粉ではなく、焼トタンや板切れが火の玉となって、ぼんぼん飛んでくるようになりました。
「母さんは何処へ行ったんだろう…」と祖母と話していると、「逃げろ~、こんな所にいると焼け死ぬぞ~」という男の声に、皆、
神社の正門から逃げ始めました。
そうこうしているうちに西門からの火は、南側の私の家にも延焼し、四方炎に囲まれ、真昼のように明るくなった。
境内は火の粉と煙が渦巻き、母を待っていたのでは逃げ場を失うと、足の不自由な祖父の手を肩にかけ、引きずるように逃げ出した…。
神社の鳥居まで出たときです。火のついた雨戸が風に舞って落ちてきた。
フェン現象の熱風となって、煙と炎の渦が迫ってきた。一刻の猶予もありません…。
鳥居の階段を、 祖父を引きずって下りた時、 「保清、 待って!」と叫ぶ祖母の声に振り向くと、背負っていた祖父のドテラが燃え出し、
祖母が叩き消そうとしているのです。
夢中で揉み消したが、今度は私のオーバーの裾が燃え出した。
慌てて揉み消していると、さらに、祖父の足の包帯に火が付き、燃え出したのです。
祖母も、自分の衣服の火の粉を払うのが精一杯で、燃えている祖父のドテラにまで、手が回りません。
突然、目の前が見えなくなり、むせるように息が詰まり、熱風の渦に巻き込まれた。
防空頭巾で口を覆い、息を止めた。目は熱風で開けられない…。
この場にいては窒息してしまう…。
「もうこれまで!」と、燃えている祖父をそのままに、夢中で暗い方に走った。
後ろ髪もなにも…生きたいという本能と、窒息の苦しさから逃れたい一心で、祖父を置き去りにしてしまったのです。
炎の渦を振り切って振り向くと、もうもうたるオレンジ色の炎が、地面を這い迫ってくる。
その中から、二人三人と飛び出してくる黒い人影。時折明るい人影は背に火が付いたり、防空頭巾が燃えているのに気づかず、
夢中で走る人たちです。
その逃げ惑う様は、人の世の生と死…恐怖の狭間を…地獄絵を見る思いでした。
気付くと、祖母とはぐれてしまった。逃げ惑う大勢の人波の中では、祖母を探す術もない。
祖母も、自身の判断で、どちらかに逃げ延びているに違いないと信じ、電車路の大通りに出た。そこは、人と自転車、リヤカーでごった返し、
一人になった不安から、恐怖がこみ上げてきた。
母さんに逢いたい…「母さん~、母さん~」と叫びながら駆け出した。
森下の交差点に差しかかった時です。人混みの中から「保清…」の声が…。
振り向くと、目の前に母がいた…全くの奇跡です。
炎の照り返しだけの、暗い人混みの中で、出会えるなんて…。
(次号に続く)
■NHK・BS朝7時45分からの連続小説「都の風」(再放映中)
京都室町の呉服問屋の三姉妹。ある日当主(婿)に呼ばれ、当主の前に座らされた。
「末娘(ドラマの主人公)に婿を取って、当家の後を継がせることにする。長女は商家に嫁に出す。次女は養子を取って別家を持たせる。」と、
言い渡した。
そこから物語が展開し、大騒動が巻き起こる…
・三女に店を継がせることにした理由は…
長女は「新しものがりやのくせに、すぐに冷めてしまい、長続きしない。」
次女は「性格がおとなしく、身代を守っていくには頼りない。」
三女は「人の心が分る優しさと、何事にも前向きにとらまえる積極性がある。」
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 199】
~歴史から学ぶ~ 「老舗と暖簾(のれん)」
512号に続き、伊勢の赤福。創業以来三百年、代々暖簾を継承してきた老舗である。 市場環境の変化に機敏に対応してきたからこそ、暖簾を守り通せたのでしょうが、それだけでは、 これほど長く暖簾を守ることは難しいのです。
「企業は外から潰れるのではないんですね。多くの場合、内から崩壊していく。内がしっかりしていなければダメなんです。」
日創研・田舞徳太郎氏が「理念と経営」9月号で、BSE問題で大打撃を受けた、(株)吉野家・安部修仁社長との対談で語っている。
今回の「製造日偽装事件」。平成12年の雪印乳業に端を発し、姉歯耐震強度偽造事件、不二家製菓など、
多くの企業が内部告発などで、企業内の悪事が表ざたになった。そして、消費者にソッポを向かれ、歴史の幕を閉じている。
何故、類似職種の経営者は、そうした事件を教訓に、自社を総点検し、悪習があれば正そうとしなかったのでしょうか?
赤福も、北海道の「白い恋人」の摘発で危機感を高めた。一度は悪習を断ち切ろうと、改善を図った…にもかかわらず、
利益率追求の誘惑に負け、長年続けてきた悪習を断ち切ることができなかった。経営者は見て見ぬ振りをしてしまったのです。
バレることはないと、たかをくくった経営者…。叩けば埃の出る企業がまだまだ隠れているのでは…。もうこれっきりにしてほしいものです。
以下、ほうじん「江戸異聞」から
父祖伝来の"家業"と"しきたり"を代々踏襲(とうしゅう)し、守ってきた「老舗」。 これが江戸っ子になると、もっと徹底する。日本橋博労町の紙問屋。 以外なのは、店の当主と娘の一存で、婿を決められななかったこと。親族・別家の同意だけでなく、
同業組合の"議決"が必要なのです。 江戸時代、万が一にも「お上」のご法度に触れるようなことがあると、家族に留まらず、町内や同業組合までも、
連座して罰せられた。 この伝統は昭和の初期まで残り、市中の金融機関は、「婿取りだったら融資するが、息子が当主だったら融資しない。 」のが、一般的だった。その婿も、バカ婿であれば、はした金で離縁させられた。 |
私は商家の三男坊。二十歳の頃、私を養子に欲しいと、金沢の某老舗が人を介して申し込んできた。その老舗、 40年経た今も隆昌なのを見ると、ちょっぴり惜しい気がするが、「自分は養子向きではない。」と断ったのは、正しかったと思っている。
■安倍首相退陣
水曜日、「安倍首相退陣」の突然のニュース報道…驚くと同時に、無責任さを感じた。
首相としてやるべきことを道半ばに、政権を投出してしまったように見える。
自らが掲げた政府公約を実現するため全力で臨み、それで、矢折れ刀尽きて辞めるというのなら、私たち国民も納得しようというもの。
解散して、国民に真を問うべきと思うのです。
父は外務大臣などを務め、病に倒れ、総理になる夢を果せなかった安倍晋太郎。
祖父は、日米安保条約を締結した岸首相。
大叔父は沖縄返還を実現した佐藤栄作首相。
血筋の良さで総理になったものの、したたかさや、しぶとさに欠ける、二代目の弱さがもろに出てしまったようです。
引き換え、国際社会での責任の重さでは、安倍首相の比ではない、米国ブッシュ大統領。
‘04年11月、大統領に再選された後、ブッシュ政権自ら、「イラクには大量破壊兵器は元より無かった。
そのことは1998年の時点で知っていた。」と弁明して、国際社会の批判に耐え、しぶとく政権を維持している。
器の大きさが違うようです…。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 191】
~歴史から学ぶ~
「イラクに根強い文化的抗体」
米国の大統領選挙の最重要課題として、米国民の43%が「イラク戦争」を挙げる。
現政権のイラク政策の泥沼化は、「協和党政権に勝ち目のない」状況になりつつある。
ブッシュ大統領は、「撤退すれば大災難になる」と述べ、民主党のヒラリー・クリントン候補は、「大統領が戦争に幕引きできないなら、
私がやる」と、こぶしを振り上げる。
8/26 読売「白熱・大統領選挙」より
サマワに駐留していた日本の自衛隊。
何とか役目を終えて1年を経た現在もなお、激しく住民同士が宗派抗争を繰り広げ、ゲリラによる自爆抵抗がとるように繰り返される。
そんなイラクの情勢に、「勝利」への明確な展望が示せずに悩むブッシュ政権。
米政府高官は、「アフガニスタンやイラクで民主化が進んでいる」と、輝かしく語る。
しかし、アフガニスタンやイラクの国民が、米軍の占領を心から嫌っていることを知っている現地の司令官は、両国を民主化することなど
「馬鹿げた幻想である」と言っている。
アフガンやイラク人の体内には、過去二千年の歴史がDNAとなって、キリスト教徒白人に対する非常に強い「宗教的・文化的抗体」がある。
それが、自国に泥足で踏み込んできだアメリカ人と、その仲間の国々に対し、自国内からの早々の立ち退きを迫るのです。
イラクの現地司令部の掲示板には、1918年当時、アラブの兵士たちを訓練していたアラビアのロレンスが、
当時の実戦から学んだ"教訓"が張り出されている。
ロレンス曰く、「自分で完全にやろうとするよりは、彼らに、不完全ながら自らやらせる方がよい。それは、
歴史的伝統を誇る彼らの自尊心を満足させる、彼らのやり方である」と…。
昨年BSテレビで、「アラビアのロレンス」完全復刻版を見た。
四十数年ぶりに見たその鮮烈な映像とストーリーは、強烈な残像となって今も残っている。
♪砂の海を真紅に染める巨大な太陽を眺め、一人のアラブ人がロレンスに言った。
「砂漠を楽しめるものは2つ以外にない。"ベドウイン族と神々"だけだ。
ベドウインはラクダの背で、砂漠を一日に百キロ移動できる…。
それ以外のよそ者には、砂漠は焦熱の地獄にしか過ぎない…。」
そのロレンスは、誰もが不可能と思われた砂漠を横断し、奇襲を仕掛けて、トルコ軍を背後から打ち破った。
後に鬼神と言われ、その名を馳せることになる。
シカゴから来た記者が、部族長と同じ白装束を身にまとうロレンスに質問した。
「あなたは、砂漠の何に魅せられたのか…?」
しばらく考え込んだロレンス、「清潔さだ」と答えた。
ロレンスの英雄的勝利の本質は、この「砂漠の清潔さ、純潔さ」にある。
アラブ人は白を好む…彼も白を好んだ。
白は世俗を超えたイメージであり、「清潔さ」そのもののイメージにつながる。
本名トマス・エドワード・ロレンス(1888~1935)。
英国の探検家で考古学者、そして詩人。
そのイメージは、インディ・ジョーンズが重なる。
第一次大戦中、情報将校(大佐)として、アラブ独立のためにゲリラ戦を指揮。
退役後、交通事故で亡くなったのは、何とも寂しい。
ロレンスには"無私の精神と詩的情熱"があった。
それ故に、アラブ人の「宗教的・文化的抗体」を避けて、アラブの人たちの心に溶け込むことが出来たのです。
ダマスカス陥落の歓喜の夜、独り、共に戦ったアラブの戦士達から離れ、異国の人々の祈りを遠くに聞きながら、 「あの殺りくが悲しいのは、自分一人だけだろうか。そして、異国で聞こえてくる祈りの言葉の、なんと無意味なことか…」と、つぶやいた。
石川県日英文化協会理事 木谷 奏「イラクに根強い文化的抗体」
ロレンスは新生国家樹立ため、国中の部族長を集めた。
一週間近く激論が戦われたが、己の部族の利益を繰り返すばかり。
理想とした統一国家樹立は叶わず、はかない夢に終わった。
そして今また、歴史は繰り返す…。
■故郷金沢の「M&A」
8/9の北国新聞2面。"ホクチン「のざき」買収"の大見出し。
地元優良企業ホクチンが、焼き魚製造販売の「のざき」を買収するという。
野崎社長(64歳)とは、某経営者団体での付き合い。
後継者がいないため、ホクチンは全株式を買取り、25名の従業員・取引先・のれんを、丸ごと引き継ぐことになった。
「のざき」は金沢の近江町市場に店舗を構え、「のざきの焼き魚」のブランドで、水産加工品の製造販売を行っている。
年商は約5億円。近年増収増益で、事業は好調。
企業価値が高い今、好条件で会社を売却することに…。
石川県が、県内の企業にアンケートしたところ、約半数の企業に後継者がなく、会社を引き継ぐ社員がいない。
自分の代で会社を閉じることになると回答している。
少子化が後継者難を引き起こしているのです。
私の親戚の会社も、十年ほど前、取引先の大手企業に会社を丸ごと売却した。
その数年後、同業者の多くが不況による競争の激化で、廃業に追い込まれている。
企業価値が高い間に買い手を捜し、会社を手放す…そんな時代になったようです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 189】
~歴史から学ぶ~ 「香林坊栄枯盛衰」
私は香林坊生まれ。
昭和63年、現在の場所に引っ越すまで、47年間香林坊が変貌していく姿を見てきた。
昭和30年、当時約140世帯が軒を連ね、商店、飲食店、スナック、キャバレー、ダンスホールなど、商店街は昼も夜も活気に溢れていた。
日本刀の伊藤刀店とか、漢方薬の"へびそ"が懐かしい。
マムシが、店先に置かれたビンの中で、何匹もとぐろを巻いていた。
"仙宝閣"があり、香林坊交差点の料亭"魚畔"には、金沢初のエレベーターがあった。
洋菓子喫茶のオリヤンタル、多田万年筆店など、名の知れたお店が軒を並べていた。
昭和34年4月、皇太子殿下と美智子妃のご結婚パレードが、全国に放映されることになり、テレビが一気に普及し始めた。
私の家の隣に、民放MROがテレビ普及のためのショールームを開設。
大相撲放映の時などは、山のような人垣が出来て、その時の声援が、今も耳に残っている。
昭和35年以降、国道拡張に伴う再開発で、店舗付き住宅ビルが、アーケードを連ねるようになった。
その後、東急109やホテル、大手銀行・生保が次々と進出してきて、街並みは金融・オフイス街へと衣替え。
その後、大和デパートが移転してきて、ほぼ開発が終了した。
街区が近代化されるたびに、長年親しんできたお店が、どこかへ引っ越していった。
香林坊のピークは、昭和35~40年の頃。
バーゲンセールでは、私の父の店にも動きが取れないくらい、お客様が殺到した。
大手のスーパー、ほてい屋(ユニー)、長崎屋が相次いで片町に進出し、県内外の有名店が競って、片町・香林坊に出店した41年以降、
隣の片町商店街に客足が移り、競争の激化で、父の店の来店者数は減っていった。
■商店街から、金融・オフィス街に変貌した、昭和48年当時の香林
[道路左側]
三菱銀行、加州相互銀行、私の住いがあるビルと続き、隣の日本勧業銀行がかすかに写っている。その奥の茶色のビルは、
ニューグランドホテル。
[道路右側]
新築間もない、農林中央金庫と共栄火災海上のビルが写り、その奥は建設中の千代田生命ビル。
北陸随一の繁華街、香林坊の地価がピークに達したのは、バブル崩壊後の 1992年。
その年の最高路線価は、大和隣の"いちの谷カバン店"で、3.3平方メートル1,472万円。
1989年のバブル絶頂期、2千万円だった片山津ゴルフ会員権が、7千万円に高騰。
いかにバブルが凄まじかったか…平均株価が3万6千円に跳ね上がり、国中が舞い上っていた頃です。
北陸一を誇った商店街も、バブルがはじけた後、郊外に次々進出する大型ショッピングセンターに顧客を取られ、
繁華街の象徴だった映画館街(11館)の灯も、一つ消え、二つ消え、今はゼロ。
現在香林坊に居住を構えるのは、コンビニを営む I さん一世帯のみ…。
その I さんは、明治に石川県最初の自転車店として、その名を知られている。
繁華街周辺は、若い世帯が郊外に移住して、年寄りばかりの空き地と駐車場がやたら目立つ、寂しい街になってしまった。
香林坊の寂びれようは、大手銀行、デパート、ホテル、商店の整理・淘汰の嵐となって、北陸銀行香林坊支店の撤退に始まり、 農林中央金庫は閉鎖・売却、倒産した石川銀行跡地には高層マンションが建ち、第一勧銀跡には、東横インがこの10月にオープンする。
8月2日、国税局が今年の路線価を発表した。
香林坊は3.3平方メートル182万円。地価はようやく下げ止まったが、‘92年当時の8分の1以下…
28年前の水準にまで落ち込んでいる。
8/2北国新聞「石川の路線価」より
■捕虜になることは恥 「日本に帰れぬ」と覚悟
サイパンで、ガタルカナルで、硫黄島で、兵力では比較にならないくらい貧弱な日本兵が、「バンザイ突撃」をして玉砕した。
最後には、手榴弾を米兵にではなく、自分の胸に叩きつけて集団自決した。
「捕虜になることは、日本軍人の恥辱」、「捕虜になったら殺される」と信じ込み、「自決した方が潔い」と、誰もが己の最後を決めていた。
捕虜になった日本兵、「もう日本におめおめ帰れない」とおびえ、「死んだ方がいい、生きる理由があるのか?」と、本気で悩んだ。
米軍から服や食事を与えられ、不思議に思ったという。
8/15中日新聞「国の洗脳 怖さ痛感」より抜粋
「この戦争は間違っている」、「この戦争は負けだ」と、本音を言おうものなら、袋叩きの目に合い、憲兵がやって来る。当時の国民は皆、
日本が勝つと信じ込んでいたのです。
戦後60年を経た今、「何であんな戦争をしたのだろう…」と思う。
結論を言えば、「日本人は何も知らなすぎた」ということでしょう。
アメリカという国を…国力を知っていたなら、戦争をしても、頃合いを見て鉾を収めただろう。
今の北朝鮮の綱渡り外交、そして、目や耳を塞がれた北朝鮮の人達を見ていると、つくづくそう思うのです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 188】
~歴史から学ぶ~
「大東亜戦争終戦の詔書」
終戦詔書は、天皇の肉声を録音。ラジオを通して正午に放送開始。
「玉音放送」を流し、全国民に降伏が告げられた。
詔書放送に先立ち、全員起立を求めるアナウンスがあり、続いてNHK総裁が、天皇自らの勅語朗読であることを説明。君が代演奏の後、
勅語放送。
再度君が代が演奏され終了した。
以下は「終戦ノ詔書」の全文です。
日本の降伏宣言であり、新生日本が産声を上げる瞬間です。
私たちは、その全文の意味を理解し、永遠の平和国家を願った、この玉音放送を忘れることなく、終戦を迎えた人たちの念いや意思を、
後世に受け継いでいかなければなりません。
朕深く世界の体勢と帝国の現状とにかんがみ、非常の措置を以って時局を収拾せむと欲し、ここに忠良なる汝 (なんじ)臣民に告ぐ。 朕は帝国政府をして、米英支(中国)露・四国に対し、其のポツダム宣言を受諾する旨、通告せしめたり。
然るに交戦すでに四歳を閲(けみ)し、朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公、 各々最善を盡尽くせるにかかわらず、戦局、必ずしも好転せず、世界の体勢、また我に利あらず。 しかのみならず、敵は新たに残虐なる爆弾を使用し、しきりに無辜(むこ)を殺傷し、惨害の及ぶ所、
まことに測るべからざるに至る。しかも尚交戦を継続せんか。 朕は帝国と共に、終始、東亜の開放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるを得ず、帝国臣民にして、
戦陣に死し、職域に殉じ、非命に倒れたる者、及び其の遺族に想いを致せば、五内(ごだい)為に裂く。 朕はここに、国体を護持し得て、忠良なる汝臣民の赤誠に信倚(しんい)し、常に汝臣民と共に在り、 若しそれ情の激する所、みだりに事端をしげくし、或は同胞排擠(はいせい)互いに時局をみだり、為に大道を誤り、 信義を世界に失うが如きは、朕、最も之を戒む。 宣しく挙国一家、子孫、相伝え、よく神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念い、総力を将来の建設に傾け、
道義を篤くし、志操を固くし、誓って国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらんことを期すべし。 御名御璽(ぎょめいぎょじ) |
放送は、玉音盤と呼ばれるセルロース製レコードによる録音で、ラジオの音質が極めて劣悪な上、天皇の朗読に独特の節回しがあり、 また詔書の難解な言い回しが重なって、意味を理解しないまま聞き終えた人が多かった。
玉音放送の後、アナウンサーの補足解説で、ようやく事情を呑みこむことができた。
天皇の声が電波に乗って国民に放送されたのは、これが最初。
国民は、天皇の声を聴くのは初めてで、朗読の節回しと、声の高さに驚いた。
玉音放送を聴いて涙する人、放心する人、喜ぶ人もいれば、自ら命を絶つ人もいた。
アジア各地に展開していた数百万の将兵が、一斉に矛を下ろし、徹底抗戦を唱える者もいたが、暴動・暴走に走ることもなく、
平穏に終戦を迎えることができた。
これは、欧米の戦争では考えられないことで、当時の日本人のあり様がわかる、歴史の一幕です。
■8月14日深夜11時「詔書」が発布され、無条件降伏受諾。
8/9日以降、降伏すべきか否かで、議論に議論を重ねてきた、鈴木内閣の閣僚たち。
疲労と心労が一度に噴出し、ほとんど虚脱状態に近かった。
その頭の中で、にぶい様々な思いが去来して交錯。
ある者は、日本建国以来初めて経験する敗北を思い、ある者は、和平終戦に持ち込めなかったことを悔やんだ。
原爆が各都市を次々と破壊していく。
九州の薩摩半島と、関東の九十九里浜へ殺到する100万の連合軍艦隊。
北方にはソ連。いや、ソ連は朝鮮半島を一気に南下し、九州や中国地方へ迫ろうとしている。
受諾が一日遅れたら、日本は各所で分断され、男も女も、子供も老人も、砲火と硝煙の中で倒れ、
日本列島は8,000万の累々たる死の島になるだろう…。
これらの曖昧無辜(あいまいむこ)とした思いも、ポツダム宣言を受諾するまでの肉体的疲労感には勝てず、ともすれば薄らぎ、
最後に残る感慨は、誰しも皆一様に同じだった。
疲れた、長い日だった。本当に長い一日だった。その長い日が、今やっと終わった。
映画「日本の一番長い日」 より
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 187】
~歴史から学ぶ~
「玉音放送までの24時間」
7/28、鈴木貫太郎首相、連合国のポツダム宣言を黙殺すると言明したため、米国はそれを口実に広島と長崎に原爆を投下。
ソ連の参戦の後、昭和20年8月14日午前10時50分、鈴木貫太郎首相以下御前会議が開かれ、
天皇陛下のご裁断による"終戦の大詔"が発せられ、ポツダム宣言が受諾された。
直ちに詔書作成のための閣議が開かれ、有識者の安岡正篤や外務省の意見をもとに、814字の詔書がその日のうちに作られ、
深夜11時発布された。
直ちにスイスとスウェーデンを通して、連合国側に受諾する旨通達された。
8/14「官報 号外」
「ようやく、長い一日が終わったと思ったのは間違いだった。そこから更に長い一日の始まりだった」
映画「日本の一番長い日」より
受諾決定を国民に知らせるため、14日夜9時「15日正午、重大発表があります」と、全国にラジオ放送された。
15日朝には、それが天皇自らの放送であり、「正午には必ず、国民はこれを聴くように」との注意が、重ねて流された。
また15日の朝刊は、放送終了後の午後に配達するよう、特別措置が採られた。
ポツダム宣言受諾決定を知らされた陸軍の一部は、徹底抗戦を唱え、翌日放送のため宮内省に保管されている録音レコード盤を、
クーデターにより奪取しようと、計画を練っていた。
録音作業は14日夜半、詔書発布直後の11時20分頃から始められ、2回のテイクにより、玉音盤は合計2種4枚製作された。
翌15日午前1時頃無事終了。
敗戦の混乱が皇居に及ぶことを憂慮した東宮侍従は、急ぎ、幼い明仁親王(今上天皇)の手を引いて、密かに皇居から避難。
陸軍の皇居警護をかいくぐり、宮中から脱出。
追跡の及ばない場所へ逃れ、玉音放送に備えた。
15日早朝、玉音放送の準備を終えた録音技師が、宮内省から退出するところを、陸軍幹部将校ら7人が指揮する近衛師団兵卒が拘束。
武力をもって宮内省を占領…建物内に押し入って、玉音盤の捜索を行った。
計画では、昭和天皇を殺害し、幼い明仁皇太子を新たに擁立し、戦争続行を企てようというもの。
首謀者は、陸軍省軍務局員"畑中健二"少佐と"椎崎二郎"中佐で、近衛師団長"森赳"中将にクーデターへの参加を断られると、
中将を殺害して、虚偽の動員命令を発し、行動を起こした。
2時間近く、宮内省を必死に捜索したが、目当ての「玉音盤」は発見できなかった。
軍部の一部に不穏な動きがあることを察知した政府は、玉音盤を女官の控え室に隠して、間一髪難を逃れた。
そこで反乱部隊は、放送会館を武力占拠して、玉音放送を阻止しようと試みた。が、15日未明、
第12方面軍司令官"田中静壱"大将が状況を察知し、自ら反乱部隊に出向き、説得。
首謀者が自決して、事件は収拾した。
更に、15日午前11時にも、放送を中止させようと、憲兵が放送会館に乱入する事件が起きたが、取り押さえられた。
この貴重な玉音盤は、戦後しばらく所在不明になった。
歴史ドキュメンタリー番組などで耳にする玉音放送の声は、たまたま、日本放送協会の技師が録音テープにダビングしていたものを、
再生したものです。
その後原盤が発見され、NHK放送博物館に、窒素ガスを充填したケースに入れられ、厳密な温度・湿度管理され、保管・展示されている。
ただ、保存状態が悪かったため、昭和天皇の肉声の再現は困難だという。
■「ポツダム宣言」
連合国首脳が、太平洋戦争終結条件と戦後処理の方針を定めたもの。
■原爆のニックネーム
1945年8月6日午前8時15分、広島に原爆が落とされた。
ニックネームは"リトルボーイ"。
その日、広島に飛来したB-29エノラ・ゲイから投下され、原爆ドームの上空580メートルに降下して爆発した。
爆発を見た人は、「空にもう一つの太陽が現れたようだった」と語った。
リトルボーイから発した光と熱は、凄まじいエネルギーの爆風と熱線になって、半径2キロにあるものすべてを焼き尽くした。
山にぶつかって反射した爆風が、再び市の中心部の人たちを襲った。
そして約20万人が亡くなった。
その3日後、2つ目の原爆が長崎に落とされた。
ニックネームは"ファットマン"。
発生したエネルギーは、リトルボーイより大きかったが、山に囲まれた地形が、被害者を7万人程度にとどめた。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 186】
~歴史から学ぶ~ 「原爆は戦争終結には必要なかった」
誰もが、もはや「日本が勝つ」とは思わなくなった、昭和20年7月。
日本の軍隊は武器もなく、南の島や密林に飢えと病気でちりぢりになり、石油を失った艦隊は、島影に隠れて動けず、全国の主要都市は、
焼夷弾の炎に焼き尽くされようとしていた。
しかし、日本の軍部は、戦争を止める術を知らない…。
アメリカの大統領は知っていた。
ソ連が不可侵条約を破棄して、日本に参戦しようとしていることを…。
日本の降伏は時間の問題だということを…。
戦勝国側は、誰もがそう思っていた。そんな中、米露の冷戦は進んでいた。
ソ連の参戦は間近か…その日までに、日本を叩きつぶしておかなければならない。
7月16日、ニューメキシコで原爆実験に成功。ソ連参戦まで時間がない!
