■イースター島、名前の由来
1000体のモアイで知られるイースター島は、チリ沖 3800kmの
太平洋上に浮かぶ孤島です。
1722年、この島に立ち寄ったオランダ人が、 「イースター島」と
名付けた。この島を発見した日が、 キリストの復活祭「イースター」
だったのです。
■「ハッケヨイ ノコッタ」の語源は
がっぷり組んで動かない時は、「ハッケヨイ」
技をかけている時は、「ノコッタ ノコッタ」と行司は気合を いれる。
・「ハッケヨイ」の語源は、陰陽道の「八卦良し」から来た説、
・もっと気を発して戦え、「発揮掲陽」から来た説、
・韓国慶尚道の方言、「ハッケヨ(始めましょう)」から来た説、
いろいろな説があます。
904 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~ことば遊び~
「童謡/かごめ かごめ」
童話や童謡の中には、私たちが長年抱いてきたイメージとは、全く異なる意味が隠されていることがあって、驚かされることがあります。
「しゃぼんだまとんだ やねまでとんだ
やねまでとんで こわれてきえた
しゃぼんだまきえた とばずにきえた
やねまでとばず とちゅうできえた
かぜかぜふくな しゃぼんだまとばそ」
これは”野口雨情”の童謡「しゃぼん玉」です。
雨情が、結婚八年目にようやく授かった女の子…目の中に入れても痛くないほどの可愛がりようでしたが、二歳のとき死んでしまった。亡くなった我が子への父の思いを謡ったのが、「しゃぼん玉」です。(詳しくはメルマガNo152)
「かごめ かごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる
夜明けの晩に 鶴と亀がすべった うしろの正面 だあれ」
子どもの頃、当時の子どもたちが謡っていた童謡です。
なんとも不思議な歌詞である。謡い出しの「かごめ かごめ」からして?意味が分からない。
真ん中に、目をふさいでしゃがむ子どもを、5~6人の子どもが輪になって、手をつないでくるぐる廻る。遊び方から、「囲め囲め」の意味だという説。
この謡の発祥地と言われ、「かごめの像」が立つ千葉県野田市では、川の水門を通る時の「かがめ かがめ」が転じた言葉だと言う。
他に、「カモメ」がなまって「かごめ」になったという説もある。
この童謡は、江戸時代の絵入りの読み物、「黄表紙」にも載せられていて、”かごめ”は、篭女(かごめ)…籠から出られない女…つまり”遊女”のことをいう…というのが、最も有力な説です。
家が貧しく、やむなく遊郭に身売りした娘のことを、いつになったら出られるやら…と、親が心配する様子を謡っている。
「おしん」が、いかだに乗せられ川を下っていくときの、貧しい山村のひとコマが浮かんでくる。
合田道人「童謡の風景」より
津波で壊滅的な被害を受けた |
▲クリックすると拡大写真をご覧いただけます。 |
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 763】
「病んでいる海」
■ 無垢な”気”
T氏が帰宅のため、電車に乗った時のことです。
車内は…皆疲れきった表情で、よどんだ空気が漂っていました。
次の駅で、赤ちゃんを抱いた母親が乗ってきました。
年配の婦人が腰を浮かせ席を譲ると、母親が「すみません」と言って
腰掛けました。その時、婦人が赤ちゃんを覗き込んで「いくちゅですか」
と尋ねた。その際、婦人の見せた穏やかな表情に、乗客はなごんだ。
笑顔で話しかけられた赤ちゃん…次に新聞を読んでいた男性のコート
に手を伸ばしました。母親が再び「すみません」と謝ると、今度は男性
が赤ちゃんに、ニッコリ微笑み返しました。
停滞した車内の空気は、一瞬にして和やかなものに変わりました。
赤ちゃんの無垢な”気”が、疲れた大人たちの心を緩ませたのです。
職場の教養
【心と体の健康情報 - 760】
~食と健康~ 「拍手の文化」
「誰がレベッカを殺したのか?」大荘園に渦巻くゴシップ・サスペンスです。
アルフレッド・ヒチコック監督の名作として知られる…
恋愛サスペンスがミュージカルになった…好評との噂が、都会から離れた私の耳に…
いよいよ大楕円…レベッカの死の真相が明らかになって、興奮冷めやらぬ中…終演…
鳴り止まぬ拍手…繰り返されるカーテンコール。
|
※クリックすると拡大表示されます。 |
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 757】
「彦三の大火」
「彦三の大火」として、今に伝えられている。 あれから約八十年、当時を知る人はいなくなった。 「そりや怖かったよ。兄貴と二人、泣きながら震えとったがや」 福岡さん(89)が、7歳の頃のかすかな記憶をたどる。 古物商だつた父親は、火元近くの親戚宅を助けに走った。 福岡さんの自宅は被害を免れたが、火の手はすぐ近くまで迫っていた。 |
※クリックすると拡大して表示されます。 |
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 753】
チュニジア紀行(4)「チュニジアン・ブルー」
6日目、首都チェニスの南2百キロ
の町エル・ジェムへ…
3万5千人収容の世界遺産・コロセ
ウムを見学した。
ローマのそれに匹敵する、巨大な
円形闘技場…
ローマのように、床が抜け落ちては
なく、保存度が良い…
地階の猛獣の檻も見学した。
|
||
※写真をクリックすると拡大写真が表示されます。 |
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 751】
チュニジア紀行(3)「原住民ベルベル人の穴居住宅」
7日目、チュニジア北部のローマ遺跡、
「ザクアンの水道橋」を見学。 水源地ザクアンから、地中海に面した カルタゴまで、全長132kmの、 世界最長のローマ水道橋。 その多くは、地下に掘られた水路を 流れるが、地表に表れる水道橋、 現在残る部分は20kmあり、 一部は現在も使用されている。 |
||
※写真をクリックすると拡大写真が表示されます。 |
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 749】
チュニジア紀行(2)「サハラ砂漠の日の出」
BC2000年 : | ベルベル人、ヌミディア王国建国 |
---|---|
814年 : | フェニキア人による都市国家・カルタゴ建国 |
146年 : | カルタゴ滅亡。ローマの支配下に… |
紀元439年 : |
ローマ帝国衰退。スペインからゲルマン民族侵入 王国建国 |
533年 : | ビサンチン帝国(東ローマ帝国)の支配下へ… |
647年 : |
ビサンチン衰退。 以後1200年、イスラム・アラブの支配下に… |
1881年 : | フランスの植民地支配 |
1956年 : | 独立運動の後チュニジア共和国建国 |
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 747】
チュニジア紀行「古代カルタゴとローマ」
頃は明治3年…明治維新に際し、新政府側につかず、独自の立場を貫いた長岡藩は、 戊辰戦争で官軍に町を焼かれ、 石高も七万四千石から、二万四千石に削減され、窮状にあえいでいた。
それを見かねた支藩の三根山藩が、見舞いに届けたのが” 米百俵”
長岡藩の大参事(旧家老)の小林寅三郎は、米を藩士に分けず、百俵を元手に学校を作ることを主張した。 窮状にあえぐ藩士らは猛反発し、
米を寄こせと詰め寄った。
大激論の末、小林はこう説き伏せた。
「百表の米を分けたところとて、何日ひもじい思いをしのげるだろうか?
食べてしまえばそれまでで、
いつまでたっても本当に食えるようにはならない。
この米で学校を建て、
人材を養成するのが迂遠だが、一番の近道だろう。
今、
百俵の米が、その時には千俵にも万俵にもなるだろう…」と。
後に長岡中学から、山元五十六や小野塚喜平次・東大総長らの逸材を多数輩出した。 目先に囚われているようでは、 いつまでたっても世の中は変わらないだろう。 5年後、 10年後を見据えた政治を行うことが大事なのです。
「マクベス」の舞台になった能登演劇堂。今から16年前の1983年、 仲代達也夫妻が能登に旅行し、中島町に立ち寄った際…「こんな素朴な土地で、無名塾の稽古が出来たらどんなにいいだろう」 と言ったのがきっかけ。町長の呼びかけで、能登の片田舎で、無名塾の合宿が始まったのです。
その後、「能登から演劇文化の発信を!」の機運が高まり、大勢の人の力を得て1995年、客席651席の立派な演劇場が完成した。
当時、人口わずか八千人の小さな町が、お荷物になるのを覚悟で、年間予算の3分の1を投じ、一か八かで造った大劇場。
この大英断で、能登の地に今、演劇文化が根付こうとしているのです。
■仲代達也の主な作品
◎シェイクスピア劇…「ハムレット」 「リチャード三世」 「マクベス」 「オセロ」
「乱(リア王)」 「ジュリアスシーザー」
◎映画
「用心棒」 「椿三十郎」 「天国と地獄」 「陰武者」 「乱」 「切腹」 「人間の条件」
「黒い河」 「炎上」 「我輩は猫である」 「鍵」 「阿修羅のごとく」 「男たちの大和」
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 700】
「能登・マクベス公演・大英断」
能登の小さな町で、都会でしか見られないシェイクスピア劇が上演されている。
先週18日、七尾市中島・能登演劇堂・無名塾で、シェイクスピアの「マクベス」初日公演を観賞してきた。 マクベスは、
日本の戦国時代より五百年も昔の、11世紀半ばのスコットランドの物語ですが、恐ろしい物語です。
勇猛な武将マクベスは、魔女たちから「やがて王になる」と予言され、先王を殺し、王位を手に入れる。
が、先王の子が軍を率いて報復、殺されてしまう…。
魔女の予言にほんろうされ、破滅していく男の物語です…日本の戦国武将、明智光秀の姿が浮かんでくる。
シェイクスピア4大悲劇の一つだが、前もってあらすじを読み、時代背景を知った上で観賞しないと、 演じている内容がチンプンカンプン…分からないまま、終わってしまいそう。
芝居の途中、舞台後方の大扉が観音開きに開け放たれ、舞台奥に広がる自然の風景が、スコットランドの荒野となって再現される…
背景の景色が舞台に見事に溶け込み、観客を魅了する。
日本演劇界初の試みだそうで、世界どの国にも無い、当劇場でしか見られない、素晴らしい演出が出来る劇場と、話題を呼んでいる。
開け放たれた舞台奥の大地を、馬に乗った騎兵が次々駆けぬけていく…クライマックスには、 森の奥から無数の兵隊が木の枝で身を隠し、城へと迫ってくる…森が動いて見えるのです。
舞台の巨大なお城のセットと、舞台奥に広がる森や山が、映画「乱」の一場面を見ているような臨場感を演出…思わず身を乗り出し、
見入っていた。
背景の杉山の照明と、前評判の"バーナムの森が動く場面"がクライマックスを盛り上げる。
舞台後ろの扉が全開されるや、観客席に新鮮な空気がここちよく流れ込む。
フッと…大雨の日はとうするのだろう? それより11月になると、劇場内に冷たい風が吹き込むだろうし…出演者は冷たい雨に打たれ、
寒さに震えるだろう。
舞台は水浸しになるかも? (マクベス演出家/林清人・演出雑感から)
数年前の能登半島地震で観光客が激減…「これからどうしよう」と悩んでいた矢先、仲代達也から「復興の意味合いを込めて、 能登限定の芝居をやっては…」との申し出があり、「マクベス」の企画がスタートした。
過疎の地能登の劇場に足を運んでいただけるお客様を、三万数千人も集めなければならない。この不況時に、
能登限定で50日間のロングラン…お客様が来ていただけるだろうか?日本の演劇界では考えられないことです。
ある意味で大博打であり、大英断だったのです。
主催者は、たとえ1万人でもやろうと覚悟を決めて臨んだ…この大英断が、能登に新たな風を吹き込むことになった。
二ヶ月間に50回のステージをこなし、観客動員目標三万五千人…チケットは発売早々の八月末に売り切れた…予想を超える人気に、
主催者の喜びはひとしお…。
以前、この劇場で20日間公演をやった時、東京からの客が「遠くまで来て見た感動はものすごい!」… 東京で見るのとは違った感動があり、観光地能登への期待もあった…今回も、東京・大阪・名古屋…全国の仲代フアンが大勢、 能登に押しかけて来る。過疎地能登にもたらす、マクベスの経済的効果は大きい…
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 690】
「モンゴル・スダディツアー」
■「剣岳点の記」映画化構想のきっかけ
旧国道8号線を呉羽から富山市に入る時、小さな峠を上り下りする。
峠に差しかかると、富山市街が前方に見えてくる。「オオ~ッ」と声を発するくらい、
市街地の後ろに屏風のようにそそり立つ立山連峰…雄大な景色が目に入ってくる。
自然撮影では第一人者のカメラマン"木村大作"さんが、「剣岳点の記」映画化の
構想を思い立ったのは、2006年の2月。車にカメラを積んで、ふらり能登半島を
訪れた時に始まる。その帰りに、フッと思い立って、剣岳の雄姿を見に行った時だという…。
剣岳を見ながら、その場で新田次郎の原作を読み返し、「無理だとは思うが、
この山と対峙して映画を作ってみたい」との思いが芽生えたのです。
脚本作りを始めた木村大作…この年の6月、室堂から別山へと登った。
別山から見た剣岳…こみあげてくる感動を、映像に収めたいと思った。
7月末、今度は剣岳頂上を目指した。木村大作は68歳。自分が登れば、
若いスタッフや俳優たちもきっと登れる…その思いを込めて頂上に立った。
山頂から電話した…「トラ、トラ、トラ」。ここから本格的映画化がスタートした。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 682】
「剣岳点の記」を鑑賞して
先週の土曜日、日本地図完成のために命を賭けた男たちの物語、「剣岳点の記」を鑑賞した。
この映画の原作は、「八甲田山死の彷徨」 「武田信玄」で知られる"新田次郎"
「八甲田山」「鉄道員(ぽっぽや)」「火宅の人」などの作品で、日本人の心と自然を撮り続けてきたカメラマン"木村大作"さん…
日本で自然を撮らせたら「木村さんが一番」と言われている。
当時、木村さんは67歳、2006年の夏、51年の映画人生全てを賭けて、
「剣岳点の記」の映画作りを始めた…初めての監督作品に取り組んだのです。
そして、雄大で芸術性の高い山岳映画が完成したのです。
以前、木村さんが撮影した「八甲田山」は大ヒット。あの映画は全て
極寒の山中での撮影で生まれた。今回の作品も、全部現場に入り、
本物の場所で撮影する。しかも、ヘリコプターからの空撮はやらない。
全て自分の目線で撮っていく…企画・脚本・撮影・監督全て自分でやる…と、
木村監督の固い決意。
監督は、俳優・スタッフを次々と決めていった。面接の時…
「この映画はかってない厳しい撮影になる。機材や荷物はスタッフ
