国会は「尖閣問題」や「砲撃事件」 で、責任の所在をめぐり大荒れ… 非常事態が発生した時、 咄嗟に判断を下すのは難しいものです。 ましてや、 責任が我が身に振りかりそうだと、 責任の擦り合いになってしまう… 裁きの名奉行といえば、 大岡越前守や遠山金四郎が有名ですが、 同じ江戸町奉行にもう一人” 根岸肥前守鎮衛”という名奉行がいた。
逸話には…津波で、大船が永代橋に衝突するという事故があった。 永代橋が壊れ、 橋を管理する橋守が、奉行所に賠償を出訴した。 奉行・ 鎮衛は「天災のことゆえ是非に及ばず」と、その訴えを退けた。
納得しない橋守に鎮衛は、「船主に賠償させるのはよいが、 事故によって船も壊れた…そこに橋があったことが原因である。 よって、船主の損害を賠償しなければならない」と言い渡した。 橋守は、 即座に訴えを取り下げた。
災難に合ったとき…つい他人のせいにしてしまいがちです。
広い視点に立って、
皆が平等に甘受するにはどうすべきかを考え、
裁定した逸話です。
■ゴルフの始まりは…
青木 功「おれのゴルフ」
スコットランドの羊飼いが、暇に飽かせて杖で小石を打ち、ウサギの穴に入れて遊んだのが、ゴルフ発祥の有力な説と言われている。
「この石を、あの穴へ先に入れた方が勝ち…負けた方がおごることにしよう」なんて言ってやっていたのだろう… 回数を重ねるうちに、
負けないためにあれこれ工夫をするようになった。
「よく転がる石」を探してきたり、「硬い杖」を使ってみたり…道具をあれこれ工夫したことだろう…今もそうだから…。
もし、その時代に生まれていても、その遊びにのめり込んでいたと思うよ…。
始まりが何であれ、これほど道具(クラブやボール)に執着し、改良し、進化してきたスポーツは、他にないだろう。
コースは自然を生かして、自然を楽しむ。雨や風も自然。それに逆らっていては、ゴルフにならないのである。
【心と体の健康情報 - 660】
~古典から学ぶ~ 孔子の教え(22)
「論語から学ぶゴルフ道」
私がよく行くゴルフ練習場…トイレをするとき、顔のまん前に張ってある言葉…「他のスポーツと違って、
ゴルフは審判の立会いなしに行われる。
又、ゴルフは、プレィヤー1人ひとりが、他のプレィヤーに対しても心配りをし、ゴルフの規則を守ってプレーするという、
その"誠実さ"に頼っている…(略)」
「子曰く 徳は弧ならず 必ず隣あり」(里仁第四)
「先師が言われた。徳のある者は決して孤立することなく、必ず思わぬところに、これを知る者が現れるものだ」
どんなにゴルフが上手くても、品性・品格に欠けた人物には、真の仲間は出来ない。ゴルフの上手さに魅せられて人が集まるだろうが、 人間としての魅力が薄いと、直ぐに離れていってしまう…。
これからパッティングしようとする同伴者がいるのに、目もくれず自分のラインの観察に余念のない、自分本位な人…
ゴルフの精神をご存じない人とお見受ける。
緊急の時、自分だけ助かろうと、必死にもがくタイプでしょうか…。
(これ、どうやら私のことを言っているようです…反省)
また、ティマークぎりぎりにボールを置く御人…グリーン上でもボールぎりぎり、 1ミリでもカップに寄せてマークをして有利に企ろうとする…性格に余裕がなく、品性は"さもしい"の一語に尽きる。
こうしたスコア至上主義者は、他人の目を盗んで、素早くライの改善をやるだろう…そのセコい性格から…生涯、 真の友人が出来ないタイプといえよう…。1ホール終わるまでに、人柄のすべてが露呈される…それがゴルフなのです。
夏坂健著「ゴルフを以って人を観ん」から
「子 怪・力・乱・
神 を語らず」(述而第七)
「先師は、弟子たちには、妖怪変化とか、腕力ざたとか、乱倫なこととか、神秘なこととかは、話されなかった」
ゴルフをプレーしていて、一か八かに賭ける「怪」、実力以上に力む「力」、秩序を乱す「乱」、邪神の心「神」がある…
何れも禁物である。
林の狭い木立の中から、一か八かグリーンを狙って、キンコンカン…そんな無謀なゴルフは、早晩サヨナラしなければならない…
3回に2回は失敗していることを忘れて、たまたま運良くクリーンヒットになったことが忘れられない…
スコアアップしたいと、何か特別なことをしようとするから、良くないことが起こるのです。たとえ曲げても、
その後は又フェアウェイのセンターに落とし、グリーン中央を狙えばいい…
"繰り返し出来ることをやり通す"
それが出来る人が上手な人で、それが出来ない人は下手な人です。
「子曰く 知者は惑わず 仁者は憂えず 勇者は恐れず」(子かん第九)
「先師が言われた。物事の道理をわきまえた知の人は、どんな問題に直面しても、判断を失しておろおろすることはありません。 人の道に外れない仁の人は、私欲を捨てて天理のまま生きようとするので、心に悩みがない。強い信念と決断力を持った勇の人は、 どんな状況に立っても、びくびく恐れることがない」
自然の大地を舞台にしてボールを追うゴルフ。思わぬハプニングに見舞われることを承知でプレーしなければならない。
不運を嘆いていては、良いプレーにはならない。どんな不利な状況に見舞われようと、それを「在りのまま」に受け入れることです。
「知・仁・勇」…これらをバランスよく備えた人こそ、真のゴルフファーなのです。
杉山通敬著「中部銀次郎・ゴルフの流儀」より
■四書の一冊「中庸」
曽子27歳のとき、孔子は73歳で亡くなりました。
孔子には、長男の"鯉(り)"はすでに亡く、"子思"という孫がいました。
10歳前後であったようです。
孔子は曽子に、子思のことを懇々と頼んで亡くなりました。
「子思の面倒をみてやってくれ、そして、彼を教えてやってもらいたい」
曽子は、孔子の教えを伝え残した人ですが、先生の言に違うことなく、
心を込めて、お孫さんを教育しました。
子思は立派に成長して、お爺さんの孔子の心がよく読み取れるようになりました。
孔子が生前、表面上説くことのなかった、心の内を体系化して、「中庸」を著した
のです。
子思亡き後、孔子の教えは"孟子"や"荀子"の思想に引き継がれていきます。
伊与田 覚「理念と経営/論語の対話」より
【心と体の健康情報 - 658】
~孔子の教え(21)~
「四書"中庸"とは」
モノゴトには、必ず「本(根本)」と「末(末梢)」があります。
立派な人間になろうと、「知識」や「技能」を身につけることは大切ですが、「道徳」「習慣」といった、人としての根っ子の部分…つまり
「人間学」をおろそかにしては、「人として成る」ことはありません。
四書の一冊で、中学のテキストである「中庸」は、「異なるものを結び、創造する」"調和"の学であり、"創造"の学です。
同質な考え方をする人ばかりでは、大きな力にはなりません。多くの異質の個性ある人物を集めて調和し、
そこに大きな働きを生じさせることが大切なのです。
ですから「中庸」は、人の上に立つ立場の人が学ぶ学問といえます。
大工も棟梁になれば、いつまでも、自分の腕を光らせているようではいけない。
自分の優れた腕を捨て、優れた腕を持った若者を育て、生かしていくのが、棟梁の大切な仕事になってくるのです。
先週末、三国志・赤壁の戦い「レッドクリフ・後編」を鑑賞した。
三国志の主役の1人"劉備"は、高い徳を具えた高潔な人柄に加え、「異なるものを結び、創造する」"調和と創造"の能力に優れていた…。
故に、張飛、関羽、趙雲といった異質の個性の強い武人や、諸葛孔明という、世に2人とない軍師を従えることができたのです。
対する魏の"曹操"をして、「我が軍に、あのような部下が1人でもいたなら…」と嘆かせる…そんなシーンが前編にあった。
孔子には三千人の門下生がいた。後継の弟子として大きな望みをかけていた"顔回"が、孔子70歳の時に、
40歳の若さで亡くなってしまった。
その時孔子…「天 予(われ)を喪
(ほろ)ぼせり」と、慟哭(どうこく)している。
四書の一つ「大学」は、孔子の弟子"曽子"が、孔子の教えを素直に受け継いで、孔子の思想を後世に残そうと、著した書物です。
「中庸」は、曽子の弟子で、孔子の孫にあたる"子思"が著したものです。
いい孫をもった孔子は幸せです。
伊与田 覚「理念と経営・論語の対話」より
■人生順境あり、逆境あり
人生、良いときも悪い時もある。「逆境」は誰にでも訪れる。
のがれることはできない。
このことを江戸時代の学者"佐藤一斎"が、言志四録の中の「言志晩録」で語っている。
「人の一生には、順調の時もあれば、逆境のときもあり、
幾度となくやってくるものである。
自ら検するに、順境といい逆境といい、なかなか定め難く、
順境だと思えば逆境になり、
逆境だと思えば順境になるといった具合である。
だから、順境にあっても怠りの気持ちを起こさずに、
ただただ謹んで行動するより仕方がないのである」
※言志四録
学問・思想・人生観など、修養処世の心得が1133条にわたって書かれた随想録
【心と体の健康情報 - 646】
~故事に学ぶ~ 「臥薪嘗胆」
今日は"臥薪嘗胆"のことばの意味と由来について…臥薪嘗胆(がしんしょうたん)は、「史記」の中に出てくる言葉です。
「1人の人間が目標を実現するために、自らに艱難辛苦を強いる」という故事から出た言葉です。
♪呉の国の王は、越の"勾践"との戦いに敗れ、運に見放され、死んでしまいました。
臨終のとき息子の"夫差"に、「必ず自分の無念を晴らせ」と言い残して亡なります。
呉の王となった夫差は、ひと時もその言葉を忘れませんでした。
眼には、父の無念を焼き付け、固い決意で毎晩毎晩、薪の上に臥して勝利を誓い、部下には必ず、父の遺した言葉を叫ばせるようにしました。
「夫差よ、お前の父の言葉を忘れてはならぬ」
『はい、決して忘れません。必ず勝利します』
呉王の夫差は、こうして自らに苦しみを課し、ひたすら兵を訓練して、時の来るのを待ったのです。そして、
とうとう念願叶って"勾践"を破ります。
勾践は会稽山(かいけいざん)に逃れるが、鍛えられた呉の軍隊に追われ、とうとう国を捨てて、夫差の家来になるという、
屈辱的な条件で降伏します。
その後、呉王・夫差に許された勾践は、自分の国、越へ帰るこが許されます。
が、身分は呉王の家来のまま…惨めな気持ちに耐えなければなりません。
勾践もまた、かって夫差が薪の上に臥して、亡き父に勝利を誓ったように、今度は勾践が、自らに苦しみを与えて、励みます。
その後勾践は、常に傍らに肝(きも)を備え、座るときも、臥すときも、飲食をするときも、いつも苦い"肝"をなめて「会稽の屈辱」
を思い出し、自らを鍛えた。
自ら田畑を耕し、夫人も自ら機を織り、夫を支えます。粗衣粗食に耐え、人材の育成に励み、部下の言葉に耳を傾け、苦難に耐え、
ひたすら勝利を誓った。
後になって、ようやく"夫差"を破り、念願を果たした。
越王"勾践"が最後の勝利者になった理由は、国が滅びるという屈辱的な状況でも、素直に部下の意見に耳を傾けたこと…
「戦って死ぬことは簡単です。だが、死ねばそれまで…再び越の国を興すには、恥を忍ぶほかありません」
絶対絶命の敗北を喫した越王"勾践"を励まし、導いた、"范(はん)れい"という良臣がいたことを忘れてはなりません。
「理念と経営/社長力」より
■「双葉山」名言
○弟子を教育するとき
「言って分かる奴は 言わないでも分かる、
言わなきゃ分からん奴は 言っても分からん」
○連勝記録を絶たれ、外国へ旅している父に宛てた電報
「イマダモッテケイタリエズ」 (我いまだに 木鶏足りえず)
[連勝記録・主な記録保持者]
1位/双葉山 …69連勝、36連勝、32連勝、29連勝
2位/谷 風 …63連勝、43連勝、35連勝
3位/梅ケ谷 …58連勝、35連勝
4位/太刀山 …56連勝、43連勝
5位/千代の富士…53連勝
6位/大 鵬 …45連勝、34連勝、34連勝、30連勝
7位/雷 電 …44連勝、43連勝、43連勝、38連勝
*
12位/小 錦 …39連勝
*
16位/朝青龍 …35連勝、27連勝
【心と体の健康情報 - 644】
~故事に学ぶ~ 「木鶏に似たり」
月刊誌「致知」の愛読者が、月1回集い・学ぶ会「木鶏クラブ」に、何度か出席したことがある。(全国に約100ヶ所の 「木鶏クラブ」があり、勉強会が行われている)「木鶏」という、日頃馴染みのないこの言葉は、 中国の古典"荘子"に納められている故事に由来し、「木鶏に似たり」とある。
パソコンで、"モッケイ、モクケイ、ボッケイ"と、漢字変換を試みたがダメで、"ボクケイ"と入力して、ようやく出てきた。
「木鶏に似たり」とは…「木彫りの鶏のように、物事に無心で臨むことで、万事に対処でき、困難に打ち克つ最良の方法になる」
という意味です。
♪昔、紀悄子という闘鶏を育てる名人がいた。
噂を聞きつけた王様…血統正しい鶏を名人に預けて、養わせた。
10日ほど経って、王様は尋ねた「どうだ、もう闘わせてもいいか?」
「いや、まだ"空威張り"して、闘争心があるからいけません」
もう10日して、「どうだ、もういいか?」と尋ねたが、依然として
「いや、まだです。ほかの闘鶏の声や姿を見ただけで"いきり立つ"からダメです」
さらに10経っても、
「まだいけません。まだ目を吊り上げて威張っているから…話になりません」
さらに10日経って、王様が尋ねると、
「もうそろそろでしょう…他に鳴くものありといえども、既に変ずる気配なし…
これを臨むに木鶏に似たり…その徳、全し」と答えた。
つまり、よその闘鶏が鳴いても、顔色一つ変えない…まるで、木彫りの鶏のようで、完全な闘鶏に仕上がっていたのです。
実際に闘わせてみると、ほかの闘鶏は、闘わずして逃げるではないか…。
褒められても、けなされても、態度は変わらず…泰然自若である。
荘子は、道に則した人物の陰喩として「木鶏の逸話」を描き、説いて聞かせた。
「道を極めた人物は、他人に惑わされることなく、ただ鎮座しているだけで、衆人の範となる」…と説いているのです。
※「荘子」
前369~286(推定)、中国戦国時代、宋国の思想家で、道教の始祖の1人といわれる。著書に『荘子(そうじ)』がある。
■"野中兼山(1615~1663)"のみやげ
土佐藩主山内候の家老で学者の"野中兼山"。藩の殖産興業に功績があったことで知られる。兼山、江戸から国もとに帰るとき、船1隻分、 アサリやハマグリをお土産に積んで、土佐の浦戸湾に戻ってきた。その当時土佐の海には、アサリやハマグリがいなかったのです。
先に書き送った手紙で知った親戚友人、「久しぶりに珍しいものが食べられる」と、
港に集まってきた。するとどうしたことか兼山は、人々の見ている前で、持ち帰った船1隻分のアサリとハマグリを、
全部海の中に投げ込ませてしまった。
人々は驚いて、「せっかく持ち帰った土産をもったいない。何も海に捨ててしまわなくても…」と詰め寄ると、兼山は笑って「いやいや、 諸君の土産にするだけでなく、諸君の子供、子々孫々に至るまで、いやほどアサリとハマグリを食べられるようにしたいと思うてな…」 と言いました。
あれから三百有余年。今では、こうした貝類…この土地の名産になっている。
長岡藩の「米百俵の精神」もそう…。今、日本政府は、百年に一度の大不況を乗り切ろうと、国のお金"2兆円"の使い道をめぐり、与野党・
議論沸騰…。
「子曰く 故(ふる)きを温
(たず)ねて新しきを知る 以って師と為るべし」
( 孔子が言われた。古いことを尋ねて、そこから新しいことを知る者は、
人の指導者になれる )
【心と体の健康情報 - 640】
~古典から学ぶ~ 「啓発録・交友を択ぶ(2)」
橋本佐内の「啓発録」から…前回の 「交友を択ぶ」の続きです。
友人には「損友」と「益友」がある。
その違いを見極めて選ばなければならない。 そこの点をよくわきまえて付き合うのが「益」である。つまり、自分の悪いところを遠慮なく注意してくれるのが、
「益友」なのである。 こうした人物は、いずれも交際する上では気遣いが多く、世間の人からは、はなはだしく嫌われているものである。
こうした人は、いずれもすぐに心安くなれるので、世間のつまらぬ人々が、その才智や人柄を誉めたりするが、 聖賢豪傑になろうと志すほどの人物は、友人を選ぶにあたって、彼らとは違った厳しい目を持たねばならない。 |
橋本左内の「啓発録」、江戸時代の末期に書かれ、150年を経た今日においてなお、その内容は驚くほど新鮮です。 我が故郷が誇る偉人として、子ども達に教え、後世に残し、伝えていかなければならない。
■教え子たちから、国民教育の師父と敬愛された"森信三"
「修身教授録」から…"心に残ることば"
*「人生二度なし」
人生を如何に生きるか…人生二度ないとなれば、甘え心もなくなる
*「人間としての軌道三か条」
一、毎朝、親にあいさつできる人間になる
二、親に呼ばれたら、必ず「ハイ」と返事をする
三、履物を揃え、立ったら椅子を必ずキチンと入れる
*「人間としてぎりぎり大事な二か条」
一、いったん決心した以上は、必ずやりぬく人間になる
二、人に対し親切な人間になる
*シャキッとした人間になる秘訣
座禅修行で「腰骨を立てる」ことを自得する
腰骨を立てると、背筋もシャキッと真っ直ぐになる…姿勢がよくなる…
心もシャキッとしてくる…無意識に出来れば、シャキッとした人間になる
【心と体の健康情報 - 638】
~古典から学ぶ~ 「啓発録・交友を択ぶ」
橋本佐内は15歳のとき、自らの生き方を明らかにする戒めとして、
「稚心を去る」「辰気」「立志」「勉学」「択交友」の五項目からなる「啓発録」を著した。
今日は「択交友・交友を択(えら)ぶ」から…。
「交友」とは、自分が交際する友人のことで、「択ぶ」とは、多くの中から選び出すという意味です。
自分と交際してくれる人があれば、みな友人として大切にしなければならない。 友人の中に「損友」がいたら、自分の力でその人のよくない面を、正しい方向へ導いてやらねばならない。
世の中には、益友ほどめぐり合うことが少なく、得がたいものはない。一人でも益友があったら、 何をおいても大切にすべきである。 飲み食いや歓楽を共にする友人であったり、行楽や魚釣りなどでなれ合うことは、よろしくない。学問の購究、
武芸の練習、武士たる者が持つべき志や、精神の研究などの上で、交わりを深めるべきである。 こういう損友とは、できるだけ会わないようにし、遊興への誘惑に負けぬ強い意志をもち、心安くなれ合いすぎて、 わが道義心をけがすことのないように、注意しなければならない。 |
私の19歳の頃は、大人の仲間入りをするのが楽しくて…酒の呑み方、女遊び、マージャンなど、何にでも興味しんしん…
仕事も覚えなければならなかったが、遊びも夢中だった。
そんな時「啓発録」を読み、「益友」と付き合うことに心を砕いていたら、少しはマシな人間になっていたかも…。