既にベルリンに赤旗が上った。投下を急がなければ…米軍部は焦った。
原爆投下は、「米軍が本土上陸作戦の際に見込まれる多大な犠牲を回避し、戦争を早く終わらせるための、やむを得ない手段」と、
当時の軍部が米政府に進言していた。
実際、米政府内の意見は違っていた。
「原爆を投下しなくても日本は降伏する」「時間の問題である」との意見が大多数を占めていた。
原爆投下は、やむを得ない最後の手段ではなかった。
人類最初の原爆は、ソ連と米国が、世界戦略の野望を推し進めることを目的に、日本民族の上に閃光一閃投下され、
40万人もの市民の命を奪うことになった。
覇権国どうしの、政治的野望を満たすために、殺されたといってよいでしょう。
敗戦国日本は、非戦闘員の大量虐殺という事実に、許しがたい怒りを持ちつつも、それに抗議することがはばかられ、黙り込んだ…。
~下関原爆展のパネル集から~
7月初旬、広島・長崎への原爆投下を、「しょうがなかった」と発言した久間防衛相。
責任を取って辞任するという、人騒がせな事件が起きた。
日本は、「核を持たず、つくらず、持ち込ませず」の非核三原則を堅持し、核兵器の全面的廃絶を、国連を通して訴え続けてきた国。
その日本の防衛長官が米国の原爆投下を容認したのでは、核廃絶を世界に訴える日本の立場がない。
説得力を失い、国際社会に少なからぬマイナスイメージを与えた。
■1945年、原爆投下直前の証言
○ | 「スチムソン」 アメリカ陸軍長官・原爆投下作戦責任者 |
「原爆投下の目的は、満州に進攻しはじめたロシアが、日本本土に到達する前に、 できるだけ早く降伏を実現させることにある」 | |
・戦後数年して… | |
「原爆を投下しなかったら、日本の降伏が遅れ、その間にロシアが北海道に上陸し、 朝鮮やドイツのような分断国家になっていただろう…」 | |
○ | 「トルーマン」 アメリカ大統領 |
・1945年7月17日ポツダム会議初日 | |
「ソ連が参戦すれば、日本はお手あげだ」 | |
・翌18日、原爆実験成功の電文を受け取り… | |
「原爆を投下すれば、ロシアがやってくる前に、日本はお手あげだ | |
○ | 「マッカーサー」 アメリカ極東軍最高司令官 |
「私の幕僚たちは一致して、日本は崩壊と降伏寸前の状態にあると判断している。原爆投下は軍事的に見れば、 まったく不必要である。日本は降伏を準備している」 |
B29の東京空襲は100回を超えた。
最も被害が大きかったのは、昭和20年3月9日の夜半から未明にかけて…
この空襲で投下された通常爆弾はたったの6個だったのに、焼夷弾は、45キロ級が8,545個、2.8キロ級が180,350個、エレクトロン焼夷弾は1.7キロ級が740個もの数に及んだ。
計189,635個の焼夷弾が、真夜中の東京に降り注がれ、打ち上げ花火のように炸裂した。
日本の市街地は木造家屋が密集し、道路も狭い。
飛来したB29の編隊は、市街地を外から内へ、包み込むようにして焼夷弾を投下していった。
罪のない市民、非戦闘員の老人や女性、子ども達は、逃げ場を失い、折り重なって焼け死んだ。
市民の多くは家族や家を失い、東京は焦土となった。
空襲で焼失した家屋は、全国で230万戸に及んだ。
もし日本がこの戦争で勝利していたら、2個の原爆投下と合わせて、米国が戦争犯罪の責めを負わなければならなかっただろう。
先月米国議会において、「日本政府は、従軍慰安婦問題で謝罪すべし」と委員会採決され、議会に上程されることになったが、米軍の無差別爆撃は、比べようもない大きな戦争犯罪です。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 184】
~歴史から学ぶ~ 「私の戦争体験」
ざ・ぼんぢわーく工房/第29集を書かれた、村尾靖子さんの「出会いふれ合い巡り合い」の中から、戦争体験のところです。
私は昭和19年5月、山口県の宇部で生まれた。
宇部は当時工業都市だったため、翌20年、終戦近くになって、何回も空襲に見舞われることになりました。
7月1日未明の空襲は最も激しく、空襲警報の後、母は1才2ヶ月の私を背負い、3歳になる姉の手を引いて、郊外へ逃げました。
油性の焼夷弾がどんどん落ちてきて炸裂する中を、必死に逃げ回った。
田んぼの畦と畦の間に母は身を隠し、持ってきた夏蒲団をかぶって、空襲が終わるまで身を潜めていたのです。
母は気が動転していたのでしょう。姉は母のお腹の下におりましたが、背中におぶっている私を、お腹の方に回しておかなければ…というところまで、気が回らなかったのです。
隣にいた人が、燃えている布団をパッと剥いで、「ああ~背中のお子さんが燃えている…」。母は慌てて背中の子どもを降ろして見たら、着ているものは焼け、母の両手にベットリ、子どもの焼けた皮膚がくっつく…大火傷を負っていたのです。
お医者さんに見せると、「お母さんお気の毒ですが、こんな小さな子が、これだけの火傷を負っては、もう助かりません。直ぐに息を引き取ると思うので、お母さん、しっかり胸に抱いて、この子をあの世に送ってあげてください…」
農家の軒下を借りて過ごすわけですが、赤ん坊に水を飲ませようとしても飲まないし、お乳を含む元気もない…」。
母はどれだけ後悔したかわからないと言います。
気を取り直し、どんな体になっても、この子を助けようと思ったそうです。
その後の母は、生涯後悔して生きておりました。
私は、大火傷で助からないと言われたのに、助かり、火傷を負わなかった2歳年上の姉は、疎開先で風邪をこじらせ、当時良い薬もなく、死んでしまいました。
火傷で、右の足の膝の後ろが、下の皮と上の皮がベッタリくっついて、ケロイドができて、指が突っ込めるくらい穴が開いていた。
小学校の頃、男の子たちから毎日のようにいじめられた。
私は記憶にないのですが、いじめた男の子たちは、私の母に呼び出されたそうです。
何人かの子どもは、「うちの子をいじめて!」と叱られると思って、覚悟して家に行ったそうです。
すると、自分たちが食べたことが無いようなバラ寿司だとか、お肉の焼いたのとか、戦後の田舎では滅多に口に入らないご馳走が並んでいて、クッキーか何かデザートまで、手作りで用意してあったそうです。
「お友達なんでしょう。いつもお世話になってありがとう。これからも靖子と仲良くしてね。さあ食べなさい…」と、ニコニコして優しく言われて、喉を通らなかったそうです。
母は、いじめていた友達に"仲良くして欲しい"と、言葉ではなく、こんな方法でお願いしたのだと思います。
■ナスカ文明と地上絵
世界遺産「ナスカ文明と地上絵」の展覧会に出かけた。
ペルーの砂漠地帯800平方キロの広さにわたって描かれた、ナスカの地上絵。
一体誰が、何故、何のために描いてきたのか?
その謎に迫るナスカの文明に肌で触れる機会を得たのです。
会場一杯に展示された彩色土器や装飾品。2500年前のナスカ人の実物ミイラが展示され、最新医療技術を駆使して、
明らかになったミイラの謎を解き明かす。
研究の結果、縄文時代の日本人に大変近い民族であることが判明した。
更に、ナスカ地上絵を、セスナから見下ろして見ているような、バーチャル体験が楽しい。
6月24日まで、石川県立美術館で開催中。
ペルーの博物館でしか見られなかった「ナスカの文明」の出土品に、肌で触れることが出来る又とない機会です。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 176】
~歴史から学ぶ~
「加賀百万石参勤交代」
今日と明日の二日間は「百万石まつり」です。
今年も「下に~下に」の声とともに、奴さんが槍を宙に踊らせ、見事なパフォーマンスで百万石行列、参勤交代が金沢市の繁華街を練り歩く。
香林坊に生まれ育った私は、入り江の現在の場所に引っ越してくるまで、毎年、自宅の2階から行列を眺めていた。
実際の歴史を振り返ると、参勤交代の行列で「下に~」の掛け声が許されたのは、尾張・紀州・水戸の御三家だけという。
外様の加賀藩は雑然と歩き、きちんと行列を組んだのは、宿場に入る時と、出る時だけ…の見せかけだったのです。
参勤交代の表向きの目的は、江戸の防衛だが、本当の目的は、大名を肥やさないことにある。
大名は石高に応じて、家臣団を連れていかなければならない。
前田藩は加賀百万石。騎馬武者20騎、足軽130人、中間・小者130人と決められていた。それに家臣の従者が加わり、
行列は四千人に膨れ上がった。
この集団が武器を携え、風呂桶から炊事道具まで担ぎ、江戸まで延々120里(480キロ)の道のりを、12~14泊かけて歩く。
当然、想像を超える莫大な出費となる。行列は、金沢-富山-高崎の北国道を通ったが、江戸までに、 橋が架かっていない川が38ヶ所もあって、そのたびに川越人足を雇う。難所は善光寺南の大河犀川で、四千人が馬、駕籠ともに渡河して、 そこだけで60両(一両は3万円、約1800万円)かかったという。
大雨で川止めにでもなれば大変。たちまちスケジュールが狂い、先々予約した旅籠に違約金を払わなければならない。このほか宿泊費、 飲食代、幕府要人への土産、通過する他国領主への贈答品、家来への手当て、人足代など、文化5年(1808年)の参勤交代では、 江戸での滞在費を含め、二千両(約6億円)かかったと記録にある。
殿様は、14人で担ぐ豪華な駕籠に乗るが、乗り心地は最悪。長崎のオランダ商務館にいたシーボルト、江戸まで駕籠の旅をしたとき、
足がしびれ、腰が抜けて、まるで拷問台のようだったという。当然、病人・死人が続出した。
日頃、軟弱な生活を送っている殿様には、参勤交代は極めて過酷な旅といえる。
藩主の妻子は江戸暮らし。江戸藩邸の維持費は、藩政を圧迫する。
お供の武士も、江戸詰めは辛いものだった。花のお江戸の生活は刺激的だが、物価は高いし、交際費もかさむ。いずれの家計も火の車だった…
。
ほうじん「江戸の台所事情」から
権力の頂点に立ち、優雅な暮らしで何でも思うまま、幸せそうに見える大名でも、それは表向きのこと。内情を知れば、 それ相応に苦労が付きまとい、問題や悩みを抱えているのです。
■福井地震が起きた昭和23年という年
終戦、戦地からの引き上げ者が家庭に戻って、第一次ベビーブームに…
その時生まれた世代が今年から来年にかけて、定年を迎える。
1月、厚生省防疫技官と名乗る男が、集団赤痢の予防薬と偽って、行員17人に毒薬を飲ませ、12人が毒殺されるという「帝銀事件」
が発生した。
犯人は18万1千円の現金と小切手を奪って逃げた。
7ヶ月後に平沢貞通が犯人の人相に似ていると、逮捕された。後に死刑判決。獄舎で無実を訴え続けたことで知られる。
同じ1月、NHKのど自慢登場。おさげ髪の美空ひばりが唄う"りんごの歌"や、笠置シヅ子の"東京ブギウギ"は、
終戦直後の暗い世相に明るいムードを投げかけた。
*東京の銭湯、大人4円から6円に値上げ。 映画入場料、20円が40円に
*1ヶ月の新聞代、20円から27円に値上げ
*国鉄、東京~大坂間155円が400円に、都電は2円から3円50銭に
*戦後初のバナナが入荷。小売一本40~50円と、庶民の口には入らなかった。
(今なら、一本3~4千円/物価は当時の1000倍近くになっている)
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 170】
~歴史から学ぶ~ 「福井大地震」
東京や京都の友人・知人などからか、能登地震の安否を心配して、お便りをいただきました。
ありがとうございます。おかげ様で被害はありませんでした。
3月25日、日曜の9時半過ぎ、コタツに入ってTV「サンデーモーニング・スポーツご意見番」を見ていたら、
ゴーという予兆的地鳴りと揺れに伴って、大きくグラグラッと来た。
「近いぞ!」、かなり長い時間横揺れが続いた。
後日、能登半島地震と名づけられる地震がやって来たのです。
国史跡の七尾城跡の石垣が崩れ、国重要文化財の時国家の壁に亀裂が入った。
総持寺のしっくい壁もはがれた。
能登の文化財の被害は21件に及び、被害の大きかった輪島門前町では、水田や水路が壊れ、自宅の被災と合わせ、
田植えをあきらめた農家が25軒出た。
七尾市のつつじが浜の知人に、翌日の午後ようやく電話がつながり、安否を尋ねた。
七尾湾を埋め立てた住宅団地。団地内の道路や住宅の一部が、液化現象で陥没、被害が出たと言う。
海べりに建つ加賀屋が、立替を要するほどの被害を受けた?という噂も流れてきた。和倉温泉の被害状況は、集客に影響するため、
かん口令が敷かれていると言う。本当だろうか??
被災から復興に向け立ち上がろうとする矢先、半壊した民家から、高級タンスを盗み出そうとした泥棒が逮捕された。
はるばる東京からやってきて、被災地をうろつく。そんな輩が何人もいるという…なさけない。
子どもの頃一度だけ、このような大きな地震に見舞われたことがある。
今回の地震発生まで、金沢は大地震と無縁の土地だと思っていた…。
23年6月28日午後5時15分、福井市九頭竜川下流付近で、震度7強の地震が発生。
夕飯の準備に入っていたため、市内各所で火災が発生。市の大半が焼失した。
死者は空襲で亡くなった人の倍の3290人、負傷者8000人、家屋全半壊46525戸、焼失6308戸という、
神戸震災に匹敵する大惨事になった。
"福井大地震"と名付けられた。
私は当時7歳。自宅の二階で遊んでいて、突然「ユサユサ、グラグラ」
母親が階下から駆け上がってきて、私を引き寄せ、手を握り締めた…。
初めて経験する大きな揺れに、手すりにしがみつき、おびえていた。
金沢は震度4だった。
福井県に隣接する大聖寺は地盤が弱く、落ちてきた屋根瓦で怪我をするなど、多数の家屋が被害を受けた。
福井市は、昭和20年夏、空襲で一面焼け野原となり、やっとの思いで復興を為しえた。その矢先の大地震。
戦後、食うや食わずの辛酸をなめ、これからという時の被災でした。
この地震で、日本地震学会が初めて、震度7というレベルを設定した。
■福井空襲
昭和20年7月19日夜10時頃、B29爆撃機の編隊120機が福井市に来襲。
まず、市の外周部に照明弾を投下し、徐々に中心に向かって約9500発の焼夷弾を投下した。
油脂爆弾は全市を猛火で包み、防空壕に避難した人たちは蒸し焼きになり、水を求めて、福井城の堀や足羽川に飛び込んだ人たちが、
折り重なって死んだ。
福井市の市街地の95%が焼失。一面焼け野原となり、被災率は全国最大となった。
死者は1600名を数え、市民の多くが家族や親戚を失い、戦後復興に大きなダメージとなった。
いよいよ待ちに待った、プロ野球セ・リーグ開幕です。
今年こそ巨人の優勝を!と、願っている人が多いことでしょう。
ところで私は、カチカチの中日ファン。二連覇を願って、まず今日一勝するぞ!
■世渡り上手
ケネディ米大統領の父、ジョセフ・ケネディは、アイルランドの貧しい移民の子
だが、20世紀初めの大恐慌の際、株のカラ売りで巨利を博し、禁酒法時代には、密造酒で大もうけして、大富豪になった。
成功と富を手に入れたジョセフ・ケネディは、民主党に莫大な献金をして、その見返りにイギリス大使の地位を得て、 政界進出の足場を築いた。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 168】
~歴史から学ぶ~ 「アルジャジーラの報道姿勢」
アメリカの軍事介入で、国際テロ組織アルカイーダを保護する、ターリバン政権が粉砕されたのは2001年11月。
あれから5年半。ここに来て、摘出したはずの癌が再発したように、徐々にその勢力圏を回復しようとしている。
そんなイスラムの国にある放送局アルジャジーラ。
当然、イスラム寄りの偏った報道をしている放送局と思っていた。
日本国内に流される報道で、こういった誤った認識を持ってしまうケースが、他にも沢山あるような気がする。
国際テロ組織「アルカイダ」を率いるウサマ・ビンラディンは、映像で反米・聖戦の「成果」を、インターネットやテレビ局を使って、
世界に広く知らしめたことは、記憶に新しい。その中心的役割を果たしたのが、中東の衛星テレビ局「アルジャジーラ」である。
中東一の視聴率を誇るアルジャジーラに対抗して、英国のBBCは、アラビア語のニュースTV局を新設。
中東諸国に衛星放送とケーブルTVで放映を開始した。
ペルシャ湾岸の小国カタール(人口約60万)に設立されたアルジャジーラは、アラブの地に初めて出来た、アラブ人による、
アラブ人のためのニュースTV局である。
放送開始は1996年。アルジャジーラは、"検問"を一切行わない。
それまでのあらゆるタブーを打ち破った。その事例をいくつか紹介すると…
◆敵対するイスラエル人を出演させ、ヘブライ語で発言させたのは、
中東のTV史上、前代未聞の出来事。
◆世界中のTV局が、フセイン政権下のイラクとは関係を断っていた1997年に、
バクダッド支局を開設。
どこよりも詳しく正確なイラク情報を伝え続けた。
◆ビン・ラディンも、米国のラムズフェルドにも、等しくインタビューした。
◆政治についても、宗教についても、性生活についても、正反対の立場や、
意見を持つ人間を登場させ、自由かっ達に徹底的に論議させる。
退屈な政府御用番組ばかり流すTV局が大半を占める中東にあって、各国の権力犯罪のみならず、 アラファトが率いるパレスチナ解放機構の、とてつもない腐敗にも、容赦ないメスを入れ、徹底的に批判する。
そのために、テロリストの宣伝機関と言われたり、CIAの手先と言われたり…。
虚飾のない事実を迅速正確に伝え、事態の背景、本質に迫ろうとする、その果敢な報道姿勢は、あちこちから強硬な反発と圧力に出会う。
◆リビア政府は、アルジャジーラの視聴を阻止するため、停電を起こした。
◆米軍は、アルジャジーラ・バグダッド支局にミサイルを撃ち込んだ。
更に、カタールと国交断絶しようとする国まで現われる始末。
それもこれも、番組が抜群に面白く、中東一の視聴率を誇るTV局だからです。
光文社 ヒュー・マイルズ著「アルジャジーラ 報道の戦争」より
敵・味方の区別なく、正しい報道のためなら、すべてを敵に回すことを恐れたりしない、アルジャジーラの姿勢。
報道の在り方が偏っていると非難される東京の某新聞社。
視聴率を気にするあまり、ない事をあるように捏造し、視聴者を欺いた関西の某TV局。
見習わなければならない…。
暖冬で、石川県内8スキー場の内、セイモア、一里野、獅子吼以外は閉鎖された。
その直後、今年一番の寒波がやってきた。
今年は駄目かと、あきらめかけていたスキー。
先週土・日の二日間、志賀高原に遠出した。
天候に恵まれ、2300メートルの横手山頂は新雪に覆われ、雪質はパウダー状で、最高のコンデション。
雪山の新鮮な空気を胸いっぱい吸い、温泉に浸かり、心ゆくまでリフレッシュした。
来年も滑るぞ! 五体満足で、若い人に付いていけるよう、足腰を鍛えておきたい。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 166】
~歴史から学ぶ~ 「日米安全保障」
サンフランシスコ講和条約が締結され、日本が独立国に復帰出来たのは、日米安保条約の草案にあるという。
アメリカの傘の下に入るこの条約。米国の発案によるものではなく、日本から出されたアイデアだったのです。
日本が米国に提案したものなのです。
米ソの冷戦が激しくなりつつある中、この日本からの提案は、占領終結後のスキを突いて、ソ連が乗じてくるのではないかという…
米国の懸念を除去するに十分だったのです。
安保条約を思いついたのは昭和23年、社会党の支持で総理大臣になった民主党の芦田均。その後政権を受け継いだ自由党の吉田首相が、
アメリカに提案したものなのです。
現在日本には51ケ所の米軍基地があり、三万八千人の米国軍が駐留している。
軍事的に戦後60年、米軍の監視下に置かれている日本。米軍の駐留費用の70%、5兆円もの国民の税金を使って賄われているのです。
世界の歴史を振り返って、戦争に負けた国が、戦勝国軍の駐留費用を負担するというのは、例を見ないのです。
読売新聞の政治報道を読んで
今、北朝鮮問題を解決するため、六カ国協議が行われている。
北朝鮮に対する日本の最大の課題は、拉致問題を解決すること…。ところが、各国の思惑の違いから、具体的成果を出せないないまま、
こう着状態に陥っている。
そんな中、昨日15日新たな動きが…。
北朝鮮が核査察を受け入れ、アメリカがマカオの金融凍結を解除すると、マスコミ報道。
日本の存在は薄く、蚊帳の外に…。
以下、増田俊男「目からうろこの会」の講演からの抜粋です。
アメリカの本音は、核でも、キム・ジョンイルの独裁政冶でもない。 北朝鮮が脅威と緊張を極東アジアにもたらし、テポドンが飛んでくるくらいが、アメリカには丁度良いのです。
極東アジアが不安定であれば、在日米軍の存在理由が明らかになり、維持するための経費も、日本が負担してくれる。
それを支えるのが「日米安保条約」。 自立した安全な国家とは、他国に侵略されたり、占領されたりすることのない国のことを言う。国内の要所に、
戦勝国の軍事基地があり、そこには、その国の法律が及ばず、占領国の法律で自由に軍事行動できる。 北朝鮮が日本を無視し、軽く見るのは、日本に脅威を感じないからです。 いくら強力な軍事力があっても、それを行使できないことを承知している。怖い猛獣でも、檻に閉じ込めておけば、
怖くもなんともないのです。 結論を言えば、アメリカが日本の国益のために、更に、極東の平和のために、
本腰を入れることはないということです。 日本を米国の覇権下に置いておくには、程よい北朝鮮の脅威が必要になってくる。 北朝鮮が怖い国であることを知らしめるために、6カ国協議が開かれているといっても、言い過ぎではないのです。 |
■黒川紀章氏設計の国立新美術館(六本木)
先月17日、全国販社会議で東京へ出張した。翌日、六本木に新しく出来た、国立新美術館へ立ち寄った。日本を代表する建築家、 黒川紀章氏の設計。兼ねてより是非見たいと思っていた。
波のうねりをイメージする、ガラス・カーテンウォールの外観にしばし見とれ、館内に足を踏み入れる。
太陽にキラキラ反射する壁面、吹き抜けの天井を仰ぎ見ながら、2階へ…。
2階フロアーでは、黒川紀章作品展が開かれていた。クアラルンプール国際空港、カサブスタンの新都市づくり、
中国河南省の150万人規模の新都市開発基本設計など、世界27ケ国で黒川氏が手がけ、名声をはせた作品の数々が、
建築模型と巨大写真パネルとなって、会場いっぱいに並べられている。
メタポリズム建築美構想の黒川作品の前に立ち、雄大なスケールの作品に釘付け。
その天才建築家が数日後に、東京都知事選に出馬表明したのにはビックリ。
奥さんは、女優の若尾文子さんです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 164】
~歴史から学ぶ~
「駐留米軍への思いやり予算」
現在、日本には約4万人の米軍人が駐留していて、年間5千億円の維持費を支出している。米国が駐留する負担額は、 軍人一人当たり1300万円になる。これに対し、同じ4万人駐留する韓国は一人/220万円。7万人駐留するドイツは一人/ 110万円と、日本の十分の一以下…。
こうした状況を踏まえて、与党内には「他国が負担していない米軍基地の電気ガスなどの経費を含む 「思いやり予算2兆4千4百億円を、大幅に削減すべきではないか」という意見が、出始めている。
政府は、財政再建を理由に大幅な削減を望み、一方米側は、台湾海峡と北朝鮮の、 東アジアの二つの不安定要因を抑止しているのが米軍だという自負がある。このため、日本側が「日米同盟のコスト」として、 米軍駐留経費を負担するのは当然と主張する。
読売新聞
日本に負担義務のない「米軍基地内の住宅経費や光熱費など」について、1978年故金丸氏が、「思いやりをもって接しよう」
ということで、日本が負担することになった。
日本は安全保障条約によって、米軍駐留経費の約七割を負担している。
それ以外に"思いやり予算"という名目で、「2440億円(2004年)、どうぞお使い下さい」と差し出しているいるのです。
そんな国は、世界広といえども日本以外にはない。「世界一気前のいい同盟国」と、受益国米国に言わしめているのです。
「日米安全保障条約」は、わが国の安全保障の要。一方のアメリカから見れば、「日本占領条約」ということになる。
「安保」によって日本の安全が守られるという。しかし、独立国家にとって真の安全とは、「外国に占領されることのない国」
のことを言うのではないでしょうか。
外国の軍隊が、他国の戦略上重要な拠点に駐屯し、その国の刑法・法律が全く及ばない治外法権の軍事基地を持つ。
これを占領と言わずして、何というのでしょうか?