自身が背負って、歩いて運ぶ。泊まる場所も、何十人も詰め込まれて
眠る山小屋だ。しかもそれが何十日も続く。この条件に耐えられるか?」
その条件を受け入れて、共に山へ登る覚悟をした者が、彼の回りに
集結していった。
立山連峰の雄大な景色、息を呑む美しさ、立ちはだかる剣岳、
厳しい自然を背景に、お金でもなく、名誉でもなく、ひたすら
自らに課せられた仕事への誇りをかけて、苦難に立ち向かって行く人々の物語。
その姿が、映画を作る作業と重なって見えてくる…。
撮影は、天候がらみの一発勝負だ…撮り直しがきかない。一刻一刻
変化していく山の風景。場面は、その一瞬の風景が切り取られ、
ドラマになっていく。
映画は、剣岳・立山連峰各所の山々に、100年前の史実に沿って、
三角点を設置していく姿を、忠実に再現…四季折々美しく、或は
荒々しく変化する大自然…想像を絶する、厳しい大自然に挑む人たち
の姿を、延べ200日を費やし、標高3千メートル、氷点下40度の中
でのロケーション…。
あまりの厳しさに俳優たちは「これは撮影ではない、これは行だ!」
と言った。
音楽は、木村監督自ら選曲した、クラシックの名曲の数々…
ヴィヴァルディ「四季」や、バッハの名曲が全編を彩り、自然と人間が
織り成す壮大なドラマが盛り上がっていく。
上映時間2時間20分…日本人の"心"の物語である。
この作品から、今は失われつつある"日本人魂"が、映画を観る私
たちの心を打つ。
撮影中のスタッフから、「自分たちは日本一凄まじい、すごい現場に
いるんだ」という、誇りが感じられる…映画を観る私たちにも、それが
伝わってくる。
感動の大作だ…これほどに美しく、また雄大で、人の心を打つ山岳
映画は過去に例がない…日本映画史にその名を残すだろう。
「剣岳点の記」カタログから抜粋
■昭和三十年代の出来事・流行歌
S30 映画「ローマの休日」で、ヘップバーンカットが流行
山手線ラッシュアワー…押し屋が登場
「月がとっても青いから」「この世の花」
S31 ホッピング流行 「鉄腕アトム」「鉄人28号」
「愛ちゃんはお嫁に」「哀愁列車」
S32 裕次郎「俺は待ってるぜ」人気で、リーゼント流行
「有楽町で逢いましょう」「東京だよおっ母さん」
S33 フラフープ大流行 東京タワー完成 ベビーブームですし詰め学級
「お~い中村君」「だから言ったじゃないの」「からたち日記」
S35 池田勇人首相…「所得倍増」「私はウソは申しません」
国民総バカンス
S36~37 植木等の「わかっちゃいるけどやめられない」「ハイそれま~でぇよ」
「巨人・大鵬・卵焼き」 TV普及1千万台突破
S38 東名高速道路開通
S39 東京オリンピック「ウルトラC」、「シェー」、東海道新幹線開通
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 672】
~私の昭和~ 「昭和三十年代(14~23歳)」
昭和三十年代は青春真っ只中…三十年代初めの頃の日本は、戦後の貧しさがまだ続いていた。昭和30年… 戦前から十数年続いた我が家の朝食"芋粥"が、ようやく麦入りの白いご飯になった。
三十年代半ばになると、復興期を乗り切った日本が、経済的に大きく発展し、様々な可能性を広げていった。
暮らしを豊かにする魅力的商品が次々発売され、平和を肌で感ずるようになった。
当時、神社のお祭りは人で溢れるほどにぎわったが、どこのお祭でも、片足義足の傷痍軍人が鳥居の下で松葉杖をつき、
首から募金箱を下げて立っていた。
徐々に生活にゆとりが出て、食だけでなく、衣類・日用品・電化製品などが買い揃えられ、暮らしにゆとりが感じられるようになった。
昭和31年、その年高校を卒業する兄は、父親に「商人に学問は不要…学費は出せない」と言われ、大学を断念…
某大手銀行金沢支店に就職した(学歴がないことが、その後の出世を妨げた)。 4年後…私の時は大学受験OKだった。
上部にローラー絞り器が付いた洗濯機、扇風機、電気コタツ、掃除機…次々買い揃えていった。電器釜は、
毎朝薪でご飯を炊く手間が省け、洗濯機は家事にゆとりをもたらした。
大家族の我が家…家事一切を切り盛りする母には、どんなに有りがたかったか…。
更に、トランジスタラジオ、レコードプレーヤー、カメラ、ミシンなど…家の中が豊かになっていった。手回しのエンピツ削り器が出回り、
安価なソノシート(簡易レコード盤)で、当時流行したラテン・ミュージックを楽しんだのも、この頃。
"神武以来"と言われる好景気が続き、消費を刺激…
政府は昭和31年、「もはや戦後ではない」を宣言…家電メーカーや、自動車の大衆化が成長を支えた。大村昆のダイハツ・
ミゼットのTVコマーシャルが、印象に残っている。
機会さえあれば、誰もが豊かになれる…誰もが夢が描ける…そんな時代になったのです。昭和33年、長島選手が巨人入団。翌年王選手入団…
巨人軍ON全盛期の幕開けです…同年、インスタント・チキンラーメン発売…35円だった。
昭和32年、MRO放送がテレビ普及のため、私の家の隣にショールームを開設。
ウインドウに、テレビが横に3台、縦に3段・ズラッと並べられ、受信映像をデモンストレーションした。相撲は大鵬、
プロレスは力道山が大活躍…中継を見ようと、ショールームの前は人垣ができた…。
昭和31年当時…公務員の月給は1万7千円。観音開きの扉が付いたテレビが48万円…庶民には高嶺の花だった。
14インチTVが家庭に普及したのは、昭和34年、皇太子・美智子さんの結婚…ミッチーブーム以降…
東京オリンピック直前の昭和37~38年に、急速に普及した。
そして我が家にもテレビがやってきた…茶の間に据えられ、どん帳がまくられる。
映画館のように、茶の間を暗くして映された映像…やたらとまぶしかった。
■囲碁・7大タイトル獲得数
(棋聖・名人・本因坊・十段・天元・王座・基聖)
42…趙 治勲 35…小林光一 31…加藤正夫(故人) 21…坂田栄男
21…林 海峰 17…大竹英雄 15…張 栩 14…藤沢秀行(故人)
12…高川 格(故人)、依田紀基 11…王 立誠 10…武宮正樹
私が囲碁を覚えたのは昭和39年。昭和36年から昭和60年の25年間は、坂田栄男、藤沢秀行、林海峰、加藤正夫の全盛期だった。
この間のタイトル総数は127(年平均5個)…その半数の68個を、この四人が獲得している。
昭和61年から平成7年の10年間は、小林光一、趙治勲、加藤正夫、武宮正樹が活躍。
この間のタイトル総数は70…その7割49個を、この4人が獲得している。
平成8年から平成20年の13年間は、趙治勲、張栩、依田紀基、王 立誠が活躍。
この間のタイトル総数は91…その半数49個をこの4人が占め、現在"張栩"が史上初、7冠のうち"5冠"を独り占めしている。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 668】
「藤沢秀行・名誉棋聖逝く」
豪快・華麗な棋風で、囲碁界最高のタイトル「棋聖」6連覇の記録を持つ、藤沢秀行名誉棋聖(83歳)が、5月8日亡くなった。
名人位2期、棋聖6連覇を始め、王座5期、NHK杯2期など、通算獲得タイトル数は23…その独創的棋風は、自由奔放、豪放磊落…
昭和を代表する名棋士でした。
平成3年「王座」獲得、翌年67歳で防衛に成功…史上最高齢の防衛記録保持者である。
その人生は破天荒…酒、ギャンブル、借金などをめぐるエピソードには事欠かない。
「囲碁とは 勝負である前に 芸である」という名言を残している。
二十代後半から競輪にのめり込み、1点買いに250万円をつぎ込んだことは、 今も語り草になっている。
目当ての選手に、後続がきわどく迫ってくる…藤沢さん、金網をつかみ「ガマーン」と叫び続けた…最後に抜かれて大金は紙クズに…
金網は菱形にひしゃげた…その後「秀行引き寄せの金網」として、競輪場の名所になった。
三十過ぎてからは酒を愛し、酒のにおいをさせて対局に臨んだり、不動産業に手を出したり、囲碁ツアーを企画したりしたが、
いずれも赤字で、億単位の借金を抱えた。
借金返済のため、囲碁タイトルでは最も賞金の高い「棋聖戦」に自らのすべてを賭けた。
防衛戦の一ヶ月前から、好きな酒を断った執念は、語り草になっている。
秀行の型破り…賭け事にとどまらない。女性関係も…無頼ぐらいでは追っつかない。
将棋の"米長"永世棋聖の若い頃、米長の奥さんが、藤沢さんの奥さんを訪ね、「うちの主人は週に5日は帰ってこない…」と、
悩みを打ち明けたところ、藤沢夫人「うちは(愛人の家に入り浸って)3年、帰ってきませんでした…」
事業に失敗して借金の山を築き、高利貸しに追われ、自宅を競売に掛けられる修羅のさ中、
並ぶ者なき"棋聖戦6連覇"の偉業を成し遂げている。
第5局開始の朝、「負けたら首を吊ろう…」と、枝ぶりのよい木を探しながら、対局場に向かったという…。
この碁で藤沢は、一手に2時間57分という記録に残る長考の末、対局者"加藤正夫"の大石を全滅させるという、気迫の勝利を収めた。
勝利の後、「最善手を求めて命を削っているから、借金も女も怖くない」と語った。
私生活は破天荒だったが、囲碁は謙虚そのもの…「囲碁の神様が「100」知っているとしたら、自分は…」との問いに、
希代の名人が出した答えは、「6」だった。
享年83歳…誰よりもめちゃくちゃな人生を歩み、誰からも愛され、そして囲碁は誰よりも強かった。
戦前・戦後の乱世を、すさまじく生き抜いたプロ棋士…こういうスケールの大きな自由人は、もう現れないだろう。
5/9 読売新聞
■賞味期限間近のサプリメント
消費者の「鮮度信仰」を背景に、流通市場の「日付管理」に対する目は厳しくなる一方です。
我が社では、黒酢や冬虫夏草、ローヤルゼリー、ビタミン剤など、約40種類のサプリメントを販売しています。
何れも、賞味期限が残り3か月になったら、売り場から撤去しています。
期限切れ間近の商品を、うっかり販売してしまうのを防ぐためです。
東京では、食品の値上りが相次いだ昨年末から、賞味期限の近づいた商品を、アウトレットの割安価格で、
インターネットや業務用に販売する業者が急増している。
賞味期限間近の商品…「通常の半値以下」という魅力に引かれ、消費者や飲食業に人気があるのです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 666】
「捨てるの…ちょっと待って(2)」
食品を購入する時、「賞味期限」や「産地ブラント」に無関心という人は、いないだろう。
消費者を裏切れば、「赤福」や、中国ウナギを国産と偽った「魚秀」のように、営業停止に追い込まれ、企業の屋台骨を揺るがすことになる。
広島銘菓「もみじ饅頭」の老舗・にしき堂…朝作られた饅頭が、その日に観光地の売店に並ぶ。もみじ饅頭…作ってから20日間は、
食べても大丈夫だという。
にしき堂では、賞味期限を"8日間"と定め、店頭では3日を過ぎると、特売に回し、半値で売ってしまう。
一番おいしく食べられるのは、生地とアンがなじむ3~4日目…饅頭は、4日を過ぎると、美味しさのピークを過ぎる。
消費者に新鮮なものを提供し、店の暖簾を守るのが、老舗の条件なのです。
茨城県で「干し芋」を加工販売しているM社…干し芋の賞味期限を偽装したとして、県から改善指導を受けた。「品質は問題がない…」 と、期限が来て返品された、干し芋の賞味期限を書き換えたのだが…製造業者に罪の意識はないだろう…。
私の子どもの頃、干し芋は家庭のおやつだった。
長期保存がきく保存食品で、かきもち同様、陰干しにして保存…干してしばらくすると、白い粉が吹いてくる。粉は糖の一種で、
美味しさを増す働きをする。
昔は、干し芋や味噌は自家製だった。
家庭で造る味噌は、防腐剤が入らない天然醸造。
しばらくすると、表面が白いカビ状のもので覆われる。
今だと、「カビが生えた…気持ち悪い…食べられない」と苦情が出て、返品されるだろう。
干し芋も同様…粉をふいた干し芋を見て、カビと勘違いして、捨ててしまう消費者がいるという。正月のお餅にカビが生えるのは、
安全な食品の証拠…もし、いつまでもピカピカだったら、カビも生えない、毒入りの危険なお餅、ということになる…。
レストランで食事をして、食べ残すことがある。
米国に本社があるステーキチェーンの六本木店…全店で、食べ残した客に「持ち帰り」を勧める運動を展開している。店から渡された、
お持ち帰り専用容器には、早く食べていただくための「日付シール」が張られている。
お隣の福井県でも、昨年「おいしいふくい食べきり運動」と銘打って、地域ぐるみのキャンペーンが展開された。
「量が多ければご相談ください。小盛りも注文できます」
福井県の飲食店…最近メニューに、上記のようなメッセージを添えたお店が急増している。470店のお店が登録していて、
この運動に参加しているのです。
運動に協力している某ホテルの宴会場には、"持ち帰り容器"が置いてある。
日本の食品の廃棄量は、家庭からのものを含め、約1900万トン…減る気配を見せない。
自給率39%の日本…消費者の賞味期限へのこだわりを変えない限り、廃棄量を抑制することは無理だろう。
食用油、マヨネーズは昨年7月から…物価の優等生"タマゴ"も値上げされた。
石油燃料に次いで、食糧品価格が高騰する中、食べきれないほど料理を並べ、食い散らかす飽食文化の日本…そろそろ、
見直す時に来ているようです。
読売新聞「食ショック」より
森 信三 「修身教授録」 Ⅱ第10講「賞味三十年」からの抜粋です。
人生の賞味期間は、三十年くらいのものです。その大切な歳月を充実して生きたなら、満足して死ねます。 「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」 よく知られる孔子のことばです。人生の真の意義は、時間の長さにはなく、いかに生きたかという、 その深さにあるということです。 |
人によって長短はあるにせよ、一人の人間が世の中のお役に立ち、持てる真価を発揮するのは、
二十代半ばから五十台半ばの三十年間でしょう。
ですから、人生の賞味期限を長くすれば、それだけ世の中へのお役立ち期間も長くなるということです。
平均寿命の短い昔は、元服15歳はもう一人前…大人の仲間入りをした。
現代は平均寿命が大幅に伸び、人生の「賞味期限」も倍くらい長くなった。
人生、50歳を過ぎる頃から充実してくる。60を過ぎると、様々なしがらみから解放され、時間に追われることもなくなり、 好きなだけ仕事をして、空いた時間、今まで出来なかったことがやれるようになる…趣味に、旅行に、日々充実してくる。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 664】
「捨てるの…ちょっと待って」
冷蔵庫の「牛乳」…「賞味期限が過ぎているから…」と、捨てようとする妻。
「飲むから、捨てないで…」と、私。「お腹壊しても知らないから…」と、妻の声…。
妻は「賞味期限を過ぎた食品は口にしてはいけない」と、信じ込んでいるのです。
牛乳…臭いを嗅ぎ、泡立っていないか目で確認し、一口含んで、何でもなければ飲む…もったいない世代の私…何でもないのに、