■人間学で、独自の哲学を確立した"森 信三"先生
「修身教授録・二第七講/志学」より
人生の基本は、まず"真の志"を立てることです。 そのためには、過去に大をなした偉人たちの、伝記を読むことです。 |
■青雲の志 "坂本竜馬"
「男児志をたてて郷関を出づ 学もし成らずんば 死すともかへらず」
※坂本竜馬、数えで19歳の時、剣術修行のため、藩からいとまごいを許され、
土佐から江戸へ旅立つ時に、詠んだものです。
この江戸行きが、幕末の快男児の活躍の始まりになる。
【心と体の健康情報 - 634】
~古典から学ぶ~ 「啓発録・志を立てる(2)」
橋本佐内は、天保五年(1834年)、福井藩お抱えの医師・橋本家の長男として、福井市に生まれる。 その佐内が15歳のときに著した「啓発録・立志」の続きです。
志を立てた人は、ちょうど江戸へ旅立つことを決心した人のようで、朝、福井城下を出発すれば、その夜は今庄、 翌晩は木の本の宿場というように、だんだん目的地に向かって進んでいく。 旅人が目的地とする江戸は、志を立てた者が目標とする聖賢豪傑の地位にあたる。今日、
聖賢豪傑になろうと志を立てたなら、明日、あさってと、次第に自分の聖賢豪傑らしからぬ部分を、取り去っていく。
|
(※聖賢…知識・人柄が最も優れた人)
"志"を立てたなら、その目標に向かって休まずやり続ける…そのことが、いかに大切か…そして本気でやれば、 いずれ必ず夢が叶うということを…。
とにかく、志を立てる近道は、聖賢の教えや歴史の書物を読んで、その中から深く心に感じた部分を書き抜いて、 壁に貼り付けておくとか、常日頃使っている扇などに、したためておくとかして、いつもそれをながめて自己をかえりみて、 自分に足らぬところがあれば努力し、そして自分が前進するのを楽しみとすることが、大切である。 |
「十有五にして学に志す」
は、論語の有名な言葉ですが、「志」を立てる時期について論じています。
15歳といえば、中学を卒業し高校に入る頃です。人生…どんな人間になりたいのか?何を志すのか? …「志」を立てるには、
大変大切な時期といえるでしょう。
自分の将来に志を持つか持たないかで、勉強への打ち込み方が異なってきます。
志のない者は、なぜ勉強しなければならないのか?理解できず、勉強することがつまらなく思うのです。
■一生を貫く志は? 森 信三「修身教授録・二第七講」より
「一生を貫く志は?」と、尋ねられて…
「将来立派な教育者になる」という程度に、漫然と考へていてはいけない。
もっと具体的に、詳細に、目標づけられていなければならない。
また、「野心」と「志」は、区別がいる。
「野心」とか「大望」は、自分の名を高める"自己中心的"なものです。
「世のため、人のため」というところがなければ、「真の志」とはいへません。
■「安岡教学」の普及に務めた、故・豊田良平先生のことば
「自分の決意と覚悟、そして行動によって、運命は変えられるものです」
「人生とは立命だよ…立命とは命を立てることです…志を持つ…これが立命です」
川人正臣編「仕事と人生」
【心と体の健康情報 - 632】
~古典から学ぶ~ 「啓発録・志を立てる」
前号に続き、
橋本佐内の啓発録「立志」からの抜粋です。
日本創造教育研究所・代表取締役・田舞徳太郎氏。
その昔、寿司屋に丁稚奉公していた頃…仕事を終え、宿舎に戻ってくると、四十ばかりの先輩職人が、酒に酔いつぶれて寝ていた。
その姿を見て…(自分の将来もこうなるんや)と思ったとき、
「俺は、こんなんはいやや! こんな人生はいやや…!」と、心の底からの叫びとなって、湧き上がってきたという。
「こんな人間にはなりたくない! 俺はもっと立派な人間になるんや…志を立て、必ず成功するんや…」と、我が身に誓ったと、著書
「人生三観」で語っている。
橋本佐内の「立志」では、"志"について、以下のように語っています。
世の中の人の多くが、何事もなし得ずに生涯を終えるのは、その志が大きく、そしてたくましくないからである。
|
人にはみな"夢"がある。しかし多くの人は、夢が夢のままに終わってしまう。
「なりたい」と思っているだけでは、駄目なのです。
「なりたい」思いを奮い立たせても、それに伴って"志"が立っていなければ、決心がゆるみ、後戻りしてしまう。
ところで、この"志"というものは、書物を読んだことによって、大いに悟るところがあるとか、
先生の教えによるとか、自身が困難や苦悩にぶつかり、発奮して奮い立ったりして、そこから立ち定まるものである。
一度"志"が立って目標が定まると、それからは日に日に努力を重ね、成長を続ける。まるで芽を出した草に、
肥料のきいた土を与えたようになる。 |
15歳の少年が、自らの"志"につについて、考えを述べたものです。
■人間学で、独自の哲学を確立した"森 信三"先生[修身教授録]
「二第三講・人生二度なし」から
『二度とない人生…その二度とない人生を、できるだけ有意義に送ろうとするなら、この人生が、二度とやり直しのきかない、
繰り返し得ないものであり、今日までの歳月のほとんどを、無自覚・無意味に過ごしてきたことを、深刻に後悔しなければならない。
同時に、今後残された人生についても、見通してかからなければならない』
※「一年の計は元旦にあり」…麻生総理は「書初め」で心中の決意を表した。
後は、実行あるのみ!
【心と体の健康情報 - 630】
~古典から学ぶ~ 「啓発録・稚心を去る」
橋本佐内…幕末福井藩の士です。我が故郷の偉人でありながら、学校で橋本佐内を学んだかどうか?記憶が定かでない。 五十を過ぎる歳になるまで、橋本佐内だけでなく、二ノ宮尊徳も、何で名を成した偉人なのか、知らなかったのです。
左内は、福井藩主松平慶永の側近として、藩校の学監をしたり、藩政改革に当たった。
積極的攘夷開国論者で、将軍継承では"慶喜"擁立に活躍。反対派の井伊大老に、安政の大獄で投獄され、
若干26歳にして吉田松陰と共に処刑されている。
その左内、十五才の時、「これから後の、自らの生き方を明らかにする戒め」として、以下の五項目を、文章に書き記している。
「稚心を去る」…子供じみた心を取り去り 「辰 気」
…気力を養い
「立 志」 …向上心を持ち 「勉 学」
…勉学を怠らず
「択 交 友」 …自分を戎めてくれる友人を持つ
これは「啓発録」
として、左内の思想や生き方の根幹を成す名文となり、
後世にその名を残すことになるのです。
それにしても、若干十五才にして、これほと格調高く、高貴な精神を書き記すとは…
西郷隆盛をして、「最も尊敬する友」と言わしめた、幕末福井藩の偉人です。
「啓発録」は、「稚心を去る」から始まります。
「おさな心、子供じみた心を取り去る」という意味のことが、書かれています。
鎖国をしていた日本、明治になって驚くほど国家が成長発展した。
その元をたどれば、武士社会のみならず、一般庶民の間に広く、「読み書き手習い」が浸透していたことにある。当時、来日した西欧人が、
庶民の学力に驚嘆し、その旨を本国に書き送っている。
以下は「稚心を去る」ですが、今の時代の家庭や、子供たちの姿を言い表しているようで、百年以上も前に書かれたものとは、 とても思えない新鮮さです。
毎日なまけて安楽なことばかり追いかけ、親の目を盗んで遊びまわり、 |
と、自らを戒めているのです。
明後日、毎年恒例の成人式が行われる。またどこかで、式場が荒れるのでしょうか?
教育制度が充実した今の時代にあって、左内と同じ年頃の若者が、少なからず「大人にはなりたくない、いつまでも子供のままでいたい」と、
本気で思っている…。
また、今の大学生で、親からの学費や生活費の仕送りに感謝し、自らの進路を明確にして、真剣に勉学に励む学生が、
どれだけいるだろうか?
福井県の友人に橋本左内の話をすると、皆よく知っている。学校で中学三年の頃、郷土の偉人として「啓発録」を読み、学んでいるのです。
「稚心を去る」…子どもじみた甘えの心を取り去り、志を立て、自立した人間・立派な社会人になるためには、 読んでおかなければならない古典でしょう。
■「孟子」名言
「自ら反(かえり)みて 縮
(なお)ければ 千万人といえども 吾往かん」
「自分が正しいと思うときには、たとえ相手が1千万人であろうとも、
断じてあとへは退かぬ。これこそが本当の勇気というものだ」
この「千万人…」の言葉、孟子が人から"勇気"について尋ねられたとき、
孔子の言葉として伝えている。
※孟子(前371?~289?) 中国戦国時代の賢人。
孔子同様、儒教の道徳を説き、政治理念にかなう統治者を探して、
20年の長きにわたり、中国を放浪した。その間に、為政者や弟子たちと
交わした言葉が、孟子の死後、「言行録」として編まれた。
【心と体の健康情報 - 624】
~古典から学ぶ~ 「性善説・性悪説(2)」
「性善説・性悪説」…その意味を私たちは、以下のように、間違って解釈しているようです。
「性善説」…人の本性は善である。よって人は、信じなければならない。
「性悪説」…人の本性は悪である。よって人は疑ってかかるべきで、信じては
ならない。
正しい解釈は…
「性善説」…人は生まれつき善の性質を持っている。
成長過程で学習し、人為的に悪行・悪知恵を身に付けていく。
「性悪説」…人は生まれつき悪の性質を持っている。
成長過程で学習し、人為的に善行を身に付けるようになる。
■孟子の思想…性善説
孟子は、『人の性の善なるは、
猶(なお)水の下
(ひく)きに就くがごとし』
と述べ、「人の性は善であり、どのような聖人も小人も、その性は一様である」
と唱えた。
本来人の性が"善"でありながら、時として"不善"を行うのは、この"善なる性"が、外部からもたらされるものによって、
失われてしまうからだとした。
そのことを孟子は、以下のように述べている。
『大人(たいじん・大徳の人)
とは、
其の赤子の心を失わざる者なり。
学問の道は他無し、
其の放心(失われた心)を求むるのみ』
「性善説」を唱えた"孟子"も、「性悪説」の"荀子"も孔子の弟子。
人間の本性は「善」なのか、或は本性は「悪」なのか…荀子は、孟子の「性善説」を意識して、あえて反対論を唱えた…
二千数百年を経た今の世に於いても、意見は対立したままで、答えは見つからない。
孟子言うには、孔子の教え「仁・義・礼・知」は、「人が外部から受け取るものではなく、生まれながらに所有しているもの…
そのことに気付かないだけ」だと…。
それを努力して伸ばしてやらない限り、人間は禽獣同然の存在となる。
教育して初めて、「仁・義・礼・知」の得を身につけることが出来る…と言っている。
薄学な私が思うに…人は生まれながら、善か悪のどちらか…ということではなく、善も悪も両方、潜在的に所有していると思うのです。
教育や環境によって、いずれかの方により強く染まり、何か事があった時、「善の心」「悪の心」いずれかが、
その人の個性となって強く表れてくる。
人間の高い知能が、そうさせると思うのです。
インドで起きた「狼に育てられた少女」の実話から、環境や教育によって、人間は人にもなれば、狼にもなれる…人は教育によって、
初めて人間になる…
すなわち、学問をすることによって、人間としての徳を身に付けるのです。
孟子も、荀子も、つまるところ、同じことを言っているのですが、2人の違いは、君主の国家を治める手法に表れてくる…
孟子は、君主は徳によって仁政を行い、人民はその徳を慕って、心服するようになる。
1人ひとりの主体的努力によって、社会全体を統治出来る…といった楽観的な、人間中心主義を唱えているのです。
対する荀子は、君主は社会を法制度に則り治めなければ、人間は良くならない…という、社会制度重視の考えに立っている。
前者は、後世に「朱子学」のような、主観中心主義への道を開き、後者は、荀子の弟子たちによって、そのまま「法家思想」
になっていきます。
※ 「性善説・
性悪説(1)」は、2005年9/13 に 配信。
「性悪説」を唱えた荀子の弟子"韓非子"については…
2005年10/4、10/11、10/18 の3回に分けて配信しました。
ブログ
「吉村外喜雄のなんだかんだ」を開き、
カテゴリー/月別分類、’05年9月と10月をご覧ください。
■"徳の人"松下幸之助 伊与田 覚
昭和35~6年頃、松下幸之助がまだ社長の時期でしたが、私たちの会で講義をしていただいたことがあります。
じっと耳を傾けておりましたら、「大学」の教えを講説しているように感じ取れましたので、「いつ"大学"を勉強されましたか?」と尋ねたら、
「いや、私は小学校四年を出るか出ないかなので、そんな難しい本を読んだことがありません」と言われた。
その時私は、「この方は人から聞き、多くの書物を読んで知ったのではなく、天から直接聞いたのだ…」と直感しました。
幸之助翁は85歳の時、松下政経塾を創られました。
塾生たちは大学を卒業した優秀な人ばかりだけど、絶えず言われたことは、「掃除はしておるか」「素直な心になれ」という、簡単な言葉でした。
「掃除をする」ことと「素直な心になる」ことは共通しています。
汚れたものをきれいに掃き清め、拭き清めれば、おのずから本来の姿が表れてくる。それは「素直な心」にも繋がり、「明徳を明らかにする」
に通じているのです。
孔子の教えは、例えば禅宗のように、特別の行を行うのではなく、日常の生活を正しく積み重ねることで、 その境地に到達しようとするものです。
【心と体の健康情報 - 610】
~古典から学ぶ~ 孔子の教え(20)
「大学の道は 明徳を明らかにするに在り…」
物事には必ず「本(根本)」と「末(末梢)」があります。
もそうで、根・幹・枝・葉と分かれ、しかもそれは、種のとき既に因子として備わっています。根は「本」、幹・枝・葉は「末」になります。
根がしっかり地中に這っていないと、幹・枝・葉は育たないし、根が弱ければ枯れてしまいます。
「大学」に、「物に本末有り」がある。立派な人間になろうと、「知識」や「技能」 を身につけることは大切ですが、「道徳」「習慣」といった、人としての根っ子の部分…つまり「人間学」をおろそかにしては、 「人として成る」ことはありません。
ですから「立派な社会人」になるには、「道徳」「習慣」といった"徳性"を育てなければなりません。それに対し、
その時代を生きるために身に付けるものが、「知識」「技能」になるのです。
こうした「道徳」「習慣」「知識」「技能」は、生まれながらに備わっている"知能"の働きによって、生まれてから後に、
吸収していくものです。
その中にも「本」と「末」の働きがあります。道徳や習慣が「本」、知識や技能が「末」…道徳・習慣を学ぶことが「本学」で、
その学問を「人間学」と言います。
一方、知識・技能を学ぶことは「末学」になり、「末学」を習得するのに必要な学問を「時務学」
と言います。
論語は、「子曰わく 学びて時に之を習う 亦よろこばしからずや
朋(とも)遠方より来る有り…」から始まります。
「大学」は、「大学の道は 明徳を明らかにするに在り…」から始まります。
「大学」は「大人(たいじん)の学」と言い、自分が立派な人間になり、人にも良い影響を与える学問です。
「人間学」を学ぶ目的は、「明徳を明らかにする」ことにあります。
「明徳を明らかにする」には…我を取り去り、私を取り去り、欲を取り去る必要があります。これは、人間学の根底をなします。
ですから人間学は、自らの内面にある「我・私・欲」を"取り去る学問"で、知識・技能を習得する
「時務学」のように、積み重ねる学問ではありません。
伊与田 覚「理念と経営・論語の対話」より
※「大学」
「大学」は、孔子の弟子"曽参"の作とされ、南宋時代「論語」「中庸」「孟子」と
同列の"四書"の一つとして、四書を学ぶ最初に置いて、儒学入門の書とした。
「論語」と「大学」は、孔子の教えを的確に示す書物として重用されてきました。
■論語は、授業の外での"余談"を集めたもの
「論語」は、孔子の死後、孫弟子たちが、孔子が語ったこと、弟子たちが言ったこと、行ったこと、問答したこと等を思い起こし編纂した、
短い語録です。
20扁、約500章から成り、小説のように扁と扁のとの間につながりがなく、全てが単独の章で成り立っています。
ですから、何処から読み始めてもいいし、何処で終わってもいい書物です。
一行にも足らない文章が、1章となっているものもあります。
孔子は大変な苦労人で、社会の辛酸をなめ尽くした人ですから、短い文章の中にも、無限の内容が含まれています。
従って、読む人によって、みんな解釈が違ってくる。
若い時に読んだ、中年で読んだ、老年になって読んだ…或は平社員の時読んだ、管理職になって読んだ…その時の環境によって、
受け止め方も千差万別であります。
従って、一人ひとりが論語に対する"私感"を持って、実践することが大切なのです。
伊与田 覺 「人間学と論語」より
【心と体の健康情報 - 608】
~古典から学ぶ~ 孔子の教え(19)
「何処まで相手のことを知っているか?」
7月、埼玉県川口市のマンションで、15歳の長女が、皆が寝静まった夜中の3時に、父親を包丁で刺し殺すという事件が発生した。
長女は、前日午後には父親と弟と買い物に出かけ、夜は一家団欒食事をした後、居間でビデオを鑑賞している。「夫と娘は仲が良かった…
思い当たることがない」と、母親。
警察の調べで、父親から「勉強しなさい」と言われたことが、動機だというが…。
その数日前に、両親に反感を持った男子中学生が、両親の一生をメチャメチャにしてやると、バスジャック事件を引き起こしたことは、 記憶に新しい。
「子曰わく、
人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患うるなり」
「先師が言われた。
人が自分を知ってくれなくても憂えないが、自分が人を知らないのを憂える」
9月半ばまでNHK・BSで放映されていた、韓国の大河ドラマ「ファン・ジニ」。
ドラマで、王族が論語を学習するシーンがあった…その時素読していて、耳に入ったのが、上記の言葉。
身近にいる奥さんや、会社の上司・社長が、自分の能力や力量に気付かず、認めてくれないことに、不満を抱いたりしたことは、
なかっただろうか。
たとえば、同期入社の社員が一足先に出世したり、ボーナスの額に差をつけられたりすると、「なぜ?自分の方が仕事も出来るし、
会社に貢献しているのに…」。
正当に評価してもらえないことに、悔しい思いをする…誰にも、こんな思いをしたことがあると思う。
他人に認めてもらえないと嘆く…。
裏返して、自分は、息子さんや奥さんのことを、どこまで分かっているだろうか?