日本国内には、そんな治外法権の軍事基地が55ヶ所もあり、軍事占領されているに等しい状態なのです。
2年ほど前、沖縄に米軍ヘリが墜落したことがある。墜落した所が基地の外で、日本の法律が適用される場所であったにもかかわらず、
米軍の事故処理班がやってきて、日本の警察を一切近づけず、現場検証を認めなかった。米兵の婦女暴行が発覚しても、
米軍の承諾なしには捕まえることができない。
基地の中はアメリカであって、日本ではないのです。
自らの国を自らが守る。こんな当たり前のことを放棄し、米軍に国の安全をゆだねている日本。米軍に出て行ってもらうには、 国を守る軍隊が必要になってくる。憲法九条を改め、自衛隊を軍隊に組織替えし、徴兵制を復活しなければならない?そうすれば、 外国に日本が侵略されたら、国を守るため、相手国に攻め入ることも可能になる。
皆さんはどう思われますか? 再軍備などとんでもない、今のままでいい…と思いますか?それとも、
米国に国の安全を委ねることをやめ、完全な独立国を目指しますか?
日本の将来を考えたとき、何れも悩ましい問題です。
■マスコミが及ぼす影響力
柳沢大臣など、閣僚の相次ぐ問題発言は、国民の政治不信を増幅させ、世論は安倍内閣不信、自民・民主の支持率低下となって現れた。
それが無党派層の増大を招き、福岡・愛知の知事選に大きく影響したのです。
マスコミが国民大衆に及ぼす影響力は大きい。「あるある大辞典」で、納豆によるダイエット効果がお茶の間に流れるや、
スーパマーケットから納豆が消えてしまったのは、つい最近のこと…。
その後、それが捏造であることが明るみに出るや、納豆の売れ行きがヒタッと止まってしまった。この両極端が、それを物語っている。
ややもすると興味本位、視聴率優先に偏りがちなマスコミ。国民世論を間違った方向へ導いてしてしまう、魔力を秘めているのです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 163】
~歴史から学ぶ~
「アメリカの新聞王、ハースト家・令嬢誘拐事件」
今から30年以上も前の話になります。1973年(S48)に、アメリカの新聞王、ハースト家の令嬢(お孫さん)が、 黒人過激ゲリラに誘拐されるという事件が起きた。このニュースは全米のみならず、世界を駆け巡り、 日本でもマスコミが連日大きく取り上げたことを記憶している。
過激ゲリラは、ハースト家に1800億円の身代金を要求してきた。
加えて、ロサンゼルスに住む貧しい黒人一人につき、毎日70ドル支給するよう要求してきた。新聞王ハーストは、テレビを通して、
身代金の支払いを拒絶した。
その三ヵ月後、ロサンゼルスの銀行に、黒人過激ゲリラが、ライフルを乱射して押し入り、金を奪って逃走した。事件後、
隠しカメラを見たところ、誘拐されたハースト家の令嬢が、強盗団の一員に加わっていることが分り、またまた全米は大騒になった。
数ヶ月後、州警察は、過激ゲリラの潜伏場所を突き止め、リーダー以下潜んでいた6名全員を射殺した。たまたま、
ハースト家の令嬢は、他の過激ゲリラと別の隠れ家に潜伏していて、難を逃れることができた。
その後、その隠れ家も突き止められ、令嬢は逮捕された。そして、7年の刑を言い渡され、服役した。
刑を終えた後彼女は、自らの体験を本に出版し、講演をして歩いた。
「身代金は支払わないと、祖父がテレビで言っているのを見たとき、家族に見捨てられたと思った」と、ゲリラに加わった動機を語っている。
ゲリラから、虐げられている黒人の話や、理想社会実現の話を聞かされているうちに洗脳され、ゲリラ組織に加わったのだという。
祖父のハーストは、20代半ばに新聞社を興し、三流芸能新聞さながら、殺人事件、ゴシップ、興味本位の記事をでかでかと載せ、 販売部数を驚異的に伸ばしていった。30代に入ると、全米各地の新聞社を次々と買収。新聞王と言われ、成功者にのしあがっていった。
ゴシップ記事は益々エスカレートし、読者を引きつけるために、面白いネタを見つけてきては、ある事ないことでっちあげ、
社会的モラルなど意に介せず、営利本位の経営姿勢を貫き通した。
こうしたでたらめ記事で大衆をあおるうち、それが世論となって、様々な歴史的事件の引き金となった。
[アメリカ・スペイン戦争]
アメリカとスペインの関係がこじれていた時、たまたま米国の船が、スペイン領キューバで原因不明の爆破事件で沈んだ。
それをファーストは、スペインがやったと書きたてた。更に「米国人女性が、スペイン人にレイプされた」などと、
でたらめの記事を書き立て、打倒スペインに沸騰した世論をバックに、政府は戦争を起こし、勝利した。
(9/11事件に憤慨した世論をバックに、イラク戦争を起こしたように…)
ハーストは、「私に出来ないことはない。戦争も起こせる」と豪語したという。
[政敵暗殺事件]
ハーストの政敵政党から、大統領候補が立ったとき、候補者のゴシップを次々でっちあげ、「殺してしまうしかない」と、新聞に書き立てた。
その数ヶ月後、対立候補は何者かに暗殺された。
[リンドバーク令嬢・誘拐事件]
この時も面白おかしく、ありもしない記事を書きまくり、そのため身代金が倍になった。ついには、娘さんは死体となって発見された。
晩年、ハリウッド女優を愛人にし、サンフランシスコ郊外の丘陵地に、東京都に匹敵する広大な土地を求め、
2兆2千億円もの大金をつぎ込んで、愛人のための豪邸を建てた。
月に幾度も仮装パーティーを開き、地元の名士やハリウッドスターを招いた。
パーティの豪華な料理は、貧しい人たち5万人分の食事代に相当するものだった。また、愛人のためにハリウッド映画会社を買い取り、
愛人主演の映画を次々製作した。
ハーストには5人の息子がいて、自分の会社で働かせたが、後継者として育てることはしなかった。ハーストの死後、 新聞社は没落した。会社を私物化し、贅沢の限りをつくし、一代で潰れたカリスマ経営者の典型といえます。
現在豪邸は、カリフォルニア州の所有物となり、観光名所になっている。
一昨年、サンフランシスコを訪れたとき、バスの窓から遠望出来た。
■世論調査
NHKの世論調査で、"九条"の是非について、「改正すべき…3割」「九条の解釈を変更するだけでいい…3割」「今のままでいい…
3割」と、意見が三つに割れた。
防衛省昇格に伴い、「自衛隊を憲法上、明確に位置づけるべきか?」については、70%の人が「そうすべきだ」と答えている。
安倍内閣が最初に成立させた重要法案、「教育基本法の改正」については、「改正を望む…73%」 「もっとみんな日本の国のことを考えるべき…86%」と、ほとんどの国民が現状の教育政策に危機感を持っている。
内閣に期待する教育政策で、多かったのは…
「国を愛する心」「公の精神」「日本の伝統を育む」
「日本の史観・価値を考える」「豊かな人格形成を育む」etc
読売ウイークリー11月12日号より
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 158】
~歴史から学ぶ~
「核保有の是非を問うこと…」
北朝鮮の核保有を受けて、自民党の閣僚が「わが国の自衛のために、日本も核について考えることがあってもいいのでは…」 と公言したら、早速野党から「問題あり」と、国会で追求された。
日本の核保有について、過去一度も公の場で話し合われたことがないとしたら、その方が問題でしょう。「核保有論議」は、
禁止される論議なのでしょうか?
「憲法」についても、「再軍備」についても、そのあり方を議論して何が悪いというのか?
民主主義国家を自負するのであれば、右の考え方の人がいて当たり前だし、左の考え方だからと、国家が抑え込めるはずがない。今の日本で、
禁止されるべき議論など、あってはならないのです。
16~7年前のこと。当時400社くらいの会員を擁する、石川県では名の知れた経営者団体に所属していた。当時、 七尾市に能登支部を開設することになり、手伝ったことがある。それぞれツテを頼って会員を募ったところ、 30社くらい入会申し込みがあった。
信じられない話ですが、月例会の会場にと、七尾市の商工会議所へ、研修室の借り入れ申し込みをしたところ、「貸せない」という。
理由を尋ねても、はっきりしない。しばらくして、入会者の会社に電話がかかってきて、「退会したほうがよい」と言う。
理由は、「"赤"に染まった団体だから」と言う。さらに付け加えて、「警察がマークして嗅ぎまわっている。このままでは、
会社の信用に傷が付く…」という信じられない内容。退会者が続出した。
確かに、東京の上部団体は、政府の中小企業政策に反対することが多かったが、限られた左翼思想の政党を支持する団体ではない。
石川県の組織は、上部団体に何ら影響されない、真面目に経営の勉強をする、自主独立の組織。会の規約で、たとえ個人であっても、
会の中で政治宗教活動を行うことは認められない。
どんな理由で警察がマークするようになったのか? 戦前の言論統制時代ではあるまいに…。こんな平和な世の中に、 警察が思想的理由で、私たちの団体を反社会的組織としてマークし、圧力をかけてくるとは…。
話を戻して、「核保有・憲法・軍備」のあり方などは、政治的余波が大きく、国の進むべき方向、 安全保障に大きな関わりを持つだけに、その道の専門家の間で、高度な議論を戦わす必要があると思う。
政治家が「核保有」の是非を言い出すと、命取りになりかねないご時世。
政府は、日本の核武装について、この60年間一度も検討したことがないのかというと、そうではない。最近、
公文書が公開されるようになって、明らかになった。
1960年にフランス、64年に中国が核武装したのを受け、当時の佐藤栄作首相が、64年12月ライシャワー駐日大使に対し、
「日本も核武装を真剣に考えたい。その可能性を検討したい…」と伝えた。
それに対し米国は、「核の傘で守るから」と日本を説得。日本は交換条件に、日本の経済発展をアメリカが全面支援すること、
沖縄を日本に返還すること。
この二つを呑ませることで、政治的解決を図った。
その後日本は、核拡散防止条約に加盟して、非核大国としての道を歩むようになった。
11/3 読売新聞「憲法公布60年座談会」より抜粋
■先週末、三重県紀伊・田辺沖で潜った。
当日は快晴。波はおだやかで、水温23度、海中の透明度も高く、
最高のダイビング日和でした。
沖へ向かう途中、右後方に目をやると、白浜温泉のホテル群が、
ワイキキビーチのように、白く美しく輝いていた。
潜水ポイントへ向かう途中の仲間たち
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 148
~歴史から学ぶ~
「大国の政治論理」
11月6日、フセイン元大統領死刑判決のニュース。ブッシュ政権は、米中間
選挙終盤の戦いに照準を合わせ、イラク攻撃の正当性を強調した。
しかし、一向に好転しない戦況に嫌気を指した多くのアメリカ人は、一昨日の
中間選挙で、イラクからの撤退を掲げる民主党を支持した。
3年前の2003.3.20、米英両国はイラクに対して先制攻撃を仕掛けた。
2001.9.11同時多発テロ以降、ブッシュ大統領はイラクをテロ支援国家と
名指しし、「悪の枢軸」とまで言い切った。大量破壊兵器を持つイラクは"極悪
人"。 正義の名のもとに、フセイン政権打倒へと、軍事行動を起こした。
その時のブッシュ政権への支持率は、80%に届く…。
米国は、国連の反対を押し切ってイラクを占領した。あれから3年、ブッシュ
が仕掛けた理由なき?戦争。アメリカ、イラク双方の殺戮行為は止まること
なく、罪なき人が沢山死んだ…。
一昨年11月、大統領に再選されたブッシュ。そのブッシュ政権自ら、「イラク
には大量破壊兵器は元より無かった、そのことは1998年の時点で知って
いた」と弁明した。
何故なら、1980年代のイラク・イラン戦争当時から、イラクに核兵器施設を
造ったり、化学兵器の製造工場を建設したのはアメリカ…。
イラクのどこに何がどれだけ貯蔵されているか、サダム政権が知らなくても、
アメリカはすべて知っている…。
(日本の米軍基地内の機密に関して、日本政府が把握できないのと同じ)
従って、アメリカがイラクを去った後も、イラクの大量破壊兵器の有無を誰よ
りもよく知っていたのはアメリカ。何も知らないサダム政権に、「48時間以内
に大量破壊兵器を出せ。出さなければ攻め込んで占領する」と、宣告したのです。
太平洋戦争直前、アメリカが日本に「ハル・ノート」を突きつけたのと、同じ
やり方で…。
中東の石油利権の独占を企む、覇権国家アメリカ。そのためには、どうしても
イラクを手に入れたい…。アメリカを敵視するフセイン政権を倒すには、それ
なりの理由がなければならない。
破壊兵器、無いものを出せと言われても、出せるはずがない。出さないから
占領できた…。もし破壊兵器をすんなりイラク政府が出してきたら、アメリカ
は、イラクを占領できないことになる。
無いことを知っていて、48時間以内に出せと脅すアメリカの謀略…。これが、
世界の政治戦略の基本。黒でも赤と言いくるめるのが優れた政治なのです。
「大量破壊兵器がある」と大騒ぎし、無いことを知りながら国連に要請。国連の
査察団をイラクに送り込んだ。初めから無いものが、見つかるはずがない。
イラク全土となると広い。どこかに隠されているかも知れない。とても全て調
べられるものではない。
国連の報告書によれば、「調べた限り、大量破壊兵器があるという証拠はなか
った。しかし、我々の調査は完璧ではない…」。このような報告書が出されるこ
とを、先刻承知のアメリカだったのです。
当時、パウエル国務長官は、「必ずどこかに隠されている」と、国連安全保障
理事会で、"偽ビデオ"を流して全世界を信じ込ませ、騙した。
ところが、一昨年の選挙時、パウエル自ら、あのビデオは偽モノだったと白状
した。 偽りが判明し、全てが明らかになった。しかし、イラクは既に占領され、
フセインは捕らえられ、犯罪人に…。
増田俊男「変化の年2005年を斬る」より
北朝鮮が核実験をやった。議長国日本が先頭に立って国連を動かし、制裁決
議を可決した。弱小国が核を持ったら、国際社会から徹底糾弾される。
これが大国アメリカがやった行為であれば問題にならない。やったもの勝ちで
ある。
これが国際社会における核保有国、アメリカ・ロシア・中国など、大国の政治
論理である。国際社会の正義は、力の強い国が握っている…。
今の北朝鮮。力も無いのに、軍事力を誇示して黒を白と言い切り、大国に逆ら
い、日本をなめてかかる。約70年前、西欧の列強に加わろうとして、西欧先
進国から孤立し、アメリカと戦うはめになった、当時の日本の姿によく似てい
るのです。
■ことば遊び 「ロシアのジョーク」
無人島に漂着した三人の男に、神様が二つずつ、願いをかなえてくれることになった。
アメリカ人は、「国に帰りたい。それと、1億ドルの現金が欲しい」
フランス人は、「国に帰りたい。それと、とびっきり美しい女性を妻にしたい」
最後に残ったロシア人、「ウオッカを1ダース。それと飲み仲間が欲しいな…。
そうだ、一緒にいた二人を、無人島に呼び戻してくれ」
ところで日本人だったら、どんな願いを二つするでしょうか?
即、日本人と分る面白いジョーク、どんなものがあると思いますか?
<吉村の作品>
日本人は、「日本と無人島を自由に往復できる、大型ヘリが欲しいな。
それと神様、無人島に温泉付別荘を…」
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 143】
~歴史から学ぶ~
「外交の本音」
外交の場で、本音が語られることはまれであろう。建前論に終始し、建前を
応酬し合っているうちに、それがいつしか「べき論」になって、そうあることが
あたかも正論であるかのごとく、一人歩きしてしまう。
イランからの石油依存度の高い日本。イランの核開発や、イスラエルのレバ
ノン侵攻は、よそ事では済まされない問題。
「パレスチナとイスラエルは平和裏に共存すべき」は、国際社会の「べき論」で
ある。イスラエルに本音を言わせれば、平和共存によってパレスチナが繁栄し
、国力をつけたなら、それはイスラエルには「脅威」。
だから、「パレスチナは分裂したまま、自国に挑戦できないほど弱々しい国家
であって欲しい」となる。
アメリカが北朝鮮と和解するのは建前。韓国の「できるだけ早く統一したい」も
建前。韓国人の本音は、「今統一することには反対だ。せっかく1万5千ドルに
なった国民一人当たりのGDPが、大きく落ち込むことになる。今より生活水準
が低下することは、誰も望まない」
7/1 読売新聞 伊藤洋一「外交の本音」より
中国政府の小泉首相の靖国参拝に対する、しつようなまでの抗議姿勢もそう。
反日的国民感情の裏に、日本の国連安保理常任理事国入りの反対があったと、
在日中国人作家が、新潮社「憤青」の中で語っている。
トウ小平時代に始まった市場経済への転換は、抑圧されてきた大衆の欲望を解放
した。が、公平な競争社会のルールづくりが間に合わず、貧富の地域差を生み
出した。
靖国参拝は、そうした中国国民の不満の目を国外に向わせるために、政府が
意図的に仕組んだもの…。現に、日本の常任理事国入りが、中国だけでなく、
アメリカの反対で見送られてからは、靖国に対する国民の加熱を抑制するよう
になった。
日本の親中派の財界人や、国会議員の一部は、表面上の"靖国問題"に囚われ、
その問題を解決することが、日本の平和につながると信じて疑わない?
中国の巧妙な外交策略に乗せられてはならない…。
日本人の欠点は、集団の多数が賛成すると、それに異議を唱えたり、自らの
意見をはっきり述べることをしない。「和」の精神が先に立って、口をつぐんで
しまうのです。怖いのは、過去に犯した過ちを繰り返すこと。
NHK朝の連続ドラマ「純情きらり」。舞台は戦時中の昭和18年。主人公の
油絵画家やジャズ奏者が、西洋カブレと隣組だけでなく、近所の子どもたち
からも、非国民呼ばわりされた。
歴史は繰り返すというが、世論が建前に引っ張られ、物事の本質を見極める
ことができなくなり、国の行く末を誤らせるようなことには、絶対したくない。
中国が恐れていることの一つに、日本が核保有国になることがある。
それをけん制する意味で、中国は「靖国」を問題にしていると、知識人は言う。
日本の外交戦略は正直過ぎる。
小泉首相の靖国参拝と、北朝鮮の軍事ミサイル発射と、どちらが相手国には脅威
だろう? 中国の内政干渉に、賛成だ反対だと騒いでいる日本。何とも情けない。
中国の仮想敵国であり、核保有国のインドは、しぶとい。この機に乗じてミサイル
実験をやった。国際社会からの非難はない…。
国際法上、明らかに日本の領土である竹島。つい最近、領海を定めようと、ソウル
で話し合いが持たれた。が、双方相譲らす。それどころか、「韓国が竹島周辺を調
査をする時は、日本に通知する義務はない!、日本が調査する時は、韓国政府の
了承なしにやってはならない」と…。
不法に占拠しておきながら、この言いぐさ。これが外交というものだろう。
「北朝鮮が核を保有するというなら、日本も防衛上、核を保有するしかない!」
「北朝鮮のミサイル発射を、中国やロシアが目をつむるというなら、日本もミサ
イル実験をやる!」と…。
そんなつもりはまったくなくても、世界に向って"ハッタリ"をかませ、"タンカを切る"
くらいのしたたかさがないと、中国やアメリカ、韓国は日本を軽視し続け、拉致問題
に目を向けることもないだろう…。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 140】
「護国神社参拝に思う…」
先週の日曜日、厚生年金会館の催し事に参加した折、隣接の護国神社に参拝し
た。石川護国神社は、戊辰の役で戦死した人たちを祀るため、明治3年に創建。
その後、明治・大正・昭和と、国のために戦った石川県ゆかりの戦没者、約四万五千柱が祀られている。
境内には、太平洋戦争戦没者の慰霊碑が、大小所狭しと並んでいる。中国に進
駐して戦死した、金沢陸軍第九連隊の慰霊碑には、沢山の若者の名前が刻まれ
ている。陸軍航空隊で散っていった、七十数柱を祀った慰霊碑もあった。
それらの慰霊碑の前に立ち、建立の趣旨を読み、黙祷した…。
戦後教育の中に育った私。学校でも、社会人になって後も、お国のために亡く
なった先人たちの霊を慰め、敬い感謝することを、教えられたことはなかった。
だから、命を賭して戦った先人たちによって、今の平和があることに…気づか
ず、感謝することがない…。
境内は人影もなく、シンと静まり返っている。忘れ去られてしまったかのよう…。
過去敵国であっても、国賓として招かれたら、まずその国の戦没者慰霊碑に
頭を垂れるのが、国際社会の慣わし。
広島や長崎の原爆慰霊碑の前は、参拝する人で溢れかえっている。
修学旅行生はもとより、日本人であれば一度は訪れ、瞑目したであろう。
ところが明治以降、お国のため、家族のため、身を挺して死んでいった先祖の
御霊に、敬虔な心で参拝する人は、まれである。
靖国神社は、戦犯合祀問題で揺れている。しかし、石川護国神社には、戦犯は
祀られていない。戦犯が合祀されているから、お参りしないという人…、護国神
社なら参拝するのでしょうか?