賞味期限が来たからと、捨てる気にはならない。
賞味期限は、製造した会社が、お客様が美味しくいただく目安の期間として定めたもの。そのうえ多くの企業は、
賞味期限を実際の賞味可能日数より短めに設定している。
だからと、賞味期限を3週間も過ぎた「絹ごし豆腐」を食べる気にはならない。
捨てる前に、臭いをかぎ、大丈夫そうだったら、恐る恐る一口舌に乗せる…個人差があるにせよ、"五感"でおおむね判断できるのです。
違和感がなければ、捨てずに料理などに使えばよい…食品は、賞味期限よりも、保存状態が大事…状態が良ければ、 期限に囚われることなく、無駄なく消費できるのです。
今月下旬、長島温泉へ孫を連れ、家族で一泊旅行する。
ホテルは、夕食も朝食もバイキング形式…和食、洋食、寿司、果物、飲み物、ショートケーキ等々、種類は豊富。好きなものを、
好きなだけ取って食べる…。
若いカップルや家族連れに好評だ。前回宿泊した時、妻は、目の前で握ってくれるトロが美味しいと、三回も席を立っている…。
並べられている料理…無くなると直ぐ追加が出てくる。残った料理…どうするのだろう? 捨てるのはもったいない… 船場吉兆のように、前夜の残りを翌朝また出す?それは困ります。
帰ってから友人と、こんな会話をしていたら…友人曰く。
ビヤガーデンでアルバイトしていた時、客が食べ残した"枝豆"…実の残った枝豆をより分けて、出しなおす。
客が飲み残した生ビールを集めて、ジョッキを満たす。
その時、泡の出し方を習った…割り箸を突っ込んでかき回すと、きれいな泡ができる。泡を作るのは割り箸が一番…そして、
何食わぬ顔でお客様の所へ… こんな事例、珍しくはない…「そう、そう…」と私もうなずく。
私も飲食店でアルバイトをしていた時、似たような経験をしている…。
最近のニュースで…韓国の飲食店の七割が、お客が食べ残した残飯を、そ知らぬ顔で新しい客に出すという。 韓国政府が改善指導をしても、なかなか守られず、対応に苦慮しているという…気持ち悪くて、韓国へ行く気にはなりません。
昨年京大が、京都市内50世帯の家庭ゴミを調べたところ、手つかずの食品が大量に見つかった。包装されたままのパン、うどん、 豆腐…農水省の調査では、家庭生ゴミの約40%が食べ残し…その内6%が、手つかずの食品だった。
ホテルやコンビニ、外食企業からは、弁当や野菜などの売れ残り食品が、毎日大量に廃棄される。農水省の推計では、家庭や企業から、
十分食べられるのに廃棄される食品は、年間600万トン…実に食品総量の4分の1が捨てられる計算になる。
国連は近い将来、穀類、肉、魚類、野菜の価格が1.2~1.8倍になると警告している。
世界人口の増加、温暖化による穀倉地の干ばつ、水害、バイオ燃料への転化、投機などが原因で、食料品が国の戦略品になろうとしている…。
自給率わずか39%の日本は今、飽食に浸りきっている…
大量に食べ、惜しげもなく捨てる…何かが狂っている。
何れ"罰"があたって、北朝鮮のようにひもじい思いをして、餓死者が出る国になるかも…
戦中戦後の食糧難時代を知る、私のひとり言です…。
読売新聞・特集「食ショック」より
「だら」は、北陸地方の方言と思っていたら、山陰地方の一部でも使われているという。
昨年末の大掃除で、書棚を整理していたら、松本清張の「砂の器」が目に入った。
30年くらい前に、清張の作品に夢中になっていた頃、読んでいる。
正月串本へダイビングに出かけた折、行き帰りの車中で読んだが、筋書きはすべて忘れていた。
読み進めると、日本海側の片田舎の方言が、「砂の器」の謎解きにからんでいく。
当初、東北の「かめだ」と思って捜査したが、名前ではなく、島根県の「亀嵩(かめだか)」という地名だった…そんな筋書きで、
山陰と東北に共通のなまり・方言があることに着目…事件解決の糸口を見出していく…。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 655】
~かなざわなまり(4)~
「ダラ」「ダラくさい」「ダラブチ」「だらま」
「ダラなこと、しとんなま」…1年前、サッカーワールドカップ、アジア杯予選「日本対バーレーン戦」で、日本は前半致命的ミスで、
ゴールを決められた瞬間である。
試合は「1-0」で負けた。
こうした罵倒の言葉…金沢では「ダラ」「バカ」「アホ」の三つに分けられる。
かなざわ弁を代表する「ダラ」…ミスした時、「え~いダラ!」「アホンダラ」「ダラかいや!」と、罵声が飛んでくる…が、 京都ことばに似て当たりが柔らかく、言うほどに相手を傷つけない。
関東のバカと関西のアホが金沢に入り込んだのは、そんな昔のことではない。
戦後、ラジオやテレビが発達してからである。
思わず失敗したとき、「ダラな…」と舌打ちして、
自らを反省するときに使ったり、自分だけ損するような目に合ったときは、「ダラくさい」と、
独り言を言ったりする。
「ダラ」は「バカ」や「アホ」より、いろんな意味が含まれ、広い言い回しになる。
関東や関西では、相手に「ダラ!」と言っても通用しない。そんな時「アホンダラ」と言うと通じる…金沢から都会へ出た人は、 "ダラ"が付いていると、何となく胸がすっきりするのです。
私が子供の頃、母親に「ダラブチ、何しとんがいね!」と、
よく叱られたものです。
そもそも、「ダラ」には、愛情が込もった言い回しが含まれている。夫が妻のお尻をなでたりして、悪ふざけをした時、「ダラブチ、
いい加減にしまっしま!」と、妻に軽くいなされ…妻の顔は笑っている。
「ダラブチ」の語源は、仏教の「南無阿弥陀羅仏」が変化したものだという。
信仰心厚い金沢にふさわしい解釈だが、これが正しいとすれば、「ダラブチ」が持つ柔らかい響きが理解できるというものです。
「ダラマ」は、「え~いダラマ」と、 相手を軽く叱ったり、相手を見下げた言い回しの時に使ったり、「ありゃ だらまや」と、 知恵遅れの子供を指したりする言葉です。「ダラ」は北陸全域に存在するが、「ダラマ」は金沢にしかない方言です。
「頑張りまっし、金沢ことば」から
■ 不景気風が吹く今…
不景気風が肌で感じられるようになり、先き行に対する不安がつのってきている。
企業の倒産件数も過去最大になった。
入りに見合う出…「商いが少ないい時は、出を抑え、無駄を省き、質素倹約に努めるのが商人」…小さい頃、父親が言っていた言葉です。
子供の頃の食事は粗末だった。白いご飯が食べられるようになったのは、戦後十年くらい後である。御飯のおかずにカレイの煮付け…
今ならステーキだろう。
身をきれいにほぐして食べ、皿に残った骨にお湯をかけ、そのスープをすする…母は、骨を捨てずにこんがり焼いて、炒りゴマを混ぜ、
ご飯のふりかけにした。
茶の間には裸電球が一つ…クーラーも暖房器も、テレビも自家用車もなかった。
中学を出るまで、うどん屋の暖簾をくぐった記憶がない。
贅沢な暮らしにどっぷり浸った今の暮らし…お金がないと、生きていくのが辛い世の中だ。貧しさを知る私たちの世代は、
貧しさに耐えていく自信がある…。
豊かなバブル期に育った世代には、辛く厳しい世の中になっていくことを、覚悟しなければならない。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 651】
~私の昭和~「大家族の幼年時代」
私は昭和16年生まれ。香林坊の小さな商店の、7人兄弟の四番目に生まれた。
私の父…シナ事変で兵隊に取られた。戦地から帰ったら、勤めていた会社「粟ヶ崎遊園(宝塚を模して作った)」が、
戦時閉鎖で無くなっていた。
父は、生活のために、麻紐・ロープの小商いを始めた。どの家庭にも必要で、ライバルのお店も少ない…商いになると考えたようです。
昭和21年…満州から引き揚げてきた叔父家族4人と、私の家族、合わせて13人が一つ屋根の下で暮らした。
父はしつけに厳しく、風邪を引かない体になるからと、冬でも薄着をさせられた。
*「おはようございます」「お休みなさい」を、きちんと手をついて言わされた。
*食事は、最初に父親が箸を取り、全員揃って「いただきます」と言うまで、食べられなかった。
*履物を揃え、脱いだ着物は枕元に畳んで置くよう躾けられた。
食事に好き嫌いをしたり不平を言うと、厳しく叱られた。
こぼしたご飯は拾って食べ、「お百姓さんに感謝して食べなさい、罰があたる」が、お婆ちゃんの口癖だった。人様に迷惑をかける行為には、
とりわけ厳しかった。
どの家も子沢山で貧しかった。私は、身を粉にして働く両親の姿を見て育った。
父母は365日一日も休まず、元旦の午後にはもう算盤をはじいて、帳付けをしていた。
食事中、どこから入ってくるのか、アラレがパラパラ落ちてきた。国道に面した二階の窓は障子張りで、朝、目が覚めると、
枕元に吹き込んだ雪が、積もっていた。
母は、毎朝5時に起きて6人分の弁当を作り、子ども達に持たせた。
給食が始まったのは、小学三年の昭和26年…コッペパンに脱脂粉乳、ほとんど具のない味噌汁…白いウジが何匹も浮いていた。
お婆ちゃんは、朝6時に店を開け、家の周り・隣近所を掃き清め、ジョロで水を撒いた。茶の間と店の間に覗き窓があり、食事中・
客が入って来ると、店に立つのは母だった…夜は、子ども達の着物をつくろい、夜遅くまで身を粉にして働いていた。
兄弟は分担して家事を手伝った。洗濯機も、冷蔵庫も、掃除機も無かった時代です。私は、毎朝かまどに薪をくべ、二升釜のご飯を炊いた。
「初めちょろちょろ、なかパッパ、赤子泣くともフタ取るな」…今も、ご飯を炊くのは上手いと思う。
炭を切ったり、お使いに行くのが私の役割…家族みんな助け合って暮らしを支えた。
寒いのは我慢出来た。しかし夏の夜…蚊帳の中は暑苦しく、眠れなかった。
母親の実家から届けられたスイカを、家の井戸で冷やし、家族みんなで切り分けて食べた…暑い夏には、最高のご馳走だった。
冷蔵庫が無かった時代です。小学五年の夏、夜食べた魚で、家族全員疫痢になった。夜中に医者がやって来た。ただ1人元気だっ私は、
氷を砕いて水枕に入れるなど、看病を手伝わされた。
中学三年、昭和32年まで、朝は、さつま芋が入った芋粥、夜は、麦3分のご飯を食べていた。おやつも芋…芋が、
育ち盛りで食欲旺盛な兄弟のお腹を満たしたのです。
当時は、どの家庭も似たようなもの…それぞれの家庭が…学校が…隣近所が…
小さな社会になって、助け合って暮らした…幸福だった。犯罪もなく、夜、家に鍵を掛ける習慣がなかった…60年前の私たちの暮らしです。
■赤ちゃんの名付け
「字画が悪いから」「名前が気に入らないから」と、親から貰った名前を
変えてしまう人がいます。
赤ちゃんに付けられた名前は、心を込めて両親が最初に贈るプレゼントです。
名前には両親の真心が詰まっています…一生大切にしたいものです。
だから、大人になってからも…自分にふさわしい、好な名前であってほしい…
人から、親しみをもって呼ばれる名前であってほしい…
生まれてきた時代にふさわしい名前であってほしい…
芸能人や流行歌手、スポーツ選手など、その時代の流行に追従した名前は、
周りに同じ名前の友達が何人もいたりして…
名前は一生変わらない…だから、ちゃんと意味があり、誰もが読める、
読み間違いのない、名前であって欲しい…
画数が少なく、書きやすい名前がいい…
字画がどんなに良くても、結婚して名前が変われば、意味がなくなってしまう…。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 649】
~私の昭和~「名前ランキング…時代とともに」
仕事も趣味も…家にいるより、山に海に、あちこち飛び回る方が好きな私。
親から貰った名前は「外喜雄」…外を喜ぶ男…アウトドアー好きの私に
ふさわしい名前です。
昨年08年、男の子に付けられた名前で、一番人気は「大翔(ひろと)」でした。
流行演歌のように、名前から生まれた年代が見えてくる。
そこで、戦前から戦後、現在に至るまでの、名前ランキングを追ってみました。
■男子
私の兄弟…昭和12年生まれの長男は「雄一」、次男は「忠雄」、三男の私は「外喜雄」、
四男で、19年生まれの弟は、戦争に勝ちたいとの思いから「勝治」。
戦後間もなく、22年に生まれの末つ子は「昭雄」。
戦前から戦後にかけて、男兄弟5人に父親が付けた名前です。
太平洋戦争真っ只中、昭和16年~20年に生まれた子供には、「勝・勇・進」など、戦勝を願う名前が多かった。
私の兄弟の名前にも「雄・忠・勝」が入っていて、 一億総決起時代の、父の思いが伝わってくる。
戦後間もない22年~24年は、平和であってほしいとの願いから、「博、和夫、清」が上位を占め、昭和30年代は、「誠、浩、茂、隆、
修」などがランキング上位を占めた。
生活にゆとりが出始める昭和40年代になると、「健一、哲也、剛」が上位を占め、昭和53年まで、「誠」が毎年一位になった。
昭和49年~61年の十年間、「大輔」が1位・2位を独占…「直樹、健太」が続く。
昭和63年~平成9年の十年間は「翔太」…「拓也、健太」が続く。
平成10~19年は「大輝」が一位…翔、大翔、翔太など、「翔」の人気は相変わらず。
「拓海、海斗」のような凝った名前が増え、読むのに一苦労する。
「大翔」の場合…ヒロト、ハルト、ヤマト、ダイト、ダイキ、タイト…など、 幾つもの呼び名があり、幼稚園の先生も大変です。
■女子
年号が昭和になった昭和2年、昭和の一字を取った「和子」がランキング1位になった。
この「和子」という名前、よほど気にいられたのでしょう…昭和27年までの26年間、戦前戦後を通して、ランキング1位23回、
2位が3回と、3位以下になったことがない。
「幸子」は27年間に、1位1回、2位16回、3位5回。
「洋子」は1位1回、2位4回、3位6回。
「節子」は昭和5年~14年の十年間、ずっと3位だった。
昭和28~38年は「恵子」がダントツの1位8回。「久美子、由美子」が続く。
その後、「陽子、智子、裕子」などの名前が上位を占めるが、昭和57年を境に、下に"子"が付く名前は姿を消していった。
代わって「愛」ちゃんが、昭和56年~平成7年の15年間、1位8回、2位7回、
「麻衣、美穂、彩」が続く。
平成3年からの6年間は、「美咲」が1位を独占。
平成9年以降ようやく、「明日香、萌、さくら」に取って代わり、
最近5年間は「陽菜」が1位、2位にいる。
■ソマリア自衛隊派遣
「"義"を見て為さざるは"勇"無きなり」 (為政第二)
(そうすることが正義だと知りながら、見て見ぬ振りをして行わないのは、勇気がないからだ)
4~5日前、ラジオのニュース解説で、「ソマリア自衛隊派遣」の是非について、ソマリアで海上自衛隊の護衛艦が、 日本の船舶を護衛することに絡む諸問題を解説していた。
現行法では、「日本船籍の船」と「日本人が乗船している船」に限られ、武器の使用・警告・正当防衛・緊急避難など、
使用と護衛範囲は極めて限られている。
接近したり、逃走する海賊船を射撃したり、強制停船させて捕獲することは出来ず、
不審船の臨検も、立ち入り検査も認められていない。
解説者曰く…外国の船が海賊に襲われているのを、何もせずにただ見ていられるか?