奥さんから突然言い出される離婚話。奥さんの、長年溜まりにたまった怨念を、離婚を切り出されてもなお、気付かない夫…「何で?
何が不満なのだ?」と、うろたえる。
「人が自分のことをどう見ているか?」と、思い悩む前に、息子さんや奥さんが、自分に対し、
同様の不満を持っているかもしれないことに、気を回すことです。
毎日顔を付き合わせているのに理解できず、真の姿を見つめ、認めることが出来ない自分を、思い悩むべきなのです。
人を知ろうと思うなら、人を好きになることです。
人を好きになるには、人に好かれなければなりません。
そのためには、人と触れ合う機会を増やし、人をよく観察し、意見を交換し、考え方や生き方の違いを、多く知ろうとする努力がいります。
論語「里仁篇」にも、こんな文章があります…
「子曰く 位無きを患えず 立つ所以(ゆえん)を患う。
己を知るなきを患えず 知らるべきを為すを 求むるなり」
「先師が言われた。地位のないのを気にするよりも、なぜ地位が得られないかを考えるがよい。 自分を認めてくれないことを気にするよりも、どうすれば認められるのかを考えて、努力することだ」
■"わだち"を同じにする
「今 天下 車 轍(わだち)を同じくし 書 文を同じくし 行 倫を同じくす」
(中 庸)
「今、天下は車のわだちの幅は同じ、書物の文字は同じ、人々の行いの規範も
同じになっている」
始皇帝が天下統一するに際し、全国同じ文字にし、法律を定め、
車のわだち幅を同じにした。
それまでの戦国の世は、国によってわだちの巾はまちまちだった。
他国から攻め込まれた時、わだちの巾が違えば、片方の車輪が傾いて、
転覆してしまいます。侵攻を妨げ、防衛に役立ったのです。
わだちの巾が違えば、商人は国境で荷物を別の車に積み替えねばなりません。
国は、通行税を徴収して、財政を潤わすことができます。
ローマ帝国が、軍用道路の整備に力を注いだように、天下を治めるには、兵隊や物資を、目的地に速やかに運ばなければなりません。
そのためには、わだちの巾を統一する必要があったのです。
【心と体の健康情報 - 599】
~古典から学ぶ~ 「中庸に学ぶ」
江戸時代、町人や農民の子は、寺子屋で「習字手習い」と「論語」を学んだ。
武士の子は、藩校で「四書(論語・大学・中庸・孟子)」を学んだ。
<藩校のテキスト>
小学は『小学』が、中学は『中庸』が、大学は『大学』という教科書で学んだ。
「小学」というのは小人の学です。
人としてわきまえておくべき基本的なことを学ぶ学問です。
「中庸」は、異質のものを結んで、
新しいものをつくる調和の学問であり、
創造・造化の学です。孔子の孫"子思"(前483?~402?)の作といわれています。
「大学」は、大人(たいじん)の学です…「修己治人の学」です。
「人
一たびにして 之を能(よ)くすれば 己(おのれ)之を百たびす。
人 十たびにして 之を能(よ)くすれば 己(おのれ)之を千たびす」
[中 庸]
「人が一度で身に付けることを、自分は百たびやって身に付ける。
人が十たびするのであれば、自分は千たびやって、これを身に付ける」
という意味ですが、「中庸」では"善"を行い、"徳"を身に付けたいがための言葉である。
例えば、人が一冊の本を一度で読みこなすなら、自分はその本を十回読むようにする。
そうすれば、相手がどんなに優れていても、その人に劣ることはなくなるであろう…そのように教えているのです。
また、単に人との競争うんぬんではなく、自らの研鑽のために…やるからには通り一遍に済ますのではなく、"とことんやる"。 そこで、おのずから道が開けてくると、教えているのです。何事も、ヤルと決めたことは、明らかに結果が出るまで、 やり通さなければなりません。
子どもの頃、私は"運動音痴"でした。これが劣等感になり、引っ込み思案な性格になった。そこで、人が三日で覚えることを、 その何倍も…身体が覚えるまで根気よくやり続ける…そうすることで、人並みになろうとした…。
ゴルフがその良い例…5年前、道具と靴一式買い揃え、上手くなろうと練習を始めた…最近になって、
ようやく100を切るところまで来た。
パターの練習は始めたばかり。飛距離を出すスイングルーティーンは、まだよく分からない。寄せを身に付けるのもこれから…
一つひとつ課題を設けて、繰り返し練習していけば、何れ人並のスコアを出せるようになるだろう…。
■"わだち"を同じにする
「今 天下 車 轍(わだち)を同じくし 書 文を同じくし 行 倫を同じくす」
(中 庸)
「今、天下は車のわだちの幅は同じ、書物の文字は同じ、人々の行いの規範も
同じになっている」
始皇帝が天下統一するに際し、全国同じ文字にし、法律を定め、
車のわだち幅を同じにした。
それまでの戦国の世は、国によってわだちの巾はまちまちだった。
他国から攻め込まれた時、わだちの巾が違えば、片方の車輪が傾いて、
転覆してしまいます。侵攻を妨げ、防衛に役立ったのです。
わだちの巾が違えば、商人は国境で荷物を別の車に積み替えねばなりません。
国は、通行税を徴収して、財政を潤わすことができます。
ローマ帝国が、軍用道路の整備に力を注いだように、天下を治めるには、兵隊や物資を、目的地に速やかに運ばなければなりません。
そのためには、わだちの巾を統一する必要があったのです。
【心と体の健康情報 - 599】
~古典から学ぶ~ 「中庸に学ぶ」
江戸時代、町人や農民の子は、寺子屋で「習字手習い」と「論語」を学んだ。
武士の子は、藩校で「四書(論語・大学・中庸・孟子)」を学んだ。
<藩校のテキスト>
小学は『小学』が、中学は『中庸』が、大学は『大学』という教科書で学んだ。
「小学」というのは小人の学です。
人としてわきまえておくべき基本的なことを学ぶ学問です。
「中庸」は、異質のものを結んで、
新しいものをつくる調和の学問であり、
創造・造化の学です。孔子の孫"子思"(前483?~402?)の作といわれています。
「大学」は、大人(たいじん)の学です…「修己治人の学」です。
「人
一たびにして 之を能(よ)くすれば 己(おのれ)之を百たびす。
人 十たびにして 之を能(よ)くすれば 己(おのれ)之を千たびす」
[中 庸]
「人が一度で身に付けることを、自分は百たびやって身に付ける。
人が十たびするのであれば、自分は千たびやって、これを身に付ける」
という意味ですが、「中庸」では"善"を行い、"徳"を身に付けたいがための言葉である。
例えば、人が一冊の本を一度で読みこなすなら、自分はその本を十回読むようにする。
そうすれば、相手がどんなに優れていても、その人に劣ることはなくなるであろう…そのように教えているのです。
また、単に人との競争うんぬんではなく、自らの研鑽のために…やるからには通り一遍に済ますのではなく、"とことんやる"。 そこで、おのずから道が開けてくると、教えているのです。何事も、ヤルと決めたことは、明らかに結果が出るまで、 やり通さなければなりません。
子どもの頃、私は"運動音痴"でした。これが劣等感になり、引っ込み思案な性格になった。そこで、人が三日で覚えることを、 その何倍も…身体が覚えるまで根気よくやり続ける…そうすることで、人並みになろうとした…。
ゴルフがその良い例…5年前、道具と靴一式買い揃え、上手くなろうと練習を始めた…最近になって、
ようやく100を切るところまで来た。
パターの練習は始めたばかり。飛距離を出すスイングルーティーンは、まだよく分からない。寄せを身に付けるのもこれから…
一つひとつ課題を設けて、繰り返し練習していけば、何れ人並のスコアを出せるようになるだろう…。
■「孟子」
江戸時代、町人や農民の子は寺子屋で、習字手習いと論語を学び、武士の子は藩校で、四書(論語・大学・中庸・孟子)を学んだ。
今の時代、大人も読み辛い難解な漢字や言葉が並ぶ「論語」や「中庸」を、当時の子どもたちは、ごく当たり前に学んでいたのです。
四書の一つ「孟子」…中国戦国時代の儒学者"孟子"(紀元前372?~289)の言行を、その弟子たちが7編にまとめたものです。
孟子は、孔子の孫の"子思"の門人になって、孔子の思想を学び、継承した。
"儒教"では、"孔子"に次いで重用され、「孔孟の教え」として、現在に受継がれています。
【心と体の健康情報 - 597】
~古典から学ぶ~ 「孟母の教え」
孟子は、孔子の孫"子思"の弟子。日本では[性善説]を唱えたことで、広く知られている。 今回は、 孟子にからむ逸話を、二つ取り上げます。
[孟母三遷の教え]
江戸時代の川柳に、"孟母三遷"を茶化した
「おっかさん、又越すのかと孟子言い」というのがある。
子どもの将来を思う母の気持ちは、いつの時代も変わらない。
孟子の母は、ただ「勉強しなさい」と言うのではなく、自らの行動をもって、
我が子を導いたのです。
それが「孟母三遷の教え」として、現在に伝えられているのです。
孟子は、早くに父親を亡くし、母の手ひとつで育てられた、 |
[孟母断機の教え]
孟子が大きくなって、母親のもとを離れて、学校に通っていた頃の逸話です。
「勉学に身が入らない孟子…久しぶりに家に帰ってきた。 |
人間の基本となる人格は、3歳から6歳の頃に形成されます。
幼稚園から小学校と、活動範囲が広がるにつれ、「朱に染まれば赤くなる」で、
家庭や周りの環境に、影響されるようになります。
親が子育てをするとき、マニュアルに従って、いくら熱心に教育しても、常日頃、親の後姿が伴っていないと、子どもは、道徳・倫理・
品格を、身に付けることはしないでしょう。
孟母の情熱と実行力は、現代の教育ママも及ばないほどです…。
江戸川柳では、「されども孟母、姑にはいやな人」と、からかわれている。
■今日のことば ~四書「大学」の一節~
「湯(とう)の盤の銘に曰く 苟(まこと)
に 日に新たに 日々に新たに
又日に新たならんと」
「湯の王様が、最上の地位に就いたが、うっかりすると、その上にあくらをかいてしまうので、洗面器にその銘を書き付けていた」 という逸話
・昔の人は、「小学・大学・中庸」から人間学を学び、倫理・道徳・人としての生き方を
身につけていった。
論語は、人間学の根本聖典ですから、「小学」も「大学」も「中学」も、まとめて学ぶ
ことが出来るのです。
【心と体の健康情報 - 579】
~古典から学ぶ~
孔子の教え(18)「貧に耐える」
日本の歴史を振り返って…今ほど平和で、全てが満ち足りた時代はない。
なのに、何でこうも簡単に人生をあきらめたり、人を殺傷したり、命を軽んじたりするのでしょうか…?
今回の秋葉原の通り魔事件も、人生をはかなんでの刹那的犯行…。
ところで、犯した罪の全てをこの若者の責任と、済ませることが出来るのでしょうか?
私たちは子育ての中で、何か大切なことを、忘れてしまっていたような気がするのです。
アメリカの富豪カーネギーは、自らの体験を以下のように語っている。
「腕一本で巨万の富を作るに必要な条件は、
貧乏に生まれることである」
と…。
貧乏が人を鍛え、英雄を作り上げていく。そのような例は、古今東西きりがない。キリストは叩き大工の子で、「貧しき者は幸いなり」
と教えている。
孔子も生涯貧乏暮らしだったし、豊臣秀吉は、水飲み百姓から位人臣を極める関白にまで上り詰めている。
私の知る限り、今の時代、幼少の頃、誰よりも貧しい暮らしを強いられたのは、作曲家"遠藤実"ではなかろうか…。
戦時中、東京から新潟に疎開。極寒の北風が吹きすさぶ浜辺で、隙間だらけの電気も暖房もない、ムシロを敷いただけの船小屋で、
母子が身を寄せ合い、寒さを耐えしのんだ…。
中学を卒業して社会に出るとき、母は小学校の時に穿いた半ズボンを二つ継ぎ合わせて、息子の門出に穿かせている。幼い頃の極貧の体験が、
作曲家になって後、心にしみる名曲を次々と生み出すエネルギーになっていった。
生涯、下積みの苦労をたっぷり味わった孔子。論語には、そんな苦労人らしい言葉が、随所に記録されている。
『子曰く 貧しくして怨む無きは難く、
富みておごる無きは易し』
(憲問第十四)
"孔子が言われました。貧乏しても、不平を言わないことは難しい。
金持ちになっても、おごり高ぶらないことのほうが、まだしもやさしい"
世の中には、少し小金が貯まると、かつての貧乏な暮しを忘れ、貧苦の人々を顧みることをせず、わが身だけ贅沢をして、 人を見下すような態度を取りがちです。だから、金持ちになったからといって、威張り散らしたりしない人は、それはそれで、 立派な人物といえます。
しかし孔子に言わせると、それはまだ易しい。難しいのは貧乏だからとヒガまないことです。貧しい暮しを強いられたとき、
自分の運命を呪うだけならまだよいとして、世を怨み、人を怨むようになっては困るのです。
それを抑えるのは至難の技だと、孔子は言う…孔子のように、貧乏暮しの辛さ、苦しさを長い年月体験した者でなければ、
言えない言葉なのです。
孔子の高弟"子貢"が、あるとき孔子に次のような質問をした。
「貧乏であっても人にへつらわず、金持ちになっても人におごり高ぶらない
人物は、いかがでしょうか?」
すると孔子は答えた。
『かなりの人物といってよいだろう。だが貧乏していても、道に安んじて
楽しんで暮し、金持ちであっても、礼を愛する人物には及ばないね…』
孔子は、「貧乏で不平を言わない者よりも、貧しい中で、心の楽しみを失わない者のほうが優れている」と言っているのです。 幼少の頃に、貧しい暮らしを強いられた人は、早くから"志"が芽生え、「なにくそ」の精神が飛躍のバネになっている。貧乏・ 不如意は人を鍛え、立派な人物を生み出していくのです。
反対に、富裕の家に生まれ、暖衣飽食の生活に慣れ親しんだ、今の時代の若者たち…
精神肉体が練磨されることなく、薄志弱行の人物になり果て、遂には、生きることの意味すら見失ってしまう…。
「三代続かず」とはよく言ったもの…人の世とはそんなもの。今の自分の置かれた環境が不遇であるからといって、 これを怨むには当たらない。素直にその運命を甘受し、"志"をもって挑戦するなら、いつかは人として功成り、 名遂げる道も開けてくるでしょう…。
PHP「中国古典・論語」、並びに「論語の友」から引用
ゴルフにはもう一つ、"己の心"との戦いがある
数日前の全米オープン。タイガーウッズがプレーオフを征して、メジャー通算14度目の優勝を果した。15日、 そして16日の最終ラウンド…何度もやってくるピンチをしのぎ、神がかりとも思えるウッズの底力に、釘付けになった。
今日こそ良いスコアを出したい…ゴルフをしていて、いつも裏切られている私。
プレーの後、「あのOBがなかったら…」「後1センチ…カップインしていたのに」スコアカードを見て、悔しがる。
ゴルフプレーには、良いスコアを出すことの他にもう一つ、自分自身との戦いがある…
「マナー」と「ルール」を守ることです。サッカーのように、イエローカードで反則を宣告されることはありません。
ボールがデュポットに入った…数センチ、ちょっとずらせば…心の中で悪魔がささやく。誰も見ていないと思っても、
誰かが見ているものです。
築き上げた人格…これっぽっちのことで信頼を失い、器の小さな人間に見られてしまう…。<ゴルフ格言>
「いかなる局面に遭遇しようとも、己が有利になる方に振舞ってはならない。
試練こそゴルフの本質と知れ。マナーはゴルフに限らず、人の基本道なり」
【心と体の健康情報 - 577】
~古典から学ぶ~
孔子の教え(17)「論語・大事に際して人の真価がわかる」
「子曰く 歳寒くして しかる後に松柏のしぼむに 後(おく)
るるを知る」
(子かん第九)
「孔子が言われました。寒い季節になってはじめて、松や柏だけが
枯れしぼまずに、残っていることがわかる」
「人は、大きな危難に遭遇してはじめて、その真価がわかる」という意味です。
小人と言われるつまらぬ人も、君子と言われる立派な人も、平和な世の中では、違いなど分かりません。だが、ひとたび事が起きると、
小人は、利害をはかって巧みに動こうとするが、君子は、道を外れることがない…。
アメリカの片田舎に、フィリップという男の子がいました。素直で気立てのよい子でした。家は大変貧乏で、
隣の家から借りたお金が返せません。
そこで、大切にしていためんどり6羽を、返済の代わりに引き取ってもらいました。
その日からフィリップは、大好きな卵が食べられなくなりました。
その翌日のことです。隣に譲っためんどりが、古巣に戻ってきて、卵を4コ生み戻っていきました。それを見たフイリップは大喜び。
夜、ゆで卵にしてもらおうと、そっと、台所に運び込みました。
しかし、フィリップはもう8歳。「この卵は隣の鶏が生んだのだから、隣に返さなくては…」と、卵を隣に返しに行きました。
隣のおじさんは、「おお、それは、それは有難う。して、お父さんの言いつけかね」
「いいえ、お父さんもお母さんも仕事に行っていていません。
でも、帰ってきたらきっと、この卵を返して来いと言うに決まっています。
だから、その前に僕が届けにきました」
「そうかね、よく持ってきてくれた。感心な子だ」と、フィリップの頭をなでて、誉めた。
夕方おじさんは、その卵とめんどり2羽を抱いて、フイリップの家を訪ね、正直なフイリップへのごほうびとして、差出しました。
普段、みんないい人に見えても、何か事があった時、勇者か臆病者か、善人か悪人か…明らかになってくる。大金を拾ったとき、
人はこっそりそのまま、自分のものにしたいという誘惑にかられる。心のしっかりした人は、その誘惑に負けることなく、
警察に届けるでしょう。
どんな困難、悲しみ、迷いに出会っても、判断を誤らないためには、日頃の心がけが大事になってきます。
その心の支えになるのが"論語"です。
(論語の友145号)
■孔子の継承者"曽子"
孔子の門下生は三千人。弟子の中で※六芸に通ずる有能の士は七十余人。
最も心を通じた高弟は"顔回"…孔子70歳の時に、31歳の若さで早世した。
「天、予を喪ぼせり」と、孔子を悲嘆の極みに至らしめた。
然し、天は見捨てなかった。
孔子が亡くなるなる前年の72歳の時、26歳の青年、"曽子"という、
新たな継承者に恵まれたのです。
その曽子が、生涯変わらず続けたことに、「三省」がある。
(No.329「孔子の教え
(14)吾日に吾が身を三省す」を参照)
孔子の死後、曽子は弟子と共に、師の教えの真髄を伝える「大学」という書物を書き残しました。 ちなみに、二宮金次郎の像が、薪を背負って手にしている書物は「大学」です。