元からその気のない人が、「日本のためにならない!」と、参拝の是非を語ると
したら、どうなんでしょうか…?
私達は、国の為に戦い、死んでいった先祖を敬おうとしない。そのような恥ずか
しい民族は、もしかしたら日本人だけかもしれない…。
過去二千年、異民族に国を蹂躙されたことが一度もなく、婦女子が辱めを受け
たことも無い。それが、国を大切に思う心の希薄さに、繋がるのでしょうか…。
8月15日、小泉首相は靖国神社に参拝した。中国は今日本に対し、必要なまで
に戦争責任に対する政府の姿勢を非難し、謝罪を求めてくる。
靖国問題は国内問題と、首相は弁明するが、中国は追求をゆるめようとしない。
そうした中国の姿勢に、何かが胸に痞えたような思いの私ですが、ここで注目す
べきことは、最大の戦争被害国中国が、一切の戦後賠償請求権を放棄しているこ
とです。そういった過去のいきさつを知らずに、中国政府の姿勢を憤っているのです。
一方、中国の国民もまた、戦後保障に変わる、日本からの円借款、政府開発援助
(ODA)が、この20年で3兆円にもなり、天津・上海・広州の電話通信網や、衡陽ー
広州間の鉄道建設、北京の下水道など、中国各地の社会・経済インフラ整備に、
多大な貢献をしてきた事実を、全く知らないのです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 137】
~歴史から学ぶ~
「日本の戦後賠償」
太平洋戦争が終結して60年になる。日本は、戦争責任をどのように果たして
きただろうか? 戦後賠償に多額の血税が使われてきたことに、さしたる関心
もなく、知らないまま今日まで暮らしてきた。
そこで今日は、あの「ポツダム宣言」とは、「サンフランシスコ講和条約」とは、
どのようなものだったのかを、書き出してみました。
終戦直前の7月、米英中の三ヶ国首脳が発した「ポツダム宣言」。敗戦国日本の
対外賠償の原則が示された。同宣言は、日本に"金"ではなく、"物"による賠償を
求めた。第一次大戦後、ドイツに過酷な現金賠償を科して、結果、ナチスの台頭
を招いたことへの反省があったからです。
とはいえ、占領初期の米国の対日賠償要求は厳しい内容だった。駐日大使は
「最小限度日本経済を維持する以外に必要でないものは、すべて日本から除去
する」と発表した。
(最小限度とは、日本が侵略した東南アジア諸国より高くない生活水準をいう)
これに従い、日本国内の財閥は解体され、産業施設は撤去され、取り外した工
作機械は、中国、フイリピンなどの国々に搬出された。
その後の米ソ冷戦の進行に伴い、日本を弱体化させる産業施設の解体は中止
された。とりあえず、日本への物的賠償請求を中断することにしした。
冷戦が、「自立日本建設」の方向に、転換を促したのです。
1951年(昭和26年)「サンフランシスコ講和条約」が結ばれた。
連合国は、「すべての賠償請求権」と「戦争中日本軍がとった行動から生じた
損害の請求権を放棄する」ことを、規定に盛り込んだ。
連合国48か国との講和条約によって、日本は国家としての主権を回復した。
このに条約に沿って、米国など大半の国が対日請求権を放棄。
その後、ソ連も中国も、インドも請求権を放棄した。
一方で、日本が占領した国に与えた「損害及び苦痛に対して、賠償義務を定め、
賠償を希望する国と速やかに交渉を開始しなければならない」とした。
支払いは金銭ではなく、日本の「生産物・技術・労働力」などを無償で提供する
方式が原則とされた。
以後、東南アジア諸国と個々に話し合い、賠償する国、賠償を放棄する代わり
に、無償・有償援助を求める国など、戦後処理が進められていった。
日本の賠償や経済協力は、アジア諸国のダムや発電所などのインフラ整備に
役立つ一方、日本経済の復興にも貢献した。物による賠償は、日本製品への
"なじみ"を作り、アジア市場進出に効を奏した。
例えば、ミヤンマーに供与した日本製自動車は、それまで市場を独占していた
英国車を、駆逐してしまった。
・日本が戦後賠償に応じた国…フイリピン、インドネシア、ベトナム、ビルマ
賠償額総額 1664億円
・無償貸与した国…韓国、マレーシア、カンボジア、ラオス、ビルマ、タイ、
シンガポール、モンゴル、ミクロネシア
無償貸与総額 1780億円
・有償で資金提供した国…韓国、フイリピン、インドネシア、ベトナム、ビルマ
有償貸与総額 3408億円
台湾の他、最も被害の大きかった中国、そして大国インドは、日本からの無償
・有償、いずれの援助も受けていない。日本が中国政府に対して、卑屈なまで
に弱腰なのは、こうした事情があるのです。
情報源/読売新聞
夏祭りの季節になった。ねぶた祭り、徳島の阿波踊り、越中おわら風の盆、
全国で繰り広げられる故郷の祭り…日本の祭り。この夏も胸がときめく。
お盆は故郷で、浴衣姿に盆踊り…"よくぞ日本人に生まれけり"である。
ところで、中国には日本でいう祭りというものがない。共産党政権になった時、
庶民から"宗教と祭り"を取り上げ、禁止してしまった。「何かを理由に住民が
集まれば、反乱になる」というのがその理由。韓国もまた、その昔、李王朝が
禁止してしまった。
日本は農耕民族。村人みんな助け合い、農作業をする。春には豊年満作を祈り、
秋には実りに感謝し、神様にお供えをして、みんな仲良く村祭りを楽しんだ。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 136】
~歴史から学ぶ~
「ドイツの降伏がもう少し遅れていたら、日本は分断国家になっていた…」
明日からお盆休み。そして終戦記念日の8月15日がやってくる。
そこで今日は、私たちの知らない終戦秘話を…。
今、私たちが平和に暮らす日本も、歴史の歯車の回りようによっては、朝鮮半
島のように国家が分断され、同じ民族が銃を向け合うことになっていたかもし
れない。終戦直前の国際情勢を振り返ると、日本が分断を免れることが出来
たのは"幸運"としか言いようがない、それこそ紙一重だったのです。
日本より一足先に戦争が終結したヨーロッパ。共産国ソ連の指導者スターリン
は、占領下のポーランド、ルーマニア、ブルガリアで、ソ連の息のかかった政
権をしゃにむに押し立て、反政府勢力の排除と弾圧を強行した。
ヤルタの開放宣言に背くソ連に、米英は強く抗議したが、スターリンは耳を貸 そうとしない。ドイツと東ヨーロッパ諸国への戦後処理をめぐって、ソ連側のう んざりするような動きを見たトルーマン。日本の戦後処理には、ソ連を断じて 参加させない…と心に決めた。
日本に無条件降伏を要求する「ポツダム宣言」は、米・英と中国の三首脳の名に
おいて発表された。だが、中国を代表する蒋介石は、ポツダム会議には参加していない。
あと一国、終戦間際になって日本に参戦したソ連。スターリンは、ポツダム宣
言の作成にはなんの相談もなく、なにも知らされなかった。米国の言い分は、
「ソ連と日本は、中立条約で結ばれて、戦争状態にあったわけではないから、
ソ連に相談を持ちかけるのは、却って迷惑するだろう」というもの。
たくみな言い抜けだが、ソ連を意図的にポツダム会議に加えなかったのです。
1945年7月26日、米国はポツダム宣言を世界に公表した。その少し後に、
宣言書をソ連に届けた。受け取ったモロトフ外相は、いら立ちを隠さなかった。
終戦の日8月15日に、トルーマンはソ連に通告した。
「満州、朝鮮半島38度線以北、サハリン(樺太)南部に展開する日本軍は、
ソ連に降伏する」
(この通告によって戦後60年、現在も朝鮮半島は分断国家のままである)
なぜか、千島については何も記されていない。さっそく翌日の8月16日、
ソ連は反応した。
1.ヤルタ会談での取り決めにより、千島列島を、日本軍がソ連に降伏する地域に含めること。
2.北海道、釧路から留萌まで引いた北半分を、日本軍がソ連に降伏する地域に含めること。
ソ連は、北海道北半分の占領を要求してきた。 スターリンによれば、日本は1919年~21年にかけて、ソ連領シベリアに 出兵して占領下に置いた。「もし、ソ連が日本の領土の一部をも占領できない としたら、ソ連の国民は大いに憤慨するだろう」と、警告してきた。
待ち構えていたように、トルーマンの返報は素早かった。
1.千島列島の日本軍が、ソ連に降伏することには同意する。
2.北海道北半分の占領については、にべもなく「拒絶」。
そして、北海道の日本軍は、マッカーサー将軍に降伏する。
・もし、ドイツの降伏が遅れていたら…
・もし、ソ連の参戦がもう一ヶ月早かったら…
・もし、北海道にソ連軍が上陸していたら…
・もし、米国がソ連の要求を呑んでいたら…
どれか一つでも実現していたら、日本の戦後処理に大きく影響し、 日本の国土は二つに引き裂かれ、分断国家になっていただろう。
■ハインリッヒの法則
今月の初め、エレベーターの異常作動が原因で、高校生が亡くなるという事件が
あって、世間を騒がせた。
今から60年前、アメリカの技師ハインリッヒが、労働災害の事例の統計を分析
して発見した「300:29:
1の法則」。
重大災害の発生を「1」とすると、軽い事故
が「29件」、そして見過ごされがちな、ささいな障害を伴わない事故が「300件」
発生しているという。
この「ハインリッヒの法則」、今回のエレベター事故が実証していた。
なのに誰も注意を払わなかった。回転ドアー死亡事故の記憶がまだ新しいというのに…。
今回も、それが生かされることはなかった。
会社で、「顧客からの重大なクレーム」を見過ごしてしまう社員や、経営者。 いつ起きるか分からない大きな「交通事故」。私たちの身の回りでも、このような 重大事故に結びつく、危険な兆候が起きていることを、見逃さないことです…。
26日夕方6時過ぎ、我社のまん前で正面衝突事故発生。バイクが正面玄関の
柱まで飛ばされて大破。乗っていた老人が大怪我をして、救急車で運ばれた。
玄関前は、大破したバイクと部品が散乱し、血のりがべっとり。
原因は、一時停止を怠った車と、スピートを出し過ぎた車の、出会い頭の事故。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 130】
~歴史から学ぶ~
「覇権国家アメリカの嘘」
フセイン政権に言いがかりをつけ、経済封鎖を企て、圧 政からの開放と、自由を旗印に、イラクに攻め込んだアメリカ。計画通りフセイン政権を倒し、新たに 親米政権を樹立した。中東の覇権を手中に収め、石油を手に入れるためである。
その後、イラク介入のきっかけとなった、イラクの大量破壊兵器開発も、テロ組 織アルカイダとの関係も、結局はでっち上げの嘘だつた。昨年、ブッシュ大統 領は、国会の場で嘘を認め、陳謝した。
それでは、何のために息子達は戦場に行き、死んだのか?イラクで死んだ米兵 の母の問いかけ、米国内で共感の声が広がっていく。大統領の私邸近くに泊り 込んで、面会を求めたことがきっかけとなり、米兵のイラク撤退を要求する声 が、全米で高まってきている。
ベトナム戦争に反対したことで知られる、フォーク歌手ジョーン・バエズさんも 支援に駆けつけ、「私が最初に参加したときの、ベトナム戦争反対のデモは、 全部で十人しかいなかった。誰もこの動きを止められなかった」と、励ましの 言葉。もう歴史になった「ベトナムの悪夢」を、米国民が思い出し始めた。
ベトナム戦争拡大の発端は、東京オリンピック開催の年、1964年(昭和39 年)トンキン湾事件が始まりで、随分昔のことです。この事件は、米駆逐艦を ベトナム魚雷艇が、二度に渡って攻撃したことから…。
だが、二度目の攻撃はでっち上げだった。後に、攻撃の事実がなかったことが
明らかになった。この嘘がイラク同様、米国が泥沼戦争に足を踏み入れる転換
点になる。ベトナム戦争では、五万八千人の米兵が無駄死にした。
米国内の反戦世論の盛り上がりに、米国政府もようやく重い腰を上げ、イラク
撤退の時期を模索し始めている。
アメリカには、過去何度となく同じような策謀を繰り返してきた歴史がある。
18世紀末の対スペイン戦争では、フイリピンの棄権を手に入れ、メキシコ戦
争では、メキシコの領土の52%を奪い取った。パールハーバー、ケネディ
暗殺疑惑など、その歴史は陰謀が渦巻いている。
同じような嘘のでっち上げパターンで陰謀が繰り返される、 覇権国家アメリ
カの次のターゲットは…? 北朝鮮ではなさそう…
もし、アメリカが北朝鮮と和解し、平和条約が結ばれたら、当然日本も右ならえ
するだろう…。日本を脅かす近隣国が無くなってしまえば、米軍が日本国内に
軍隊を駐留する意味が無くなってしまう。
安保条約不要論が沸き起こり、「米軍よ出て行け!」の大合唱が起きないとも
限らない。
極東の軍事拠点日本を、絶対手放放さないアメリカ。米国は極東地域で、
緊張がほどよく継続することを望み、画策する。だから、どんなに日本が働き
かけても、アメリカが六カ国協議で、北朝鮮と和解することなど、ありえないの
である。
■原爆投下
私はS16年10月23日生まれ。原爆製造が決定されたのは12月6日。
真珠湾攻撃、太平洋戦争へと突入する前々日です。
歴史に"もし"はないが、仮に第二次大戦の勝敗が逆転していたら…、
原爆投下は、明らかに人類に対する最大級の戦争犯罪になるだろう。
その際、A級戦犯としてリストされる人物が、ヴァニーヴァー・ブッシュである。
ブッシュは、原爆計画の立ち上げから製造・投下、そして戦後の核管理まで、
政治の中枢にいて、政策決定に影響を与え続けた米国の科学官僚である。
ブッシュらは、日本をイエローモンキー、米国の対等の敵とはみなさず、ソ連や
米議会に対して、米国の科学水準の高さを誇示する、デモンストレーションの
対象として、原爆を投下したのです。日本人を殺すことに、何のためらいも
なかったのです。
「早く戦争を終わらせるために、やむを得なかった…」とは、投下後にアメリカの
マスコミが創りあげた、プロパガンダだったのです。
平凡社・歌田明弘著「科学大国アメリカは 原爆によって生まれた」
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 122】
~歴史から学ぶ~
「失敗を生かし、勝利した米国」
NHKその時歴史が動いた「戦艦大和の悲劇」と、映画「俺達の大和」を見ての
感想です。
真珠湾の失敗を生かし成功の糧にした米国。一方、その成功を生かせなかった
日本。双方の違いが勝敗を分けた。歴史から学ぶ教訓です。
真珠湾攻撃から米国は、航空機が海戦を制する時代になったことに気づいた。
直ちに、年に50艦、週に一艦という猛烈なスピードで、航空母艦の建造に着手した。
一方、日本海軍は、初戦、劇的勝利を収めたにもかかわらず、その勝利を生か
すこともせず、世界最大の巨艦、戦艦大和と武蔵の建造に血道を挙げた。
第一次大戦の後、世界の列強は、30インチ砲から46インチ砲へと、巨艦建造
にしのきを削った。46インチ砲は、三万メートル先の敵艦を攻撃出来る。
30インチ砲だと、二万メートル先にしか届かない。過去の海戦では、巨艦で
もって先制攻撃を仕掛けた方が、俄然有利になる。
日露海戦で完璧なまでに勝利した日本。その勝利、その成功体験が、神話に
なった。航空機が主役の時代になったことへの判断を、甘く見てしまったのです。
もちろん日本海軍も戦力増強のため、航空母艦を建造した。ところが日本には
米国の十分の一の建造能力しかない。なのに、巨大戦艦の建造に、人・物・金
・時間、国力のおお方を注ぎ込んだ。これでは勝てるわけがない。
米国は、開戦わずか一年で、200隻もの航空母艦を有し、太平洋、大西洋に
強力な戦力を有する海軍に変貌した。そんな国力を持つ米国に、愚かにも
日本が戦いを挑んだのです。
アリが、密かに巨象の足の指の間に忍び込み、奥のほうの柔らかい肉に噛みつ
き、初戦に勝利したようなものです。
案の定、両巨艦、期待に応える戦果を何一つ挙げることなく、海の藻くずと消
えていった。沈み行く大和の艦内で、兵士がつぶやいた…。
「命をかけて戦った! だが、何も守れなかった。家族も…故郷も、無念…」
私たちもまた、時として同じ愚を繰り返す…。過去の成功体験が成功神話と
なり、固定観念となって、判断を誤らせてしまう。過去の大きな成功が、時代
の変化に対応する能力を奪ってしまう。会社を経営危機に陥れてしまうこと
になる。
「失敗によって目覚めた戦艦大和の愚」、歴史の教訓として受け入れ、継承し
ていかなければ、死んでいった3,721柱の御霊に、申し訳が立たない…。
「過去の成功に囚われず、過去の失敗から学ぶ…」
そんな謙虚な姿勢が
求められるのです。
我が家のビーグル犬・ヘブンを散歩させる公園の桜。満開を
過ぎ、ハラハラと散り始めた。
満開になるや、さっと散って
しまう"桜"は日本人の心。
日本人は、それを「潔さ」の
象徴、美徳としてきた。
また、その潔い姿に、人々は"この世の無常"を思い、戦国の武将たちは、己の生き様をそこに投影した。
西洋に広く日本の武士道を紹介した新渡戸稲造。桜の美しさは、日本人の心の
美しさであり、「気品・優雅・純真」さであると表現した。
【心と体の健康情報 - 240】
~歴史から学ぶ~
「思いやり2」
明治23年、トルコ軍艦が紀伊大島の灯台沖で座礁沈没。艦長以下581名の
尊い生命が海に消えた。(詳細はメルマガNo244)
村人の必死の救助で69名が助かり、お寺や小学校に収容されたが、当時村に
は井戸もなく、雨水を飲み水にし、魚を売ってお米に換える貧しい暮らし。
みるみる蓄えが尽きて、食べさせるものがなくなった。最後に残った貴重なニワ
トリまで、トルコ人に食べさせたという…。
つい少し前の時代の日本人、親切で優しい心を持った人が多くいた。
「大和魂」
武士道精神が、庶民の心の中に息づいていた時代。
日本人に生まれた
ことを誇りに思い、質素で贅沢を慎み、貧しさを不幸とは思わない清貧な暮ら
しぶり…。貧しい中にも、もの事に耐える辛抱強さ、我慢強さがあった。
一つ、命にかけて、事に対処する覚悟」があった。
一つ、自分の利益よりも、周囲の利益を優先する、自己犠牲の精神があった。
トルコの軍艦沈没という、日本の海運史に残る大惨事から15年後、日露戦争
が始まった。
そのとき、乃木将軍が、敵将ステッセルに示した武士道の精神は、西洋諸国
に賞賛されたが、東郷提督率いる海軍も又、乃木に劣らぬ逸話を残している。
ロシアがその命運をかけて、はるばる派遣した精鋭バルチック艦隊を、東郷艦
隊は対馬海峡に撃滅した。その勝利は、世界の戦史に類を見ない輝かしい
ものになった。
1550年、フランシスコ・ザビエルが見た当時の日本同様、人を思いやる優し
い心を持った日本人。それが、この海戦における、幾多のうるわしい逸話とな
って、今に伝えられるのです。
トルコの軍艦が沈没した時同様、この海戦においても、波間に漂う敵兵を懸命
に救助し、医療、食事などに万全を期し、捕虜を暖かく遇している。
敵兵の水死体は海流に乗って、山陰の海岸に漂着した。付近の住民はこれを
引き上げ、手厚く葬り、冥福を祈ったという。
万里の彼方から来航、武運つたなく祖国に殉じた勇者に対する思いは、それが
敵であろうと変わりはない。うるわしい人間愛が、どの日本人にもあった。
海戦に惨敗して、総崩れになった敵艦隊の中から、逃れ行く一隻の駆逐艦が
あった。それを、「武士の情け、深追いはするな」と、見逃したりもしている。
ロシアの提督ロジェストウインスキーは、この戦闘で重傷を負い、人事不詳に
なって救助され、佐世保の海軍病院に収容された。東郷は直ちにこれを見舞い
、なぐさめの言葉をかけている。
東亜の小国日本が、大国ロシアを破るという、輝かしい勝利もさることながら、
日本国民のすべてが、武士道的精神にのっとり立派に戦ったことが、全世界の
好評を博したのです。そのような日本人の道義的態度は、国際社会における
日本という小国の信用を、いやが上にも高らしめたのです。
ただ不幸なのは、この勝利がその後の日本人の心を慢心させた。道義心が
どんどん低下していった。そして、昭和20年の敗戦へ、転がり落ちていった。
終戦後、平和を願うあまり、学校教育の場から、軍国主義的残渣が一掃され
ていく。その確認のため、占領軍の係官があちこちの学校を査察して廻った。
ある小学校で運悪く、乃木と東郷の肖像が物置から発見された。随行の校長
がハッと顔色を変えた。その時、査察官の口から意外な言葉が発せられた。
「乃木、東郷は、日本が生んだ世界に誇るべき武将です。私は偉大な二人を
尊敬しています。日本が今日の不幸を招いたのは、彼らのような立派な武将
がいなかったからではないですか? この肖像、廃棄するには及びません…」
論語の友1月号より
戦後、小学校にあった二ノ宮金次郎の銅像は撤去され、消えていった。
ところが、占領軍司令官マッカーサーは、逆に「尊徳は日本におけるリンカーン
である。新生日本は、二宮尊徳の所業に学ばなければならない」と、奨励し
たのです。
それにも関わらず、左翼系の先生で占められた日本の教育現場は、こうした
日本人が誇りにすべき偉人たちまで、戦後教育の現場から抹殺し、子ども達に
教えようとはしなかったのです。
ですから私の脳裏に浮かぶ偉人は、ワシントンやリンカーン、ベンジャミン・
フランクリン、エジソンなど、西洋の偉人たちばかり。
3月、京都で開催された「第一回・日本を変えた、すごい人サミット」に参加した。
そのとき選ばれた日本の先覚者は、空海・中江藤樹・坂本竜馬・山田方谷・
吉田松陰・伊庭貞剛の6名。
中江藤樹や山田方谷については、名前も浮かんで来ない。空海は歴史で学んだ
が、その偉業を語れない…。
【伊達政宗家訓】
一. 仁に過ぐれば 弱くなる
一. 義に過ぐれば 固くなる
一. 礼に過ぐれば へつらいとなる