「義を見て為さざるは勇なきなり」と、孔子の言葉を引用して、正義のために、
何があろうと救助するのが人の道であろう…と。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 639】
~かなざわなまり(3)~
「今は使われなくなった、金沢ことば」
「キンカンなまなま」「ゴボる」 「タルキ」「アシタ」「ゴッポ」 「コシキダ」
56豪雪以降、しだいに雪が降らなくなった北陸。
今年も、気象台観測3番目の暖い日が続いて、ネコヤナギも膨らみ、春の気配が感じられるようになりました。
で、今はもう使われなくなった、"冬"のかなざわことばを取り上げてみます。
金沢の方言が話題になった時、「キンカンなまなまってどんな意味?」って聞くことがあります。
「栗きんとん?生菓子?」「生のきんかん?」などと、正しい答えが返ってきません。
冬、路面がツルン・ツルンに凍って、キンキン・ナマナマの状態になったことを言います。
実にリアルに状況を言い当てています。
金沢でも、旧市街の人のみが知る言葉で、数キロ離れた津幡や野々市町では、知らない人が多いのです。
「ごぼるさかいに気をつけまっし!タルキにも気をつけにゃ」・・・この意味は?
「ゴボる」は、積もった柔らかい雪に、
足がズブズブと埋まっていく様を言い、
「タルキ」は「つらら」のことを言います。
子供の頃、このタルキを折って、口の中をうるおしたものです。
近年になって、フッと気付いたことですが、昔は、冬になれば、長くて太いタルキが、あちこち普通に見られました。今は、 温暖化の影響でしょう…見ることがありません。
私が中学生の頃、「アシタ(高下駄)」を履いて学校へ行っていました。
高下駄の歯が磨り減ると、近所の下駄屋さんで、新しい歯に入れ替えてもらったものです。
冬も、学校へアシタを履いて行きました。雪道を歩くと、前歯と後歯の間に雪が詰まって歩けなくなる…当時、それを
「ゴッポが詰まった」と言いました。
このゴッポを取る石が、路端に埋め込んであって、下駄を蹴って、カンカンと石にぶつけて取るのです。その石…今でも、
野町の"広見"や尾張町に残っています。
冬、雪をすかす「コシキダ」が各家庭にありました。五十代以上の年配者なら、
誰でも知っています。先端が羽子板のような形をした、木製のスコップのことです。
これ、今はない…この「コシキダ」、屋根の雪おろしに使われました。
金属製のスコップだと、瓦を傷つけてしまいます。雪がこびり付かないから重宝しました。
豆腐に包丁を入れるように、コシキダを雪の中にスパッと入れて切れ目を作り、雪の下にコシキダを差し入れて持ち上げます。 すくい上げた雪のかたまり…コシキダの上を滑らせ、前方へ投げ、遠くへ飛ばすのです。
今は、使われることが無くなった、みょうに郷愁を誘う「冬のかなざわことば」です。
■私たちに出来る"温暖化への対応"
外国を旅行していて、自販機にお目にかかることはめずらしい…。
日本国内…至る所自販機だらけ(全国の設置台数は550万台)。
メーカーの話しでは、「置けるところは、ほぼ置きつくした」という。
我が社の玄関は自動ドアだが、自動ドアの設置数も、欧米諸国とは比ぶべくもない普及ぶりとか…
歩いて5分の所へ行くのに、日本人のほとんどが「車に乗る」と答えている。
日本に住むフランス人…「わずかの距離…何で歩かないの?自販機だって、自動ドアだって、無くても困らないじゃない…
日本人はもっと我慢しなくちゃ」
冬の暖房も、夏のクーラーも我慢・我慢。 いくら暑くても、どんなに寒くても、日本はしのぎ易い温帯に位置する国…
季節のままに暮らせば、体が慣れてくる…。
私たちの祖先は、夏も冬も、自然をそのまま受け入れて暮らしてきた。
海外を観光していて、朝早く街や公園を歩くと、ウォーキングをする人、体操している人、新聞を読む人…沢山の人が、
早朝のひと時を楽しんでいる。
ところが日本の朝、7時…陽が高く昇っているのに、街も公園もひっそり静まりかえり、眠りから覚めていない。
夜、早く寝て、朝、早く起きる…みんながやれば、エネルギーの節約になる。
健康になる。国に活力が出る。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 633】
「海底異変」
ビーチダイビングをしていて、以前と大きく様変わりしたのは、海藻が減って見晴らしが良くなったこと… 前に進めないくらい群生していた海藻が、水深5mくらいまでの浅瀬にしか見られなくなった。
一昨日…日曜夜のNHK「ダーウインが来た/アオリイカ波乱万丈の生涯」…大変興味深く見た。
海藻を隠れ家に成長する、イカの赤ちゃん。赤ちゃんイカなど、小魚を餌にするメバル・カサゴ・マダイなどが、めっきり減ってきたのです。
温暖化による海水温の上昇で、海藻が消滅する「磯焼け現象」が、日本全域の海辺で、
進行しているのです。
「ダーウイン…」は、その痛々しい海底の様子を映し出していた。
海水温が1℃上昇するだけで、生態系に異変が起き、動植物が生存できない世界になっていく。
藻場が減って、イシダイやヒラメが沿岸から姿を消していく。
夏場に高水温だと、サザエが産卵しなくなる。海藻を餌にする、ウニやアワビも姿を見せなくなった。
世界有数のサンゴ礁、沖縄ケラマ諸島…昨年、台風が少なかった影響で、海水がよどみ、水温が上って、サンゴの"白化"が進行…
壊滅状態になってしまった。
国連の調査で…このままだと、今世紀末までに、熱帯・亜熱帯の美しいサンゴや熱帯魚は、姿を消してしまう…と警告している。
12月30日から正月休みの間、和歌山県の先端、串本沖で、スキューバーダイビングを楽しんだ。
「♪ここは串本、向かいは大島…」
真冬、大島近海に潜るのは2回目。
10年くらい前から、サンゴが根付いて、本来、沖縄にしか生息しない熱帯魚やウミウシが、真冬の串本で見られるようになった。
種類も増えてきた…。
黒潮に乗って、大島近海にたどり着いた亜熱帯のサンゴや熱帯魚…今までは、冬に水温が下がると越年出来なかった。
それが今では、テーブルサンゴや、様々なサンゴが根付き、沖縄で潜らなくても、手軽にサンゴの海を楽しめるのです。
海の中の生態系に、異変が見られるようになって、十数年。
海が死んでいく…海藻が、サンゴ礁が、熱帯魚が消えていく。
私たちが想像する以上の速さで、美しい海が、自然の営みが、かけがえのない地球が…壊れていく。
■J2参戦おめでとう
J2は、来季3クラブ加えて、15から18クラブとなることから、今季下位リーグ(JFL)で3位になつた、 富山県のサッカークラブが、J2に昇格することになった。
日本のサッカー選手の頂点に位置する「Jリーガー」は36クラブ、約千人。
日本サッカー協会に登録する選手は、約89万人…わずか1.1%。
その数字から、レベルの高さがうかがえる。
JFLでの順位や、ホームゲームでの観戦者数といった、数々の条件をクリヤーして、クラブ設立わずか1年で承認された。石川県は、 地元開催が年に数度しかなく…J1もJ2も無縁なだけに、「おめでとう」と言う前に、寂しさが先に立つ…。
J2はJ1に比べ、侮る向きもないではないが、決してそんなことはない。
今季のJ2は、7チームが以前J1を経験していて、元日本代表や五輪代表ら、有力選手が何人もいる。来季、地元「カターレ富山」が、
そんな有力選手と真っ向勝負する姿を、是非見たいものです。
北日本新聞「天地人」
※「カターレ」というチーム名は、「○○せられ」と言う、富山の方言からとった。
勝って欲しい⇒勝たれ⇒カターレになった。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 623】
~私の昭和~ 「ラーメンと私」
お湯を掛けるだけで、はい出来上がり。今年は「即席ラーメン」が誕生して50年になる。
私が初めて即席ラーメンを口にしたのは、昭和35年18歳の時…高校を卒業した年です。
友人の家で、油で揚げた麺の塊りにお湯を掛け、柔らかくなるのを待って食べた。
麺に"ダシ"をしみ込ませ、お湯で緩めるだけの食べ物だったと、記憶している。
主食でもなく、間食でもない?けったいな食べ物で、美味しいとは思わなかった。
昨年は、国内で54億食(世界では979億食)生産された。国民1人当たり41食、食べた計算になる。全国県庁所在地で、
即席麺を一番多く食べているのは、富山市。上位に青森、新潟、仙台市などの寒い地域が並ぶ。
富山市が一番なのは、寒さに加え、共働きの家庭が多いことも、要因の一つだろう。
(北日本新聞・天地人)
初めて即席麺を食べた翌年の昭和36年、小松市粟津と山代温泉のほぼ中間の国道8号線沿いに、八番ラーメン一号店が誕生していて、
評判を聞きつけて、食べに行った。
自家用車の普及は現在のベンツ並みで、まだ金持ちの持ち物だった時代…。
香林坊のスナックのママのクラウンを拝借して、金沢から山代まで食べに行った。
当時、8号線は新道建設中…大聖寺から先はまだ未完成…トンネル工事中だった。
粟津から先は未舗装で、穴ぼこだらけの道を砂埃をたてて1時間…そこまでして出かけるほど、美味しかったのです。
ハチバン一号店は、トタン葺きのバラックでした。カウンターに丸椅子が8脚くらいの、粗末な店。店内は客が列をなし、
椅子が空くのを待っている。
壁に「フランチャイズ募集」と、大きな張り紙…フランチャイズチェーンの先駆けだったのです。
その後しばらくラーメンに凝り、美味しい店があれば、どこへでも出かけた。
当時、金沢でラーメンと言えば「チュー」(現在20店舗)…醤油味の透き通ったスープに、チャーシューが2枚乗った、素朴なラーメンです。
金沢は日本列島の真ん中に位置して、北海道から九州まで、全国のラーメンが食べられる激戦地。そんな中、 さして特徴もないチューが、チェーン店を増やしているのは、何なんだろう?…しいて言えば、出前してくれるから…?。
最近になって、沖縄の食材で沖縄料理を食べさせるお店が、近所に開店して、食べに行った(メニューには、
沖縄名物"海ぶどう"もある)。
嬉しいことに、沖縄ラーメンが食べられるのです。美味しいんですよ!