伊与田 覺 「論語の一句・冒頭の言葉」より
※<六 芸>
・「礼」…礼節 ・「楽」…音楽 ・「射」…弓術
・「御」…馬車を操る技術 ・「書」…書道・文学 ・「数」…数学
日本の戦国大名も、基本的教養として、幼少の頃から六芸を身に付けた。
【心と体の健康情報 - 338】
~古典から学ぶ~
「孔子の教え(16) 友をえらべ」
「子曰く 益者三友 直を友とし 諒
(りょう)を友とし 多聞を友とするは 益なり」
(季氏第十六)
「孔子が言われました。自分の益になる友だちは三種類ある。
"正直な人"を友達とし、"誠実な人"を友達とし、"物識りの人"を友達すると、益になる」
また、続けてこうも言っている。
「損者三友 便癖(べんへき)
を友とし 善柔(ぜんじゅう)
を友とし
便佞(べんねい)を友とするは損なり」
「損になる友達も三種類ある。"要領のよい人"を友達とし、"愛想のよい人"を友達とし、
"口先のうまい人"を友達にすると、損になる」
加えて、よく知られている言葉に、
「子曰く 巧言令色 鮮(すく)
なし仁」 (学而第一)
「ことさらに言葉を飾り、顔色をよくする者は、仁の心が少ないものだよ」
「へつらいの多い人に、立派な人はいない」と、孔子は言う。
このように孔子は、友人を選ぶことの大切さを説いているのです。
その昔、シラキウスに住む勇者ピチアスは、暴君ディオニソスを暗殺しようとして果たさず、捕らえられて獄に投ぜられた。
彼は死刑に処せられることになったが、死ぬ前に、故郷の父母に、この世の別れを告げたいと思った。
そこで、王様に「必ず帰ってきて、死刑を受けるので、数日の猶予をいただきたい」と、請い願いました。
王は「お前は、必ず約束を守るというが、どうしてそれが私にわかろう…。
お前は、私を欺いて逃げるに違いない…」と、許そうとしません。
この時、1人の若者が王の前に出て、
「王様、どうぞ私をピチアスの代わりに獄に入れて下さい。彼は必ず帰ってきます。
彼は今まで、ただの一度も約束を破ったことのない男です。
もし、彼が約束の日までに帰ってきませんでしたら、代わりに私を処刑して下さい」
と、真剣に王様に願い出たのです。
王様は、親友のダモンの申し出に驚き、その友情に感じ入って、遂にビチアスの願いを許すことにしました。
あっというまに日は過ぎて、遂に約束の日になりました。
ピチアスは未だ帰って来ない。
王は、約束の期限が過ぎたら、直ちにダモンを処刑するよう、獄吏に命じた。
ダモンは、どこまでもピチアスの信義を疑わず、
「もし約束の時間に戻ってこなくても、それは決して彼の罪ではない。
何か不慮の災難な見舞われたに違いない」
と、言いました。
遂に約束の時間が過ぎ、ダモンは刑場に引き出された。
しかし、ダモンが友を信じる気持ちは少しも変わらず、
「親友のために死ねるなら本望…」と、取り乱すこともなく、平然としていた。
そこへ、ピチアスが息を切らせて、疾風のように駆け戻った。
予定の時刻に間に合わず、気が気ではなかった。
ダモンがまだ無事でいるのを見て、嬉しさのあまり飛びついて、その手を取って男泣きに泣いた。そして彼は、自ら手を後ろに廻して、
獄吏に身をゆだねたのです。
彼は帰途、 暴風雨に合ったり、 船が難破しそうになったりして、
約束の時刻に間に合わなかったのです。
王様はこれを聞いて胸を熱くした。ダモンを許すと同時に、ピチアスの罪まで許して、
「王の全財産を投げ出してもよいから、私にもあのような親友が欲しいものだ」
と、言ったという。
■人間学の根本聖典/論語
「論語から人間学を学ぶ」 伊与田 覺
"人間学"を学ぶテキストには、小学には『小学』が、大学には『大学』が、中学には『中庸』という書物があります。
「小学」というのは小人の学です。
小人とは"一般の人"ということです。
人としてわきまえておくべき、基本的なことを学ぶ学問です。
戦前まで、小学校の上に"尋常"が付いていました。「尋常=常を尋ねる」
その学びで「自分を修める」…即ち「修己修身の学」です。
「大学」というのは"大人(たいじん)
の学"です。
大人とは、周りに良い影響を及ぼすような人物を言い、自分がよく修まっているだけでなく、周りの人に良い影響を及ぼす人を言います。
「修己治人の学」なのです。
「中学」というのは、
異質のものを合わせて新しいものをつくる、"調和の学"であり、"創造・造化の学"です。
人間学のテキストは、「小学・大学・中庸」ですが、論語は人間学の根本聖典ですから、小学も大学も中学も合わせて、学ぶことが出来るのです。
【心と体の健康情報 - 337】
~古典から学ぶ~
孔子の教え(15)「無心になる」
「子、四(よつ)
を絶つ。意なく、必なく、固なく、我なし」
(子罕第九)
「先師は常に、私意、執着、頑固、自我の4つを絶たれた」
以下、「理念と経営2月号・伊与田 覺/論語の対話」の注釈文から…
孔子自身、「私の心を痛めつけているのが、この4つだ…」と言っている。この4つは、 なかなか絶ちにくいものです。 「私意・執着・頑固・自我」が取れてくるということは、
心にわだかまりがなくなったということです。細かいところまで、よく見えてくるようになります。 |
これは、般若心経の教え、"空"にあたるのではないでしょうか。
"空"とは、簡単に言えば「こだわるな!」ということです。
"煩悩"をなくそう…4つを絶とう…と、悶々とこだわるのではなく、煩悩そのものに、こだわらなければいいのです。
例えば、眠れぬ夜に眠ろう、眠ろうと、羊の数を数えるのが煩悩です。
眠ることにこだわらなければいいのです。 眠れなければ、眠ろうとしなければいいのです。眠くなったら眠ればいいのであって、
煩悩にこだわらなければいいのです。
俗世界の私たちは、様々な欲望に囲まれて生活しています。
金銭欲、名誉欲、権力欲などがそうで、長生きしたいという欲望もあります。
それらの欲望を絶つことは至難の業です。貧しい…お金が欲しい。
お金が手に入れば、欲望が満たされるかというと、決してそうはなりません。
月収30万円の人がいるとします。それで十分食べていけるのに、更に50万円の収入を願望します。そして、
50万円稼げるようになると、更に100万円、200万円と際限なく欲望が膨らんでいきます…際限がありません。
私たちの欲望は、どんどん膨らんでいくのです。
頂点を極めて尚、欲望の虜になった前防衛事務次官の、守屋氏の顔が浮かんできます…。
般若心経は、「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時」
で始まり、
「照見五蘊皆空 度一切苦厄…」
と続きます。
「観自在菩薩が、般若波羅蜜多を行深された時、五蘊(ごうん)が皆"空"であると照見されて、一切の苦厄を度された」と読みます。
簡単に言えば、「観自在菩薩が、一切の苦しみ災厄を、度された」の意味になります。
"五蘊(ごうん)"とは、「 人間の肉体と精神 」のことで、私たちの肉体も精神もみな"空"で、
実態がありません。
江戸時代、臨済宗の高僧に"盤珪(ばんけい)禅師"という人がいました。
ある日、盤珪禅師のところに、1人の僧が訪ねて来て、質問しました。
「それがしは、生まれつき短気でございます。これは何としたら直りましょうぞ」
答えて、盤珪禅師は…
『それは面白いものを持って、生まれつかれたの…今も短気でござるか?
あらば、ここへ出しゃれ…直して進ぜよう』と言われた。
そう言われても、僧は"短気"を取り出して、見せるわけにはいきません。
なぜなら、私たちの肉体も精神も、すべて"空"だからです。
このように、"短気"などというモノがあるのではなく、それらはすべて"空"である。そのことがわかれば、
自らの気持ちの持ちようで、解決の道もあろう…というものです。
つまり、"短気"が生じてくる状況を、作らないようにすればいいのです。
私たちは、 短気そのものを無くそうと思案しますが、 するとかえって問題が、こじれてくるのです…。
新潮社「ひろさちやの般若心経」
■ものごとには必ず「本末」がある
ものごとには必ず「本末」
というものがあります。
植物を例にとると、その「本(もと)」になるのは"根"であり、枝や葉が「末」になります。
人間にも、生まれながらにして「本末」があります。
その本になるのが「徳性」です。「知能・
技能」は末の方になります。
植物を育てるには、先ず根を養うことが大切です。従って、人間を作っていく上で最も大切なのは、根本である「徳性」を育てることです。
その徳性を育てる学問を「本学」といい、「人と成る」ための大切な学問になります。
社会人に必要な要素には、「道徳・習慣・知識・技術」の四つがあります。
「道徳・習慣」を修得する学問が「本学」になります。「知識・技術」を習得する学問は非常に大切ですが、
「人と成る」上からすれば「末学」というべきでしょう。
論語は、こうした「人と成る」人間学を網羅した書物であり、論語を学ぶことは、本学・徳性を学ぶことになります。
二十歳の成人になって尚、人として未熟なのは、本学・徳性を、つまり「道徳・習慣」を修得させていない、教育に問題があるようです。
伊与田 覺「人間学と論語」より
【心と体の健康情報 - 329】
~古典から学ぶ~
「孔子の教え(14)自らを省み、反省する」
「吾日に吾が身を三省す」…論語の中でもとりわけ、私の好きな一節です。
過ぎし人生を振り返えれば、反省だらけの人生…赤顔の至りです。
「若い頃に、もっと勉強していれば…」
「あの時何故もっと、気持ちを汲んでやれなかったのだろう…」
「自分が至らなかったばかりに、かけがえのない人材を失ってしまった」
など…思い起こせばキリがない。
「曽子曰く 吾日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか、
朋友と交りて信ならざるか、習わざるを伝うるか」 (学而第一)
以下、伊与田 覺「理念と経営1月号・論語の対話」での注釈文です。
「曽子曰く 吾日に吾が身を三省す…」
「曽先生が言われた。私は毎日、自分をたびたひ省みて、よくないことは省いている…」
「三省」は、三回という意味ではなく、「たびたび」という意味になる。
「省」という字には、振り返る「反省」の意味と、「省略する」の二つの意味があります。
省みるだけでは不十分で、省みて、その誤りに気づいたときは、自らこれを改めていく。すなわち、「省く」行動が伴っていなければ、
「三省」にはならないのです。
「…人の為に謀りて忠ならざるか…」
「人のためを思って、真心からやったかどうか…」
振り返ってみて、本当に真心から相手のことを思って、やったかどうか?
お義理で、やむを得ずやったのか?
それを見過ごしたら…他人から「人でなし」と言われるから、表向きをつくろうために、やったのか…?
※この時代の「忠」は、国や君に対する"忠義"ではなく、自分自身に対する「忠」の問いかけだったのです。
「…朋友と交りて信ならざるか…」
「友達と交わって、うそ偽りはなかったか…」
「…習わざるを伝うるか」
「まだ習得しないことを、人に教えるようなことはなかったか」
まだ十分に習得していないことを、知ったかぶりして教えてはいないか?
夏目漱石の「坊ちゃん」の中に、知ったかぶりをせず、「知らないものは知らない」と、はっきり正直に言える先生が本当の先生だ…
という意味の場面がある。
■次は、孔子が尊敬する、"きょ伯玉(きょはくぎょく)"先生の言葉です。
「五十にして四十九の非を知る。六十にして六十化す」
「五十歳になって振り返ってみると、いろいろな過ちを犯し、その非を知った。
これからは、その非を改めながら、さらにより良い人生を歩むようにしたい。
六十歳になれば、六十にふさわしい人間でいたいものだ…」
更に、「七十にして七十化す」「八十にして八十化す」「九十にして九十化す」というように、限りなく成長・脱皮し、
若々しく生きていきたい…という願いが込められている。
孔子が"きょ伯玉"先生に、深い尊敬の念を抱いたのは、絶えず自らを省みて、自らの至らなさを知り、より良い人生を築いていこうとする…
そんな生き方に、感銘したからです。
■成人には、「大人になる」と「人と成る」の2つの意味がある
1月、恒例の20歳を祝う成人式が、全国の都道府県で行われた。
今年も一部の式場が荒れて、夜のニュースになった…又かと、うんざりさせられる。
以下、伊与田 覺「人間学と論語」から…
「成人」には2つの意味がある。 「大人」という意味の成人は、特別努力しなくても20歳になれば、誰でも「成人」と言われるようになる。
|
明治時代の小学校は4年制でした。それを終えると、大部分は社会に巣立っていった。
松下幸之助は、4年を終えて大坂に丁稚奉公に出ている。
小学4年の年で、既に社会人として「人と成る」の心構えが出来ていたのです。
今の時代、成人はしても「人と成る」には至らず、幼児性を引きずったまま、大人の仲間入りをするところに、問題があるようです。
【心と体の健康情報 - 328】
~古典から学ぶ~
「孔子の教え(13)自分に厳しく、人に寛大であれ 」
「子曰く 身自ら厚くして 薄く人を責むれば すなわち怨みに遠ざかる」
(衛霊公第十五)
「孔子が言われました。自分に厳しく、人に寛大であれば、人から怨まれることはなくなる」
何かあると、自分を反省せずに、人を責めてしまうのが人情というもの…。
戦後、民主主義がやかましく言われるようになってから、この風潮が目立つようになり、世を挙げて権利は主張するが、
己の責任を反省することが少ない世の中になった。
そのためか、思いやりのないギスギスした世相になってきた。
冒頭の孔子の言葉から、人に"正道"に立つよう強く求めると、多くの場合、人から怨まれるのがおちです。
そこで、人に対しては"仁の心"をもって寛大に接し、
自分に対しては"義"をもって厳しく責める。そんな心が求められる…と孔子は言う。
"孟子"もまた、人から無礼や横暴が加えられた時、「わが身にそうされる理由がなかったかどうか、幾度となく反省(三省) するように」と、説いている。
以下、紀州家から出て八代将軍となった徳川吉宗が、まだ少年で、紀州にいた頃の話です。
名奉行として後世に語り伝えられる大岡越前守は、その頃、伊勢山田の奉行を勤めていた。
あるとき忠相は、夜な夜な禁猟の池に入って、網を打って鯉をとっている少年がいることを耳にした。早速捕手を差し向けると、
少年は徳川家の葵の紋の提灯をつきつけて、「無礼者、この葵の紋が目に入らぬか!」と一喝した。
見ると、紀州家の若者に相違ない。捕手の頭が恐縮して、そのことを忠相に報告した。
翌晩、忠相自ら出かけて、有無を言わさず少年を召し捕り、牢にぶち込んでしまった。
翌朝、忠相は少年を白洲に呼び出し、
「殺生禁断の場所へ網を入れたばかりか、ご紋をたばかった大罪は許し難いが、
まだ少年の身である故、今回限りさし許す。しかし、今後は絶対許さんぞ」と、
厳しく叱りつけて放免した。
少年は深くその非を悔い、生涯己を戒めることを忘れなかったという。
この少年こそ、後の八代将軍吉宗その人だったのです。
将軍になった後も、子どもの頃の忠相のことを忘れず、江戸町奉行に抜擢している。
忠相は、幾多の名裁判を行い、それは「大岡さばき」と称せられ、名奉行として後々に語り継がれるようになったのは、
誰もが知るところです。
吉宗にまつわる今一つの話は、これも同じくまだ紀州にいた頃のことです。
家来がある晩宿直をして、こっそり酒を飲んだ。
この家来、もともと酒癖が悪かったので、酔って刀を抜き、荒れ廻って、ふすまを斬りつけてしまった。
同僚がとり押さえ、吉宗に裁断を仰いだ。
吉宗は笑って、「酒の上のことだ。一度だけは許してやれ。しかし、破ったふすまはそのままにしておけ」と言い渡した。
ふすまを斬り破った家来は、吉宗の寛大な処置に感謝したが、毎日破れたふすまを見ることは、身の置きどころもない程辛いことでした。
とうとう、生涯にわたって禁酒することを誓い、ようやくふすまの修繕を許してもらったという。
吉宗はこのように己に厳しく、人に寛大であったからこそ、名将軍として後々まで、慕われるようになったのです。
「論語の友」より
■40年の積み重ねが…
あと一週で2008年…今年も様々な自分史を残して、暮れていく。
私の友人で、過去四十年間欠かさす、自分と身の回りの身近に起きたことを、十大ニュースに書き残している人がいる。
高校のクラスメイト四人が、この秋、金沢の同級生のサロンで、趣味の作品を持ち寄り、第一回「おじさま四人展」を開催。
親しい友人に案内状を送付した。
四人の一人、埼玉在住の同窓生は、毎年年賀状を刷るたびに作成した、手作りの版画(芸術家はだし)を出展した。過去40年、
年に一絵の賀状の個展です。
年代順に並べられた40枚の版画の下に、その年の出来事が書き添えてあった。
一枚一枚、版画が刷られた年代を思い起こしながら、じっくり鑑賞した。
誰も真似の出来ない人生の宝物でしょう。
「一つことをやり続けると、十年…偉大なり。二十年…恐るべし。 ~鍵山秀三郎語録より~ |
【心と体の健康情報 - 325】
~故事から学ぶ~
「邯鄲(かんたん)
の夢」
NHK・BSで、放映終了したばかりの「関口知宏の中国鉄道大紀行」。
中国の隅々を旅行しているような気分にさせてくれる。
NHKの「鶴瓶の家族に乾杯」に似た、私の好きな番組です。
数日前、録画を見ていたら、河北省邯鄲(かんたん)駅に降り立ち、「邯鄲の夢」の故事ゆかりの、道教寺院へ立ち寄る所があって、
この故事の由来を知った。
お寺の名前は、黄梁夢(こうりょうむ)呂仙寺。
今から800年前の北宋の時代に、「邯鄲の夢」の故事にちなんで建てられた、立派なお寺である。
「邯鄲の夢」の故事とは…
唐の時代。廬生(ろせい)という貧しい若者が、邯鄲の宿舎で、旅人の呂翁という道志に会い、しきりに「あくせくと働きながら、
苦しまなければならない」と、身の不平をかこった話をした。
やがて廬生は眠くなり、呂翁から不思議な枕を借りて寝た。
すると、夢の中に自分の生涯が写し出された。
進士の試験に合格し、美人を嫁に迎え、子を授かり、トントン拍子に出世して、ついに都の長官になった。
戦いに出ては匈奴を破って勲功をたて、栄進して太夫になった。
ところが、時の宰相に妬まれて、辺境の地の長官に左遷。そこに居ること三年。