一. 智に過ぐれば 嘘をつく
一. 信に過ぐれば 損をする
一. 気長く心穏やかにして よろずに倹約を用いて金銭を備うべし
一. 倹約の仕方は 不自由を忍ぶにあり
一. この世に客に来たと思えば 何の苦もなし
一. 朝夕の食事うまからずとも ほめて食うべし
一. 元来 客の身なれば 好き嫌いは申されまじ
一. 今日の行をおくり 子孫兄弟によく挨拶をして
しゃばのお暇申すがよし
伊達政宗は、フランシスコ・ザビエルが布教にやって来てから、18年後の1567年、日本の歴史に登場した人物。この家訓から、 論語や孟子の教えをまつりごとに取り入れ、国を治めたことが伺える。
【心と体の健康情報 - 236】
~歴史から学ぶ~
「フランシスコ・ザビエルが見た日本人/貧すれど貪せず」
1549年8月、フランシスコ・ザビエルが鹿児島の地にやって来た。地元の人に
心から歓迎された。鹿児島に居を構えて3ケ月後、本国宛て、日本の印象を書
き送った。
■1549年11月5日 鹿児島からゴアのイエズス会員にあてた書簡「第90」
ー前文略ー
日本についてこの地で知りえたことを、あなたにお知らせします。
まず第一に、この国の人々は、私の知る過去のいかなる国の人々より優れて
いることです。彼らは親しみやすく、善良で、悪意がありません。他の何もの
よりも"名誉"を重んじます。大部分の人々は貧しいのですが、武士も庶民も、
貧しいことを不名誉とは思っていません。
他人との交際は大変礼儀正しい。しかし、侮辱されたり、軽蔑されたりした
ときは、黙って我慢をする人々ではありません。人々は、武士が大変貧しい
暮らしをしていても尊敬するし、武士は、その地の領主によく仕え、よく臣従
しています。
この国の人達の食事は少量ですが、飲酒の節度はいくぶん穏やかです。
(こんな昔から、酒飲みには甘かった)
この地方にはブドウ畑がなく、米から取った酒を飲んでいる。
人々は賭博を一切しません。賭博をすれば、他人の物を欲しがるようになり、
そのあげく盗人になると考え、大変不名誉なことだと思っているからです。
大部分の人は読み書きができます。彼らは一人の妻しか持ちません。
盗人は少なく、盗みの悪習を大変憎みます。盗人は非常に厳しく罰し、死刑に
します。盗みについて、これほどまでに節操のある人々を、見たことがありませ
ん。
人々は大変善良で、社交性があり、知識欲はきわめて旺盛です。
彼らは獣(けだもの)の偶像を拝んだりはしません。その昔、哲学者のように
生活した人々を信仰(釈迦や阿弥陀)し、多くは太陽を拝んでいる(神道)。
この国は土地が肥えていないので、豊かな暮らしはできません。しかし、家畜
を殺したり、食べたりせず、時々魚を食べ、少量の米と麦を食べています。
彼らが食べる野菜は豊富で、幾種類かの果物もあります。
この地の人々は不思議なほど健康で、老人も沢山います。たとえ満足ではない
としても、自然のままに、わずかな食物でも生きていけるということが、日本人
の生活を見ていると、よく分かります。
日本にはボンズ(坊さん)が大勢いて、彼らはその土地の人達から、大変尊敬さ
れています。彼らボンズは、厳しい禁欲生活をし、決して肉や魚を食べず、野菜
と米だけを食べ、一日一度の食事はきわめて規律正しく、酒は飲みません。
平凡社 河野純徳著「聖フランシスコ・ザビエル全書簡」より
いかがでしょうか。これが450年前、山之内一豊が生まれる少し前の時代の、
私たち日本人の姿なのです。
これを、私が生まれ育った昭和30年代に当てはめると、ザビエルが見た当時
と変わらない暮らしをしていたことに気づきます…。3月上旬、日本アカデミー
受賞10部門の内、9部門を総なめにした映画、「三丁目の夕日」の時代です。
今からわずか四・五十年の間に、こうした"日本人の心"が色あせていき、
荒んだ世の中になっていったのです。
民主党の永田議員、目上を敬うことを知らず、礼を失した無礼な振る舞いに気
づかない。それはそのまま、私や私たちの世代を写し出す"鏡"なのでしょう…。
■終戦当時の思い出
終戦当時5歳。香林坊に進駐軍がジープでやってきて、チューインガムやチョコ
レートを配った。甘味が無かった時代だけに貴重…。一日、ガムを噛んだり出し
たり、夜寝るときは秘密の場所に隠し、翌日もゴムのように硬くなったガムを、
クチャクチャ噛んだ。
終戦の翌年、聖霊病院付属幼稚園に入園した。ライザというドイツ人の若い先生
がいた。鼻が高くて美しく、優しい先生だった。今お元気なら85歳くらいだろう。
お昼のお弁当は、アルマイトの弁当箱に、配給の小麦粉に膨らし粉を入れ、パン
のように焼いて膨らませたものを、母が持たせてくれた。
直径20センチもある、進駐軍支給のピナツバターの大缶が配給された。口の中
で香ばしくとろけ、なんとも美味だった。鼻血が出るからと、少ししかなめさせて
もらえなかった。親の目を盗んでは、こっそりなめた…。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 115】
~歴史から学ぶ~
「大阪大空襲」
今日3月10日は、東京が大空襲を受けた日。B-29爆撃機が三百数十機
来襲し、38万個(これは殺りくだ!)の焼夷弾を投下した。東京の3分の1、
28万戸が焼失し、一晩で9万2千人が犠牲になった。
東京空襲の三日後の3月13日。今度は大阪上空に、274機のB29爆撃機
が現れた。
以下、大阪遺族の会会長、伊賀孝子さんの「語り続ける空襲体験」より…
当時私は13歳でした。警報を聞き、家族揃って家を出、逃れようとした途端、
耳をつんざくような爆音とともに、私たちは吹き飛ばされてしまった。 肩までつかって熱さをこらえ、立ち上がった瞬間、防火水槽に女の子を浸そうとする、 隣の家のおばさん。体に火がついて「熱い!」と叫びながらに駆けてくる男の子、 全身火だるまで転がりまわる人、地獄絵さながらの光景が一斉に、目の中に飛び込んできました。 「お母ちゃん、お母ちゃん…」泣き叫ぶ私を、父が見つけ出し、
弟のいるところまで連れて行ってくれました。父は頭、顔、両手に大やけどを負っていました。 大阪は、その後7回にわたって大空襲に遭いました。最も多い時で458機、
空はB29の機体で真っ黒に覆われるほどでした。ザザザザッと焼夷弾の雨が降ると、
轟音を発して爆弾が落ちてくる。「怖いッ!」と思わず身を縮めた瞬間、「ドカーン!」
と耳の奥がしびれるような爆発音が響きわたり、地面が揺れる。 その翌日、玉音放送が流れ、ようやく終戦を迎えました。最初に思ったことは、 あァ今夜からゆっくり寝られる…。ただそれだけでした。国が勝とうが負けようが、そんなことはもう、 どうでもよかったのです。 当時を知る人はもう数少なくなりました。いろいろなところで「空襲のお話」 をさせていただいていますが、今の平和と豊かな暮らしが、過去の多大な犠牲の上に成り立っていることを、 伝えていくことの難しさを痛感しています。 終 |
今の子どもたち。昭和20年、日本全国の主要地方都市60ケ所が空襲にさら
され、延べ45万人もの民間人が犠牲になったことを知らない。日本がアメリカ
と戦い、広島や長崎に原爆落とされたことは、学校で学び知ってはいても、
それは、歴史上の出来事であって、実感として受け止めることはない。
その原因は大人たちにある。太平洋戦争の教訓など、忘れてしまったかのよう
な今の世の中。過去の歴史を振り返り、今の生活に感謝することをしない…。
せめて年に1日、終戦当時を振り返り、質素な食事をみんなで食べて、贅沢を
慎み、感謝する日があってもいいのではないでしょうか…
■「ことば遊び」 今日は漢字遊び"春夏秋冬"のある漢字。
「春はつばき 夏はえのきで 秋ひさぎ 冬はひいらぎ 同じくは桐」
という歌があります。椿、榎、楸、柊、桐を覚えるのにいい。
・狂歌には、こんなのがあります。
「春うわき 夏はげんきで 秋ふさぎ 冬はいんきで 暮れまごつき」
人べんに、
春夏秋冬を付けたもので、人べんに春、秋、冬という漢字はあるが、
人べんに夏と、暮は存在しない。
・次は私のオリジナル。お魚に春夏秋冬を付けたら…
「春さわら 夏はしいらで 秋かじか 冬はこのしろ 雪はタラ」
「鰆、鰍、鮗」
は辞書にある。夏のしいらは、魚へんに"暑"が正しい。
【吉村外喜雄のなんだかんだ -114】
~歴史から学ぶ~
「いざなぎを超えるか?
今回の好景気」
ようやく景気が上向き、長かった冬から、春の兆しが見えてきた…。
と、思っていたら、何と4年も前既に、右肩上がりの好景気に転じていたとい
う。なのに、景気が良くなったという実感が伝わってこない。
しかも今回の好景気、四十年も前、日本が絶頂期の頃の好景気「いざなぎ景気」
を超え、有史以来最長の景気になりそうだという…。 02年2月から景気は
プラスに転じ、今年の11月には、「いざなぎ景気」の57ケ月を超えるのです。
戦後最初にやってきた好景気は、朝鮮戦争特需による1955(昭30)~57年
の「神武景気」
。初代天皇、神武天皇以来例を見ない好景気ということで、
名づ
けられた。耐久消費財ブームが起き、三種の神器(冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビ)
が出現した。
神武景気の二年後、1959(昭34)~61年初頭の2年半、高度成長の波に
乗って「岩戸景気」
がやってきた。神武景気を上回る好景気から、神武天皇
よりさらに遡って「天照大神が、天の岩戸に隠れて以来の好景気」ということ
で名づけられた。所得が急増し、国民の「中流意識」が広がっていった。
当時は小売業全盛期。香林坊商店街はどの店も大繁盛。国道拡張に伴う再
開発ビルラッシュに湧いた。我が家も63年(昭37)、四階建店舗付ビルを、
私の間取り設計で、清水建設が施工して完成している。
岩戸景気から4年後の、1965年(昭40)11月~70年7月、消費主導型の
岩戸景気を更に上回る大型好景気がやってきた。岩戸を上回るというので、
更に歴史を遡り、国造りの神話から「いざなぎ景気」と名づけられた。
その後、団塊の世代が消費景気を引っ張った。私は、住宅ブームに湧いた、
昭和44~54年の10年間、時流に乗って急成長した積水ハウスに勤め、
大いに活躍。住宅建築ブームが一段落した、昭和54年2月に独立。化粧品の
商売を始めた。
いざなぎから16年後の、1986年12月~91年2月、「いざなぎ」に次ぐ、
戦後二番目に長い 「バブル景気」がやってきた。
この好景気で多くの国民が
酔いしれ、札びらが舞った。
実勢価格とはかけ離れた価格で、土地や株式、ゴルフ会員権などが急騰。
泡が膨らんでいくのに似ていたことから、「バブル景気」と名づけられた。
当時、化粧品の他、二つの事業に手を出し、精を出していた。バブルがはじけ
た後、それまで右肩上がりだった私の会社も、大波をかぶることになった。
ところで今回の好景気、「いざなぎ」を超えたら、どんな名前を付けるだろうか?
振り返えれば、長い人類の歴史で、世の中が大きく変化したのは、江戸から明
治にかけてと、太平洋戦争以降であろう。科学・文化・生活、すべての面で、今
ほど世の中が大きく変化し、庶民の暮らしが豊かになった時代はない。
文明が頂点に達した今の時代に生を受けた幸運を、喜ばずにはいられない。
また、過去60年、戦争に巻き込まれることもなく、平和に暮らしてこれたことも、
父親が生きた激動の時代を思うと、不足に思うことなど、あってはならないの
です。
グアム、サイパン、パラオ、ボルネオなどに、ダイビングや観光で何度か訪れている。戦争の残骸を目にしたが、 住民は親日的で平和そのもの…。悲惨な戦争の面影など、どこにもない。だが、六十数年前は…
■太平洋戦争での主な玉砕
(1/27読売新聞「検証・戦争責任」)
「アリューシャン列島・アッツ島」S18年5月
・日本軍2千6百人が、米軍1万1千人と戦闘の末、30人足らずの捕虜を除き全員戦死。
「ニューギニア」S19年5~7月
・日本軍1万3千人が、米軍3万人と戦闘の末、1万2千人が戦死。
「サイパン」S19年6~7月
・日本軍4万4千人が、米軍と戦闘、4万2千人が戦死。
・民間人8千人がマッピ岬から投身自決。
「グアム・テニアン」S19年7~8月
・日本軍2万8千人が、米軍6万人と戦闘の末、2万2千人が戦死。
「パラオ」S19年9~11月
・日本軍1万1千2百人が、米軍6万人と戦闘の末、1万人以上戦死。
「硫黄島」S20年2~3月
・日本軍2万2千人が、米軍6万人と戦闘の末、2万1千人が戦死。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 111】
~歴史から学ぶ~
「風化させてはならない 特攻で散った命」
イラクとその周辺の諸国で、毎日のように繰り返される"自爆事件"。そのたびに市民が巻き込まれ、
痛ましい犠牲者が増え続ける。
60数年前の日本。昭和20年の終戦までの一年間、世界の戦史に例を見ない、体当たり特攻作戦が繰り返され、
延べ9500人もの若者が、ただ死が待つ戦場に散っていった。
昭和19年9月、海軍省の方針に従って、「海軍特攻部」を発足させた大西中将は、第一航空艦隊の参謀に、「こりゃあ、
統率の外道だよ…」と語ったという。
そもそも作戦とは、わずかでも生還の可能性がある「九死に一生」が限度。片道の燃料しか持たせず、100%
死が予定されている「十死零生」の特攻は、"作戦の名に値しない!"と言ったのです。
昭和20年5月、当時陸軍士官学校の生徒だった、新潟県長岡市出身の"渡辺悦男"さん。突然
「将校面会室に来るように…」と、教官からの指示。
部屋に入ると、軍服の袖に金色の鷲(わし)をあしらった「特攻章」を縫い付けた、兄"裕輔"(少尉・23歳)が立っていた。
「何で特攻に行くんだ。この戦争は負ける。士官学校の先輩は、ろくな武器も持たず、戦地で死んでいった。国民には、 竹やりで戦えとまで言っている…。特攻に行く必要など全くない!」
弟が言い終えると、兄はうなずきながら、ゆっくりと口を開いた。
『もう勝つとか負けるとかではないんだ…。今ここで若い自分たちが国を守る意思を示さなければ、
戦争終結への道は遠のくばかりだ。そうなれば日本は、戦争をし続けることになり、国民の犠牲は計り知れないものになる…』
兄の決意の固さを知り、二人は抱き合って別れた。一ヶ月後、新潟に住む両親の元に、兄が書いた「出撃五時間前 平心」 の絶筆と、遺髪が届けられた。
生身の人間が爆弾と化して敵艦に体当たり攻撃する。マリファナ沖海戦以降、日本の戦力が著しく低下する中、 少ない戦力で効率よく戦果を挙げる、手っ取り早い手段として考案された。
もう一つは、日本の兵士が、国のために命を惜しまない姿を見せることで、徹底抗戦の意思が強いことを示し、
米軍の継戦意欲をそそごうとする狙いがあった。
繰り返される沖縄への慰霊に、「あれほど無謀で、でたらめな作戦はない。戦争指導者の責任は極めて重い」との思いを、
弟さんは抱いた…。
フィリピン・硫黄島・沖縄と、戦場が本土に近づくにつれ、"特攻"は激烈を極めた。米軍が沖縄に上陸した4月には、
海上特攻として、戦艦大和が出撃した。
しかし、大和はいかなる目的も達することなく、戦果らしいものもないまま、3,721名の若者の命と共に、
沖縄の海に沈んだ。
1/27読売新聞「検証・戦争責任」から抜粋
終戦当時私は4歳。戦時中の暮らしぶりや、身の回りで起きた様々な出来事を、今も鮮明に覚えている。
私たちの後に生まれた世代は、戦争を全く知らない。国を憂えて死んでいった人達のことを思い、
自らの命を無駄にすることなく、大切に生きていかなければならない。
そのためにも、「男たちの大和」は、今後機会があれば、是非見ておきたい映画です。
「男たちの大和」を見られたでしょうか。先週の金曜日は、京都で論語の勉強会。
田舞代表は講義の中で、この映画を鑑賞した感想を語った。そして"ビンタ"には、
単なる暴力行為ではない、深い意味がある場合もあることを、知ったという。
以下、長嶋一茂ふんする下士官が、いよいよ死への出航という時、叫んだ言葉です。
『進歩のない者は決して勝たない!
負けて目覚めることが、最上の道だ。
日本は、進歩ということを軽んじ過ぎた。
私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。
敗れて目覚める…。
それ以外に、どうして日本は救われるか!
今日目覚めずして いつ救われるか!
俺たちは、その先導になるのだ。
日本の新生に先がけて散る。まさに、本望じゃないか!』
吉田 満著「戦艦大和ノ最後」より
今の時代に生きる私達。そうやって死んでいった若者たちの"志や愛国の心"を、無意味なものにしていないでしょうか…。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 110】
~歴史から学ぶ~
「千 玄室/茶のこころ・終戦時の思い出」
「自分は誰の世話にもならず、この世にポツンと生まれてきたわけではない。
必ず両親があり、家族があり、地域があり、国家があり、世界があり、生まれてきた時代がある」
そこで、忘れてはならないのは、太平洋戦争で国を守るために散っていった特攻隊員や、戦艦大和の若き兵士たち…
以下、新春経営者セミナー講演講師、裏千家十五代家元"千 玄室"氏 「茶のこころ」から…「昭和20~21年、終戦当時の思い出」の部分です。
-前文略-
1945年3月末、予科練の下士官が集められ、司令官から
「いよいよ戦況が不利になってきた。貴様たちに死んでもらわなきゃいかん」
と、沖縄への特別攻撃隊の編成を申し渡された。
正直に、三つのどれかに丸印せよと、「熱望・希望・否」と書いた紙を渡された。
お国のために我が身をささげると、心に決めている。だから迷いはない。
名前を書かなければなりませんから、「否」に丸印を付けることなど出来ない。
私は「熱望」に丸を付けた。全員が特攻隊員になった。
仲間は順次、出撃の命令を受けたが、私は待機です。同僚と「一緒に死のう」と約束しており、上官にも訴えましたが、「命令が出るまで待て」と、待機させられた。そうこうしているうちに、終戦を迎えた。
多くの仲間が雄々しく敵艦に突っ込んで、亡くなっているのです。
一度死のうと覚悟を決めていた自分が、敗軍の将となった訳ですから、何とも言えずやるせなく、申し訳ない気持ちになった。
※戦後、「特攻隊員は、上官の命令で哀れにも死んでいった、戦争犠牲者である」と、学校で教え込まれた。実際は、今まさに死への旅立ちという時に、一人として自らの運命を呪い、嘆き悲しんだ者はいなかったという。
誰もがお国のため、後に残される妻や家族のためと、笑顔で飛び立っていった。
人のため、国のため、何にも代えられない自らの命を捧げた若者たち…。
時代が、当時の社会が、若者たちをそんな方向へと、導いていったのです。
しばらく虚脱状態で休んでいましたが、そのうち米軍の将兵たちが、お茶を飲ませてもらおうと、わが家にやってくるのです。勝った国の将兵が、どうして敗れた国の、それも難しいとされる、伝統文化の茶道に、興味を持つのか?不思議でした。
勝った国の者は、したい放題するもの…と思っていた。
日本を知るために伝統的なものを学べと、司令部の命令が出ていたそうです。
負けた国の文化を学ばせる度量の広さには、「さすがアメリカや」と思いました。
進駐軍第六軍司令官に、DAIKUという人がいた。
早稲田大学で学生を前に講演し、「君たちは茶道を知っているか? 利休という人が世に出て、織田信長や豊臣秀吉ら、多くの武将を弟子にした。茶室には武器を持って入れない。どんな人間でも平等で、序列もない。同じ所に座って、同じものをいただく。民主主義の基本を作った人だ…」と、話されたそうです。
神妙な顔をしてお茶を飲んでいる米軍将兵らを見て、戦勝国の軍人をここまでさせる日本の茶道とは、大変な文化やなと、改めて思いました。
-以下略-
※今の学校の歴史教育。千 利休などを通して、日本人に生まれたことを誇り に思う、そんな教育がなされているだろうか? 先人達が命を賭して築いてきた日本。その時代を創りあげてきた先人達のことを、もっと学ばなければならない。
我が故郷には、15才の時に「啓発録」を著し、後に処刑された"橋本佐内"や、近代日本を代表する哲学者"西田幾太郎"、禅を世界に広めた"鈴木大拙"、台湾でダム建設に尽力した"八田興一"、タカジャースターゼで知られる、科学者"高峰譲吉"博士などを輩出している。
学校で教わったかどうか、記憶が定かでない人もいる。こうした偉人たちの偉業を詳しく知ったのは、50歳を過ぎてからである。
12月半ばからこんなに雪が降ったのは、二十年ぶりとか…。温暖化で、
もう雪が降らないのかと思っていたら、やっぱり北陸。大雪になった。
■五六豪雪(1981)
当時40歳。大寒波がやってきた日、年賀会で大阪にいた。終了後、ホテルの
部屋に戻ると、「北陸に猛烈寒波」とTVが報道していた。JR・国道・高速道路、
北陸方面への交通網はすべてOUT…
同室のH社長と、「どうしよう? 帰れなくなる…」「羽田から小松便がまだ飛で
いる!今すぐ東京へ行こう…」。二人の決断は早やかった。新幹線に飛び乗った。
翌日何とか小松空港にたどり着いた。その日の午後、空港は閉鎖された。
ちゅうちょしていたら、大阪のホテルに缶詰になっただろう…
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 108】
~歴史から学ぶ~
「三八豪雪の思い出」
昭和38年の正月は、例年になく雪が少なかった。当時私は22歳。
1月11日の夜、高校のクラスメイトの家で久しぶりに酒を飲み、談笑した。
夜もふけた12時過ぎ、家に帰ろうと外に出たら、ビックリ!