むしょうに本場の豚骨ラーメンが食べたくて、新幹線で博多へ行ったことがある…。
博多といえば長浜・天神、そして中州の屋台。
タクシーの運転手に教えられ、ラーメン通の地元の人たちに評判の、豚骨ラーメン店へ…。
豚骨スープの強烈な臭みが店内に充満…
初めての人には無理かも…テーブルに供えてある、臭みを消す紅しょうがや高菜を乗せて食べた…鼻をつまんで食べると美味しいんです。
ラーメンだけでなく、シューマイ、モツ鍋など、美味い店を探して、食べ歩いた。
全国にモツ鍋ブームが起きる以前に、既に、通ぶっていたのです。
敦賀のラーメン屋台も、付き合いが長い。JR駅前、8号線沿いの商店街に、夜の8時頃から、10軒くらい屋台が並ぶ。
一番の人気店は"ごんちゃん"。
大坂出張の帰り、夕食抜きで高速を走り、11時頃敦賀を下りて、目指す屋台へ…。
"ごんちゃん"屋台…歩道に並べられた椅子席は、いっぱいの人…。
店に着くや、「親父、ラーメンまだある?」…ネタ切れの日は、早仕舞いしてしまう。
スープは乳色で、甘めの豚骨醤油…麺はちぢれ太麺…豚骨風味だが、見た目よりあっさりして、スープが美味しい。
ボジョレーヌーボー
毎年11月の第3木曜日は、ボジョレーヌーボーの解禁日…季節の風物詩になっている。
ボジョレーは、フランス南東部、リヨンの北に位置するワインの産地。
その年に収穫されたガメ種のブドウを使用し、99%が赤ワイン。
世界各国現地時間で、11月の第3木曜日午前0時に、一般への販売が解禁される。日本は時差の関係で、毎年、
世界の先進国で最も早く解禁の時を向かえる。
パリではこのヌーボー、一瓶20~30フラン(340円~500円)位で買える。
1,000円~4,000円もする日本の市場価格は、高すぎるのでは…ボジョレーの人達には、日本は最高に美味しい市場である。
それでいて、日本でのヌーボーの売上は世界一。ルイヴィトンやエルメス等、パリの有名ブランドの店に群がる日本人同様…
フランス人には、理解しがたい光景である。
近年、日本人が生産量の半分近くを買い漁るため、価格の高騰や品薄を招き、地元民から反発の声が出ている。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 621】
「国産ウイスキーが世界一に…」
忘年会・新年会シーズンになりました。若い頃、一杯呑むと言えば、決まって片町に繰り出した。納会だ、忘年会だと、
人が集まって呑むときは、県内の温泉郷で一泊するのも、当たり前だった。
あれだけにぎわった片町や温泉郷…今は、まばら…馴染みの店もご無沙汰で、キープしたウイスキー、もう無いだろう…。
スナックで呑む酒は、スコットランド産スコッチに限ると、本場の酒にこだわってきた。トリスやニッカなどの国産ウイスキーは、
何十年の間格下に見られてきたのです。
だが今年4月、英国専門誌が主催する国際コンペ「ワールド・ウイスキー・アワード(WAA)」で、ニッカの"余市1987"が、
世界一の「シングルモルト・ウイスキー」に選ばれた。
シングルモルトとは、単一の蒸留所で作られた大麦原料のウイスキーのことで、個性が強く、ウイスキーの中で唯一急成長している商品だ。
英紙サンデー・タイムズは、「本場スコットラントに驚きが広がっている」と報じた。「かっては、 冗談のタネにされていた日本産ウイスキー…歴史的快挙だ」と。
北海道・余市の蒸留所では、酵母の種類や原料、蒸留、発酵法、熟成用の樽を替え、何千種もの原酒を造り分けている。 「余市1987」は、20年熟成の樽から厳選した、8樽の原酒を合わせた、シングルモルトである。
スコットランドの蒸留所は、経営効率が優先され、日本のように造り分けすることをしない。審査では、原酒の多様性から生まれた、
豊かな香りが高く評価された。
日本で最初にウイスキーの生産が始まったのは、1924年…大坂・山崎。
日本のウイスキー造りの技術は、80年の年月をかけて、本場に追いつき、追い越した。
サントリーも、今年の4月WAAで、複数の蒸留所の原酒を混ぜる「ブレンド部門」で、2年連続世界一に輝いている…「響30年」だ。
「響」は、別の2つのワールドコンペでも、最高賞と金賞を受賞している。
今では、英国の植民地だったスリランカのバーにも、「余市」や「響」が置いてあるという。
ヨーロッパにジャパニーズ・ウイスキーが受け入れられる日も、そんなに遠くはなさそうです。
読売新聞「サイエンス・立体交差」から抜粋
近頃は焼酎とビールがよく呑まれる…日本酒とウイスキーの消費は、減り続けている。私はアメリカンウイスキー・バーボン派で、
ターキーのロックにこだわるが、家では350mlの発泡酒を呑み…寒さが増すとともに、焼酎のお湯割りを楽しんでいる。
一頃、ブームになったワイン…リッチな気分を演出し、ナイフとフォークで食事をする時や、誕生会などで栓を抜いていたが、
近頃は手も付かず、棚に淋しく並んでいる。
11月20日(木)、日本で解禁となったボジョレーヌーボーも、消費は最盛期の半分に減ったとか。1本3,000円近くするが、今年は、
1,200、1,300円の品が、店先に多く並んでいるという…。
数年前、発売前夜のカウントダウン・パーティに、夫婦で参加したことがある。
午前0時…景気よく開いたボジョレーヌーボーの樽…日本酒同様、瓶詰めよりずっと香りがよく、美味しかった。
余談だが、新年を迎えるカウントダウンは…東京デズニーリゾートへ家族で…セブ島の五つ星リゾートホテルで…
ラスベガスのシーザース・パレスで、年越しパーティーに参加した。
今年は、和歌山県の串本で、年末の31日からスキューバー・ダイビングを楽しみ、正月を向かえる予定です。
■野口英世の母が息子に宛てた手紙
おまイの しせ(出世)には みなたまけ(驚き)ました
わたしもよろこんでをりまする
なかた(中田)のかんのんさまに さまにねん(毎年)
よこもり(夜篭り)をいたしました
べん京 なぼでも(勉強いくらしても)きりがない
いぼし(鳥帽子…地名) ほわ こまりおりますか
おまいか きたならば もしわけ(申し訳)かてきましよ
はるになるト みなほかいド(北海道)に いてしまいます
わたしも こころぼそくありまする
ドか(どうか)はやく きてくだされ
かねをもろたこト たれにこ(この事は誰にも)きかせません
それをきかせるト みなのれて(飲まれて)しまいます
はやくきてくたされ はやくきてくたされ はやくきてくたされ
はやくきてくたされ いしよ(一生)のたのみて ありまする
にしさ(西を)むいてわ おかみ(拝み)
ひかしさむいてはおかみ しております
きたさむいては おかみおります
みなみ(南)たむいてわ おかんておりまする
ついたち(一日)にわ しおたち(塩絶ち)をしております
ゐ少さま(栄昌様…僧侶の名前)に ついたちにわ
おかんて(拝んで)もろておりまする
なにおわすれても これわすれません
さしん(写真)おみるト いただいておりまする
はやくきてくたされ いつくるトおせて(教えて)くたされ日
これのへんちまちて(返事を待って)わりまする
ねてもねむれません
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 617】
「少年、野口英世の逸話」
「自分が志し、目指したその道を天職と思い、一生やり続け、生き抜く…」
前号で、「天職」について、二つの事例を紹介しました。
世のため人のために"人生をまっとうした人"…といえば、様々な偉人が浮かんできます。
二宮尊徳や野口英世などが、そうでしょう…。
一万円札は福沢諭吉、五千円札は樋口一葉…ところで千円札は?
そう、野口英世です。
以前、猪苗代を観光した時、野口英世の生家を見学した。
玄関土間は薄暗く、馬小屋と粗末な部屋が一緒になった農家だった。
建物を見学していると、一郭に、母が息子に宛てた手紙を、大きく拡大して展示してあった。
「ひと目でいいから、我が子に逢いたい」…そんな思いが痛々しく伝わってくる名文である。
2歳の時囲炉裏に落ち、左手を火傷した。医師にかかるお金がなく、指が癒着してしまった…誰もが知る逸話である。
学校で、「手ん棒」というあだ名を付けられ、イジメられた。
磐梯山のふもと、猪苗代湖のほとりにある、三ツ和小学校。
卒業の口頭試問(面接試験)を行っていた小林先生。「秀才を、このまま埋もれさせるわけにはいかない」と、考え抜いた末、
野口少年を自室に呼び寄せた。
「清作君、たしかそう言ったね」 『はい』
「うん、ところで君は卒業したらどうするつもりかね」
『上の学校へ行きたいです…でも、やはり家を手伝います…。
やる気があれば、勉強はどこででも出来ると思います』
はきはきと答える野口少年の顔には、一抹の寂しさがただよっていた。
「野口君どうだ、猪苗代の高等小学校に来ないかね…私が学費を全部出してあげるよ。だから勉強一筋、一生懸命頑張りなさい」
『本当ですか…ありがとうございます…まるで夢のようです』
「夢じゃないよ、それより早くお母さんに話して、喜んでいただくんだな…」
小林先生に、一切の学費を出してもらった清作少年。
毎日12キロの道のりを歩いて、学校に通った。
ある日、教員室に校長をはじめ、小林先生ほか、職員が集まっていた。
「校長先生、私はこの作文を読んで泣かされました。あの野口が"てんぽう"とからかわれながらも、一途に勉強に励んでいる姿が、
あまりにも…」
『小林君、私も同感だ…ねえ、できることなら手術でもして、元どおりにしてやりたいなあ…先生どうでしょう、 近頃この町にアメリカ帰りの良い外科医が開業している。一つ私たちでお金を作って、診てもらったら…少ないが…』
校長先生がお金を出したことで、職員もこれにならった。生徒たちもお小遣いを出し合った。全校あげての支援に感激した渡辺医師は、
誠心こめて執刀した。
麻酔もかけずに、つながった指を切り開いたこの逸話…あまりにも有名です。
皆の願いが通じて…手術はみごと成功…ゆ着していた指が自由に動くようになった。この時、手術に付き添っていた級友の秋山義次は、
清作の母に一刻も早く手術の成功を知らせたいと、25キロの山道をひた走りに走った。
手術の成功を祈って、神仏を拝んでいた母は、吉報を聞いて涙にくれた…。
長い間屈辱に耐え、悲しい思いをしてきた清作少年。この時、しみじみ人の情けを知ったのです。この手術が動機となって、 「将来医学の道を志そう…」と、強く心に誓った…この時、清作は16歳でした。
※野口英世
アメリカに渡り、「梅毒」の研究で、世界の医学界にその名を知られるようになる。
「小児麻痺」の病原体を特定し、狂犬病の病原体を特定する。
1918年 黄熱病が大流行しているエクアドルへ…黄熱病の病原体を特定。
1928年 アフリカ・ガーナに黄熱病研究施設を建築。間もなく自身が黄熱病に感染。志半ばに51歳の生涯を閉じる。
■映画・レッドクリフ(赤壁)
先週の休日、私の大好きな、三国志"赤壁の戦い"を映画にした「レッドクリフ・前編」を鑑賞した。魏の曹操が、全国制覇を夢見て南下…迎え撃つ劉備と孫権の同盟軍は、"赤壁"に陣を敷く。
上映2時間半…3/2が戦闘シーン。黒澤監督の七人の侍を彷彿させ、趙雲・張飛・関羽そして、中村獅童が演ずる呉の将軍/甘興など、1人ひとりが見せる戦闘シーンは圧巻。
軍師・諸葛孔明の"八卦の陣"など、奇策と知略がふんだんに組み込まれ、スケールの大きさでは、タイタニックに劣らないだろう…先行上映された中国では、タイタニックの興行収入を塗り替えたという。
制作費100億円、アジア映画史上最大のスペクタル巨編。是非見ておきたい映画です。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 615】
~歴史から学ぶ~ 「禅寺に名園」
今年の紅葉は、例年になく美しいという。毎年11月になると、夫婦で京都を散策する。京都の楽しみは何といっても、木々が色づく美しい庭園巡り。
そして、夜には秋の味覚に舌鼓をうつことです。
お寺回りをしていて気がつくのは、美しい庭園があるお寺の、そのほとんどが"禅寺"であることです。
石庭で有名な龍安寺、苔寺として有名な西芳寺、京都三大名園の一つ天龍寺、ねねの大徳寺、金閣寺、銀閣寺など…数えればきりがない。このように禅寺に名園が多いのは、禅と庭園の間には、深い因果関係があるからです。
以下、枡野俊明「夢窓疎石・日本庭園を極めた禅僧」からの抜粋です。
禅は、「心の問題を追及していく教えであり、ものごとの心理を見極めていく訓練の場」である。
そして、禅の修業を重ねる目的は、「本来の自己と出会うこと」にあり、「人間の持つ心の本性を、明らかにすること」にあります。
禅は、心の教えの根本となる"哲学"を説いていく。従って、禅そのものには形がなく、目に見えるものはない…。
鎌倉後期から室町時代の禅僧たちは、この目には見えない自分の境地そのものを象徴化し、何かの形に置き換えて表現しようとした。ここから"禅の芸術"が生まれた。己を"無"にして"美"を極めていく中から、禅文化が育まれたのです。
こうした禅文化を象徴するのが「禅の庭」なのです。
禅僧たちは、自己を表現する場として庭造りに取り組み、自ら修行を重ね、会得した心の状態を、庭園という空間造形芸術に、落とし込んでいったのです。
「禅の庭」の父と呼ばれ、京都における「禅の庭」の原点となる庭園芸術を生み、完成させた"夢窓疎石"(むそうそせき1275~1351)。
室町初期の禅僧"夢窓疎石"の存在は、その後、日本の庭園芸術が開花していく中で、忘れてはならない存在になる。
夢窓疎石は、これまでの庭には見られなかった"石組み"を積極的に行い、庭園に"空間造形"を造り上げた。この作風がその後、京都における西芳寺、天龍寺などの造園の原点となり、やがて「禅の庭」は"枯山水"へと、たどり着くのです。
数ある京都の名園中で、私が好きなのは、大宮御所に隣接する"仙洞御所"庭園…17世紀に造営されたが、"空間造形"をみごとに演出している…。
■「町名…その歴史と由来」
私が生まれ育った香林坊…45年前に住所表示変更で町名変更され、香林坊2丁目になった。元の町名は「石浦町」です。
徳川幕府が発足する直前の1597年7月、金沢の浄土真宗門徒が、本願寺に提出した古文書によれば、当時既に「石浦村」があった。
石浦神社の氏子が住んだことに由来するという。
尾山神社前の「南町」、近江町市場に隣接する「近江町」「西町」「堤町」、武蔵ケ辻に隣接する「安江町」「木の新保村」「尾張町」など、
"尾山八町"を中心に、「大工町」「材木町」「博労町」「鍛冶町」など、様々な職人の住む町があったことが古文書に記されている。「森下町」
「野々市町」も、古文書に記されている。
「香林坊」という俗称は、家柄町人"香林坊家"が居住したことから名付けられた。
越前朝倉家の家臣だったが、没落し、親類の比叡山の僧"香林坊"を家名にして移り住み、"合薬商"を営んだ。
また「野々市」の地名は、守護の館があった野々市から、商工業者が移り住んだことから名付けられた。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 613】
~私の昭和~
「住所表示…旧町名が似合う金沢」
他所から越してきたためか、つい最近まで、自分が住む町内のことには、全く無関心だった。ところが、この春抽選で町会長に選ばれ
(成り手がいないので、已むを得ず)…ようやく、市と地域住民とのつながり、市や校下が行っている行事に関心を持ち、
参加するようになった。
(防犯・防災訓練、夏祭り、運動会、美化清掃etc)
金沢は、加賀百万石城下町。京都に似て、市内至るところ、歴史文化の趣きがただよう。
古くからある地名もその一つで、昔から住む人たちにはとりわけ思い入れ強い。
ところが昭和38年、金沢市が国が新らしく制定した、「住所表示」のモデル都市になったことから、市内ことごとく見直され、
街区に割られ、町名が変更された。
520あった町名が220になり、300近く町名が消えていった。
幾つもの町がひとくくりの"街区"にまとめられ、無味乾燥な町名に変えられてしまったのです。
多くの歴史ある町名が消えてしまったのです。
旧石浦町、仙石町、南町の一部、高岡町上藪の内の4町が、机上で振り分けられた"街区"に呑み込まれ、
香林坊1丁目と2丁目になった。今となっては、国道に向かい合った、旧「石浦町」だけを復活させるわけにはいかないのです。
近年、ようやく旧町名を見直し、"歴史的文化遺産"を残そうという機運が高まってきた。
始まりは早く、昭和54年から…「歴史の町しるべ」として、元、町名があった場所、古くから親しまれてきた坂道などに、
昔の名前を記した石碑が建てられた。現在219基、市内随所に建てられている。
更に、いったん消えた町名を復活させる作業も、少しづつだが進められている。
H11年、金沢市役所裏の「柿木畠」と、観光スポット・お茶屋街の「主計(かぞえ)町」が37年ぶりに復活…H13年には、
築城の際に、石を引いた「下石引町」と「飛梅町」…片町、旧大和デパート裏に直角に伸びる「木倉町」、そして「六枚町」が復活した。
この11月1日には「南町」が復活する。五百年前、後の金沢城、尾山御坊の南に位置することで、名付けられた町名である。
石浦町の旧町内会…私の子どもの頃、約140世帯あったものが、銀行やデパートに取って代わられ、現在住んでいるのは I
さん一世帯のみ…街区に分断され、住民が四散してしまったが、旧町民の結びつきは強く、四十数年経た今も、
生まれ育った故郷を懐かしむ人たちの間で、交流が続いている。
私も、商店街の元・青年部の皆さんと、ゴルフ懇親をしている。
目を外に向けると、富山市は住民が反対して、新住居表示作業は、現在も遅々として進まず、京都市に至っては、完全拒否を貫き、
旧来の表示を大切に守ろうとしている。
今年の春、「歩こう会」の皆さんと、金沢の古い町並みを歩いた…じっくり歩いてみて…気づかなかった金沢の良さが見えてくる…やはり、
旧町名が似合う町です。
■昭和33年日本シリーズ巨人VS西鉄
3連敗の後の4連勝/奇跡の大逆転劇…「神様・仏様・稲尾様」
[第1戦] | 巨人「9-2」 藤田・○大友 ●稲尾他5投手 本塁打…広岡(3回稲尾)・豊田(5回藤田)・長嶋2ラン(7回河村) |
---|---|
[第2戦] |
巨人「7-3」 ○堀内 ●島原他4投手 本塁打…豊田2号(8回堀内) |
[第3戦] |
巨人「1-0」 ○藤田 ●稲尾 稲尾は4回以後1安打に抑えるが、 1球に泣いた。 |
[第4戦] |
西鉄「6-4」 ○稲尾 大友・●藤田・義原 本塁打…豊田3号4号(5回藤田・7回義原)、広岡2号(7回稲尾) |
[第5戦] |
西鉄「4-3」 西村・島原・○稲尾 堀内・藤田・●大友 本塁打…中西2ラン(7回堀内)、稲尾サヨナラ(10回大友) 1点差の9回、表彰式の準備が始められるのを見た西鉄ナイン。 奮起して土壇場で同点、延長戦へ…10回、稲尾がサヨナラホームラン。 |
[第6戦] |
西鉄「2-0」 ○稲尾 ●藤田 本塁打…中西2号2ラン(1回藤田) |
[第7戦] |
西鉄「6-1」 ○稲尾 ●堀内・藤田・義原・大友 本塁打…中西3号3ラン(1回堀内)、長嶋ランニング2号(9回稲尾) |
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 609】
~私の昭和~ 「3連敗の後の4連勝の奇跡(2)」
今年のプロ野球…9月21日巨人VS阪神3連戦で、虎を3タテ…32年ぶりの12連勝。
ついに阪神に追いつき並んだ。そして、10日8日の天王山。
阪神と最後の直接対決…3-1で巨人が首位を奪還…10月10日ついに優勝!