再度召されて、いくばくもなく宰相にまで上った。それから十年間、よく天子を補佐して善政を行い、賢相のほまれを高くした。
位人臣を極めて、得意の絶頂にあったとき、突然、無実の罪を着せられ、捕らえられた。彼は縄につきながら、嘆息して妻子に言った。
「わしは、山東の家で百姓をしていれば、それで、寒さと飢えをしのぐことができた。
何を苦しんで禄を求めるようなことをしたのだろう…。そのために、こんなザマになった。
昔、ぼろを着て、邯鄲の道を歩いていた頃が懐かしい」
刀を取って自殺しようとしたが、妻に押し止められてかなわず、遠島に付された。
数年して天子は、それが冤罪であることを知り、廬生を呼び戻して燕国の公に封じ、恩顧はことのほか深かった。
五人の子は、それぞれ高官になり、天下の名家と縁組をし、十余人の孫を得て、幸福な晩年を送った。
50年に及ぶ波乱万丈の生涯を夢に見たのです。
廬生が夢から覚めてみると、もとの邯鄲の宿舎に横たわり、傍に呂翁が座っている。
うたた寝を始める前に蒸しはじめた黄梁(ご飯)が、まだ煮えていなかった…「ああ、夢だったのか!」
呂翁は、廬生に笑って言った。『人生はしょせん、みんな、そんなものだよ…』
廬生はしばらく憮然としていたが、やがて、呂翁に感謝して言った。
「栄辱も、貴富も、死生も、何もかもすっかり経験しました。これは、先生が私の欲をふさいで下さったものと思います」
廬生は、呂翁にねんごろにお辞儀をして、邯鄲の宿から旅立っていった。
「ほんのひと時の、つかの間の夢であった…」という故事になって、現代に伝えられ、そこから「人の一生というのは、
このように短くはかないものだ」の、例えに使われる。
「邯鄲の夢」から、「一炊の夢」「黄梁の夢」「邯鄲の枕」などの言葉が生まれている。
※黄梁…粟のこと
■安岡正篤「素読の心得」
素読とは、よい文章、ためになる文章を、あたかも川の流れのような素直な気持ちで、朗々と読むことであります。
一体学ぶということは、ただ単に講義を聴き、書物を読んで、それを大脳の表皮細胞に記憶するということだけではありません。
全身の全細胞の変化によって、人間の調子を変え、その人柄をも変化させるところまで行かねばなりません。
それを私どもは「我づくり」と申しますが、そのためには、何らかの"行"を積まねばなりません。それが、
古来より行われているところの「素読」なのです。
神社における"祝詞奏"や、仏教の"読経"などは、その一つと見てよいでしょう。
それはただ、散文的に読み下すだけのものではなく、生命の律動に乗せて、リズミカルに読むのであります。
それが文の内容と共に、自ら心身の調子に影響を与えて、「我づくり」に役立ってくるものでありまして、こういうところから「我づくりの行」
として、"素読"を行うものであります。
ですから素読をもって、解釈や講義よりも"程度の低いもの"、などとしてはなりません。
【心と体の健康情報 - 315】
~古典から学ぶ~ 孔子の教え(12)
「人は、学問修行によって、みな立派な人間になる」
「子曰く 性 相(あい)近きなり 習い 相遠きなり」 (陽貨第十七)
「先師が言われた。人の生まれつきは大体同じようなものであるが、
しつけによって、大きくへだたるものだ」
よい行いをしてこれを身に付け、かつ学問修行していけば、みな立派な人間になる。人は誰でも心がけによって、立派な人間になれる、
と孔子は考えていた。
「女(男)は、女(男)として生まれたから女(男)になるのではなく、女(男)として育てられたから女(男)になる」。
フランスの有名な女性作家が言った言葉です。
人は、生まれ育った環境の影響を受けて育ちます。方言や食習慣などがその良い例です。これは意図しない教育です。それに対し、
親や教師が意図的にしつけ、教え、導いていく教育があります。
いずれも人間形成に大切なものです。
1920年、オオカミに育てられ、救出されたインドの姉妹。牧師夫婦に引き取られ、人間に必要な教育を試みたが、
生涯オオカミのままで、人間になることはなかったという。
人間を動物として見たとき、人間というのは実に変り種で、面白い動物です。
なぜなら、人間以外の動物には、教育は関係ないからです。
教育をしてもしなくても、猫はあくまで猫です。猫は自ら学問をして、偉くなろうと思わないし、猫が教育によって、
人間になったりすることはないのです。
「人間は、人間によって、人間らしく教育されてこそ、人間になるのです」そういった教育は、幼ければ幼い時ほど効果がある。
人生の初期に、環境が悪かったり、悪い教育を受けると、大きくなってからの矯正は困難になります。猫は猫にしかなれないのに、
人間は環境によって狼にでも、オラウータンにでもなれる…。高度に発達した"脳"があるからです。
三つ子の魂百までといいますが、人間は三才ころまでに一生を左右する回路が形成され、それが、 マイクロチップのように埋め込まれて、その人だけの人間性の基本の部分が形成され、一生を支配するのです。
田舞徳太郎「幸せの心理学」より
最近頻発する親殺し、子殺し。「命を育むことの大切さ」「この世に一つの、かけがえのない命」「人を思いやる心」といった、 「命とは…」「生きるとは…」について、幼いころに繰り返し教えておかなければならない…。
■素読のすすめ
七月、福井で開催されたミネハハ・
コンサートに出かけた折、川人さんのご家族にお逢いした。川人さんといえば、毎朝ご家族そろって正座し、
論語の素読を続けて来られたことで
知られる。
当時まだ幼稚園児だった長男、先月お逢いした時は小学校3年生になっていた。
長男は、論語を暗唱しているという。
私がおねだりをしたら、みんなの前でお経を読むように、披露してくれた…。
学問は6歳から、まずやさしい平仮名を教え、それから漢字を教えるといった、現代の幼児教育の常識は間違いであることを、気づかせてくれる。
江戸時代、寺子屋や藩校で、農民の子も武家の子も論語を学び、手習いをした。
今の時代、大人も読み辛い難解な漢字が並ぶ四書(論語・大学・中庸・孟子)を、当時の子どもたちは、ごく普通に学んでいたのです。
【心と体の健康情報 - 305】
~古典から学ぶ~
「孔子の教え(9)教育とは…」
以下、PHP 「リーダーのための中国古典・論語」からの引用です。
孔子は晩年、もっぱら弟子の教育に力を注いだが、教育ということについて、こんな意味のことを語っている。
「子曰く 憤せずんば啓せず。非せずんば発せず。一隅を挙げて 三隅を以って反(かえ)らざれば 則(すなわ)ち復(また)せざるなり」
(述而第七)
つまり教育というのは、本人の「自発性」、「求める気持ち」が大切なのだと、言っているのです。実は、
その気持ちを人一倍持っていたのが、孔子その人だったのです。
恵まれない暮しの中にあって、苦しさにくじけることなく、絶えず前向きの姿勢を貫き、自己啓発を怠らなかった…
これが孔子の生き方なのです。
孔子は強い人間でしたが、強いだけの人かというと、決してそうではなかった。
強さ・厳しさの中に、何ともいえない暖かさを持っていたようです。
孔子の人間像について、弟子達がこんな風に語っている。
人柄は温和であって、しかも厳格である。
威厳を備えながらも、威圧感がなく、
礼儀正しくて、しかも窮屈を感じさせなかった。
遠くから見ると、近づきがたい威厳がある。
親しく接してみると、その人柄の温かさが伝わってくる。
更に言葉をかみ締めると、その言葉の厳しさが分かってくる。
いかにもバランスの取れた人間像が浮かんでくる。
孔子という人はまた、どんな境遇に置かれても、人生を楽しむ術を心得ていたようです。
■以下、7/1読売新聞社説から…
激しい与野党攻防の末、30日未明参議院本会議で、「社会保険庁改革法」や
「年金時効撤廃特例法」「公務員制度改革法」などが成立し、国会は事実上閉幕。
いよいよ参議院選に突入した。
参院で与党過半数割れの実現を目指す野党は、一貫して対決姿勢で臨んだ。
与党の強行姿勢を引き出し、ムード的に与党批判へと世論を導き、「強行採決」
「数の横暴」を国民に印象づける狙いが、成功したようです。
選挙を意識し、対決構図を描き出すことに腐心した野党。
財政の健全化、消費税率の引き上げ、北朝鮮問題などの重要課題が先送りされ、
国会議員が為すべき骨太の、建設的な"論戦"が置き去りにされてしまった。
本来、参院に期待されるのは、衆院への抑制、補完機能。
現実は「衆院のコピー」にすぎず、衆院での政党間対立が、そのまま参院に持ち込まれ、
政治的対立と混乱ばかりを、国民に印象づける結果になった。
参院選で、どの政党の誰に投票するのか?
本来は政策で選ばなければならないのに、信頼出来るか否か?
国政を任せらるか否か?
といった表面的なムードで、選挙戦が戦われそうです。
【心と体の健康情報 - 230】
~古典から学ぶ~
「孔子の教え(8) 論語読みの論語知らず」
「論語」は儒教の経典の一つですが、儒教と聞くと何か硬苦しく、古くさい印象を受けます。
『女子と小人は養い難し』
『民は由らしむべし、知らしむべからず』
論語のこの言葉、一般的に女性をべっ視した言葉、そして民衆を愚民視した言葉と解釈され、儒教は封建道徳であり、「論語」
も同様に見られがちです。
「論語読みの論語知らず」と言われるように、少々論語をかじったくらいでは、孔子が意図する意味など、とても理解できません。
『子曰く 唯(ただ)女子と小人とは養い難しと為す。
之を近づくれば則ち不孫なり。之を遠ざくれば則ち怨む』
意味…先師が言われた「ただ、教養のない女と男とは、扱いが難しい。
近づけるとなれて、無遠慮になり、遠ざけると怨むようになる 」 (陽貨十七)
この場合の「女子と小人」は、"ダメな女とダメな男"のことを言う。
「小人」は子供のことではない。
これに対比して"立派な男と女"を、論語では「君子と淑女」と言う。
男女を問わず、ダメな人たちには困ったものだという、孔子のため息が伝わってくる…。
たいした仕事もしないくせに、大きな態度をとる…だからと、ちょっと注意すればすねる。
私たちの周りにも、そういった人がいます。
言葉から受ける印象で封建的と決めつけるのは速い。
「論語読みの論語知らず」になってしまう。
『子曰く 民は之に由らしむべし 之を知らしむべからず』
意味…先師が言われた「民は徳によって信頼させることはできるが、
すべての民に真実を知らせることは難しい」 (泰白八)
「国民は無知だから、こと細かに真実を知らせる必要はない。国のやることに信頼してついてくればいい」といった、
"非民主主義的"文言に思えるが、間違いです。
安倍内閣が推し進める政策、それをこと細かく国民に分らせるのは難しい。
医者と患者の関係、弁護士と依頼者の関係などを考えれば分かることです。
医者や弁護士を信頼する他なく、言っていることに従う以外、選択はありません。
安倍内閣を信頼するか、野党の言い分を支持するか…国民一人ひとりが、目先の迎合的ムードに支配されることなく、
自らの責任で正しく良し悪しを判断するのは、とても難しいことです。
中径文庫 岡本光生著「論語の知恵でキリッと生きる」より
■「理不尽な親 学校苦慮」
表題は、18日の読売新聞一面の大見出しです。
理不尽な要求や抗議を学校に行う親に、全国の小中学校が苦慮している実態が、
読売新聞の調査で明らかになった。
・うちの子、自宅では掃除をさせていない…学校でもさせないでほしい
・大学進学に必要のない科目…受けなくて済むようにしてほしい
・子供同士のささいなトラブルに…「相手の子供を転校させてほしい」
・学力不足の中学生に小学生の問題を解かせた…子供のプライドが傷ついた
・ピアノの技能はうちの子が一番…なのに、別の子が選ばれたのはおかしい
・子供がお年寄りに接触事故…学校の自転車指導に問題がある…
・教師を中傷する電子メールを…学校関係者に送りつける etc
いずれもしつこく繰り返し抗議してくることが多く、学校の教育活動に支障を来たしているという。
東京都港区では6月から、クレームに対応して相談できる、顧問弁護士制度をスタートさせた。それに対する世論は…賛否両論。
何かあれば「訴えてやる!」のご時世…自己中心的で、人間関係が希薄な今の世相が浮かび上がってくる。
【心と体の健康情報 - 299】
~古典から学ぶ~
「孔子の教え(7) 何事もすべて自分の責任」
人は何か不都合なことがあると、その問題が自分にあることを忘れて、反省することもなく、却って他人を責めたり、 世を怨んだりしがちです。
『子曰く 君子はこれを己に求む 小人はこれを人に求む』
(衛霊公第十五)
"孔子が言われました。君子は、何事もすべて自分の責任として、わが身を反省するが、小人は責任を人に転嫁し、 人を責めるものだ"
日曜夜の民放人気番組「行列のできる法律相談所」を時折見ているが、近ごろの世相は、
自分に対する不利益はすべて周りの責任であるがごとく言い、争い事が絶えない。
ごくささいなことでも、訴訟ざたに及ぶ世の中になってきた…。
そうすることが、あたかも正義であるがごとき風潮…。
誰もが、自らの責任を放棄し、「自己主張」と「他への責任追及」を繰り返すなら、世の中は争いの場となり、
回りまわって自分も不幸になるだろう…。
県内にその名が知られる、某中小企業の社長さん。技術開発力に長け、会社は急成長。
ところが社長さん、私腹を肥やすことに熱心で、社員への待遇が不十分だったようです。
業を煮やした専務が、数名の社員を伴って独立。よく似た商品を製造・販売して、お得意様を増やしていった。
強力なライバルの出現に怒った某社長さん。特許侵害と裁判に訴えて勝訴した。そして、約1千万円の損害賠償金を勝ち取った。
ところが世間は、負けた方の会社に同情。知る人は、正義をつらぬいたはずの某社長を良く言わず、人望を失った。
■逸話 「街路の石」
昔、ドイツのある王様が、領民の公徳心を試そうと、夜間人知れず、人通りの多い街路の真ん中に一個の石を置いて、 翌朝早くから家来に監視させた。
まだ暗いうちに通りかかったのは、田舎から荷車を引いてきた一人の百姓。
危うく石につまづきかかって、口をとがらし「こんな石を道の真ん中に置いておくとは、誰のいたずらか?悪いやつがいるものだ」
とは言ったが、そのまま石を避けて行ってしまった。
次に、乗馬の紳士がやってきました。
馬がつまずきかけ、驚いて跳ね上がったので、「こんな石が街路に転がっているとは、ドイツの恥である。近頃の道路役人は怠慢である」
とののしりながら、馬を飛ばして行ってしまいました。
次に来たのは一人の軍人。
急いでいたためか、石につまずいて倒れてしまった。軍人は真っ赤になって怒り、「こんな石を街路に出しておくとは何事だ。
近頃のドイツ人は、公徳心がなくなった」と憤慨したが、その石を除けることはせず、服の汚れを払って行き過ぎてしまった。
ところが次に通りかかったのは二人の子供です。
子どもたちは石を見ると直ぐに、「これは大変だ。人がつまずいて怪我をする。さあ向こうの方に持っていこう」。
二人は石を抱えようとしたが、無理だったので、危なくないところまでゴロゴロ転がしていった。
「これでみんな安心して通れる…」「今朝は良いことをした。気持ちがいい…」と、二人の子供は笑顔で立ち去っていった。
監視をしていた家来は、急いで帰ると、ありのままを王様に報告した。
王様は始め、苦い顔をして聞いていたが、子供が石を転がす段になると、「そうか、そうか、この後二十年もすると、
ドイツも公徳心のある良い国になるだろう…」と、大変喜ばれました。
人は何か問題があれば、周りのせいにして、改善を求めようとします。
相手が特定できない時は、「政府が悪い」「社会が悪い」「学校の指導が悪い」「私たちの生活と権利をどうしてくれる」と、
非難の声を上げる。
こんな人に限って、自分がなすべき事を率先してやろうとはせず、他人に責任を擦り付けて、嘆いているのです。
■銭は天下の回りもの
ある夜、青砥藤綱(あおとふじつな)という武士が、川に10文の銭を落とした。
使いを走らせ、50文の松明(たいまつ)を買って銭を拾った。
「太平記」巻35の一節である。
人に笑われると青砥は言った。
「拾わねば10文の銭は川底に眠りつづける。自分は10文を取り戻し、商人は50文稼いだ。60文の銭1つも失わずあに天下の利にあらずや、
世の得になったではないか。」
"回ってこそのお金" 流れることで世の中を潤し、おのが出費もやがては一滴の潤いとなって、わが身に戻ってくる。
お金が使われぬまま、川底ならぬ銀行口座やタンスの中で眠りに落ち、世の中にお金が流れていかない状態。これがデフレである。
【心と体の健康情報 - 288】
~故事から学ぶ~「自己を律する」
人間形成で最も難しく、又大切なことは、「自己を律する」ことが出来る人間になることでしょうか…。
ところで「自己を律する」とは、どういうことでしょうか?
そこで、[黒帯の寓話]という故事から、その意味を深めたいと思います。
何年にもわたる苦しい修行によって、ようやく黒帯を認められるようになった弟子が、師範の前にひざまづいた。
そして、「黒帯の本当の意味は何かな?」と尋ねた。 一年たって、弟子は再び師範の前にひざまづいた。 そして、この答えにも満足していない様子だった。 一年たって、弟子は再び師範の前にひざまづいた。 「そうだ! ようやく黒帯に値するようになったようだ。修行はこれから始まる…」 |
田舞徳太郎著「幸せの心理学」より
正月、フイリピンでスキューバーダイビングを楽しんだ。
その帰りの飛行機で、海難救助レスキュー隊の活躍を描いた、ケビン・コスナー主演のアメリカ映画を見た。
訓練学校での厳しい訓練。それに耐え抜くシーンが、筋書きの3分の2を占める。
そのすごい迫力に圧倒されながら、食い入るように見入った。
多数の同僚が脱落していく中、無事卒業の日を迎える。校長から卒業証が渡される。
指導官からは、新しい赴任先での活躍を祈り、激励の言葉が一人ひとりに投げかけられる。
その時の卒業生の心の内の、受け止め方が問われるのです。
厳しい訓練に打ち克ち、耐え抜いて来た、自らへの褒賞と受け止めるか?卓越した技をみがき、頂点に達したことを誇りに思い、
その証として卒業証を受け取るのか?
卒業は新たなる出発点。更に高い目標に向かって、終わることなく続けられる修行の旅の出発点と、受け止めるのか?