来るときには無かった雪が、40センチも積っている。寒波襲来である。
真夜中、ひざまである雪をかき分け、吹雪の中を家に帰ったのを覚えている。
その後三週間降り続き、平年の3倍、3mを超える未曾有の大豪雪になった。
15日65センチ、大雪注意報発令。23日135センチ、史上第二の大雪に。
横安江町アーケード崩壊。27日181センチ、史上最大の積雪を記録。
金沢城お堀通りにある、スポーツセンターの屋根が抜けた。
片町から犀川大橋への何でもない上り坂。零下6~7度の猛烈な寒波で、
道路は"キンカンなまなま"(カチカチ/金沢にしかない方言)、カガミのよう。
自動車があちこちで立ち往生…。皆で押しても動かない。
国道・国鉄などの主要交通網は寸断され、市民生活は完全に麻痺…。
福井県には、死者31名、家屋の全半壊10,244棟の記録が残っている。
当時の便所は汲み取り式が多かった。し尿処理の衛生車が入れず、市民生活
に支障をきたした。
降り積もる雪と、繰り返す屋根雪下ろしで、道幅の狭い金沢の裏町、一階部分が雪で埋まってしまった。
妻の実家は道の狭い材木町。毎朝、雪に埋もれた家から外へ出るのに、まず、玄関の中に雪を掻き入れ、 道路に登る階段を作る。二階の窓から出入りする方が、よっぽど楽である。
一日かけて会社の周りの雪をのけても、翌朝また同じだけ積った。 仕事にはならず、屋根の雪下ろしと除雪に明け暮れる毎日だった。 関西から応援に駆けつけた機動隊員が、夕方帰りがけ、突然驚いた声で、「おおッ、電灯が足元で光っとるわ!…」
当時私は日立に勤めていた。二週間経っても降る雪は止まない。県内の電気店
からは、暖房器を早く届けて欲しいとの矢の催促。そこで、キャラバン隊を組
んで、トラック三台で能登方面に向った。一日かけて、何とか羽咋までたどり
着いたが、それ以上は無理。やむなく引き返したのを覚えている。
国道8号線の除雪が終わり、全線開通したのは、一ヶ月後の2月11日になって からである。
この三八豪雪が教訓となり、本格的に機械除雪が整備され、市内の主要道路 に融雪パイプが敷かれた。そのお陰で、18年後の五六豪雪の時は、混乱を 最小限に食い止めることができた。
ようやく落ち着いた二月中旬、私は将来全国をまたに商いをしたいと、東京の 会社へ面接に…、復興開通したばかりの上越線で上京した。 蒸気機関車が客車の前部と後部を挟み、先頭にラッセル車を連結して、あえぎ ながらの峠越え。雪ですっぽり埋もれた鉄路を、11時間かけて東京へ行った。
就職内定の通知が届いた。念願の上京! 夢が大きくふくらむ (^-^)/~
三年間お世話になった会社を退職し、慌しく上京の準備へ…。ところが、直前
の3月30日になって、病気の再発が分かる (-_-; 万が一にと検査を受けた、
その日の午後、まさかの緊急入院。隔離病棟に入れられた。
又も夢が弾けた。高二に続き二度目…。忘れることのない昭和38年の春です。
先週、サンフランシスコへ旅行したとき撮った写真(2)です。
■サンフランシスコ中心部
夜、中華街で会食したが、市民の3/1がラテン系、中国移民も多く、白人は半数に満たず、その比率は年々低下している。
その訳は、白人の出生率の低さにある。
■ケーブルカー(市電)
サンフランシスコは、ご存知のとおり、坂道とケイブルカーの街です。
スティーブ・マックイーン主演の映画「ブリット」で、市内の坂道を大きくバウンドしながら、カーチェイスするシーンが思い出されます。
■ヨセミテ国立公園
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 98】
~歴史から学ぶ~
「アメリカの謀略? リメンバー9月11日(3)」
以下、ジョン・コールマン著「9.11アメリカは巨大な嘘をついた」成甲書房
からの抜粋です。
2001.9.11、崩れ落ちる世界貿易センタービルを見た瞬間、私は「真珠
湾と全く同じ、奴ら、又やった!」と思った。何故なら、この攻撃は米国中枢
に何の損害も与えないばかりか、米国民の戦意を高め、反米勢力に対して、
世界中の憎悪を集めるには、最も効果的な方法だからです。
攻撃の作戦としては余りにもお粗末。民間人への攻撃は本来、相手の戦意
喪失を狙う意図で行われるが、この攻撃は正反対の効果しか生まない。
一方、攻撃される側にとって、これほど最高のショーはない。政府が、戦争を
開始し、反テロ政策を一気に推し進めるには、まさに絶好の口実になるから
である。
アメリカには、過去何度となく同様の策謀を繰り返してきた歴史がある。
リンカーン暗殺、パールハーバー、ケネディ暗殺疑惑など、その歴史は陰謀が
渦巻いている。
だからといって、9.11が米国中枢の陰謀と言い切るには、証拠が不十分で
ある。それでも、現時点で不可解な問題点が、20あまり浮かび上がってくる。
で、その一部を紹介することにします。
■「正義は勝者のものであり、敗者には存在しない」90年の湾岸戦争の時、イラクによる原油流出で、「脂まみれになった海鵜」の写真が、新聞・マスコミで大きく報道されたことをご記憶でしょう…
フセインを極悪非道な指導者として、世界に印象付けた写真である。英国の記者がレポートし、米国のCNNが映像を流した。あまりにもタイミングよく、印象的だったことが、当時話題になった。
後日、この映像も、現地の海が原油で油まみれになったことも、イラクが油田を破壊したことも、全て真っ赤な嘘であることが明らかになった。
こうした犯罪行為、戦勝国側から出たものであれば、その罪が問われることはない。原爆で、十数万人の一般市民や子供が殺されたが、責任は問われない。
東京裁判でいえば、日本が戦いに勝っていれば、一人として処刑されることはないだろう。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 96】
~歴史から学ぶ~
「アメリカの謀略? リメンバー9月11日」
アメリカは覇権国家。この百年の歴史を振り返ると、米国がやってきたことは、あのローマ帝国のように、世界に棄権を広げ、富をアメリカに吸い上げることにある。
まず経済力で世界を支配し、次いで親米政権支援を理由に軍隊を送り込み、駐屯させ、支配下に置く。そのスタートは、いずれも「リメンバー○○」。
アメリカは民主主義国家。民意を無視しては何も出来ない。そこで、何かの事件をきっかけに、"○○を忘れるな"の国民的高揚を図り、戦争を仕掛ける戦略は、今も昔も変わらない。
●十八世紀末、スペイン領キューバ。アメリカ商人を守ることを理由にして、アメリカは軍艦を派遣した。しばらくして、軍艦が何物かによつて爆破され、二百数十名のアメリカ人が殺された。米国内に「リメンバー・バハマ」 が沸き起こり、スペインと戦争になった。
戦争に勝った米国は、バハマとは遥か離れた、フイリピンや太平洋諸島のスペイン領を奪い取ることに成功した。
後に、この爆破がアメリカの陰謀によるものであることが、明らかになった。
●十九世紀初頭、アラモの砦で、メキシコ軍と戦った騎兵隊が全滅した。
この事件が引き金となって、又も国内に沸き起こった「リメンバー・アラモ」。
"アラモを忘れるな"の声。
メキシコと戦争になり、勝利を収めたアメリカは、カリフォルニア、テキサス、ニューメキシコなど、メキシコ領土の52%を奪い取ることに成功した。
アラモの戦いの時、すぐ近くにアメリカの正規軍がいたのに、砦を守る200名の騎兵隊を見殺しにしたのは何故か? 今もって謎である。
増田俊男の「目からうろこの会」より抜粋
●第一次大戦に米国を参戦させるための謀略、ルシタニア号撃沈事件も忘れてはならない。
1914年、英国とドイツが戦争を始めた。ドイツ国民もアメリカ国民も、戦争の拡大は欲っしていなかった。戦争を熱望していたのは英米の寡頭勢力。
彼らは、ドイツを誘い出すために囮を放った。北大西洋航路で浮かぶ宮殿と言われた、英国の豪華客船ルシタニア号である。
1915年、ルシタニア号は密かに英国への火器弾薬を登載し、ドイツの警告を無視し、あえてドイツを逆撫でするような航路を進み、ドイツ潜水艦の攻撃を誘った。その時何故か、英国の駆逐艦隊は巡回を取りやめ、港に留まっていた。
そして、94人の子どもたちを含む1095人が生贄となった。この事件から「リメンバー・
ルシタニア」が沸き起こり、アメリカは第一次世界大戦に参戦した。連合国軍はドイツを追い詰め、野望をくじき、自らの覇権を手にすることに成功した。
●No298、No300でお伝えした、「リメンバー・パールハーバー」 も、そのいきさつは類似するところが多い。
●新しくは2001年。ニューヨークで発生した国際貿易センター爆破事件。「リメンバー9月11日、を忘れるな! アルカイダをやっつけろ!」。 圧倒的国民の支持を得た米国政府は、アフガニスタンに攻め込んだ。
アフガニスタンを制圧したアメリカは、日本の時と同様「自由と憲法」を与え、親米政権を樹立し、米軍を駐屯させている。過去、ソビエトがあれだけ手こずったアフガニスタン、いとも簡単に、支配下に置くことに成功したのです。
次の標的はイラク。フセイン政権に言いがかりをつけ、経済封鎖を企て、「圧政からの開放」「自由」を旗印に攻め込んだ。セオリー通りフセイン政権を倒し、新たに親米政権を樹立した。中東の覇権と石油を手に入れるためである。
同じようなパターンで陰謀が繰り返される? 覇権国アメリカの世界戦略。もしかしたら、ニューヨークのワールド・トレードセンター爆破事件も、一枚噛んでいるのでは? とのさい疑心が湧いてくる。
アメリカが、国民の支持を取り付けようとするとき、いつも湧き上がる「リメンバー・△△」。あまりにもタイミングが良すぎないか? きなぐさい匂いがする。
9月15日のNHKTVニュース、デルタ航空と、ノースウエスト航空が破産し
たと報じていた。石油の高騰が業績悪化の原因という。
日本の25倍の広い国土を持つアメリカ。移動には航空機が欠かせない。
1970年代当時、アメリカには、約140社の航空会社が群雄割拠していた。
そのわずか十年後の八十年代半ばには、M&Aなどによって、大手4社と、
ハワイアン航空、アラスカ航空など、一部ローカル航空を残すのみとなった。
70年代、太平洋路線で日本におなじみの、パンナムも消えてしまった。
情報化社会の到来をいち早く察知し、顧客の囲い込みをした会社が生き残った
のです。ところが、勝ち残ったはずの大手4社、ユナイテッド航空は2002年
12月に既に破産。
現在、米国航空大手は七社。そのうち4社が破産法の下で運行するという異例の
事態に陥っている。資本主義の本場アメリカの、厳しい一面を垣間見た気がする。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 95】 十数年前、情報化社会の到来に備えて、通産省の課長や、竹村健一の講演 当時、フランスでは、日本より一足先に、国の主導による"ミルテル"という名 1970年代の後半、米国某航空機会社に勤務していたS氏。自ら考案した 成功するかどうか分らない新事業に、社運をかけて50億ドルも投資する余裕 ■アメリカン航空は、端末器の設置を開始した。全米、網の目のように複雑な 顧客自ら端末器を操作し、希望する情報を引き出す。旅行代理店、顧客の双 他メーカーも慌てて追従した。が、人材を育成し、ソフトを開発し、端末を設置 ■A・Aは、次の戦術に取り掛かった。同業の航空メーカーに、「どうぞ我が社 ■次に採ったA・Aの戦術、航空会社をアルファベット順の閲覧方式にした。 ■A・Aは、更に有利な戦術を端末に組みこんだ。自社の航空路線価格を、 ■次に採ったA・Aの戦術。他社がA・Aの端末に組み込まれたことで、他社の こうした戦術、将棋の布石のように、打つ手によって、対抗する他社がどう動 デルタ航空は、A・Aのネットワークに加わることを由とせず、デパートや ■その後、世界的規模での、路線の囲い込み戦争が始まった。日本の航空 ■更にA・Aは、世界に巡らせた航空ネットワーク網の強みを生かして、新た 究極のロイヤルカスタマーになるべく、絶えず他社の一歩先を行く。いかなる |
メルマガ配信を始めて丸3年。今日で300号になりました。
私が歩んできた人生。日本の敗戦、戦後復興、経済発展、貧乏な暮らしからの脱却、
そして豊かな時代へと、世の中が大きく変化していく中を歩いてきた。思えば幸福
な時代を生きてきたものです。
戦後60年、庶民の暮しが、これほど豊かに変化するとは…、平和な世の中が続
くとは…、医療が発達し、こんなに寿命が延びるとは…、誰もが自家用車を持ち、
海外旅行など、余暇を存分に楽しめる時代になるとは…。
敗戦の1945年から、逆に60年さかのぼると1885年。明治の帝国憲法も、
国会もない、文明開化の時代にタイムスリップしてしまう。
では、今から数えて60年後の日本、私の孫が私の年になったとき、日本は
どんな国になっているでしょうか?
・1871(明4) 廃藩置県
・1889(明22) 大日本国憲法発布
・1890(明23) 第一回帝国議会開催
・1894(明27) 日清戦争
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 91】
~歴史から学ぶ~
「アメリカの陰謀・パールハーバーの真実(2)」
日本軍は真珠湾の奇襲に成功した。アメリカを出し抜き、緒戦に大勝した日本
軍の戦略は、一見大成功のように見えた。が、事実はまったく違っていた。
「してやったり!」、ルースーベルトの思惑・戦略の通りに事が運んだのです。
日本に最初の一発を打たせ、それによって米国民を結束させ、世界大戦に参戦
することをもくろみ、そのように画策した。
「リメンバー・△△」の戦略を成功させる必要がある。そのためには、日本が先
に戦いを仕掛け、アメリカ人に犠牲者が出るよう、仕向けなければならない。
北岡伸一著「政党から軍部へ」より
真珠湾がきっかけとなり、第二次世界大戦に参戦した米国。米国民は愛国心
にかられ、戦場へと志願していった。1942年6月のミッドウエー海戦勝利を
転機に攻勢に転じ、1945年、日本との戦争に勝利し、日本を占領。太平洋
及びアジア地域に、多大の影響力を及ぼす覇権国になった。
占領後アメリカは、日本に米軍を駐屯させ、親米政権を樹立し、”自由”と”憲
法”を与え、教育制度を改革して思想教育を徹底し、米国に従順で、親米的
国家を作りあげた。
日本を”植民地化”して米国の支配下に置くという、開戦前の目的が達成され
たのです。
話は2002年。「リメンバー・9月11日」で、国民の支持を取り付けた米国は、
アフガニスタンに攻め入り、支配下に取り込んだ。次いでイラクの石油権益
を手に入れようと、又してもでっち上げの難癖をつけて、フセイン政権を倒し、
親米政権を樹立し、「自由と憲法」を与え、米軍を駐留させ、植民地化政策を
推し進めようとしている。
アメリカは民主覇権国家。国益を手にするとき、判で押したように「リメンバー
△△」で国内の世論を沸き立たせ、それから行動する。そのために密かに画策
し、事件を起こす。「相手をやっつけてしまえ!」という、世論を作り出すための
策略を巡らすのです。何も知らない国民と敵国を欺くことを繰り返してきたア
メリカ。
当時の国際法では、侵略戦争は犯罪ではなかった。そのためのだまし合いは、
どこの国の間でもやっていたこと。「だまされる国が悪い」というのが、国際政
治の常識だった。
仇敵ソビエト崩壊後、アメリカが目指すのは、一千年の長きに渡って世界を支
配したあの「ローマ帝国」。ローマ軍は、圧政のもと貧しい暮しを強いられてい
る民族があれば、「自由と開放」を旗印に攻め入り、住民を解放し、ローマ人と
同等の市民権を与えるなどして、人心を掴み、全世界に支配地域を広めていっ
た。
ローマの法律を支配地に持ち込み、軍隊を駐留させ、ローマ人を移民させ、
その土地をローマの政治・文化圏に同化させていく。その一方で、宗教の自由
と自治を認め、占領住民の人心をつかむ。
このようにして、ローマ帝国の支配地域は、中東・アフリカ・ヨーロッパ全域に
拡大していった。ねらいは一つ、そこから上がってくる富を、ローマに集中させ
ることにある。
この二百年、米国がやってきたことは、あのローマ帝国のように、世界を一国
支配し、富をアメリカに吸い上げる、覇権国家になることにある…。
あれこれ歴史書を読んでいると、そのような構図が見えてくるのです。
■8月15日は終戦日? 8/15 読売新聞「終戦記念日」より
60回目の終戦記念日を迎えた。終戦は8月15日、玉音放送をもって終戦と、
疑いもしなかった。
天皇が終戦の詔書に署名したのは8/14。大本営が全陸海空軍部隊に即時戦闘
停止を命じたのが16日だが、全戦線で戦火がやんだのは9月に入ってからだった。
正確には、戦艦ミズリー号上で降伏文書に署名した9月2日が終戦日。
米国、フランスでは、9/2が「対日戦勝記念日」。ロシア、中国では何故か9月
3日となっている。
8/15は戦前から日本人には特別の日、「旧盆」である。第二次大戦が始まる
ずっと前から、お盆の日に合わせて「全国戦没者追悼式」が実施され、戦後は、
毎年マスコミが「玉音放送を聞いて泣き崩れる人々の姿」を流したことなどから、
多くの日本人が、8/15を、「戦いの終わった日=終戦の日」として受け止めて
いる。昭和38年になって(1963)法的決定がなされた。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 90】
~戦争心理学~
「アメリカの陰謀・パールハーバーの真実」
アメリカには「秘密開示法」という法律がある。30年経つと、公文書や外交秘
密は、すべて一般に開示される。そこから、意外な史実が明らかになってくる…。
その開示文書を元に、「真珠湾の真実」という本がアメリカで出版された。日本
では文芸春秋が翻訳本を出した。ところが出版と同時に圧力がかかり、絶版と
なった。「ルーズベルトは真珠湾攻撃を事前に察知していた」との噂がある。
しかし、真実は闇の中である。
1939年第二次世界大戦が始まり、ドイツがフランスを降伏させると、近衛
内閣は大東亜新秩序の建設を唱え、1940年9月に北部仏印(インドシナ)
に進駐し、日独伊3国同盟を締結した。
日本軍の北部仏印進駐に激怒した米国は、経済制裁と日本向け石油の禁輸
に踏み切った。1941年11月27日、それまで続けてきた日米外交交渉は、
米国側の強硬な「ハル・ノート」提示で行き詰った。日本は即時降伏するか、
勝ち目はなくても一戦交えるか、何れか一つの選択を迫られたのです。
(国際連盟を脱退して国際社会から孤立していた日本。今の北朝鮮よりずっと
厳しい状況にあった)
後に、「開示法」で公になった機密文書によれば、苦しくなった日本は
「窮鼠猫を噛む」で、アメリカに宣戦布告するだろうと、書き記してあった。
日本に戦争をけしかけ、戦いに勝って、それまで日本が持っていた中国・アジ
アの権益のすべてを奪い取ろうとする、米国情報戦略の筋書きに従い、事が
運ばれていったのです。
日本は真珠湾奇襲で太平洋戦争に突入した。アメリカの日本大使館の手違いで、
宣戦布告が真珠湾攻撃の後になってしまい、「だまし討ち」の汚名を負うこと
になった。
開戦前、日本は親日国オランダの好意で、石油を輸入することができた。
機密文書によれば、それは好意ではなく、日本の軍部が最小限度必要とする
量のみ売り渡すようにという、米国の裏工作によるものだった。
石油資源を確保しなければ日本は破滅するという、日本軍部開戦派をあおる、
巧妙な戦術だったのです。
オランダは、密かに日本の油槽船に磁石付きの電波発信機を貼り付けた。
その輸送船が、ハワイ攻撃の艦隊に随行していった。
更に米国は、日本海軍の無線を傍受し、解読に成功していた。
真珠湾攻撃直前の、日本の連合艦隊の軍事行動は、すべて米国の知るところ
となり、ルーズベルト大統領に逐一報告されていた。日本が12月8日未明、
真珠湾を攻撃することを、アメリカの上層部は察知していた事実があるのです。
ハワイ奇襲の朝、太平洋司令官はオアフ・カントリークラブで、太平洋艦隊の
艦長4人と、ゴルフをするため、朝食をとっていた。公文書の記録によると、
この5人の将軍のうち一人は、ゴルフが出来なくなることを知っていたという。
ルーズベルトから、「真珠湾から離れているように、追って指示する…」との、
内示があったのです。
平穏なハワイ。なのに前々日から、様々な指令が軍の上層部から出されていた。
(1)老朽船のみを湾内に残し、新鋭の主力戦艦、航空母艦は外洋に出ること。
(2)ハワイにある全レーダーを、シャットダウンするよう全艦隊に指令が出た。
更に、通信員には休暇が出た。
(レーダに、日本艦隊の動きが写し出されると困る)
(3)海兵隊には、二日間の外出禁止令が出た。平和なハワイ、しかも休日なの
に何故? 皆わけが分からないまま命令に従い、それぞれの持ち場に残っ
た。
日曜朝、突然日本軍が襲ってきた。停泊していた軍艦や軍の施設が、爆撃で
壊滅した。持ち場にいた二千二百名が犠牲になり死んだ。
次の日、全容が大々的に全米に報道された。だまし討ち奇襲攻撃との報に、
「リメンバー・パールハーバ」、怒りの大合唱が全米に沸き起こった。
その世論に推されるように、アメリカは第二次世界大戦に参戦していった。
巧妙なるアメリカの戦略。歴史に伝えられていることと、真実とが、こうも違って
くる。しかし、真実は闇の中である。
増田俊男「目からうろこの会」より
戦後60年、富山や福井が空襲されたことを知る人は、だんだん少なくなってきた。
私の叔父家族は、満州から命からがら引き上げている。
そういった人たちの戦争体験を聴くことによって、私たちの父や母、お爺さん、
お婆さんが、どのような時代を、どのように生き抜いてきたのかを、知ることが
できる。
そして、無念のうちに死んでいった人たちへの思いをはせ、今の「平和な世の
中を大切に守っていく」。それが、戦争を知らない私たちの使命ではないでしょうか。
昭和20年、私は金沢の山手にある母親の実家に疎開していた。その時、富山の
空襲を見た。当時四歳だつた。焼夷弾がボコン、ボコンと、医王山の山向こうで
破裂するのを見た。まるで打ち上げ花火のよう…。
その時、地獄絵さながら、修羅場を必死に逃げ回っている人たちがいたことを、
知る由もなかった。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 89】
~歴史から学ぶ~
「富山大空襲」
金沢に生まれながら、現在まで、富山や福井が空襲で焼け野原になった話を
聞く機会はなかった。また、語る人もいなかった。ただ一度だけ、富山市で建
設業を営んでいる友人が、幼い頃に自らが体験した富山の空襲を語ってくれ
たことがある。
あまりにも惨く辛い「あの日」の体験。その体験を人に話すこともなく、胸の内
の奥底深くに仕舞い込んで、現在まで生きてきたという。それを私に語ってく
れたのです。
その話と、8/1の北陸中日新聞に掲載された「伝えたい60年前の戦争」の
記事を重ね合わせて、当時の惨状をお伝えしたいと思います。
昭和45年8月2日未明、市中心部を襲った富山大空襲。本人の記憶と母親か
ら聞いたことを交えて、友人はポツリポツリ語り始めた。
午前零時36分、その2時間ほど前に一度は解除された空襲警報のサイレンが
再び街に響いた。防空頭巾をすっぽりかぶせられ、母親に抱かれて、近所の人
たちと防空壕に逃げ込んだ。
(一度来襲すると見せかけ、市民を油断させた後再来襲するのは、米軍の戦術)
焼夷弾が破裂する音がどんどん近づいてくる。視界がぱっと赤く染まった。
痛いほどの熱風とともに迫りくる炎。15人くらいだろうか、防空壕の中で
みな身をかがめ、息をころして震えていた。
と、その時、壕の入口の方から、「こんな所にいると、蒸し焼きになるぞ!