7月上旬…13ゲームも離され、誰ひとり巨人が優勝出来ると思っていなかっただけに、今年は久しぶりに、
奇跡の逆転劇を目にすることができた。
思い起こせば96年、長嶋監督の下、11.5ゲーム差を跳ね返して優勝。
「メークドラマ」が流行語になったが、その時を上回る、歴史に残る大逆転劇になった。
明日から、セ・リーグ/クライマックシリーズ。
日本シリーズに勝ち進むのは…今年こそ巨人?
いや、阪神頑張れ! 中日にもわずかにチャンスが残されている。
各球団の監督の戦略は?
ところで、日本シリーズの歴史を振り返ると、3連敗の後4連勝という、ドラマティックに優勝した球団が、3つある。
■一つは、昭和33年(1958)の西鉄VS巨人戦。
当時私は高校3年の17歳。3連敗して後のない西鉄、稲尾が4連投して4連勝という快挙をやってのけ、優勝! 西鉄の優勝は、
稲尾の存在なしには語れない。
このシリーズは「巌流島の決戦」と言われ、三原監督率いる西鉄ライオンズと、水原監督率いる読売ジャイアンツの、3年連続の対決。
過去二度敗れている巨人は、ルーキー長嶋茂雄を4番に据え(王選手は、翌年1959年入団)、厚みを増した打線で臨んだ。
一方の西鉄…オールスター以降、奇跡の17勝1敗…稲尾投手の大活躍で、ペナントレース最大11ゲーム差を逆転。ところが、
日本シリーズ直前、原因不明の高熱に襲われ、フラフラの状態で第1戦に先発…巨人打線に捕まり、第3戦も先発したが、
3連敗を喫して崖っぷちに追い込まれた。
ところが、10月14日夜半からの雨が、シリーズの流れを変えた。
打線では、中軸を担う中西太、豊田泰光に当たりが戻り、何より稲尾の復活が大きかった。
稲尾は第4戦以降、文字通り"獅子奮迅"の活躍を見せ、前例のない3連敗の後の4連勝で、奇跡の大逆転。日本一を達成。
「神様仏様稲尾様」と、ファンから崇め奉られた。
■次は、昭和61年(1986)の西部VS広島戦。
第1戦引き分けの後、西部が3連敗の後、4連勝した。
■その3年後、平成元年(1989)の巨人VS近鉄戦…私は47歳。
この時近鉄が3勝0敗…ヒーローインタビューで、勝ち投手になった"加藤哲郎"。
「今の巨人はロッテより弱い…」と発言。これに、巨人ナインが発奮した。
この後、近鉄を4タテして大逆転勝利。
2度目の日本一の栄冠を、藤田監督にプレゼントした。
※鉄腕・右腕投手/稲尾和久(2007年11月13日、70歳で他界)
56年西鉄に入団。ルーキーで21勝、防御率1.06…新人王に輝き、
その年から3年連続日本一に貢献。入団2年目の57年から、3年連続30勝以上、57年には、20連勝の最多連勝記録を打ち立てる。
61年にはシーズン最多タイの42勝。
69年引退後は、西鉄、太平洋の監督を務める。93年野球殿堂入り。
通算成績…276勝137敗/防御率1.98/2574奪三振
■私の昭和(1976年・34歳)
「シーズン最終戦…4安打したら、首位打者になれる!」
1976(昭和51)年10月19日…最終広島とのダブルヘッダー2試合で、3打数3安打、4打数4安打、 5打数4安打のいずれかを達成したら、首位打者になれる!…注目の選手は、我が愛する球団、中日の4番打者"谷沢健一"である… 彼はやり遂げた!
その時、惜しくも首位打者を逸した選手は?…その年、巨人に鳴り物入りで移籍してきた"張本勲"である。彼は、
わずか"6糸"という超僅差で涙を呑んだ。
張本勲は、この年の6月、2500本安打を達成している。
10月11日には、王貞治が715本の本塁打を放ち、ベーブルースを抜いた。
我が故郷の横綱"輪島大士"はこの年、8度目と9度目…2回優勝している。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 607】
「重圧と戦うイチロー(5)」
新しいバッティングを模索して、2008年春…新たな戦いが始まった。
随分遠回りしたけれど、ようやく"野球を楽しめる"入り口に来た感じはある…。
フアンを圧倒し、選手を圧倒し、圧倒的結果を残すこと…それを自らに課して、今日も挑戦する…。
が、スタートでつまづいた…オープン戦26打席無安打…イチローは平然として、意に介していない様子。記録を知らされたイチロー…
「この時期に、悪いところを出し切っておかないといけないですから…とってもいいことじゃないの…」
開幕から2ヶ月、打率2割6分台と、過去経験したことのないスランプに陥る。
「今年は、200本達成は無理かも…」と、諦めかかった…。
一試合、一試合、夢中で試合に臨んだ。徐々にペースを掴んで、7月29日イチローは対レンジャーズ戦で、
日米通算3000本安打の偉業を達成…
過去メジャーでの達成者はわずか27人。日本では張本勲が1人いるだけ。
ここで注目したいのは、達成した27人で、同じシーズンに200本安打を達成した選手は、1人だけ。また、
34歳8ヶ月のイチローより若く、この記録を達成したのは、通算4189本を記録した、1910年代の名外野手タイ・カップ1人だけ。
4256安打のメジャー歴代最多記録を持つピートローズ(私と同じ1941年生まれ)、1970年代に活躍した内野手で、
あだ名は"安打製造器"。
そのローズ…3000本安打に到達したのは、37歳の時です。
イチローの活躍が続く限り、こうした記録は破られていくだろう…。
次の目標は、メジャー歴代首位に並ぶ、8年連続200本安打達成へ…。
ここまで来たら、何がなんでも達成したい…。
8月26日、残り31試合で28本。8月30日には、3安打の固め打ちをして、今期初の月間40本を超え…残り27試合で22本。
9月11日、5打数1安打(6号ホームラン)…あと9本…残り17試合。
そして9月17日、3安打の固め打ちをして…ついに8年連続200本安打達成…100年間破られなかった、メジャー記録に並んだのです。
更に、10日後の9月27日、イチローは、8年連続100得点の金字塔を打ち立てる。「200安打100得点"8度"」の記録は、 1930年代のヤンキースの強打者ルー・ゲーリッグ以来、史上2人目の快挙になる。
更なる記録達成に向かって…張本勲が持つ、3085安打の日本記録に並ぶまで、残り1試合…5本。イチローは、
メジャー8年の間に、1試合5安打が"7回"ある。メジャー最多記録は、9回…いずれ、この記録を抜き去るでしょう。
最終戦2安打と健闘したが…惜しくも届かなかった。そして、今シーズンを終えた。
日本最多安打記録は、来シーズンにお預けとなったが、来期は、9年連続200安打100得点の大リーグ新記録と、移籍9年目で、
大リーグ通算2000本安打達成がかかっている。
イチローの記録への挑戦が続くかぎり、重圧から逃れることはできないだろう…。
※張本勲
1959年(王貞治巨人入団の年)東映入団。1年目から、20年連続シーズン100安打以上達成。打率3割以上16回、脚も速く、
63年に45盗塁記録…
通算319盗塁。日本球界で、400本塁打以上(張本は通算504本)、300盗塁以上の記録保持者は、"秋山幸二(ダイエー)
"と張本勲の2人だけ。
巨人に移籍後、川上監督のもと、王貞治と「OH砲」コンビを組み、活躍した。
10月8日、ソフトバンクは、王監督の後任に秋山新監督を発表…
■いい男の条件
少し前のNHKの朝の番組で、「いま気になる男は?」をテーマにした番組があり、20~60代の"女性"260名にアンケートをした。
プロ野球選手ではイチロー、松井、古田、新庄。サッカーでは中田。
俳優はキムタク。オリンピック選手では、水泳の北島康介などの名前が挙がっていた。
韓国俳優では、「冬ソナ/大王四神器」のぺ・ヨンジュンが変わらぬ人気。
さて、この中にダントツ1位がいます…誰でしょうか?
5人に1人が"イチロー"の名前を挙げた。
目的に向かって努力する姿、前向きに生きる姿がカッコいい。
「自分のやりたいことを遣り通す」「意志が強い」「仕事の出来る男」「セクシー」
「誠実」「強くたくましい」etc…
そなん条件をすべて満たすイチローに…女性は憧れるのです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 605】
「重圧と戦うイチロー(4)」
日本球界とメジャーで、歴史に残る偉業を達成しながら尚、先を追及することが出来るだろうか? 球界で、
右に並ぶ者のいないイチロー…
しかし、いまだに"達成感"がないという。先が見えないから頑張れる…
目指す目標はイメージしているが、"お先真っ暗"だと言う。
もがき苦しんでいると…光が見えてくる…そのうちに光がさすだろう…。
何もしなければ、一生何も見えないだろう…。
自ら"重圧"に向き合う。その中から、新たなバッティングフォームを掴んでいく。既に身に付けている目に見える技術から、
更に目に見えない何かを…?
目に見えない部分が、今の自分には、かなり大きな部分を占めている。
その目に見えない部分に、目を向けるのが、これからの課題なのです…。
ホームランは、ここ!という時に、ねらったら打てる。それがイチローの中では、ちょっとした遊びになる。日々真剣勝負の中にも、
遊びの部分は大事だ!