ドラマの後半は、海難現場で命を賭けた、息を呑む救助シーンが展開していく。
■中国の戦国時代
孔子が没して約100年の後、春秋時代の終わり頃の紀元前403年、
晋が、韓・魏・趙の三国に分かれた。
その後、紀元前221年、秦の始皇帝によって国家統一がなされるまで
の約180年間、「韓・魏・趙・燕・斉・楚・秦の戦国七雄」が群雄割拠した
時代を、戦国時代という。
【心と体の健康情報 - 268】
~古典から学ぶ~
「孔子の教え(6) 五十にして天命を知る… 」
[孔子の生涯] 孔子の生涯は、六つの時代に分類される
1. 悲惨な少年時代…3歳で父を亡くし、17歳で母を亡くす
2. 学に志した青年時代
3. 勉学と教学が両立した時代
4. 魯の国の政治の舞台に出る時代
5. 列国をさ迷う時代
6. 寒々とした晩年
68歳の時息子を亡くし、71歳の時、最愛の弟子"顔回"を失う
論語でとりわけ名高い「天命を知る」。前号では「四十にして惑わず」までを
解説しました。今日は、その後半の人生です。
■ 「五十にして天命を知る」
52歳になってようやく魯国の中都の宰と、司空・ 大司冠に登用された。
その後孔子は、時の敵対勢力との政争に敗れ、主だった弟子を従えて魯の国を
去った。56歳までのわずか5年間の宮仕えだった。
それからは、衛・曹・宋・鄭・陳などの諸国を、14年の長きに渡.って放浪した。
■「六十にして耳順がう」
各国を回り、自説の売り込みをはかったが、 どの国も孔子の説を理解しようと
はしなかった。それでも孔子は弟子たちと厳しい旅を続け、学問に励んだ。
宋では、将軍に殺されそうになった。危うく難を逃れた孔子は言った。
「私には、天から授かった使命がある。宋の将軍ごときに何が出来ようぞ…」
あてもない流浪の旅で、衣服はボロボロになり、泊まる場所もない日が続く。
通りすがりの者が「宿無しの野良犬」とあざけると、孔子は「そうだ、まったく
その通りだ」と答えている。
飢えと疲労で病に倒れる弟子もいた。それでも孔子は学問と復習の日課を怠ら
なかった。ある日、弟子の子路、苦境に我慢できず、「君子でもこんなひどい目
に合わなければならないのですか?」と孔子に迫った。
孔子は「君子は、いかなる窮地にあっても、自分の信念と行動は不変である。
しかし、仁徳なき小物は悪事に走るだろう」と答えた。
14年に渡る流浪の旅。ついにどこの国も受け入れてくれなかった。
68歳のとき妻が死去。その翌年にようやく魯に帰国。この年に長男が死ぬ。
同時に孫が生まれる。政治参加という意図はかなえられなかったが、学問では
素晴らしい成功を収めた。
■ 「七十にして心の欲するところに従う」
魯に帰った孔子は、 学校を開き、広く人材の育成に取り組んだ。
これは、中国史上初めてのこと。もっぱら古典の整理にあたった。
70も過ぎると、自分のしたいこと、言いたいことが、そのまま天地の道理にも
適う、まさに自由の境地に…。
孔子71歳のとき、最愛の弟子"顔回"が、これからという41歳で死去。
翌年、同じく"宰我"が斎で戦死し、73歳のとき、孔子より9歳年下の最愛の
弟子"子路"が、衛で戦死した。子路は、論語に最も多く登場する人物である。
紀元前497年4月、孔子は病床につき、7日後、74歳の生涯を閉じた。
弟子たちは、3年間喪に服した後去っていった。当時43歳の"子貢"のみが、
更に3年間喪に服した。
孔子の死後、彼の教育思想、政治思想は「聖人」と言われ、中国のみならず、
韓国・日本・東南アジア各国に、大きな影響をもたらしていった。
■真の学問とは…
今の時代、十五歳といえば、中学を卒業して高校に入る年代である。
十五歳前後というのは、人生の進む方向や、「志」を立てるには大変大切な
年頃です。
昔は、十五歳で元服。もう一人前の大人である。
当時の中国の士大夫の子弟は、十三歳の頃までに一通りの学問を終えた。
そんな意味で、「吾十有五にして学に志し…」は、学問に志すには、遅きに
失している。その疑問に答えて、孔子は…
「なるほど、それまでにも師に付いて何かと教えは受けていた。
じゃが、学問の尊さを知り、自ら求めて学ぼうとする熱意を持ち始めたのは、
十五の年じや。
恥ずかしい話じゃが、それまではなんの自覚もなく、教えられるままにただ、
物まねをしていたに過ぎなかった。物まねは学問ではない…。
まことの学問は、自ら求めて、勉め励むところに始まるのじゃ…」
下村湖人「論語物語」より
【心と体の健康情報 - 267】
~古典から学ぶ~
「孔子の教え(5) 吾十有五にして学に志し…」
■論語の中でも、とりわけよく知られている「天命を知る」
「子曰わく、吾十有五にして学に志し、
三十にして立ち、
四十にして惑わず、
五十にして天命を知り、
六十にして耳従い、
七十にして心の欲する所に従えども、矩(ノリ)をこえず」
(為政第二)
「先師が言われた。私は十五の年に聖賢の学に志し、
三十になって一つの信念をもって、世に立った。
しかし、世の中は意のままには動かず、迷いに迷ったが、
四十になって物の道理がわかるにつれ、迷わなくなった。
五十になるに及び、自分が天の働きによって生まれ、
また、何ものにも変えられない、尊い使命を授けられていることを悟った。
六十になって、人の言葉や、天の声が素直に聞けるようになった。
そうして、七十を過ぎる頃から、自分の思いのままに行動しても、
決して道理を踏み外すことがなくなった 」
苦労人の孔子は、人生の生き方について、人間関係の処理について、
更には、仕事への取り組み方などについて、論語の中であれこれ語っている。
孔子の偉いところは、貧乏暮しの中にあって、いささかもめげることなく、
いつも前向きの姿勢で、たくましく生きたことです。その最も有名な言葉が
「天命を知る」です。これは、孔子の一生を要約した言葉といえます。
孔子は、春秋時代後期の紀元前551年、魯(ろ)の国、今の山東省で、
父親の孔家からは認知されない、第三婦人の子、「野合の子」として生まれた。
三歳の時、父親が死去。冷遇されて育った、母子家庭の子だったのです。
困窮の少年時代を過ごし、小さいときから、生計を助けるために働きに出た。
17歳の時、母が亡くなった後にようやく、孔家の跡取りに認知された。
(子どもの頃の境遇は、二宮金次郎とよく似ている)
このように、孔子は初めから悟りすました人間ではなく、人生の目標を設定し
ながら、その目標に向って絶えず、自分を鍛え上げていったことが伺えます。
■「十有五にして学に志す」
素質的に優れていて、15歳で学問で身を立てようと決心し、人生の目標を
設定した。19歳で結婚、翌年長男出生。二十歳のとき倉庫の管理人になり、
その後、家畜の管理人になったりして一家を養った。まじめで、よく仕事を
こなしたという。
孔子は、機会があればどこででも教えを乞い、学問のチャンスをつかもうとし
た。鄭(テイ)の国の君主が古代史に造詣が深いと知るや、鄭に行き、また、
大思想家"老子"を尋ねて、教えをこうたりもした。
■「三十にして立つ」
学問の知識が深まるにつれ、三十歳の頃、学問の師を志し、自立した。
その頃から、多くの弟子を受け入れるようになった。
■「四十にして惑わず」
学問を深め、弟子も集まるようになった。そろそろ、政界へ登用されることを
願うようになった。しかし、政治の中枢に参画して、自らが信ずる正しい道を
実現したいと願っても、魯の国では願いが叶わない。隣国の斎へ自らを売り
込みに行ったが、うまくいかなかった。
40歳の頃、自分の進む方向に、揺るぎのない確信が持てるようになった。
ここで初めて孔子は、迷いが吹っ切れた。
しかし、四十代の脂が乗った頃になっても、仕官の道は開けず、あせった。
時折襲ってくる動揺…。その時の心境から、「四十にして惑わず…」と、
言い残すようになったのでしょう…。
-以下次号に続く-
■「仁義礼知信」 「仁」とは 人を慈しむ心。
「義」とは 義侠心。
「礼」とは 礼儀・礼節・親を敬う心。
「知」とは 学ぶ心。
「信」とは 信頼・信じる心。
"孔子(前551~479)"の教えの中心をなすのは
「仁」。
孔子の高弟"曾子(前506~?)"の教えは、親孝行の
「孝」。
後に"四書"の一つに加えられた"孟子(前372~289)"は、
「義」を重んじた。
孟子は孔子の思想を継承し、「性善説」に基づく王道政治を説き、諸国を歩いた。
「性悪説」を唱えた"荀子(前298~238頃刑死)"は
「礼」を重んじ、
秦の始皇帝は、国家統一を維持するために、これを重用した。
5/27 中国「曾子77代目」"曾 慶淳"先生 来日講義から
【心と体の健康情報 - 248】
~古典から学ぶ~
「孔子の教え/教養の書・論語」
論語は、日本における最も基本的な教養の書として、千数百年読み継がれて
きた。「学而(ガクジ)編」に始まり「尭曰(ギョウエツ)編」を最後とする二十編、
五百近い章から成り立つ人間の記録です。
孔子の思想のキーワードは「仁」である。この「仁」の上に立って、
"人間論"
"政治論""指導者論"が、生き生きと語られている。
論語第一章「学而」の書き出しは、論語をまったく知らなくても、聞き覚えのあ
る言葉で始まります。
『学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや。
朋(とも)遠方より来る有り、また楽しからずや…』
「勉強したことを何度も復習していると、理解が深まり、自分のものとして体得
できる。これぞ人生の喜びではないか!学問について志を同じくする友達が、
遠いところから来て、学問について語り合う。なんと楽しいことではないか!」
つい最近まで、日本人は中国古典を学び、人間としての素養を高めてきた。
とりわけ「論語」は、人間学の原理原則であり、先人たちは「論語」を心の拠り
どころにして、厳しい現実に対処してきた。
しかし近頃は、そういった素養を身につける人は少なく、それが政・官・財界の
倫理観の喪失、モラルの低下、不祥事につながっているように思えるのです。
孔子は「上に立つものは徳を身につけよ」と説いている。上に立つ者は、
それなりの"器量と人格、自分を律する倫理観"を持たなければなません。
『利を見ては義を思い…』(憲問第十四)
も、孔子が弟子に伝えようとした言葉です。
「利益を求めるときは、人としての正しい道を念頭においてみなさい…」
と言っている。
つまり、現代社会における不正な行為、金儲けのためになりふり構わずといっ
た風潮を、戒めているのです。
ライブドアや村上ファンドは、現代社会の在りようを象徴する事件でしょう。
『義を見て為さざるは、勇無きなり』(為政第二)
もまた、有名な言葉です。
「正義だと知りながら行わないのは、勇気がないからだ」
以下、PHP「リーダーのための中国古典・論語」からの引用です。
ある時、弟子の子路から 平凡なように思われますが、極めて含蓄にとんだ言葉であることに 論語は、噛めば噛むほど味が出てくると言われている。 |
■素読のすすめ
論語を学ぶのは、「素読」が基本となります。
孔子の言葉を文字を通して見、自分の声で表し、これを自分の耳で聞く。
それを何百回と繰り返すことで、全身の皮膚から知らずしらず、体内に深く染み
込んでいく…。
何れ、それが思いがけない時に、その人の風格・人格となって、自然とにじみ
出るようになる…。 伊与田 覚「論語のはなし」より
「素読」を続けるうちに、しだいに我が身についてくる。純真で記憶力の旺盛な
幼年期が最も良いとされる。
吉田松陰や橋本佐内は、12歳の頃既に、藩公の前で教えを講じている。
幼い頃、父が農作業の合間にあぜに腰を下ろし、四書の素読を繰り返し教えた
という
【心と体の健康情報 - 247】
~古典から学ぶ~
「孔子の教え/ 苦労人のことば」
論語は、孔子という人の言行論、つまり人間や、人生や、政治についての感想や
意見をまとめたものです。孔子が自ら書いたものではありません。
仏教の経文やキリスト教のバイブルと違って、宗教書でもありません。
孔子没後五十~百年の間に、弟子たちが孔子と問答して教えられた言葉や、
国々を訪れた時に、その国の君主と交わしたときの対話などを集めたもので、
書かれたのは、二千数百年前の中国、戦国時代。
論語が日本に伝えられたのは西暦285年、百済から朝廷に献上されたと、
日本書記に記されている。奈良・平安時代には、皇族・貴族・僧侶の間に読まれ
るようになり、鎌倉から戦国時代になると、「論語」は「孫子の兵法」などとともに、
武将や僧侶の愛読書として親しまれた。
江戸時代、家康は治世の要として、「四書五経」を奨励した。五代綱吉は幕府に
学問所を設立。各藩には「藩校」を作らせ、「四書五経」を教え、武士の教育に当
たらせた。
庶民には寺子屋を奨励し、「手習い(習字)」と「論語」を学ばせた。江戸末期には
寺子屋の数が、全国一万五千余にもなったという。
明治から昭和、そして終戦まで、「論語」は"人生の指針"として、また"生活の
規範"として日本人に愛読され、日本人の心を育てる上において、大きく影響し
た。論語は読んだことがなくても、孔子を知らない人はいない。
しかし、昔ほど論語は読まれなくなった。何故でしょうか? 論語と聞いただ
けで、堅苦しい修身の教科書といったイメージが強いからでしょう…。
しかつめらしいお説教が書かれているのではないか? それならご免だと、
読もうともしない人が多いように思うのです。
これには「孔子=聖人」というイメージも関係しています。孔子の教えを受け継
いだ人たちを"儒家"と呼びますが、後世の儒家たちが孔子を尊敬するあまり、
聖人だと持ち上げてしまった。それが、孔子や論語を私たちから遠ざけてしま
う遠因でしょう。
実際の孔子は、イメージするような完全無欠な人間ではなかった。
むしろ"人生の苦労人"と言った方がぴったりします。その苦労人の言葉を
まとめたのが「論語」なのです。
「論語」の内容は、孔子が日頃弟子との間で語ったものを、まとめて書かれた
ものです。落語でご隠居が、熊さん、八ッあんに語って聞かせるような気安さ
を感じるのです。でなければ江戸時代、庶民にあれだけ普及することがなか
ったでしょう。
PHP 「リーダーのための中国古典・
論語」から引用
連休初めの28~29日の二日間、金沢で開かれた「クジラ・サミット」に参加
するために来沢した、熊本のY子さんと8年ぶりにお逢いし、食事を共にして、
クジラ談義に花を咲かせた。
Y子さんは、クジラ食品の製造販売の会社と、クジラ専門のレストランを経営。
毎年、捕鯨を推進する日本代表の一員として、国際会議に出席している話などを
伺った。
佐世保・五島列島は「鯨」捕鯨の町。連休の一週間、その地でスキューバダイビン
グを楽しんだ。佐世保まで乗用車で13時間、フェリーで2時間半、片道17時間
半かけて西日本を横断、九州長崎県西方沖に浮かぶ五島列島の煌めく海へ。
絶景ビュースポットで潜水を楽しみ、心身ともにリフレッシュした。
【心と体の健康情報 - 243】
~古典から学ぶ~
「孔子の教え 信無くんば…」
私の近所の小学校。集団登・下校時、街の角々に父兄が見張りに立つ。
「街で知らない人に声を掛けられたら、口を聞いたり、言うことを聞いてはい
けません」と、先生は子ども達に注意する。
今の子ども達、物心つくか・つかない頃に、「人を信じてはいけません!」と
教え込まれる…?。寂しくも、悲しい世の中になったものです。
明治の初期の頃の日本人には「信」があった。米国の学者モースは、日本人を
「生得(しょうとく)正直である」と、
自らの著書の中で書いている。旅館の部屋
の盆の上に置き忘れた財布が、一週間後もそのままで、無事だったという。
(中日春秋より)
孔子も又、人間関係の基本としての「信」を、最も重視した。
「信」とは「信頼する・信じる心」「嘘をつかない」「約束を守る」ということです。
一言で言うと"誠実さ"といってよいでしょう。
論語に、
「人にして信無くんば、其の可なるを知らざるなり」(為政第二)
というのがある。
孔子は「人にあって信がなければ、どうしようもない。もはや人間として評価
に値しない」とまで断言しているのです。
"バレ"なければ、人が見ていなければ、好き勝手に何をしてもいいという、
そんな事件が多発する今の社会にあって、この「信」の持つ意味は重い…。
以下、PHP 「リーダーのための中国古典・論語」から、その一端を紹介します。
ある時、子貢(シコウ)という弟子が、 「政治の最も重点課題とすべきは何でしょうか?」と尋ねた。 孔子は答えた。 『一つは食料の充足、二つは軍備の充実、それに、社会の中に信を 確立することだ 』 「では、その三つの内、仮に一つをあきらめねばならぬとしたら、 どれを選ぶべきですか?」 『軍備だよ』 「残りの二つの内、仮にもう一つあきらめねばならぬとしたら、 どれになりますか? 」 『もちろん食料だよ。人間はいつかは死ぬ。死を逃れることは できないが、この社会から信が失われたら、生きていても その甲斐がないではないか 』 |
この問答から、孔子が人間関係を基本にして、「信」即ち"誠実さ"に基づいた
信頼関係を重視し、大切に思っていたことが伺われる。
孔子の教えは、「この人生をどう生きるか?」「目の前の現実にどう対処する
か?」実生活での人間関係のあり方に注がれている。日常生活において、私た
ちの心を最も悩ます問題、それは「人間関係」です。論語はこの問題について、