出てこんかァ、逃げろ~!」と、男の声。母は私を抱きしめて、身を潜めてい
た壕を飛び出した。
空襲は2時間、とぎれることなく続き、170機余りのB29から、焼夷弾が
ばら撒かれた。火の手に追われ逃げまどう人々。母は壕から出たみんなの
後にくっついて、神通川の方へ走った。
(パニックに陥ると、独自の判断が出来なくなり、皆が行く後にくっついて
いこうとする)
その時、顔見知りの自警団のおじさんが駆け寄ってきて、「ダラ!そっちへ行
ったら駄目だ! 私の後について来なさい…」と、母の手を引いて、皆とは反
対の方向へ、嵐のように熱風が舞う中、田んぼの土手沿いに、必死になって
逃れた。
火の手に追われ、逃げまどう人々。生きながらに炎に焼かれる人、焼夷弾に
直撃され、吹き飛ばされ、押しつぶされる人…。母親は、わが子を助けたい
一心で、必死に逃げまどったという。
どれほど走っただろうか…。田んぼのくぼみに飛び込み、振り返ると、街は炎
の渦に包まれていた。まさに地獄絵そのもの。あまりにもむごたらしい光景。
母は、助かったわが身も忘れて、呆然と燃え上がる富山の市街を眺めていた
という。
街に戻ったのは空襲から二日後。焼け野原となった市中心部の防水桶や、
お寺の池は、焼け焦げた死体で埋まっていた。大和百貨店のコンクリートの
建物だけが廃墟となって残り、木造家屋の町並みは、なめるように焼き尽くさ
れ、一面原っぱのようになっていた。
ドロドロに溶けたアスファルトには、腸をさらけ出した人が死んでいた。
自宅近くの別の防空壕では、町内の人たちが蒸し焼きになって、折り重なって
死んでいた。
もしあの時、壕の外から「逃げろ!」と誰かが叫ばなかったら、私は生きてこの
世にいることは無かっただろう。また、壕から出て、神通川の方へ逃げた人た
ちは皆、川辺で炎に巻かれ、焼け死んだという。
(東京でも、隅田川に逃れようとした人たちが沢山焼け死んでいる)
私は、空襲から逃れるとき二度も助けられたのです。九死に一生を二度も味わ
った。この幸運を感謝せずにはいられない。人の運・不運は紙一重、結果が良
かったからいいものの、十中八・九は助からなかったと思うのです。
当時の光景を思い出すと、震えが出るくらい怖い。あの空襲の夜の光景が、
脳裏に焼きついて離れない。大勢の人たちの無残な死、炎の渦に包まれた町並
み。あの地獄絵が、夜中に何度よみがえり、うなされたことだろう。
そのたびに涙がこみ上げてくる。
福井市が空襲されたのは7月20日。富山は8月2日である。そのわずか二・
三週間後に終戦を迎えるのです。あとわずかで戦争が終わるというのに…。
このような惨事「二度と繰り返してはならない」。空襲による市民の犠牲者は
3千人を超え、8千人の負傷者が出た。今も詳細は分からないまま。
罪もない人たちが、いわれなき死を強いられた。そういった人達の、死にたく
ないという心の叫び、恐怖、苦しみ、無念さを、無駄にすることなく、後世に伝
え残していかなければならない。
35年に及ぶ日本統治から解放されて、60年を迎える韓国。
島根県が竹島の領有権を議決したことに怒り、韓国は民族意識をあおっている。
両国にとって、領土問題は譲れぬ一線。領土権を得るには、武力を行使するか、金銭的和解ぐらいしかないだろう。主張し合っているだけなら、
百年の後でも解決しない問題です。
冷静に見れば、竹島は人も住めないちっぽけな岩山。そんな島と経済水域をめぐって、両国いがみ合っていても、
互いに得することは何もない。
韓国も日本も、自国の繁栄を願うのは同じ。「共に勝ち、共に栄える」の精神で、この問題を棚上げにして、お互い仲良くすればいいのですが…。
政治の世界は損得で推し量ることが多い。善悪だけでは通用しない。
自国のためなら、黒でも白と言いくるめるのが優れた政治。いつの時代も、どこの国も、時の政権の人気が落ち目になると、
国民の目を外に向けさせ、民族意識をあおろうとする。
[吉村外喜雄のなんだかんだ 第81号]
~歴史から学ぶ~
「罪をにくんで 人をにくまず」
以下、5/22中日新聞社説からの引用です。
「其の意をにくみて、其の人をにくまず」。これは孔子の言葉です。 この言葉、「罪をにくんで 人をにくまず」という教えとなって、今に伝えられている。 靖国参拝で小泉首相は、「戦没者の追悼の仕方に、他国が干渉すべきではない。 A級戦犯が合祀されている靖国参拝が、近隣諸国から問題にされるが、そもそも” 罪をにくんで 人をにくまず”というのは、孔子の言葉である」更に「戦後日本は、戦争を反省し、 国際社会の平和構築に努力して、戦争に行かず、一人の戦死者も出していない」と、中国に諫言している。 にくむべきは、罪そのものであって、それを犯した人ではないという意味。 |
そもそも、侵略をして、非戦闘員の一般市民や婦女子に暴虐を極めたのは
日本軍である。遺族は、八つ裂きにしても足りぬ恨みを抱き、世人も同感で、
戦後60年を経たとはいえ、日本が侵した罪を許したりはしないだろう。
戦後、敗戦国日本がアメリカに占領統治されたとはいえ、過去日本は、一度
たりとも他国の侵略を受け、婦女子が辱めを受けて、後世にまで恨みを残した
た事実はない。そういった歴史背景から国民感情を比べれば、あまり言い訳
めいたことは言えないのです。
罪人が、被害者の憎しみをわずかでも軽減したいと思うなら、罪を深く悔い、反省謝罪し、 全霊を込めて償う意思を示すことでしょう。 ドイツ政府は現在も尚、ナチ戦犯の時効を認めず、永久に追求し続けている。 |
それに引き換え、昨日の領海侵犯をした漁船のトラブルにもあるように、日本と韓国の関係は決して良好とはいえない。
最近の韓国の世論調査で、「最も嫌いな国は」との問いに、”日本”と答えた人が40%もいるのです。
なら、素直に謝ればいいのかというと、政治の世界はそうはいかない。自国の利益のためなら、
間違っていても正しいと言い張るのが外交戦略。解決済みの戦争賠償問題が、かま首を持ち上げてくるかもしれない…。
一ヶ月前に起きた反日デモの乱暴をわびようとしない、中国政府のかたくなさを見ても分かるように、そう簡単に
「悪うございました」と、頭を下げられない日本の立場も、理解しなければならない…。
■明治初期の金沢
明治二年、加賀藩を朝廷に奉還。明治四年に廃藩置県となり、藩が消滅した。
それまで藩の禄を食んでいた武士、足軽、小者たちが一度に失職した。
さらに、御用商人、豪商たも没落し、しばらく混乱が続いた。
下級武士だった私の曾祖父も禄を失い、蓄えを利用して「金貸し業」を始めた。
ところが武家の商法、人が良すぎたのか、みるみる立ち行かなくなり、貧乏暮らしを強いられるようになった。
金沢の人口は、明治四年当時12万3千人だったが、藩の消滅により、翌年には9万4千人に激減してしまった。その後、
明治十一年頃になり、ようやくショックから立ち直り、人口10万7千人まで回復した。
明治十一年当時、東京69万、大阪29万、京都23万、名古屋11万人。次いで、全国五番目に大きな城下町だったのです。
[吉村外喜雄のなんだかんだ 第80号]
~歴史から学ぶ~
「懐かしき四高」
私が育った自宅の前の武蔵から片町へ抜ける道路は、当時国道8号線だった。
その一本向かいの裏道りに、第四高等学校(現在の中央公園)、通称”四高”があった。小学生の頃、
四高前を流れる七ケ用水の生垣の穴から、校庭にもぐり込み、よく遊んだものです。
四高の運動場の東の端に、高低二段の飛び込み板が付いた25mプールがあった。近所の悪ガキと、
一番高い飛び込み板の先端に、どこまで這っていけるか、度胸だめしをしたのが懐かしい。
また、晩ご飯のおかずに、運動場の草わらでイナゴを採ったり、校舎脇の銀杏の木の下で、
銀杏を拾い集めて焼いて食べたりもした。四高をテーマにすると、その頃のことがあれこれ思い起こされる。
四高は明治二十年創立。昭和二十四年金沢大学に包括されるまで、金沢が誇る勉学のシンボルでした。今でこそ、 人口四十五万の地方都市だが、明治の頃は、全国でも名だたる都会だったのです。
その金沢に、一高(東京)、二高(仙台)、三高(京都)に継いで、四番目の高等学校が開校したのですから、 金沢市民が誇りに思うのは当然。明治時代に設立した番号が付いた高等学校は、全国に八校あって、続く第五高が熊本、 六高が岡山、七高は鹿児島、八高、名古屋と続く。その頃の名古屋はまだ田舎だったのです。
大正から昭和にかけて、西田幾太郎博士(石川県宇ノ気町出身/近代日本の代表的哲学者)など、 日本を代表する逸材を多数輩出している。今はその面影もなく、赤レンガの校舎の一部が残るだけで、知る人も少ない。
私が子供の頃、四高に隣接した香林坊には、当時の文化人がたむろする喫茶店「オリヤンタル」、「ダンスホール三田」、
西洋料理の「仙宝閣」、和食料亭「魚半」、玉突き場、カフェなどがあり、にぎやかだった。
昭和24年、校舎が金沢城内に移転したあと、香林坊の繁華街は徐々に寂れていき、父親の店の商いも、先細りになっていった。
旧制高校の寮歌は、今も広く国民に愛唱されている。そのほとんどが、学生自らの手で作詞され、また、その多くが、
学生たちによって作曲されたものだという。
中でも、一高と三高の寮歌が有名である。
・一高 「嗚呼玉杯に花うけて、緑酒に月の影宿し…」
・三高 「紅もゆる丘の花、早緑匂う岸の色…」
・四高 「北の都に秋たけて、吾等二十の夢かぞう…」
寮歌は何度口ずさんでもいい。戦前から戦後にかけて、何かと暗いイメージが付きまとう中、 当時の四高の学生さんからは、人生のロマンを語り、青春を謳歌し、明るく自由闊達な気風が感じられたと、 町内の人が語っていた。
十年くらい前までは、毎年夏の八月、全国から四高卒業生が集まってきた。弊衣破帽に、
高下駄をつっかけたバンカラ姿で、(汚れたボロの詰えりの学生服に黒いマントを着て、破れた学帽をかぶっている)
ファイヤーストームの炎が天を焦がす中、高らかに寮歌を歌い、太鼓を叩き、校旗をかついで、
香林坊界隈を肩を組んでねり歩いた。そんな久しく忘れていた光景が、懐かしく思い起されるのです。
ちなみに、私の小学時代は四高を遊び場に、小学校は武家屋敷の一角にある長町小学校。後に学校統合で廃校なり、
観光バスが停まる市営駐車場になった。
中学は、小立野台の紫錦台中学(旧制金沢二中)。行き帰りは、兼六園が通学路だった。現在、
校舎の一部が文化財として保存され、歴史博物館になっている。
高校は泉ケ丘高校(旧制金沢一中)。戦前であれば、二中から一中に転校したことになる。何れも階段教室があり、明治・
大正・昭和初期の歴史と伝統が香りいっぱい残る学び舎で学ぶことができたのは、この上ない幸せです。
後に何れも取り壊され、平凡な鉄筋校舎に造り替えられたのは、寂しい限りです。
■橋本佐内の「啓発録」
橋本佐内は幕末福井藩の士。藩主松平慶永の側近として、藩校の学監をしたり、
藩政改革に当たったりした。積極的攘夷開国論者で、将軍継承で慶喜擁立に
活躍。反対派井伊大老のため、若年26歳にして吉田松陰と共に、安政の大獄で
処刑された。
左内十五才のとき、これから後の自らの生き方を明らかにする戒めとして、
「稚心を去る」 「辰気」 「立志」 「勉学」 「択交友」 |
子供じみた心を取り去り 気力を養い 向上心を持ち 勉学を怠らず 自分を戎めてくれる友人を持つ |
の、五項目を文章に書き記した。
これは「啓発録」として、
左内の思想や生き方の根幹を成す名文として、
後世に名を残すことになる。
それにしても、若干十五才にして、これほと格調高く、高貴な精神を書き記すとは、
他に例を見ない。西郷隆盛をして、「友として最も尊敬する」と言わしめた、
幕末福井藩の偉人です。 この「啓発録」、一度は読んでおきたいものです。
【心と体の健康情報 - 194】
~歴史から学ぶ~
「日本人に根ざす伝統的精神を見直そう」
以下、衆議院議員 小野晋也「日本人の使命」からの抜粋です。
江戸幕府を倒した政府が、天皇を中心とした新しい国家を立ち上げた。 それまで支配階級だった全国の諸藩、旧幕藩体制を、一滴の血も流さずに廃止することに成功し、 政権移譲が出来たのは、西欧諸国から見れば奇跡なのです。 その時の変革を”明治革命”ではなく”明治維新”と言った。江戸時代の伝統と文化を尊重し、
受け継ぎ、その上に新しい日本を創ろうとしたのです。 明治になって日本が大きく飛躍することができたのは、過去の歴史に培われた伝統・ 文化を大切にしつつ、優れた外国の科学技術と文化を取り入れ、和魂洋才を積極推進したことにある。 学問からみれば、江戸時代、読み書き・算盤が国民の間に広く普及していたことが、
明治になって数多くの人材を輩出するに至り、飛躍の礎になったのです。 |
NHK来年の大河ドラマは、司馬遼太郎の「坂の上の雲」。日清・日露戦争の中、明治の日本に名を残していった人たち。 それぞれが与えられた分野で素晴らしい活躍をして、近代日本の礎を築いた。
日清・日露戦争に勝った日本、その後、自らの民族を神の国と慢心し、大陸へ侵攻。太平洋戦争へと突き進んだ。 そして敗戦。敗戦を機に、日本は新たなる”維新”に取り組んだ。そして、過去の歴史、文化、教育を否定することで、 平和国家を創りあげようとした。
誤りを認めることはやぶさかではない。しかし、過去長きに渡って築き上げ、
受け継がれてきた、日本人の根底にある伝統的精神を否定してしまうのは、
今となってみれば、大きな過ちであったように思うのです。
その典型が、一昔前、あちこちの小学校に見られた「二宮金次郎」の銅像。
今はどこにもない。私が学校で教わった偉人は、リンカーンやエジソン、ニュートン、ライト兄弟など、西欧人ばかり。
私たちの祖先には、西郷南洲、水戸光圀、本居宣長、山岡鉄舟、上杉鷹山など、
今日の日本の礎を築いた幾多の偉人たちがいることを、学ばなければならない。
我が郷土には、近代日本を代表する哲学者、西田幾太郎博士がいる。
隣の福井県には、幕末勤皇の志士、橋本佐内がいる。左内が15歳の時、自らの生き方と志を認めた「啓発録」
は、その崇高な文章内容に驚きと感動を覚える。
そういった近世の思想家たちが、どんな活動をし、偉業を成し遂げ、
日本のお役に立ったのか、今の私たちに知る人は少ない。
今の中高生に「尊敬する人は?」と尋ねたら、こういった偉人たちの名前が
挙がることはないだろう。
■二宮尊徳翁の人生哲学
人 生まれて学ばざれば 生まれざると同じ
知って 行うこと能わざれば 知らざると同じ
故に 人たるもの 必ず 学ばざるべからず
学びを為すもの 必ず 道を知らざるべからず
道を知るもの 必ず 行なわざるべからず
※「生き方理念」又は「座右の銘」にしておきたいような、重みのある言葉です…。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 第79号】
~歴史から学ぶ~
「二宮金次郎の偉業」
この27~28日の二日間、静岡県掛川で、経営研究会全国大会が開催される。
大会のメインテーマは二宮金次郎。そこで、予習のつもりで、尊徳がなした
偉業をまとめてみました。
金次郎が18才のとき伯父の家を出、名主の岡部家に寄宿した。ここでは休みがもらえたので、
洪水で流された二宮家の田畑を修復し、日雇いをして貯めたお金や米を、困っている村人に無利子で貸付したりした。
それはやがて、お礼となって戻ってきた。
20才のとき、荒れた我が家の田畑の修復を終え、父の借金で失った土地の一部を買い戻し、
米二十俵と若干の資金を持つ身となって、自立した。
その後も勤勉力行、十年後には田畑四町歩を所有し、小作米百俵を得るまでになった。自らは、 商家に奉公して商いの道を学び、武家に奉公して、たしなみや家風を学んだ。この時期に”尊徳哲学” の基礎が出来上がったのです。
「積小為大」…小さなことを積み重ねて、大きな事を為していく。 |
「物心相関」…物が関係した貸借も、お互いの心に感謝の交流を生む |
「分度と推護」…分に従って度を立てる。 |
|
この頃、観音経に出会う。その仏の教えも結局は、人の生きる道や百姓の道を説いている、ということを悟る。
金次郎が出入りしていた、小田原藩家老服部家は禄高1200石。ところが実収は400俵で、家計は火の車。悩んだ挙句、
尊徳にお家の建て直しを依頼する。
金次郎は引き受けるに当たり、向こう五年間言うことに従ってほしいと、条件を出した。主人夫婦以下、
屋敷内全員に厳しい生活規制を課し、守らせた。
五年の後にはすべての負債を弁済し、なお三百両の蓄えを残した。
頂いた礼金百両は、すべて服部家の下男下女に分け与えた。
そうしたことが小田原藩中に伝わり、神仏の再来、聖人と噂された。
一方、五年も家庭を顧みなかったため、妻は実家に帰ってしまい、離婚。
服部家は責任を感じて、後添えを世話した。これが、後に名夫人とうたわれる”波子”である。
その実績が買われ、小田原藩が持つ茨木県の所領の窮乏を復興させるべく、三年越しで金次郎に救済を仰いだ。今度は、
服部家のようなわけにいかない。
尊徳の超人的働きと人望によって、人心を一つにまとめることに成功。幾多の難題を乗り越え、苦労の末、復興を成しとげた。
所領立て直しの評判が関東一円に広がり、今度は、幕府からのたっての依頼。
断りきれずに、日光御神領の復興に当たる。金次郎は、小田原藩から頂いた謝金五千両に、
今のお金にして十億円有余を自費拠出。更に、日光近在の農民五千余人にも、お金を無利子で貸付けたりした。
高齢にして病を押しての復興事業。その三年後に中風が悪化。事業半ばにして、七十才の生涯を閉じた。
尊徳が唱えた”
報徳思想”は、死後弟子たちに受け継がれ、全国各地の報徳社設立と、
活動へと連なっていく。尊徳の教えを受けて、家政を立て直した農民大衆は幾千万にのぼるという。
尊徳思想は、政府の自治行政にも取り入れられ、戦後の農業共同組合創設へとつながっていく。
上田三三生著「日本の系譜」
より
■二宮尊徳の死生観がよく表れた「二宮翁夜話」の一節
「人は生まるれば必ず死すべきものなり。
死すべきものということを、前に決定すれば、
活きて居るだけ日々利益なり。これ予が道の悟りなり。
生まれ出ては、死のあることを忘るる事なかれ。
夜が明けなば、暮るるという事を忘るる事なかれ。」
物心つくころから常に、人のため、村のため、国のため、
懸命に働き続けてきた、尊徳翁の思想がここに表われている。
【心と体の健康情報 - 193】
~歴史から学ぶ~
「戦後教育から抹殺された二宮金次郎」
私の子供の頃、少し田舎の方へ行くと、小学校の校庭に薪を背負って本を読んでいる二宮金次郎の銅像が立っていた。 ところが、学校で教わることはなかったので、名前は知っていても、何で偉くなったのか知らないまま大人になった。数年前 「致知」に連載され、日創研がビデオを制作して広く啓蒙したりして、ようやく二宮金次郎の偉大な諸業を知ることとなった。
ほとんどの方はご存知でしょうが、改めて金次郎の生い立ちを書き表してみました。
金次郎は、1787年相模国、現在の小田原に生まれた。五才のとき付近の川が氾濫して、 二宮家の田畑はほとんど流出した。その窮乏の中で、金次郎が十四才と十六才のときに相次いで両親を失う。 二人の弟は母の実家に預けられ、金次郎は伯父の家に寄食し、働いた。 学問好きの金次郎は、洪水跡の荒地に菜種を蒔き、それを油屋に持っていって油と交換し、
夜なべ仕事が終わった後も、寝る間を惜しんで勉強した。 |
上田三三生著「日本の系譜」より
薪を背負う道すがら読んでいる書物は「大学」である。儒学の「四書」、つまり「大学」「中庸」「論語」「孟子」
の四書を、幼少のころから学ぶのが、当時の習いであった。
私も縁があって、昨年から六十の手習いよろしく、「論語」「大学」「中庸」のさわりを習っている。
私が学生だった頃の教育は、古いものはすべて悪。戦前の教科書に載っていた日本の歴史上の偉人たちは、一掃されてしまった。
で、つい最近まで、二宮金次郎が教科書から削除されたのは、占領軍の命令によるものと思っていた。
ところが、占領軍は逆に「尊徳は日本におけるリンカーンである。新生日本は、二宮尊徳に学ばなければならない」と、
奨励していたという。意外でした。
【吉村外喜雄のなんだかんだ 第75号】
~歴史から学ぶ~
「イラク紛争、歴史は語る」
アメリカで、太平洋戦争の激戦地硫黄島を映画にする話が持ち上がっている。
(硫黄島/米国の死傷者…約二万七千名。日本軍の戦死者…二万名)
太平洋戦争。日本と戦ったアメリカは、サイパン、硫黄島、沖縄と攻め上ってくるとき、徹底抗戦!
降伏しない日本人にほとほと弱り果てた。
このまま背水の陣で待ち受ける本土決戦に臨んだら、あと一年半は戦いが続き、連合軍の死者は新たに百万人覚悟しなければならない。
そのように米英軍部は、ルーズベルト大統領に報告した。
日本民族は、欧米文明の尺度をもってしては測れない、異質の心性の持ち主で
あるとの思いが大統領をさいなむ。そこで日本の都市を焼夷弾で焼き尽くし、
原爆を落とす作戦に出た。
三月に放映されたNHKの特集によれば、東京大空襲で10万人死んだ。
全国四十数か所を焼き尽くして、更に30万人が死んだ。そして原爆を二個落と
した。
ようやく終戦を迎え、日本を統治することになった米国。あれほどこわもての
日本人が、ゲリラなどで抵抗するでなく、猫のように従順で、おとなしくなって
しまった。
そうした過去の経験を生かし、アメリカはイラク問題に取り組んだ。当初の計画
通り、フセイン政権を瓦解させ、新しい国づくりに取りかかった。ところが、ゲリラ
が荒れ狂って国が治まらない。困惑の極みである。日本人もイラク人も、爆弾を
抱えて敵陣で自爆することをいとわない民族。この違いは何だろう?
二月中旬、NHK・BS2で、久しぶりにアカデミー賞大作「アラビアのロレンス」
を見た。ロレンスは、敵(トルコ軍)の裏をかき、不可能と思われていた砂漠を
横断し、敵の背面を突く作戦に出た。
必死の思いでようやく死の砂漠を脱出し、井戸に取り付いて渇ききった喉を癒し
た。そこへやってきた土着民(井戸の所有者)に、案内役のアラブ人が、やにわ
に射殺されてしまった。他部族の土地で、他人が所有する井戸水を、無断で飲
むのは泥棒と同じ。殺されても文句が言えない。
ロレンスが抱いた理想は、イギリスやトルコ、フランスの植民地から独立して、
アラブ人による、アラブ人の民主国家を創ること。単身、アラブ部族を率いい
て、ダマスカスに攻め入り、陥落させたまでは良かった。
今のイラクと同様、どの部族の長を大統領にし、どの部族から首相を出すか…。
議場内は、部族間の利害から罵声が飛び交うばかり。収拾がつかなくなった。
どうにもならない。各部族は大同団結をあきらめ、散っていった。
ロレンスがいくら説いても、自分の部族の利益を優先するばかり。アラブの大儀
などカケラもなく、「アラブ人の国家を創るんだ!」と説いても、言っていることが
空しい。ロレンスが命をかけて戦い、描いてきた夢は、はかなくも崩れ去った。
アフリカからイラン、イラク、中東一帯は、小部族が群雄割拠する土地柄。
紀元前753年、現在のローマ市の七つの丘を中心に、周囲わずか10キロの
新生ローマが誕生した。そしてその後一千年、あの偉大な帝国を創りあげた。
そのローマが、イタリア半島の七割を支配するようになるまで、四百年の歳月を
要している。半島に点在する他部族と戦い、コテンパにやっつけて、二度と反乱
を起すことのない、強靭な中央集権国家を創りあげるのに要した年月なのです。
イラクも部族国家。よほどの英雄傑物が排出されない限り、割拠する部族をまと
めていくのは至難の業。部族の長から見れば、国王や大統領の存在は邪魔に
こそなれ、無用な存在。その上宗教・宗派が違う。
フセインは、まれに見る偉大な政治家。が、国内のクルド族や、他宗派の部族を
弾圧することで、国家の統一を維持してきた。
どの部族も、先祖伝来の土地を大切に守り、受け継いできた。同じアラブ人で
ありながら、互いに争ってきた長い歴史がある。故に国家意識は極めて薄い。
何が嫌かといえば、他の部族に大きな顔をされ、政治的支配を受けることです。
他の部族の支配に甘んじて、言いなりなるなど、絶対に許せないのです。
あの偉大なチトー大統領亡き後に、長年抑え込まれていた怨念が、民族間の
争いとなって表面化し、国家が幾つにも分裂したユーゴスラビアなどは、その
良い例でしょう。
こうした部族に、日本人が持つ譲り合いの精神、「共に勝つ」「共に栄える」の
精神で臨めば、これほど国が混迷することはないと思うのですが…。
お年玉に貰えたら嬉しい…。そんな話題を一つ。
昨年末、ソニーがリニューアル発売したペット型ロボット犬「AIBO」は、留守番ができる優れもの。周囲の物の動きや音に反応して首を振り、
画像や音声を自動的に記録する。その画像を電子メールで「飼い主」の携帯電話やパソコンに報告してくる。
アイボに話しかけることにより、パソコンにセットした音楽やCD、保存してある音楽ファイルを、アイボのスピードで再生する。また、
あらかじめ登録しておいたCDジャケットや写真をアイボに見せると、音楽を再生してくれる。
価格は194,250円と、ちょっとお高いが、毎日の散歩や餌やりは不要。ペットに求められる癒し系の機能も多彩になったので、
生きた犬を飼うことから思えば、お値ごろかも。
家族の名前を登録しておき、アイボが目で認識すれば、喜ぶ動作をするという。
今なら話題性バツグンです。
【心と体の健康情報 - 177】
~歴史から学ぶ~
「日本の国旗・日の丸」
私の子供の頃は、お正月や旗日になると、家の前に国旗を掲げるのが当たり前だった。
それが、戦後教育を受けた私達の世代になって、そういった習慣・風景がまったく見られなくなってしまった。
日本人が、自国の国旗を敬わず、粗末にするのは、教育のせいでしょうか?