この遊びの部分に目を向けることも、目に見えないものの一つだろう…。
2007年9月19日、イチローはこの日ついに打率首位に立った。
残り試合は11…翌日、4打数ノーヒット…トップを争うオルドニェスに首位を明け渡した。
その日の夜イチローは、応援に来た友人達に「首位打者を狙う」と断言した。
残り10試合…16本ヒットを打てば、間違いなく獲れるでしょう…その上を行かれたら…これはどうしようもない。
だから10試合で16本打つことへのプレッシャーを感じる。
「首位打者を獲る!」と言い切ることなど、これまで無かったイチロー。
自ら、重圧の中に飛び込もうとしていた…"弱い自分と決別する"ために…。
9月26日、残り5試合…首位打者争いは、近年まれに見るハイレベルの戦いへと突入した。イチローは5打数3安打の固め打ちで、
打率3割5分をキープ。
2001年以降、3割5分で首位打者を逃した例はない…。
しかし、オルドニェスはその上を行った…ヒットを量産して打率3割6分に上げた。
追い詰められたイチロー。絶望の中イチローは、最終試合になってもあきらめない"覚悟"があった。「自分の生活の一部を捧げて、
見に来てくれるお客さまを、背くことなんて出来ないですよね…だって、そういったフアンがいなかったら、僕らの存在価値…無いんだから…
」
最終戦、最低ヒット3本は欲しい…可能性に掛けた…結果は3打数1安打。
ついにオルドニェスは逃げ切った。イチローの戦いは終わった。守備についたイチローの目には、涙が浮かんでいた。
過去の自分を捨て、新たな境地に挑んだこの半年…イチローは何を掴んだのか? 全試合を終えて、掴みかかっていたものとは…
「それは、具体的技術ではない…と、僕は思う。自分が打席の中で感じている感覚…見えている景色…これは、
過去のものとは全く違ったものだと、僕は感じた。ようやくスタートが切れたな…という感じです」と、イチロー。
~つづく~
■イチローのこだわり
イチローもゲンを担ぐ。ダックアウトからグラウンドに上る階段…5段ある。
ヒットが出るようにと、最初の一歩は、必ず"左足"から…数打席ヒットが出ないと、今度は"右足"から上る…。
走塁に賭けるイチロー…特別仕立ての、ものすごく軽いスパイクシューズを履いている。
その分痛みも早く、次々と履き着替えるので、ロッカーはシューズの山…。
イチロー専用の、とても高価な特殊トレーニングマシーンを、球場内のトレーニングルームに備え付けている。
弾力性のある柔らかい筋肉と、しなやかな身体をつくるマシーンで、作動中、全身への酸素の供給をスムーズにし、乳酸の発生を抑えてくれる、
優れものである…。
大リーガーは"体の大きな人"というイメージが強い。イチローに限っては、それはむしろ致命傷になる…肥大させずに、筋力だけアップさせる。
イチロー身体…いつも神経が隅々に行き届いた状態でなければならない。
頭でイメージしたことを即、身体で表現する…それがイチローの武器になる。
身体が肥大したら、イチローがイチローでなくなってしまう…。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 603】
「重圧と戦うイチロー(3)」
2007年、イチローは一つの決意を固める。重圧にただ耐えるのではなく、「正面から重圧と向き合う」。「プレッシャーはかかる。
どうしたってかかる…逃げられない…だから向き合おう」…今年、そこをテーマにした。
「プレッシャーが来たら、そこから逃げない…俺は…」
2006年までは、重圧に耐え切れず、脈が変わり、試合中に気持ち悪くなり、吐き気をもよおし、重圧を家に持ち帰った。 重圧から逃れることで、結果を出してきたのです。メジャーに来て、同じ重圧でも、結果を残すことに集中すればよかった… 重圧に耐えることができたのです。
2007年、重圧を受け入れて、立ち向かって行っても、やれる自信があった。
技術の裏づけが、それを可能にした…ならば、プレッシャーを受け入れるべきだと思った。
重圧を避けて達成した200本と、重圧に向かっていって、常に緊迫した試合で達成する200本とでは、重みが全く違ってくる。
今、イチローは"目には見えない何か?"を掴みかけている。
「ストライクゾーンだけで、もし打つことが出来たら、僕よりヒットを打てる人はいないと思う。ところが、
訳のわからないボールに手を出したり、手を出してはいけないボールに手を出す…それがいけないんです」
イチローは、とんでもない悪球に手を出すことが少なくない。人並み外れた技術と、反射神経を持つがゆえに、悪球でも、
思わず反応してしまうのだ。
重圧がかかれば、よりその制御が効かなくなってくる…。
"これを無くせるんじゃないか"と思うんです。この感覚を得れば、今までの技術なんか必要ない…
無駄な技術を駆使する必要がなくなってくる。
"普通に打てる"って思った球を打ちにいけば、ヒットが出るんです。
自分を制御し、ストライクだけを打つ…その感覚を掴もうとしている。
バッターボックスでしか感じられない…あそこでしか生まれないものがある。
だから厄介なんです。 ~つづく~
今シーズン208本、メジャー1800安打達成まで、あと1本というところで、昨日の試合…5打数ノーヒット。
残り4試合で8本打てば、張本勲が持つ日本記録3.085安打に並ぶが、今シーズンの達成は、難しくなってきた。
守備の名手イチロー
北京オリンピックでG・G佐藤…なんでもない外野フライを、一度ならず二度までも、捕りぞこねて落球した。
イチロー…外野フライを背面キャッチして、観客からヤンヤの喝采を浴びる。
そんな名手イチローを何度か見た。
背面キャッチ…遊びでやっているわけではない。しかしながら、ボールから目を離し、消えたボールを、 背中にグラブを回してキャッチするのですから、難しい…難度の高い行為には変わりない。
なんでもない凡フライをキャッチする時、走者の方に目がいって、ついボールから目を離し、油断してしまう… そんな気の緩みを防ぐための動作だと、イチローは言う。「結果、お客さんに喜んでもらえるからね…」そんなさりげない言葉を聞くと、 やっぱり天才です…。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 602】
「重圧と戦うイチロー(2)」
メジャーに移籍して8年。イチローは毎年200本以上のヒットを打ち続けた。
その間、首位打者2回、年間262安打のメジャーリーグ記録樹立。
輝かしい記録の数々は、「過去のイチローを捨てる」という、イチローならではの"流儀"から生まれた。
その言葉通り、イチローは毎年、自らのバッティングフォームを変えてきた。
2007年春、これまでとは違う何かを見つけようとしていた…。
自分が過去持っていた"形"を思い返してみると、「よく、あれで打てたな…」って…思う。
「今のところ、終わりがないんですよ…今やっていることが、もしかしたら…
そうじゃないかな…」って、淡い期待を抱きながら…。
2007年のイチローは、何かが違っていた。6月には、25試合連続安打で、自己記録を更新。オールスターでは、
史上初のランニングホームランを記録して、MVPを獲得。
明らかに変わったのは、バッターボックスでの立ち位置…これまでよりも30センチ、ベースから離れて立つようになった。
きっかけは、妻の由美子さんの一言…「ちょっと離れてみたら? 景色変わるんじゃないの…」…素人だから言えること。
そして迎えた9月3日、ニューヨークでのヤンキース戦…マウンドにはメジャーきっての豪腕、ロジャー・クレメンス投手… ライトスタンドに飛び込むホームランで、7年連続200本安打を達成した。
2007年のイチローに、何が起こっていたのか?
時折、プレッシャーに押しつぶされそうになることがある…それを技術で乗り越えてきた。
精神には限界があると思う…もう限界だと思った時もある。
幾度となく、精神的に追い込まれた。重い十字架を背負って、プレーしてきた。
それでも、毎年200本達成してきた…日本では、首位打者を取り続けてきた。
「超えているように見えるよね…でも、超えてないんだよね…」とイチロー。
イチローは、「これまで重圧を乗越えられなかった」と、繰り返す。
だから今年、それを課題にした…かかってくる重圧から逃げないと、プレッシャーがかかる…どうしたってかかる重圧…逃げられない。
だから170安打になった時点で…来た来た来た!みたいな感じなんだよ…
いくぞ…明日から…重圧から逃げずに、自ら仕掛けていく…そんな中から新しいバッティングを見つける…。今、
イチローはかってない大きな挑戦の最中にある。
観客席から見ると、野球は簡単に見える。「こんなにヒット打てるところあるじゃない」…ところがバッターボックスに立つと、穴がない…
グラウンド全部守られているように見える。
自分のタイミングで打てたボールは、間を抜けていく。でも、詰まらされた打球は、捕られてしまう。
塁間の距離…絶妙の距離なんだよね…ギリギリ・アウトになるようになっている…信じられない…誰が考えたんだろう…感心します。
~つづく~
9月17日3安打を放ち、大リーグ記録に並ぶ8年連続200安打をついに達成。
100年以上破られることのなかった、メジャー記録に並んだのです。
~達成した感想は~
「メチャメチャしんどかった。190本になるまでは恐怖だった。今年200本
越えたのは大きい。次は、メジャー1800安打達成の…208本。
そして、張本勲が持つ日本記録、3085安打にチャレンジ…残り11試合で
15本打って、今シーズン中に達成したい…やりたいし、やるつもり。
絶対超えてやる…」
中日新聞
守備の名手イチロー
北京オリンピックでG・G佐藤…なんでもない外野フライを、一度ならず二度までも、捕りぞこねて落球した。
イチロー…外野フライを背面キャッチして、観客からヤンヤの喝采を浴びる。
そんな名手イチローを何度か見た。
背面キャッチ…遊びでやっているわけではない。しかしながら、ボールから目を離し、消えたボールを、 背中にグラブを回してキャッチするのですから、難しい…難度の高い行為には変わりない。
なんでもない凡フライをキャッチする時、走者の方に目がいって、ついボールから目を離し、油断してしまう… そんな気の緩みを防ぐための動作だと、イチローは言う。「結果、お客さんに喜んでもらえるからね…」そんなさりげない言葉を聞くと、 やっぱり天才です…。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 602】
「重圧と戦うイチロー(2)」
メジャーに移籍して8年。イチローは毎年200本以上のヒットを打ち続けた。
その間、首位打者2回、年間262安打のメジャーリーグ記録樹立。
輝かしい記録の数々は、「過去のイチローを捨てる」という、イチローならではの"流儀"から生まれた。
その言葉通り、イチローは毎年、自らのバッティングフォームを変えてきた。
2007年春、これまでとは違う何かを見つけようとしていた…。
自分が過去持っていた"形"を思い返してみると、「よく、あれで打てたな…」って…思う。
「今のところ、終わりがないんですよ…今やっていることが、もしかしたら…
そうじゃないかな…」って、淡い期待を抱きながら…。
2007年のイチローは、何かが違っていた。6月には、25試合連続安打で、自己記録を更新。オールスターでは、
史上初のランニングホームランを記録して、MVPを獲得。
明らかに変わったのは、バッターボックスでの立ち位置…これまでよりも30センチ、ベースから離れて立つようになった。
きっかけは、妻の由美子さんの一言…「ちょっと離れてみたら? 景色変わるんじゃないの…」…素人だから言えること。
そして迎えた9月3日、ニューヨークでのヤンキース戦…マウンドにはメジャーきっての豪腕、ロジャー・クレメンス投手… ライトスタンドに飛び込むホームランで、7年連続200本安打を達成した。
2007年のイチローに、何が起こっていたのか?
時折、プレッシャーに押しつぶされそうになることがある…それを技術で乗り越えてきた。
精神には限界があると思う…もう限界だと思った時もある。
幾度となく、精神的に追い込まれた。重い十字架を背負って、プレーしてきた。
それでも、毎年200本達成してきた…日本では、首位打者を取り続けてきた。
「超えているように見えるよね…でも、超えてないんだよね…」とイチロー。
イチローは、「これまで重圧を乗越えられなかった」と、繰り返す。
だから今年、それを課題にした…かかってくる重圧から逃げないと、プレッシャーがかかる…どうしたってかかる重圧…逃げられない。
だから170安打になった時点で…来た来た来た!みたいな感じなんだよ…
いくぞ…明日から…重圧から逃げずに、自ら仕掛けていく…そんな中から新しいバッティングを見つける…。今、
イチローはかってない大きな挑戦の最中にある。
観客席から見ると、野球は簡単に見える。「こんなにヒット打てるところあるじゃない」…ところがバッターボックスに立つと、穴がない…
グラウンド全部守られているように見える。
自分のタイミングで打てたボールは、間を抜けていく。でも、詰まらされた打球は、捕られてしまう。
塁間の距離…絶妙の距離なんだよね…ギリギリ・アウトになるようになっている…信じられない…誰が考えたんだろう…感心します。
~つづく~
9月17日3安打を放ち、大リーグ記録に並ぶ8年連続200安打をついに達成。
100年以上破られることのなかった、メジャー記録に並んだのです。
~達成した感想は~
「メチャメチャしんどかった。190本になるまでは恐怖だった。今年200本
越えたのは大きい。次は、メジャー1800安打達成の…208本。
そして、張本勲が持つ日本記録、3085安打にチャレンジ…残り11試合で
15本打って、今シーズン中に達成したい…やりたいし、やるつもり。
絶対超えてやる…」
中日新聞
■一朗からイチローへの、スイッチの切り替え…
書道家は、正座をして、硯に水を入れ、静かに墨を磨る動作から始まる。
無心に硯に向かって墨を磨る…心が静まり、雑念が消え、気力が満ちてくる…。
相撲でも剣道でも、試合に入る前の一定の動作の中で、試合に挑む心の切り替えが出来てくる…。
イチローも、自宅から球場に入るまでの間に、スイッチが切り替えられ、表情が全く変わってしまう。毎日、
家を出てからクラウンドに立つまでの時間が、分刻みできっちり決まっている。試合の前の動き出す時間、ストレッチに入る時間、準備の時間…。
それをこなしていく過程で、心の切り替えが出来てくる…特に意識しなくても…
自然と気が入ってくる。
私がゴルフをするときも、自分の番になったら、まず、クラブを正眼に構えて目標を定め、毎回同じ動作、
同じアライメント動作でアドレスに入る…。
そうすることで集中力が高まり、心と身体がリラックスし、緊張が和らいでいく。
ショットを打つ前のこうした一連の動作が、無意識に出来るようになったら…一人前だろう。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 600】
「重圧と戦うイチロー」
鈴木一朗は、高校卒業後ドラフト4位で、オリックスに入団した。
3年目、仰木監督に見出され、登録名を"イチロー"と変えた。
レギュラーを掴むや、いきなり大記録を打ち立てた…前人未到のシーズン210安打。
イチローの名は、またたく間に全国に広がった。
だが、この頃からある違和感を抱き始めていた。"イチロー"が一人歩きし、自分ではない。 マスコミが描く天才バッター"イチロー"のイメージは、21歳の鈴木一朗にとって、あまりにも重かった。
その苦しさから逃れようと、常軌を逸する厳しいトレーニングに明け暮れた。
ヒットを量産し続けるイチロー…更にヒートアップする世間の目。
イチローの名前だけが、どんどん巨大化していく。しだいにイチローは人目を避け、引きこもることが多くなった。帽子を深くかぶって、
人が通るとフッと下を向いてしまう自分がいた。