様々な角度からヒントを与えてくれます。
■孔子さまの子孫
先週の27日は、京都で論語の勉強会。孔子様の75代目の直系子孫、祥林先生
が伊与田先生の招きで中国から来日。通訳を挟んで、二時間半の講義を受けた。
孔子は紀元前551年、魯の都、現在の山東省曲阜(きょくふ)県で生まれた、春秋
戦国時代の「儒教の創始者」です。現在、孔子の子孫「孔家」を名乗る者は数知れ
ず、中国に400万人、韓国に10万人いるという。
中国における「孔家」は天皇家のよう。家系が途切れることなく続く。中国歴代の
王朝は途切れるが、孔子の子孫は世奪され、文化の源として尊重されてきた。
釈迦やキリストは宗教家で、教祖さま。子孫が現存しているとは聞いたことがない。
孔子は、思想家・教育家であって、宗教とは無縁。崇め奉わる存在ではない。
「儒教思想が排斥された文化大革命の時でも、迫害をうけることはなかった」と、
祥林先生は言う…。
曲阜市には、孔子を祭る「孔子廟」、孔子のお墓がある「孔林」、孔子の歴代の子孫
が住む「孔府」がある。これを「三孔」といい、北京の故宮と並ぶ中国古代建築物と
して、世界文化遺産に指定されている。
(注)前403 「孫子の兵法」が著される
前221 秦が中国全土統一、始皇帝を名乗る
【心と体の健康情報 - 242】
~古典から学ぶ~
「孔子の教え 論語を学ぶ」
ものには"本末"というものがある。
木に例えれば"根"が本であり、"幹や枝"が
末になる。人間の"本"は「徳性(道徳心)」であり、"末"が
「知識・
技能」になる。
吉田松陰のことばに、「それ学は 人の人たる所以を学ぶ」というのがある。
"人の人たるゆえん"は、大きくは「徳性」と「知識・技能」の二つに集約される。
徳性を修めようと思うなら、「人間学」を修める必要があるのです。戦後60年、
私たちは末学一辺倒の教育を受けてきた。末学は大事だが、本学あっての
末学なのです。
本学といえば「論語」。その論語を学んで丸二年。今年三年目を迎える。
月に一度くらいで"学んでいる"などと、とても言えるレベルではない…。
ましてや論語を語るなど、とてもできない…。
「論語」といえばかしこまって学ぶもの…。孔子といえば聖人君子の代名詞の
ように思いがちですが、本当のところは、孔子の人生は苦労の連続…。
決して成功とはいえない人生だったのです。
孔子は、一国の宰相たらんと志ながら、雄途半ばで挫折。その傷心を乗り越え
尚、人間としての在るべき姿、君子たるものの在るべき姿を追求し続けたのです。
厳しい人生体験を重ねていく中から、人間としての生き方を語る書物が生まれ
た。それが論語なのです。
西の"バイブル"、東の"論語"と言われるように、昔から最も基本を為す教養の
書として読まれ続けた。江戸時代には、武家は「四書五経」を学び、農民や町人
は「手習い(習字)と論語」を寺子屋で学んだ。
寺子屋で学んだ町人・百姓の中から、幕末を動かす人物が多数輩出されたの
です。
メルマガでは、孔子の人生と、生き方をたどり、断片的ですが、私の心に残った
文列に焦点を当て、その文章が示す意味を理解し、深めていくことで、論語に
一歩でも近づいていければと思っています。
戦後、私たちの世代、こうした儒教思想や中国古典は、教育の現場から遠ざけ
られてきた。一部、社会の指導的立場にある人達の間で、経営者・管理職が読
む教養の書として、読み継がれてきたのです。
論語には、「人間として、自分をどう高めていくか?」、あるいは「人間関係
にどう対処するか?」など、人間学の基本が様々な形で解き明かされていま
す。
日本人が過去に、世界一教養があり、公徳心の高い民族と言われてきたのは、
まだ物心つかない幼少の頃に論語を素読し、四書五経に慣れ親しんできたこと
に起因している。
今の時代、論語を親しむ人は少ない。そのため中国の古典は、ある程度人生
体験を経てから読んだ方が、理解が早いようです。特に「論語」は、一回こっき
り読み捨てにするような書物ではない…。折に触れ、繰り返し、繰り返し読むこ
とによって、いよいよ味わい深くなってくる。そんな"座右の書"のような書物な
のです。
いつまでも未熟な私。論語を学ぶことによって、少しは徳性らしきものが身に
つき、器が大きくなることにつながれば、幸いです…。
PHP 「リーダーのための中国古典・論語」から
(註) 四書…論語・大学・中庸・
孟子の四書
五経…易経・書経・誌経・春秋・
礼記の五書
(註) 君子…単に王様を指すのではなく、
徳をそなえた為政者のこと。
現代の解釈では、人の上に立つ人、人格者のことを言う。
■最高の子育て
大阪の"お好み焼き千房"中井政嗣さんが主催する「50キロ歩破チャレンジ大会」
が、先週の土曜日に催され、
川人正臣さんの会社や、ご家族の皆さんが挑戦した。
次の日の日曜日、奈良県の川人さん宅を慰労訪問。ご家族の体験を伺って、みん
なが共通の困難に挑み、達成感を共有できたことは、何にも勝る素晴らしいことだ
と思った。
奥様、お嬢様、みんなが励ましあい、10時間歩き通しての完走。小学四年の長
男は、お父さんの腰に結ばれたロープに引っ張られて完走した。足はまだ痛いと
いう。親子が一つの絆で結ばれ、励ましあったから出来たこと。手にした子ども達
の自信は大きい。次なる挑戦へ…夢は膨らむ。
公園の桜は今が見ごろの満開。途中、宇治平等院と、奈良興福寺周辺を散策。
真っ青に晴れ上がった春の香りを、たっぷり満喫した。
興福寺・五重塔 |
奈良公園・鶯池 |
【心と体の健康情報 - 239】
~古典から学ぶ~
「孔子の教え/思いやり」
論語には、心に残る文章が沢山出てきます。以下の文もその一つです。
「己の欲せざるところは、人に施すことなかれ」
(顔淵第十二・衛霊公第十五)
「自分が嫌だと思うことは、人に無理強いしたりしない」
この論語の一節は、日本人の心の底に根ざしている優しさでしょう…。
その優しさも、今は薄れ、なくなってしまったようです…。
メルマガ236号で、フランシスコ・ザビエルが鹿児島の地にやってきて、
日本人が大変優れ、感嘆したことを本国へ書き送った。
ザビエルから三百年の後、明治の世になっても、その日本人の精神は脈々と
受け継がれている。それは、日露戦争で乃木大将が、旅順を陥落させ、敵将
ステッセルと会談したときの逸話の中に、見られる。
敗将ステッセルの一行は、白旗を掲げてやってきた。日本から来た新聞社の
カメラマンたちは、この歴史的一瞬を撮影して、勝利を華々しく祖国に報道し
ようと待ち構えていた。ところが乃木大将は、これを差し止めてしまった。
一体何故? 軍人にとって降伏することは、この上もない不名誉であり、
まして、その屈辱の情景を、これ見よがしに報道されることは、当人にとって
死ぬ以上に辛いことだからです。
かって西南の役において軍旗を奪われ、一死をもってその償いをせんとして、
果たせなかった乃木。ステッセルの辛い心の内が、痛いほどわかるのです。
武士の情けがわかる乃木は、心細かに配慮して、手厚くステッセルを出迎え
た。
本来、敗軍の将には帯剣は許されない。乃木は、それを特別に許している。
乃木は、この激戦で、二人の息子を戦死させた。そのことをステッセルは深く
哀悼し、相互にその善戦健闘ぶりをたたえ合った。
乃木の厚遇に感謝したステッセルは、自分の愛馬を乃木に送ることを約束して
いる。
この会談には、勝者のおごりも、敗者の卑屈もなく、共に祖国のために堂々と
戦った将兵の、誇りと満足と相互の尊敬とが、静寂を取り戻した戦場の茅屋
に、暖かい雰囲気をかもし出したのです。
論語の友1月号より
致知出版「仕事と人生」
の編者、川人正臣氏の奈良県の自宅を訪れたのは4年前。
当時、小学校六年と三年生の姉妹、幼稚園児の長男、そして奥様の5人家族。
ご主人に導かれ玄関に足を踏み入れ、驚いた。奥様と三人のお子さまがお出迎え。
玄関かまちに並んで、一人ひとり可愛い声で自己紹介。躾がなされていて、礼儀
正しい。
毎朝行われる家族のおつとめに参加しようと、一晩泊めてもらった。
朝六時半、家族全員座敷に正座。神棚に拍手を打ち、朝のお参り。次いで数分間黙祷…。
その後、全員「論語」
を素読する。子ども達の素読の早いこと。ついていくのがやっと…。
私が論語に触れたのは、この時が最初だった。午前七時、家族揃って食卓に着く。
私も一緒に朝食をいただいた。
お暇をすることになって、玄関に出たら、来たとき同様、子ども達・家族全員玄関に
立った。…お別れの挨拶を交わした。こんな素敵な家庭…初めてです。
【心と体の健康情報 - 238】
~古典から学ぶ~
「孔子の教え/譲り合いの精神」
交差点で接触事故を起こし、相手に「すみません」と言ったばかりに、その一言
を盾に一方的に制裁を押し付けてくる。こんなケースが増えてきている…。
嫌な世の中になったものです。
交差点の事故は、双方に非がある場合が多い。一昔前であれば、とりあえず
接触したことを謝罪するのが礼儀。自分に非がなくても、一歩控えて謝する、
そんな謙虚な心があった。
今は一言でも「すいません」と言おうものなら、
『あなたは今謝られましたね! 自分の方に非があると認めるのですね!』
と、念を押され、補償交渉を有利に導こうとする。昔の日本人なら、誰一人と
してそんなことを、考えたりしなかっただろう。
欧米の個人主義は、自分に非があっても「謝らない」と聞く。自らの権利を主張
しなければ、相手につけ入られ、どんな目に合うかわからない…とか。
そんな西欧の風潮が、日本にも浸透…。
昭和も中ごろ迄の日本は、まだ戦前の教育の影響が残っていた。
「礼」を重んじ、「譲り合う精神」があった。 論語に以下の文章がある。
『 師曰く、
よく礼譲をもって国をおさめんか、何か有らん。
よく礼譲をもって国をおさめずんば、礼を如何にせん 』 (里仁第四)
「先師が言われた。礼の根本である譲る心をもって国を治めれば、なんの難し
いことがあろうか。その譲る心をもって国を治めなければ、礼制がいかに整っ
ていても、どうしようもないであろう」
ライブドア事件や、姉歯事件を契機に、今の国会で様々な法改正が取りざた
される。人間としての根本に欠ける事件が頻発するのは、「それを定める法に
欠陥があるからだ」という。
そこで、法律をより厳しくして、事を治めようとする考えが、頭をもたげてくる。
中学や高校で、やたらと校則を厳しくして、問題の発生を規則でもって抑え込
もうとするのと何ら変わらない。問題の根本解決にはならないと思うのです…。
「人の本性は悪で、先天的に利欲の心が強く、善に見えるのは偽りで、
天性に従って行動すれば、争いが絶えない」
このような 「性悪説」
を唱える荀子(じゅんし) を他国から招き入れ、国家統一
を図った秦の始皇帝。法と刑罰で国を治めようとして、民心の離脱を招き、
わずか15年で国が滅びた。
孔子は「国を治むるは徳をもってなすべし」と言う。「仁・礼」がまず先で、
その後に「法」がある。二千年も前に、孔子はそのことを諌めているのです。
古代中国、聖王"周"の文王は、自らの"徳"によって、中国全土の3/2の
諸侯が帰服したとある。
ある時"虞(グ)と苪(ゼイ)"に紛争が持ち上がり、その制裁を周に求めてきた。
両国の君主が文王に呼び出され、周を訪れた。一歩周の領内に入ってみると、
農民はあぜを譲り合っており、年寄りを敬して立て、年長者に譲る気風がみな
ぎっているではないか…。
二人はすっかり我が身を恥じ、「我々の争いなど、この国では物笑いの種、
恥をかきに行くようなものだ」と、早々に引き返し、お互いに譲歩し和解した
という。
論語の友9月号より
先週16日は大阪で研修。夜京都に入り、"実相院"のライトアップされた紅葉
と石庭を拝観した。
17日は、朝一番二条城二の丸御殿を拝観し、名園と本丸、清流園を散策。
両園とも初めての訪れ…。中でも清流園の雄大な庭園設計、その見事さに、
要所要所でしばし立ち止まり、見とれていた…ともかく素晴らしい景色だった。
お目当ての紅葉の色づきはまだ早く、今年は雨が少なかったせいか、紅葉しても色が茶っぽく、 枯れてちじんだようになっている。
昨年は、清水寺へ行ったが、年々鮮やかな美しい色付きがなくなってきているようだ…。
午後は、月一回の論語の勉強会でした。
【心と体の健康情報 - 221】
~古典から学ぶ~
孔子の教え「論語:教有りて類なし」
偉大な教育者"孔子"。その「論語」は今から2500年前、春秋時代の末期に
書かれたもので、これだけ古い書物で、いまだに愛読されているのは、論語と
聖書、そして仏典くらいでしょう…。
「論語」を紹介するのは、308号に続き二度目になります。これからも折に触
れ、よく知られている一章一編を紹介しながら、自らも学ぼうと思っています。
まず「論語の友3月号・今月のことば」から…
「子曰く 教
(おしえ)有りて 類無し」 (衛霊公第十五)
「先師が言われた。人は教育によって成長するもので、はじめから特別の種類
はないのだ」
世界中の赤児、生まれた時はみな同じである。それが環境・境遇・教育によって
言語が異なり、考え方が異なり、食癖まで異なってくる。
メルマガ294号で、「人は教育により、何にでもなる」を流したように、教育が
重要な役割をすることは、改めて言うまでもありません。
日本は早くから儒教を教育に取り入れ、冒頭の孔子の教えに沿って教育の充実
を計ってきた。幕末の頃は、国民の80%が読み書きし、世界で最もレベルの高い
教育立国であった。明治以降「国民皆教育」を目指し、アジア諸国に先駆けて近
代国家へと発展した。日本の教育水準は、ずっと世界のトップにあったのです。
ところが最近、異変が生じている。「学力の低下」が問題になっているのです。
中でも、日本語の読み書きのレベルが著しく低下している。教育の現場で、
長年最も基礎となる「国語」を軽視してきたことが、ここに来て問題になってい
るのです。
大学生が手紙もろくに書けず、文章も幼稚で、誤字、あて字、読み違いなど、
社会人になって、再教育しなければならない有様。
小学生が"田園都市"を「たえんとし」、"赤十字"を「あかじゅうじ」と読み、
「三日月」「川下」「米作」「色彩」などを、正しく読めない子どもが激増している
との、調査結果が出ている。
"眼力(がんりき)"を「メヂカラ」、"興味津々(きょうみしんしん)"を「キョウミツツ」
と読んだり、"指摘"を「指適」、"合鍵"を「会鍵」、"前立腺"を「前立線」、"危険"
を「危検」など、キリがない。
昔の学問の基礎は"読み(素読)書き(習字)そろばん"。文章を読むことと、
読めるようになることが、基礎の中の基礎である。数学も英語も理科も歴史も
、すべて"読解力"無くして"理解力"が身に付かない。国語力の低下は、全科
目の低下につながっていく…。
「漢字」は日本人の精神の核をなし、言霊(ことだま)である。日本人の心を磨き
育んできた"珠"である。韓国でも最近、ハングル語一辺倒の弊害に気づき、漢
字の復活が叫ばれているという。
国の歴史を振り返ると、その国の言語が発達する時は、必ずその国が勃興す
る時であり、その国が衰退する時は、その国の言語も衰退する。過去、幾多の
歴史が物語っている。
前号で、「フィンランドは読解力世界一」であることを話した。
先生が作るテスト。日本のような"穴埋め問題"はほとんどなく、記述式の問題
が大半を占める。「児童は、書くことをおっくうがるが、どれだけ理解したかを知
るには、書くことが一番」と、先生は言う。
月に一度は、生徒を近くの図書館へ連れて行く。
「読むこと、
書くことがすべての教科の基礎。創造的な内容や、理論的な
文章を、繰り返し書かせるようにしている」のです。
先週、サンフランシスコへ旅行した。日本との時間差は16時間。
まだサマータイム中で、7時10分にようやく日の出。
4月から11月は乾季で、毎日晴天続き。雨が降らない。雨季は1~2月で、
3月には、茶色く枯れた近隣のハゲ山が一面"緑"のじゅうたんに変わる。
バスで移動中、道路沿いの家々の柱に長さ50センチ、巾5センチほどの黄色
い布が2~3枚ひらひらしている。「何?」って尋ねたら、イラクへ出征した兵士
が無事帰還することを願っての、お呪いだという。
■ゴールデンゲートブリッジ
・全長3Km、朱色に塗られた吊橋は、70年前の1937年に完成したもの。今でこそ明石大橋にその座を譲ったが、
ずっと世界一の長さを誇っていた。
霧の中に浮かび上がるブリッジは、サンフランシスコ名物。
・今、新たなブリッジを隣に平行して建設中。完成後、現在のブリッジは取り壊されるという。
■ヨセミテ国立公園(世界遺産)
・写真はヨセミテ公園のシンボル
「グレイシャーポイント」
【心と体の健康情報 - 216】 ~古典から学ぶ~
「韓非子(3) トップに必要な"術"」
私は、徳川家康や三国志など、戦国歴史小説が大好き。その中によく出てくる、
トップが部下に寝首を欠かれる事例、信長のケースが思い浮かぶ。これは、
日本だけでなく、中国でも事情は同じ。
現代でも、「信頼していた部下に煮え湯を飲まされた。裏切られた」「飼い犬に
手を噛まれた」といったケースがあとを断たない。
部下に裏切られても、個人的損害で済めばまだいいのですが、下手をすると、
会社までガタガタにされ、大きなダメージを受けることになりかねない。
それでは、リーダー失格でしょう。何故そんなことが起こるのでしょうか?