私達に、国を愛する心が無いからでしょうか?あるいは、日本人として生まれたことへの幸せに気づかず、
感謝の心がないからでしょうか?
それとも、日の丸の旗そのものが、国旗にふさわしくないと思うからでしょうか?
ところで、日の丸が日本国の国旗になったいきさつをご存知でしょうか?
太平洋戦争の忌まわしい歴史のシンボルと、学校の先生の一部は、今も日の丸を国旗として認めようとしない。戦後60年、
国旗論争の進展がないまま、いつまで否定し続けるのでしょうか?
子供たちに正しい歴史認識をさせることが大事で、天皇や国旗を否定する偏った教育は、そろそろやめるべきでしょう。
151年前の嘉永六年(1853)、黒船四艦が浦賀沖に現れ、徳川幕府に開国を迫った。
軍艦四隻には、アメリカ合衆国の国旗、星条旗がひるがえっていた。 その時にペリーは、幕府の役人に忠告した。「日本には、国旗というものはないのか? 国際法では、 国旗をつけていない船は、国籍不明船として、大砲を撃ち込んで沈めてしまってもいいことになっている。 来春又来るが、その時までに国旗を定めておくように」…と。 薩摩藩主、島津斉彬(なりあきら)や、当時の幕府の海防参与、水戸の徳川斉昭(なりあき)は、
古代から日本人が愛してきた、かがやく太陽のマーク「日の丸の旗」を、総船印とすることを強く提案した。
翌年早々、オランダに発注していた日本最初の大艦が長崎に到着した。
早速総船印を掲げなければならないのに、双方主張を譲らず、歩み寄ろうとしない。 最後は、海防参与の徳川斉昭の「日の丸にする」との、断固たる決意・気迫に、
幕府の重役も従わざるを得ず、安政元年(1854)7月9日、「日の丸」を総船印にすることが決定し、
天下に布告された。このときから「日の丸」の旗が日本の船の旗印となった。 6年後の安政七年、艦長勝海舟以下90名が乗り込んだ咸臨丸が、太平洋を渡った。その時「日の丸」 は船印ではなく、日本の国旗として、遣米使節団とともにアメリカ大陸で初めてひるがえった。 咸臨丸がサンフランシスコ港に入るや、歓迎の祝砲が放たれ、 港に停泊していたアメリカの船のマストに、日の丸の旗が掲げられた。それを見た咸臨丸の人たちは、 胸を締めつけられ、涙を流したという。 パナマを回ってニューヨークに到着した使節団は、用意された四輪馬車で、市民の大歓迎を受け、 街頭には日の丸がはためき、子供たちが日の丸の旗を打ち振っていたという。その後使節団は、 ヨーロッパ諸国も回ったが、シンプルな日本の国旗は、どこへ行っても大いに好感を持たれたという。 致知出版社 境野勝悟「日本のこころの教育」より |
もし、あなたが憧れる国があって、移住したいと思っても、その国の国民でなければ、
住むことも入国することも許されません。世界のどの国よりも平和で豊かな国、日本。今私達が安心して平和に暮らせる場所は、
日本以外にありません。
子供たちや子孫のために、日本という国を大切に守り、育てていくのは、私達国民の義務でしょう。
■「世界本の日」
先週の金曜日、4月23日は「世界 本の日」
。1995年にユネスコ総会で認知されたが、知っている人は少ないようです。
”本の日”の由来は、「スペインのカタロニア地方は、この日が聖人のお祭り日。
男性は女性に赤いバラ、女性は男性に”本”を贈る習慣があることから…」という。
普段、どんな本を読み親しんでいるかで、「お前がどんな人間かわかる」という、「本の日」のことを書いていた、中日春秋の末尾の言葉には”
ドキリ”とした。
日曜日はお天気が良かったので、鶴来の白山ひめ神社へ。孫の健やかな成長を願って、息子夫婦とお参りに行った。
ついでに向かいの「樹林公園」を散策した。八重桜が満開で、つつじの花もほころび始め、
公園中若葉が芽吹き、何とも清々しい。連休はつつじも満開になるでしょう。お薦めのリフレッシュ穴場です!
【心と体の健康情報 - 143】
~歴史から学ぶ~
「懐かしき昭和」
私が生まれ育ったのは金沢の繁華街香林坊。現在の入江に引っ越してくるまで、47年間住んでいた。私の家の左隣が”
第一勧業銀行金沢支店”(現みずほ銀行)、右隣が”石川銀行本店”でした。
両銀行とも、私が中学の頃、昭和三十年初頭に新築し、現在に至っている。
しかし、それも今はもう無い。みずほ銀行と合併した第一勧業銀行は、重複店解消のため売却されることになった。
一方の石川銀行は、2001年12月に破たんし、既に人手に渡っている。
子どもの頃140世帯あった町会は、再開発を繰り返すたびに、東急109、大和デパート、生命保険会社などに取って代わり、
私が引っ越す時、わずか4世帯になって、山間の過疎地のようになってしまった。街はにぎわっているのに、
付き合う隣人もなく、人が住む町ではなくなっていた。
ところで今、全国的な昭和ブーム。東京の「台場一丁目商店街」、大阪の「なにわ食いしんぼ横丁」などが評判になっている。
大分県の豊後高田市の商店街が、空き店舗六店と、隣に並ぶ既存店八店舗を、「昭和の町」
と名づけて、昭和三十年代の看板や装飾を施して外観を統一し、店の奥に眠っていた当時の看板や、
商売道具を店先に展示したりして、「昭和の町」の雰囲気づくりに心を砕いた。それが評判となって、
多い日には四十台の観光バスが訪れる商店街に生まれ変った。
◆豊後高田市 昭和の町オフィシャルページ
平成不況が長く続き、将来が不透明で混沌としている。昭和三十年代から四十年代にかけて、日本が急成長していた頃が、
とりわけ懐かしく思われる。そんな年代が、日本の総人口の六割近くを占めている。
一方若い世代も、自分たちが生まれる前の昭和に興味があるようで、服飾のデザインや家具、
音楽などに回帰ブームが見られるという。
近くでは、福井県立歴史博物館の「昭和のくらしコーナー」が、当時の駄菓子屋、本屋、食堂などの商店街を再現し、自動車、
家電製品、家庭雑貨、食品などの生活日用品を当時のままに展示していて、昭和の雰囲気が楽しめる。
旧美大校舎の石川県歴史博物館も、明治・大正・昭和の金沢の暮らしを回顧することができる。
私が通っていた長町小学校は廃校となり、武家屋敷に取り込まれて、江戸時代の町家が移築されている。
又私が通っていた紫錦台中学の本館校舎は、元金沢第二中学のおもかげを残す金沢市の保存建築物。
金沢の民俗文化財の展示館になっている。この連休はご家族を伴って、金沢の昔を再発見しに歩くのもいいかも…。
■西田幾太郎博士
私が育った自宅から数分の所に、第四高等学校(現在の中央公園)があった。
小学生の頃、学校前の七ケ用水の生垣の穴から校庭にもぐり込んで、よく遊んだものです。
その四高に、郷土が誇る哲学者(宇ノ気出身)、西田幾太郎博士(1870~1945)がいる。
西田博士は金沢一中から四高に入学したが、在学中に義務づけられた軍事教練に反対して、退学処分になっている。
そのあと帝大を出て再び四高に戻り、やがて教授になり、後に京大で教鞭をとった人です。
■民主主義国家になる前、軍国主義が台頭していた頃の博士の言葉です。
民主主義が保障する「自由」「平等」「博愛」。 この思想を社会に実現するためには、「自由には責任」「平等には差別」「博愛には厳罰」という反対概念が、 社会に広く認知されていなければ、民主主義は単なる愚かなる民衆へと堕落していくだけ |
と説いている。今の時代を見透かしているような、意味深い言葉てす。
【心と体の健康情報 - 142】
~歴史から学ぶ~
「イラク人質事件」
前にも書いたが、日本がアメリカと戦争して敗戦国となり、占領軍がやってきた。戦時中、アメリカに徹底抗戦を叫び、 竹やりでもって国民総玉砕を叫んだ軍部が、沖縄で住民を巻きこんで、悲惨な結末を迎えることになった。
ところが原爆が落とされ、主要都市が焼け野原になって終戦を迎えた本土では、 米軍に徹底抗戦し、ゲリラ戦を挑むものはいなかった。お陰で、終戦と同時にいともあっさり平和な世の中が戻ってきた。
六十年前の日本と同じく、米軍との戦いに破れ、占領されたイラク。終戦後、
旧軍隊と大量の武器は散りじりになったものの、イラク国内にそのまま温存された。その残った組織がゲリラとなり、
いたずらに米軍に攻撃を仕掛け、占領軍の殺りくを繰り返した。
こういった行為がなされなければ、この国も又、平和裏に戦後統治と、治安維持がなされ、復興、
そしてイラク人政府への禅譲が、とどこおりなく実施される筋書きになったはずである。
米軍が理由もなく、イラク人を殺りくしたりしないことは無論のことである。しかし現実は、 やられたらやり返す。意味のない憎しみだけが双方に膨らんでしまい、押さえようがない状態になってしまった。
以下”自由には責任”という観点から、4月19日(月)読売新聞「編集手帳」 を転載します。
イラク戦争開戦前の昨年二月、イラクや周辺国の日本大使館員は、日本から来た
「人間の盾」志願者に悩まされていた。空港などで「イラクは大変危険だ、退避勧告が出ている」と説得しても、
「心配無用」と無視される。米国の武力攻撃を止めたいという「善意」の日本人は百人を数えた。 空爆後も、バクダッドの変電所や浄水場には十人が残る。一方、出国支援を求めた人を、 隣国シリアの大使館員が国境まで出迎え、救出した事例もあった。 結果的に「人間の盾」で命を落とした人はいなかった。そのことに安堵しつつ、大使館員には疑問も残った。 確かに、邦人保護は外務省の仕事だ。しかし、自らの「信念」で活動する人まで保護するべきなのか? 欧米各国では「報道関係者と人間の盾は、自己責任原則だ」とし、入国した人数すら把握していなかった。 それから一年…。イラク人を助けたいという「善意」の日本人が、 大使館の目の届かないうちに危険地域に入っていた。 「善意」や「信念」は状況や相手によっては、「独善」に陥りかねない。一連の人質事件は、 改めてそれを証明している。「信念」の人には今後、強制的に規制するよりも、 自己責任を徹底させるべきだろう |
今回の事件で、「イラクに自衛隊を派遣した結果起きた事件である」というふうに、
問題のすり替えをすべきではないと、新聞は一様に論説している。
無事救われたから良かったものの、もし殺されていたら、日本の世論は政府の責任を追求するのだろうか?
今一度、西田幾太郎博士の「自由には責任」「平等には差別」「博愛には厳罰」
という反対概念の責任が伴うことの意味を、噛みしめなければならない。
当時の日本の国民が置かれていた状況は、今の北朝鮮のように、自由・平等・博愛などは、国民の中に存在しなかった。
そんな時代での博士の言葉なのです。
■映画「ラスト・サムライ」
トム・クルーズ主演の「ラスト・サムライ」。大きな反響を呼んだ作品だけに、見ごたえがあった。渡辺謙さんが演じた「勝元」は、
西郷隆盛と西南戦争がモデルだという。日本人の魂「武士道」を追求した映画だからこそ、誰もが感動したのでしょう。
助演男優賞が取れなかったのは、ちょっと残念です。
この映画の構想を練ったエドワード・ズウィック監督は、「七人の侍」の影響を受け、新渡戸稲造の「武士道」をすり切れるほど読み、
侍の心を知ったという。
日本人の魂「武士道」精神は、昨年の大河ドラマ「宮本武蔵」でも見られたが、この機会に改めて古き良き日本人の心、稲造の「武士道」
を読んでおこうと思う。
「(武士道は)その象徴とする花のごとく、四方の風に散りたる後も、尚その香気を以って人生を豊富にし、
人類を祝福するであろう」 (武士道の結びのことば)
【心と体の健康情報 - 138】
~歴史から学ぶ~
「日本人の心の継承」
教育の使命の一つに、「日本人の心の継承」がある。世の中がいかに進化しても、教育とは、
人を教え育てることであり、勉強の仕方には変わりがありません。
日本には、長い歴史の積み重ねから生まれた、日本固有の文化があります。
こういった文化を子供達に継承していくのが、教育の使命の一つでしょう。
日本の歴史を振り返り、日本の歴史を刻んできた偉人たちが、その時々に、何をなし、何を育て、
日本をどう変えてきたのかを学び、それを次の世代に伝えていかなければなりません。
そして、日本人だからこそ、日本人に生まれたことに誇りを持たなければならないのです。日本の伝統文化や、
日本人の精神を大切にしていく心を、養わなければならないのです。
戦後、こうした教育がなされなかったことが、日本人固有の伝統的文化、そして最も大切な「日本人の心」が、
日本人から失われていく遠因になっているのです。
さいたま市立島小学校教論”斉藤武夫”氏は、義務教育における間違った歴史観の見直しを強く訴えている。以下、
致知12月号の掲載記事からの抜粋です。
いま学校で歴史を学んだ子供たちの中には、
「日本のような国に生まれなければよかった」「日本人であることが恥ずかしい」
と歎くケースが少なくないという。 日本の戦争犯罪をことさら強調し、われわれ日本人の先祖が、どれだけ罪深いかという意識を、 子供たちに植え付ける、いわゆる”自虐史観”に基づいた教育が、1980年以来一貫して続いているからです。 中には過去の歴史を反省するためには、 時に史実を曲げてまでも日本人の悪事を教えなければならないと考える教師もいるくらいです。 歴史教育を通して、自分の国が悪い、先祖はとんでもないことをした。 そんなことばかりたたき込まれた子供たちが、どうして自国の歴史や祖先に誇りを持てよう。 国を誇り、先人の努力に感謝することもできないで、国際社会の中で貢献できる人材が育つはずがない。 まさに教育の悲劇としか言いようがない。 戦後の歴史教育は、ベルリンの壁の崩壊に始まる、東西の冷戦の終結をきっかけとして、 根本的な部分から見つめなおさねば、日本は新しい国際秩序の中で取り残されてしまうのでは、 という強い懸念に駆られる。 時代の変化に適応した、新しい歴史教育への転換が急がれるのです |
子供たちに正しい歴史認識を持たせるのは読書です。
健全な歴史物語を読ませるようにすることが大事なのです。
日本を築いてきた偉人を学ぶには、「日本人の系譜」上田三三生著(自由広報センター)
をお薦めします。
江戸末期から、明治、大正、昭和にかけて、数多く輩出した偉人の中から三十名の偉人を選び、一冊の本にまとめた、
大変詠みやすい本です。二宮尊徳、西郷南洲、渋沢栄一、安岡正篤などの、偉大な心と生き方を学ぶことができます。
■アフリカに、植民地になることを免れた国が…
東洋において、日本が欧米諸国の植民地にならなかったことを、私たち日本人は誇りに思っている。
同様にアフリカにおいて、西欧諸国の覇権争いに巻き込まれず、植民地となることを免れた国があったことを、ご存知でしょうか?
その国は「エチオピア」。エチオピアの国民は、そのことを大変誇りに思っていて、外国から来た人にそのことを話すとき、
みんな目を輝かせるそうです。
世界遺産が十幾つもあって、誇り高く、ひときわ愛国心の強い民族だそうです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ 第22号】
~歴史から学ぶ~
「国家と国民」
司馬遼太郎の「坂の上の雲」は、百姓国家日本が、ヨーロッパの大国ロシアを相手に、
日露戦争という途方もない大仕事に、無我夢中で首を突っ込んでいく物語です。
統一国家になって間もない明治日本が、国家の独立を守るため、国を挙げて努力の限りを尽くす。その時代に生きた日本人が、
身分の上下を問わず、それぞれに与えられた持ち場で必死に戦い、卓越した能力を発揮したがゆえに、為しえた快挙なのです。
さかのぼれば明治維新。日本が初めて一つの国家となる大革命を体験した。
その発端は、黒船による米国のどう喝外交にあった。当時の先進諸国は、東洋の国々に武力で脅しをかけて、
植民地を広げていった。
こういった軍事力を背景としたどう喝にめげず、怒りをもって、国を挙げた攘夷運動が沸き起こった国は、
数ある東洋の国々の中で、日本だけである。
もしこの時、幕府側と薩長側が、後ろ盾となっていたフランスとイギリスに援助を仰いで、国を二分する戦争をしていたら、
おそらくこうした列強につけ入られ、日本は二つに割られ、領土は割譲され、植民地への道をたどったことでしょう。
内乱に乗じて手を差しのべようとするのを、断固として拒否したことが、私達の祖先、明治維新の当事者たちの、
形に表れない偉業なのです。
徳川十五代将軍は、戦う能力が十分にあったにも関わらず、兵を引いた。
それに対して薩長側も無理押しをせず、両者がアウンの呼吸で、内乱を避けたのです。
江戸幕府から薩長の明治政府へ、無血政権譲渡が成立したことは、欧米の列強から見ると、驚くべきことだったのです。
中央政府である江戸幕府から、何ら干渉を受けることなく、独立国家の運営を任されてきた全国三百諸藩が、
素直に支配していた自領を明け渡すとは、想像もできなかったことです。
明治政府が誕生する以前は、まだ日本国という中央集権国家は存在せず、藩の人間ではあっても、
日本人であるという意識はなかった時代です。
江戸時代、武士階級のみならず、町人百姓に至るまで読み書き手習いに励み、
幼少の頃から四書五経をたしなんできた国民であるということ。そして、中国がアヘン戦争に負けて、
列強の餌食になっていく過程を、長崎から入ってくる情報によって、武士階級の多くの人たちが、知っていたことにある。
PHP「リーダーのための司馬良太郎」より
あの大きな世界のうねりの中、江戸末期から明治にかけて、日本がその歩む方向を誤らなかったのは、
無学文網の士が極めて少ない高い教育水準が、諸外国から入ってくる情報を正しく判断し、
処理する能力を有していたということです。
江戸末期、日本にやって来た欧米人は、慎まやかで礼節を重んじ、読み書きができる日本人に接し、
その教育レベルの高さに驚嘆したのです。
百姓の身分でありながら、学問に励んだ二宮尊徳。米沢藩の米百表の逸話などがその良い例です。
江戸時代に全盛期を迎えた教育土壌。全国津々浦々、農村にまで寺子屋があったことが、明治になって開花し、
素晴らしい人材を次々と輩出するに至り、国家を繁栄に導いたのです。
NHKの大河ドラマ「新撰組」を見ていれば、当時のことがよく解るのです。
●富山大空襲
「戦争体験を語り継ぐ人が年々少なくなっていく」という話を、富山市で建設会社を経営しているS氏に話したところ、何と、社長自身が 「幼い時に富山で空襲に合い、九死に一生を得た。運命の加護がなければ、自分は死んでいた」と言うのです。
空襲警報が鳴って、いつものように防空壕に母親と一緒に入った。顔なじみのご近所の人が十数人非難していた。ズズ~ン、
ズズ~ンと焼夷弾が炸裂する音が迫ってくる。みんな寄りそい、肩を寄せ合って身を縮めていたところ、自警団の人が頭上から、
「こんな所に居ると、焼け死んじゃうぞ!」と叫んだ。
母親は私を抱えて防空壕を飛び出した。自警団の誘導に従い、火の粉が舞い、家が焼ける中を必死に逃れた。
もしあの時、あの一言がなかったら、間違いなく全員焼け死んでいたという。
そのとき、逃げる方向を間違えて焼け死んだ人も沢山いたという。
「運が良かったとしか言いようがない」と、後になって母親が語っていたそうです。
私が疎開先から見ていた空襲。同じ時刻に、空襲の真下で生死の淵をさまよっていた。そのS氏と60年近く経った今、
昔の思い出を語っているのです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ 第17号】
~歴史から学ぶ~
「靖国神社参拝 2」
城山三郎の代表作「落日燃ゆ」を読んだ。主人公の広田広毅は、
外務省の官僚。省内では、吉田茂と同期である。ニ・ニ六事件の後首相になり、その後外相も務めた。
広田広毅は、戦争回避に努めながら、その努力に水をさし続けた軍人たちと共に処刑された、ただ一人の文人なのです。
東京裁判の間、自らの戦争責任に一切自己弁護せず、他人のせいにしたりすることもなく、粛々と判決に従った。
武士道精神を持った、まれに見る人格者だったのです。判決が出されたとき、首席検事をして「何とバカげた判決か」
と歎かせたという。
広田の妻は、夫の覚悟を察知し、夫の未練を少しでも軽くしたいという思いから、裁判中に自害している。
近代日本が転落していく中、何とか食い止めようと苦闘し、死んでいった外交官僚がいたことを、私達は知らなければならない。
この時代、すべての国民が自分の意思がどうであれ、歴史の運命に翻弄された。広田広毅も戦争犠牲者の一人だったのです。
戦争体験を語り継ぐ人が年々少なくなっていく。二月四日、北国新聞の朝刊を開いたら、戦中・戦後の激動期の十年間、
必死に家族を守ろうとした金沢の主婦の奮戦記が出版されることになったと、
社会面の三分の一を占める大きな記事で特集していた。
私は、太平洋戦争勃発の年の十月生まれ。疎開先で見た富山の空襲が、脳裏に焼きついている。
私の頭上を何十機ものB29が通り過ぎ、医王山が焼夷弾で真っ赤に浮かび上がったのを忘れない。
戦後、満州から叔父さん家族が引き揚げてきて、家に何年か居候したことも、古い昔の記憶です。イナゴも食った。
幼稚園の弁当は配給の小麦を、ふくらし粉でふくらまし、パンにしたものでした。中学1年まで芋粥が主食で、冬のおやつは、
芋を輪切りにして、炭火で焼いて食べた。芋で育った世代です。
そうやって、戦中・戦後の厳しい生活の中で、少年時代を過ごしたのです。
戦争を体験し、戦争の悲惨さを語り継ぐ、私の親の世代の語り部が、年を追うごとに少なくなっていく。
今の平和で豊かな日本は、父母や祖父母など、つい最近まで生活を共にしてきた先人たちの、
言葉では伝えきれない辛い人生体験と苦労の積み重ねの中から、もたらされたものであることを、忘れてはならないのです。
神戸の震災を体験したものでなければ、本当の震災の恐ろしさを語り伝えることが出来ないでしょう。大東亜戦争の末期は、
神戸の震災が日本中を襲ったようなものです。そのときに犠牲となった人たちのことを、私達は忘れてはならないのです。
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