韓非子に言わせると、組織管理に甘さがあり、部下の統率に手抜かりがあった
からだという。そうならないためには、部下を統率し、操縦するための"術"を
マスターしなければならないと、韓非子は五つの項目で、そのことを説いてい
る。
(1)
「手柄を立てたものには賞を与える」
「失敗を犯したものには罰を加える」
この権限をしっかり自分の手に握っておくこと。そうすれば、 思いのままに
部下を操縦することができる。
・韓非子曰く…
「虎が犬を服従させているのは、虎には爪があり、牙があるからだ。
もし、爪と牙を虎から取り上げて、犬に与えたら、逆に虎の方が犬に服従しな
ければならなくなる。
同じように君主が、賞罰の権限を臣下に委ねてしまったら、国中がその臣下
を恐れて、君主を甘く見る。人心は君主を去って、臣下に集まるだろう」
(2)
勤務評定を厳しくする
部下の申告に基づいて仕事を与え、
申告と成果が一致した者には賞を与え、
一致しなかった者には罰を加える。
(3)
部下に好き嫌いの感情を見せてはならない
君主が臣下に好悪の感情を見せると、
臣下はそれに自分を合わせて取り入って
くる。それでは、臣下を使いこなすどころか、逆に臣下に使われてしまう。
また、腹黒い臣下は、それに付け込んで策略をめぐらし、君主の地位を脅かす
かもしれない。そんなスキを見せないため、好悪の感情は隠すようにしなければ
ならない。
(4)
時には部下に、
思いもよらぬことを尋ねてみる
そのことを韓非子では、
以下の事例をもって示している。
宋の国の宰相が、部下に命じて市場の見回りをさせ、帰ってくるなり尋ねた。
「市場にはなんぞ変わったことでもなかったか?」
『いえ、何もございません。そういえば、市場の外は牛車でいっぱいで、やっと
通れるくらいでした』
「よし、誰にも言ってはならぬぞ!」。宰相はそう言い含めておいて、市場の
役人を呼び出して、叱り付けました。
「市場の外は、牛の糞でいっぱいではないか、早く片ずけるがよい」
役人は、宰相がこんなことまで知っていることに驚き、それ以後職務を怠らな
くなったという。
(5)知っているのに、知らないふりをして尋ねてみたり、嘘やトリックを
使ってテストをしてみる
以上が、韓非子の「術」による部下の操縦術です。無条件には受け入れられな
いところもありますが、部下を上手に操縦術していくうえで、大いに参考になります。
PHP「リーダーのための中国古典・韓非子」より
五大将軍徳川綱吉の「生類あわれみの令」は、蚊をつぶした小姓が遠島、ツバメを
吹き矢で殺した子供が死罪、といった伝えが残り、悪政の象徴のように言われている。
この法の狙いには、戦国時代以来続いてきた、人殺しをいとわぬ風潮を、厳罰で
もって変えてしまおうという、綱吉の思惑があったとされる。
武断主義から文治主義の時代に変わろうとするときに、生まれた法律です。
織田信長にも「一銭斬り」がある。略奪横行の絶えない、乱れた世の中の治安を
回復するため、たとえ一銭でも人の金品を盗れば、斬首で臨んだ。
郵政民営化の反対派に"刺客"を送った小泉首相。「覆水盆に返る」的自民党の
甘え体質を改革するために、思い切った手法が必要との判断があったのでしょう。
8/29北国新聞「時鐘」
【心と体の健康情報 - 214】
~古典から学ぶ~
「韓非子/人間は利に動かされる動物」
※韓非子…二千年前、中国戦国時代末期、韓の国の法家"韓非"の書物。
韓非は「性悪説」を唱えた荀子(じゅんし)の弟子。秦に招かれ、秦王政(後の
始皇帝)に認められ、用いられようとしたが、荀子のもとで共に学んだ秦の
重臣"奇斯"に妬まれ、毒殺された。
韓非は、「本来悪である人間の性を矯正するには、"法"を用いてなす」と説いた。
秦の始皇帝が韓非亡き後、国家運営の理論的支柱にしたことで知られている。
帝王学を学ぶ上で、西の「マキャベリ」と並び称される、東の「韓非子」。
「人間とは"利"に動かされる動物である」という基本認識に立って、
冷酷なま
でに即物的なリーダー論を展開する。
韓非子では、徹底した人間不信の上に立って、リーダーの在りかたを追求して
いる。リーダーたるもの、一度は目を通しておきたい古典でしょう。
組織のトップ、リーダーはどうあるべきか。自らの地位を安泰にするためには、
どんな点に配慮しなければならないか。そういった問題を、韓非子の独特の
人間観でもって追及している。
「人間を動かしているものは何か? 愛情でもない、思いやりでもない、義理で
もない、人情でもない、ただ一つ"利益"である。人間は、
利益によって動く動物
である」。これが韓非子の認識である。
"韓非"は、次のように語っている。
「ウナギは蛇に似ており、蚕はイモ虫に似ている。蛇を見れば、誰でもビクッ
とするし、イモ虫を見れば誰でもゾッとする。だが、漁師は手でウナギを握る
し、女は手で蚕をつまむ。つまり、利益になると見れば誰でも勇者になるのだ」
また、こうも語っている。
「車をつくる職人は、人は皆金持ちになればよいと思っている。棺桶をつくる
職人は、人は皆早く死ねばよいと思っている。しかし、前者が善人で、後者が
悪人だというわけではない」
「金持ちにならなければ、車を買ってくれないし、死ななければ棺桶が売れな
いだけのことだ。人が憎いのではなく、人が死ねば自分が利益を得るからであ
る」
こういった考え方には、賛否いろいろある。少なくとも、人間社会のある一面
・真実を、鋭く言い当てていることは否めません。人間関係が利益によって
動かされているとするなら、トップと部下の関係も、決して例外ではないと、
韓非は考えるのです。
「部下は、常に自分の利益を優先して考える。折あらばトップに取り入って、
自分の利益を拡大し、スキあらばトップを蹴落として、自分がその座に
取って代わろうとする。油断もスキも許されないのが、トップの地位である」
と、韓非子は言っている。
PHP「リーダーのための中国古典・韓非子」より
■言葉遊び
今日はおなじみの早口ことばを紹介します。一番ポピュラーなのが
「生麦生米生卵」 「東京特許許可局」 「隣の客はよく柿くう客だ」
そのほか
「青巻紙赤巻紙黄巻紙」 「坊主が屏風に坊主の絵を上手に書いた」
「蛙ぴょこぴょこ三ぴょこぴょこ 合わせてぴょこぴょこ六ぴょこぴょこ」
「赤パジャマ黄パジャマ茶パジャマ」
など、皆さんよく知っているものばかり。
では、面白い早口ことばを一つ…。一気呵成に三回くり返してください。
「馬の股に藁(わら)一本、馬の股に藁一本、馬の股に藁一本」
三回くり返すうちに、これが「○○一本」と聞こえたら、かなり耳が悪い??この早口言葉は"鼻をつまんで言う"のが正しい…?
【心と体の健康情報 - 215】
~古典から学ぶ~
「韓非子(2) 経営者には上・中・下三つのランクがある」
毎週土曜日NHKで半年間放映していた、韓国ドラマ「オールイン・運命の愛」
が終了した。大変見ごたえがある面白いドラマだった。
そのドラマの中で、事業家が「韓非子」を例に挙げ、部下を指導しているシーン
があった。
・三流のリーダーは 「自分の力」を使い、自らの能力に頼る
・二流のリーダーは 「他人の力」を使い、他人の能力を生かす
・一流のリーダーは 「他人の知恵」を使い、自らにはない能力を活かす
魏の国の照王という王様は、ある日、自分で裁判を手がけてみたくなった。
そこで宰相を呼び出して、
王 「一つ、わしが自分で裁判をやってみようと思う」
宰相「そういうことでしたら、まず法律を勉強されることです」
照王は法律の本を読み出したが、いくらも読まないうちに眠くなり、
「わしには、法律の勉強などできない」と言って、サジを投げたという。
韓非子はこの事例から、次のように言っている。
「君主は、権力の要を抑えていればそれでよい。臣下に任せておけばよいこと
まで、自分でやろうとしないことだ」
韓非子によれば、経営者には"上・中・下"三つのランクがあるという。原文は、
「下君は己の能を尽くし、中君は人の力を尽くし、上君は人の能を尽くす」
自分の才覚に頼っているうちは、経営者としてまだ三流に過ぎない。一流の
経営者とは、人の知恵を使うものだ。一人ひとりの部下の持つ能力を存分に
発揮させるのが理想的トッフといえる。
韓非子は続けて、
一人の力は、大勢の力に敵わない。
一人の知恵では、すべてのことに目が届かない。
一人の知恵と力に頼るよりも、国中の知恵と力を使う方がよい。
一人の考えだけで事を処理すれば、たまたま成功することはあっても、
ひどく疲れる。うまくいかなかったら、目も当てられない。
また、こうも語っている。
「鶏がトキを告げ、猫がネズミを採るように、部下の一人ひとりに能力を発揮
させれば、上に立つものは、自分で手を下す必要がない。
上に立つものが自分で能力を発揮すれば、事はスムーズに運ばなくなる」
このように、黙ってにらみを効かせている在り方、それが理想的組織管理だと
いうのです。
PHP「リーダーのための中国古典・韓非子」より
五大将軍徳川綱吉の「生類あわれみの令」は、蚊をつぶした小姓が遠島、ツバメを
吹き矢で殺した子供が死罪、といった伝えが残り、悪政の象徴のように言われている。
この法の狙いには、戦国時代以来続いてきた、人殺しをいとわぬ風潮を、厳罰で
もって変えてしまおうという、綱吉の思惑があったとされる。
武断主義から文治主義の時代に変わろうとするときに、生まれた法律です。
織田信長にも「一銭斬り」がある。略奪横行の絶えない、乱れた世の中の治安を
回復するため、たとえ一銭でも人の金品を盗れば、斬首で臨んだ。
郵政民営化の反対派に"刺客"を送った小泉首相。「覆水盆に返る」的自民党の
甘え体質を改革するために、思い切った手法が必要との判断があったのでしょう。
8/29北国新聞「時鐘」
【心と体の健康情報 - 214】
~古典から学ぶ~
「韓非子/人間は利に動かされる動物」
※韓非子…二千年前、中国戦国時代末期、韓の国の法家"韓非"の書物。
韓非は「性悪説」を唱えた荀子(じゅんし)の弟子。秦に招かれ、秦王政(後の
始皇帝)に認められ、用いられようとしたが、荀子のもとで共に学んだ秦の
重臣"奇斯"に妬まれ、毒殺された。
韓非は、「本来悪である人間の性を矯正するには、"法"を用いてなす」と説いた。
秦の始皇帝が韓非亡き後、国家運営の理論的支柱にしたことで知られている。
帝王学を学ぶ上で、西の「マキャベリ」と並び称される、東の「韓非子」。
「人間とは"利"に動かされる動物である」という基本認識に立って、
冷酷なま
でに即物的なリーダー論を展開する。
韓非子では、徹底した人間不信の上に立って、リーダーの在りかたを追求して
いる。リーダーたるもの、一度は目を通しておきたい古典でしょう。
組織のトップ、リーダーはどうあるべきか。自らの地位を安泰にするためには、
どんな点に配慮しなければならないか。そういった問題を、韓非子の独特の
人間観でもって追及している。
「人間を動かしているものは何か? 愛情でもない、思いやりでもない、義理で
もない、人情でもない、ただ一つ"利益"である。人間は、
利益によって動く動物
である」。これが韓非子の認識である。
"韓非"は、次のように語っている。
「ウナギは蛇に似ており、蚕はイモ虫に似ている。蛇を見れば、誰でもビクッ
とするし、イモ虫を見れば誰でもゾッとする。だが、漁師は手でウナギを握る
し、女は手で蚕をつまむ。つまり、利益になると見れば誰でも勇者になるのだ」
また、こうも語っている。
「車をつくる職人は、人は皆金持ちになればよいと思っている。棺桶をつくる
職人は、人は皆早く死ねばよいと思っている。しかし、前者が善人で、後者が
悪人だというわけではない」
「金持ちにならなければ、車を買ってくれないし、死ななければ棺桶が売れな
いだけのことだ。人が憎いのではなく、人が死ねば自分が利益を得るからであ
る」
こういった考え方には、賛否いろいろある。少なくとも、人間社会のある一面
・真実を、鋭く言い当てていることは否めません。人間関係が利益によって
動かされているとするなら、トップと部下の関係も、決して例外ではないと、
韓非は考えるのです。
「部下は、常に自分の利益を優先して考える。折あらばトップに取り入って、
自分の利益を拡大し、スキあらばトップを蹴落として、自分がその座に
取って代わろうとする。油断もスキも許されないのが、トップの地位である」
と、韓非子は言っている。
PHP「リーダーのための中国古典・韓非子」より
■孟子の言葉
天が重大な任務をある人に与えようとするとき
必ず まずその人の精神を苦しめ その筋骨を疲れさせ
その肉体を餓え 苦しませ その行動を失敗ばかりさせて
そのしようとする意図と 食い違うようにさせるものだ
これは 天がその人の心を発慎させ 性格を辛抱強くさせ
こうして 今までにできなかったことも
できるようにするための 貴い試練である
※壁にぶつかった時、何をやってもうまくいかないときなどに、
孟子のこの言葉を繰り返し黙読すると、不思議とヤル気が湧いてくる…。
【心と体の健康情報 - 213】
~古典から学ぶ~
「論語/由らしむべし、知らしむべからず」
以下、「論語の友・9月号/今月のことば」からの抜粋です。
「子曰く、
民は之に由らしむべし。之を知らしむべからず」(秦伯第八)
上記の孔子のことば、ちょっと論語をかじった程度の私のレベルだと、
「人民は只ついて来させるべきで、政治の内容まで知らしめるべきではない」
と読んでしまう。
「孔子様はけしからん。いくら封建時代とはいえ、権力者に迎合し、専制政治を
擁護していてる…」という風に解釈し、非難しそうになる…。
漢文は色々な読み方ができて、それだけに誤解も生じやすい…。
「論語読みの論語知らず」と言われるゆえんである。
人間学の権威、安岡正篤先生は、「苦労人の孔子が、そんなことを言う筈がな
い」と一蹴している。解釈の誤りである。
読み方を変えれば、
「人民というものは、どんなに懇切丁寧に解説しても、政治の本意を
知らしめることは、まことに至難である。だからせめて、人民から信頼
されて、なんだか分らないが、あの人に従っていけば、良くなりそうだ」
というふうに、解釈したらどうか…。
さて、今回の郵政解散は自民党の圧勝に終わった。刺客を送り込んだことで、
自民に内部抗争が起き、民主が漁夫の利を得、いよいよ政権交代か? と、
一瞬思った。
郵政を民営化するのは「いいのか?」「悪いのか?」、 国民には、さっぱり分
らない。賛成を唱える人の話しを聞けば、そのように思えてくるし、反対の意
見を聞けば、「そうかなぁ」と思ってしまう。国民にその真意を知らしめること
が、いかに至難なことであるか…、今回いやほど納得させられたのです。
果たして自民党が民主党に敗れ、政権が崩壊して野に下るか、郵政民営化
に賛成して、引き続き小泉政権を支持するか? 文字通り二者択一の、一大
決戦の場を、首相自らが演出し、国民に下駄を預けたのである。
国会では、法案が否決されているだけに、まさに、国民に信を問う、捨て身作
戦である。ここまでくると、国民も真剣に考えざるを得ない…。
結果は自民党の圧勝。国民は「小泉さんが、政治生命を懸けて、郵政民営化
に取り組んでいる。何だか分らないが、小泉さんに従っていけば、良くなりそ
う」と、小泉首相の勇断に、国民の多くが好感を持った結果の数字であろう。
今のところ、「民を由らしめ、民により明快に知らしめた」、ということでしょうか
先週末の二日間、静岡県掛川へ出かけて、今の日本に一番求められるであろう
「報徳の精神」を学んできた。
江戸時代、武士・町人・農民を問わず、子供たちに”四書五経”を学ばせたのは、
”人生いかに人間らしく正しく生きるか”という、「人間学」を修めることにあった。
当時の学問には、「本学」と「末学」があった。四書五経といった「本学」を学ぶことは、
”人間学”を学ぶことにあり、ふだんの生活に必要な”知識や技術”は、「末学」で学んだ。
今の時代は「末学」が重視され、人よりどれだけ偏差値が高く、技能が優れているかといった、人間の価値を、数値・数量で推し量る社会である。
「本学」を学んでも、普段の姿にはあまり表れてこない。人生の岐路、苦悩の時に、その学びの真価が発揮される。
「本学」は、まだ物心つかない幼い頃から、家庭で繰り返し「しつけ」を通して教え込み、身体の中にすり込んでくものである。
自我がほぼかたまり、人格が形成された大人になってから学んでも、なかなか身に付かないものである。
【心と体の健康情報 - 195】
~幸せな人生を歩むために~
「憂うる日本の将来」
脱線転覆事故から、次々と表ざたになる、JR西日本社員の呆れた言動。
好きだからというだけで、少女に手錠をかけ監禁し、相手の人格や命の尊厳を平気で踏みにじってしまう若者。
いったい何時の頃から、日本人はこんな恥ずかしい行為を、平気でするようになったのでしょうか?
以下、元松下政経塾副塾長「志ネットワーク」の”上甲 晃”氏の講演を聞いて
思ったことです…。
「自分の人生で、
最も大切にしなければならないものは何か?」と問われたら、
山本さんはどう答えるでしょうか?
生きる原点というべきものを、どのようにして学び、身につけていけばいいのでしょうか?
「人は何のためにこの世に生まれてきたのか?」
「何のために生きるのか?」
「何をこの世に残して 死んでいくのか」
といったことを考えるとき、「宗教」「道徳」「歴史」の三つを学ばずして、
その精神を養うことは出来ないと、上甲氏は語る。
「宗教」や「道徳」「歴史」を学ばない人間が、自ずから求め、目指すものは唯一、「金儲け」「立身出世」 「地位や名誉」である。戦後六十年、日本人がひたすら追い求めてきたものではないでしょうか。
それは「野心」の一言につきます。「もっと出世したい」「もっと金儲けしたい」
「もっと会社を大きくしたい」「いい車に乗りたい」「大きな家に住みたい」。
いずれも、自らの幸せと利益のためのものであって、人のために何かお役に立とうというものではない。
戦後の教育を振り返ってみると、中学も高校も進学予備校と化している。
先生は、他の中学、高校より優秀でありたいと願い、学校間の序列と名誉を守るため、子供たちのお尻を叩く。
生徒はクラス仲間を仮想競争相手に、学年順位を上げようと、懸命に頑張る。
生徒のお母さんは、我が子のことしか目に入らず、子供を塾へと追い立てる。
誰もが自分のために頑張るが、人のお役立ちになることなど、考えもしない。
世のお母さん方が描く理想は、子どもの個性を伸ばすことより、少しでも学力の高い学校に進学させ、 一流の会社に就職させること…。それが我が子の幸せにつながると、信じて疑わない。
そういった教育現場の在り方が、子供たち一人ひとりの能力に合わせた教育をする余裕を奪い、
子供たちの精神を健全に育て、発達させる場を遠ざけてきたのです。
そういった教育環境で育った私達。その私たちに育てられた息子や娘たちが、次の世代を担う孫たちを育てている。だから、
日本の将来が心配なのです。
私達親は、子供達に「人間として生きるための基本とは何か」
ということを教えてこなかった。そうやって育った息子や娘たちが、人間として、社会人として、 正しく生きていくために、
どんな教育を我が子にしようとしているのだろうか?
極めて難しい問題です。子育てに対するビジョンもなく、躾けらしい躾けもせず、ただ可愛がるだけ、甘やかすだけ。それでは、
青少年の犯罪件数は増えこそすれ、減ることはないでしょう。
凛々しさに欠け、道徳心、慈愛の心が欠落し、自分本位で、周りにはまったく無関心の若者たち。 そんな若者たちを育てた私達。責任の多くは私達にあるようです。子ども達の行為をあれこれ批判する前に、私たち自身が、 自らの生き方を敢然と見つめ直す必用があるようです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ 】
~古典から学ぶ~
「一眼、二足、三胆、四力」
柳生新陰流の開祖「柳生但馬守宗炬」の書に、「一眼、二足、三胆、四力」 という言葉がある。これは、 柳生新陰流の奥伝といわれている。
「一眼」 | 剣道では、相手の目を見据えて勝負に挑みます。相手が何を考え、何をしようとしているのか、 相手を見つめて眼を離さないことです。相手の心を読むことであり、意味するところは、何事にも”精神一点集中” を第一とすること。 |
「二足」 | 第二に必用なことは、二本の足でしっかり大地をふんまえ、足腰がしっかりしていること。即ち” 基礎体力、土台”がしっかりしていることです。そのためには、日常の鍛錬が大切になってきます。 |
[三胆] | 三番目は、平常心の中での決断です。そして、その時の状況判断に基づき、”冷静沈着に大胆に” 攻撃を加えるのです。 |
[四力] | 最後は”決断力と実行力”です。そして、更に大きなパワー力をつける”集中力、胆力” が必要となってきます。すべての力を勝負に賭ける集中力が勝敗を決します。 |
■これをそのまま経営に置き換えると
「一眼」は、情報力になるでしょうか…。それは着眼点、
発想力だともいえます。
膨大な情報の中から、何を感じ取り、何を取り込んでいくか?
目指す方向を明確に示すために、しっかりとした眼力がいります。
「二足」は、時代の変化にも耐えうる企業の体質と土台をしっかり固めておくことです。 財務体質を強化し、人材を育成し、二本の足でこまめに稼ぐ努力がいります。
「三胆」は、明確な戦略に基づく目標を決定し、 決定したことに不退転の決意で全社一丸となって挑みます。
「四力」は、決断したからには迷うことなく、勇猛まい進する実行力でしょう。目標必達に向け、信念と自信をもって実行します。