首位打者になって当然…その期待が重圧となって、イチローにのしかかった。
「来年も頑張って~」と言われるたびに、背筋が寒くなった。追い立てられるように、打撃の改良に取り組んだ…
毎年バッティングフォームを変えた。
あれだけ好きだった野球が、全く楽しめなくなっていた。
次の年へのプレッシャー…その責任と重圧。純粋に、野球をしている感じが全くなかった。
やって当たり前…やらないと驚かれる自分…成績を残すことだけの使命感に縛られて、面白くない毎日が続いた。
このままでは、自分は駄目になってしまう。イチローは、大きな決断を下した。
野球の本場アメリカに渡った。2001年、イチローはメジャーリーガーとして、再スタートした。
いきなり首位打者。そしてMVPの大活躍。4年目には、メジャーリーガー、シーズン最多安打記録達成。
だが、結果を求められる重圧は変わらなかった。重圧に苦しむ生活も変わらなかった。自らに課した200本安打という目標…
毎年170本を超えると、途端に打てなくなった。精神的に追い込まれ、食事の最中…突然呼吸が苦しくなることもあった。
結果を出し続けるために、イチローは毎年新たなバッティングフォームに挑んだ。外から見れば、
軽々とヒットを量産するスーパースターに見える。しかし、イチローは、ずっともがき続けていた…。 ~つづく~
■一朗からイチローへの、スイッチの切り替え…
書道家は、正座をして、硯に水を入れ、静かに墨を磨る動作から始まる。
無心に硯に向かって墨を磨る…心が静まり、雑念が消え、気力が満ちてくる…。
相撲でも剣道でも、試合に入る前の一定の動作の中で、試合に挑む心の切り替えが出来てくる…。
イチローも、自宅から球場に入るまでの間に、スイッチが切り替えられ、表情が全く変わってしまう。毎日、
家を出てからクラウンドに立つまでの時間が、分刻みできっちり決まっている。試合の前の動き出す時間、ストレッチに入る時間、準備の時間…。
それをこなしていく過程で、心の切り替えが出来てくる…特に意識しなくても…
自然と気が入ってくる。
私がゴルフをするときも、自分の番になったら、まず、クラブを正眼に構えて目標を定め、毎回同じ動作、
同じアライメント動作でアドレスに入る…。
そうすることで集中力が高まり、心と身体がリラックスし、緊張が和らいでいく。
ショットを打つ前のこうした一連の動作が、無意識に出来るようになったら…一人前だろう。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 600】
「重圧と戦うイチロー」
鈴木一朗は、高校卒業後ドラフト4位で、オリックスに入団した。
3年目、仰木監督に見出され、登録名を"イチロー"と変えた。
レギュラーを掴むや、いきなり大記録を打ち立てた…前人未到のシーズン210安打。
イチローの名は、またたく間に全国に広がった。
だが、この頃からある違和感を抱き始めていた。"イチロー"が一人歩きし、自分ではない。 マスコミが描く天才バッター"イチロー"のイメージは、21歳の鈴木一朗にとって、あまりにも重かった。
その苦しさから逃れようと、常軌を逸する厳しいトレーニングに明け暮れた。
ヒットを量産し続けるイチロー…更にヒートアップする世間の目。
イチローの名前だけが、どんどん巨大化していく。しだいにイチローは人目を避け、引きこもることが多くなった。帽子を深くかぶって、
人が通るとフッと下を向いてしまう自分がいた。
首位打者になって当然…その期待が重圧となって、イチローにのしかかった。
「来年も頑張って~」と言われるたびに、背筋が寒くなった。追い立てられるように、打撃の改良に取り組んだ…
毎年バッティングフォームを変えた。
あれだけ好きだった野球が、全く楽しめなくなっていた。
次の年へのプレッシャー…その責任と重圧。純粋に、野球をしている感じが全くなかった。
やって当たり前…やらないと驚かれる自分…成績を残すことだけの使命感に縛られて、面白くない毎日が続いた。
このままでは、自分は駄目になってしまう。イチローは、大きな決断を下した。
野球の本場アメリカに渡った。2001年、イチローはメジャーリーガーとして、再スタートした。
いきなり首位打者。そしてMVPの大活躍。4年目には、メジャーリーガー、シーズン最多安打記録達成。
だが、結果を求められる重圧は変わらなかった。重圧に苦しむ生活も変わらなかった。自らに課した200本安打という目標…
毎年170本を超えると、途端に打てなくなった。精神的に追い込まれ、食事の最中…突然呼吸が苦しくなることもあった。
結果を出し続けるために、イチローは毎年新たなバッティングフォームに挑んだ。外から見れば、
軽々とヒットを量産するスーパースターに見える。しかし、イチローは、ずっともがき続けていた…。 ~つづく~
■参りました
9月2日、滋賀県信楽カントリーでゴルフを楽しんだ。その後、大阪の権藤さん夫妻、川人さん夫妻、私たち夫婦、
揃って東大阪で会食した。地元の一部の人のみが知る"穴場"だそうで、夜の会席は予約のみ…しかも取るのは一組のみ。
「エェッ!今どき、そんな料理屋さんあるの?」…驚きはそれだけではなかった。
まず、玄関脇の囲炉裏を囲んだ場所(写真)へ案内された。
ビールで乾杯して前菜をつまむ。
出されたメイン料理は、自家製もめん豆腐。豆腐を小皿に取って、オリジナルの"岩塩"をふり掛け、口に運ぶ…これが美味。
小一時間談笑した頃、玄関脇の部屋に案内された。ここでのメインは"手打ちそば"…板長がソバを打つ前の粉を一つまみ、 1人ひとりに味わってもらい、ソバ談義…運ばれてくる小鉢を味わい、語らっていると、薬味を添えた、 今打ち上がったばかりの"ざるソバ"が出される…最後はソバ湯で人心地…。
3度目、今度は座敷に案内される。メインは"湯葉と蟹料理"。1人づつ、前に置かれたアルミ箱に豆乳が流し込まれ、 温められて出来る上皮に、手元に並べられた様々な食材を乗せ、風呂敷で包むようにして、薬味を付けて頂く。
最後に"沢蟹ご飯"が出て…デザート…もうお腹いっぱい…こんな贅沢で楽しい会食は初めて。感激の一夜でした。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 598】
「不思議の国、中国」
■世界のジョーク/何年教育しても、身に付かないもの?
○ 日本人の英語教育 ○ アメリカ人の銃規制
○ ロシア人の道徳教育 ○ イタリア人の性教育
○ 中国人のマナー教育 ○ ベトナム人の汚職追放
○ 韓国人のコピー商品撲滅 ○ アラブ人の民族統一
○ 北朝鮮人の反戦教育 ○ アフガニスタン人の麻薬撲滅
○ ミヤンマー人の民主教育
中国政府は、五輪に向けてマナー向上を呼びかけてきたが、急にお行儀よくなるわけがない。中国人は、ルールや約束を守る意識が、
根本的に欠けているようです。
自分のことが第一で、他人とコミュニケーションを取るような教育を受けていない。長年に渡り根付いた習慣・文化は、簡単には変わらない…
。
中国人の海外旅行者が年々増加する中、マナーの悪さに、旅行会社への苦情が絶えない。業を煮やした中国政府、
「国民海外旅行文明行為指針」を発表した。
<海外でやっていけない行為>
「人前で痰を吐く、鼻水をかむ、列に割り込む、公共の場所で靴や靴下を脱ぐ、
腹を出す…」
●中国に長年駐在しているビジネスマンに聞いた…
「トイレ一つとっても、都会は洋式、地方は今でも"穴だけ"が主流」
「北京、上海など都会に住む三億人と、田舎に住む十億人はまったく別の国民」
「だから中国のことは、何を言っても本当だし、何を言ってもウソになる…」
「北京と上海は犬猿の仲。北京人は首都のプライドから、上海人をバカにし、
上海人は北京人を田舎者扱いする…」
「ところが、両者ともチベットやウイグルには、まったく興味を示さない」
「中国人はメンツがすべて。ほかの社員の前で叱ったり、注意すると大変なことに…叱る時は、一対一が鉄則。メンツを潰したら、
復讐されると思った方がいい」
「中国人は『人に使われる人はバカ』という感覚だから、一旗揚げて社長になることしか考えない…どうしても、
儲かる商売に集中してしまう」
中国人は奥が深く、したたか。郷に入れば郷に従い、一度会ったら親友…
家族ぐるみで付き合え…奥さんや家族へのお土産を忘れないこと。
ご主人に贈り物をすると、ワイロとみなされるので、ご家族に贈り物をして、ご機嫌を取り結ぶようにする…。
中国人が、日本の友人を紹介する時、「私の生涯の親友です…」と言ってくれる。
NHKの連続ドラマ、「北京のバイオリン」を見るとわかるのですが、中国の女性は強い…家庭で夫を平手打ちする光景…日常茶飯事です。
1人っ子政策を徹底する中国…ところが、香港は2人目OK。香港で産めば、香港の戸籍が取れる。そこで「香港出産ツアー」 なる企画が生まれてくる…。
金メダルの獲得が、国家高揚の威信にかかわる中国…今回のオリンピックでは、アメリカを大きく上回る51個の金メダルを獲得した
(アメリカは31個)。
ところで、中国のスポーツ選手の待遇は…?
選手たちは、人生を政府に買われ、服従しているようなもの…政府の許可なく広告に出られず、広告収入の多くは政府の懐に…。
貧しい地方出身者を、政府が丸抱えで英才教育を施し、メダリストに育て上げる。引退後、手に職がなく、
何もできない人が多いという。用済みになったら、捨てられる運命なのです。
中でも、歴史のない認知度の低い野球選手は、サラリーマンより低収入とか…
引退後、日本のように解説者やTVタレントになって活躍するのは、まだまだ先のことでしょう…。
読売新聞「こちら報道部・今も不思議の"隣人"」より
■参りました
9月2日、滋賀県信楽カントリーでゴルフを楽しんだ。その後、大阪の権藤さん夫妻、川人さん夫妻、私たち夫婦、
揃って東大阪で会食した。地元の一部の人のみが知る"穴場"だそうで、夜の会席は予約のみ…しかも取るのは一組のみ。
「エェッ!今どき、そんな料理屋さんあるの?」…驚きはそれだけではなかった。
まず、玄関脇の囲炉裏を囲んだ場所(写真)へ案内された。
ビールで乾杯して前菜をつまむ。
出されたメイン料理は、自家製もめん豆腐。豆腐を小皿に取って、オリジナルの"岩塩"をふり掛け、口に運ぶ…これが美味。
小一時間談笑した頃、玄関脇の部屋に案内された。ここでのメインは"手打ちそば"…板長がソバを打つ前の粉を一つまみ、 1人ひとりに味わってもらい、ソバ談義…運ばれてくる小鉢を味わい、語らっていると、薬味を添えた、 今打ち上がったばかりの"ざるソバ"が出される…最後はソバ湯で人心地…。
3度目、今度は座敷に案内される。メインは"湯葉と蟹料理"。1人づつ、前に置かれたアルミ箱に豆乳が流し込まれ、 温められて出来る上皮に、手元に並べられた様々な食材を乗せ、風呂敷で包むようにして、薬味を付けて頂く。
最後に"沢蟹ご飯"が出て…デザート…もうお腹いっぱい…こんな贅沢で楽しい会食は初めて。感激の一夜でした。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 598】
「不思議の国、中国」
■世界のジョーク/何年教育しても、身に付かないもの?
○ 日本人の英語教育 ○ アメリカ人の銃規制
○ ロシア人の道徳教育 ○ イタリア人の性教育
○ 中国人のマナー教育 ○ ベトナム人の汚職追放
○ 韓国人のコピー商品撲滅 ○ アラブ人の民族統一
○ 北朝鮮人の反戦教育 ○ アフガニスタン人の麻薬撲滅
○ ミヤンマー人の民主教育
中国政府は、五輪に向けてマナー向上を呼びかけてきたが、急にお行儀よくなるわけがない。中国人は、ルールや約束を守る意識が、
根本的に欠けているようです。
自分のことが第一で、他人とコミュニケーションを取るような教育を受けていない。長年に渡り根付いた習慣・文化は、簡単には変わらない…
。
中国人の海外旅行者が年々増加する中、マナーの悪さに、旅行会社への苦情が絶えない。業を煮やした中国政府、
「国民海外旅行文明行為指針」を発表した。
<海外でやっていけない行為>
「人前で痰を吐く、鼻水をかむ、列に割り込む、公共の場所で靴や靴下を脱ぐ、
腹を出す…」
●中国に長年駐在しているビジネスマンに聞いた…
「トイレ一つとっても、都会は洋式、地方は今でも"穴だけ"が主流」
「北京、上海など都会に住む三億人と、田舎に住む十億人はまったく別の国民」
「だから中国のことは、何を言っても本当だし、何を言ってもウソになる…」
「北京と上海は犬猿の仲。北京人は首都のプライドから、上海人をバカにし、
上海人は北京人を田舎者扱いする…」
「ところが、両者ともチベットやウイグルには、まったく興味を示さない」
「中国人はメンツがすべて。ほかの社員の前で叱ったり、注意すると大変なことに…叱る時は、一対一が鉄則。メンツを潰したら、
復讐されると思った方がいい」
「中国人は『人に使われる人はバカ』という感覚だから、一旗揚げて社長になることしか考えない…どうしても、
儲かる商売に集中してしまう」
中国人は奥が深く、したたか。郷に入れば郷に従い、一度会ったら親友…
家族ぐるみで付き合え…奥さんや家族へのお土産を忘れないこと。
ご主人に贈り物をすると、ワイロとみなされるので、ご家族に贈り物をして、ご機嫌を取り結ぶようにする…。
中国人が、日本の友人を紹介する時、「私の生涯の親友です…」と言ってくれる。
NHKの連続ドラマ、「北京のバイオリン」を見るとわかるのですが、中国の女性は強い…家庭で夫を平手打ちする光景…日常茶飯事です。
1人っ子政策を徹底する中国…ところが、香港は2人目OK。香港で産めば、香港の戸籍が取れる。そこで「香港出産ツアー」 なる企画が生まれてくる…。
金メダルの獲得が、国家高揚の威信にかかわる中国…今回のオリンピックでは、アメリカを大きく上回る51個の金メダルを獲得した
(アメリカは31個)。
ところで、中国のスポーツ選手の待遇は…?
選手たちは、人生を政府に買われ、服従しているようなもの…政府の許可なく広告に出られず、広告収入の多くは政府の懐に…。
貧しい地方出身者を、政府が丸抱えで英才教育を施し、メダリストに育て上げる。引退後、手に職がなく、
何もできない人が多いという。用済みになったら、捨てられる運命なのです。
中でも、歴史のない認知度の低い野球選手は、サラリーマンより低収入とか…
引退後、日本のように解説者やTVタレントになって活躍するのは、まだまだ先のことでしょう…。
読売新聞「こちら報道部・今も不思議の"隣人"」より
■ことば遊び ことばの由来 『正々堂々』
熱戦を繰り広げる全国高校野球、いよいよ8月2日開幕。
勝っても負けても、球児たちの「正々堂々」としたプレーはさわやかだ。
態度や手段が正しく立派なことを「正々堂々」と言う。
この言葉は、孫子の兵法 「正正の旗を迎うるなかれ、堂堂の陣を撃つなかれ」から採った言葉です。
「正正の旗」とは、
攻撃態勢が整っている様。
遠望する敵陣の旗が、一切の乱れもなく、整然とはためいている。
攻撃態勢が完璧に出来ている組織は、外から見てもわかるものです。
「堂堂の陣」とは、
守りが完璧な状態。これも外から見てわかります。
だから、「正々堂々」とは、「攻めと守りが完璧な陣容で、軍隊が訓練され、
整っており、士気盛んに整然とたなびき進む様」を言います。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 588】
「あと1勝…頑張れ!山本マサ」
この8月、43歳の誕生日を迎える中日ドラゴンズの"山本昌"投手。
一昨日の7月27日、じっとしているだけでも汗が滴る猛暑の中で、
猛虎打線を相手に199勝目を挙げた…200勝まであと1つ!
達成すれば、ドラゴンズでは伝説の名投手"杉下茂"以来…2人目となる。
以下、7月28日中日スポーツ「あと1勝、頑張れマサ」の記事を転載します。
山本昌を思うとき、いつも"運命"という言葉が浮かぶ。
忘れもしない1988年8月、半年間の米国武者修行を終えて帰国した山本昌が、
二軍戦にテスト登板するというので、ナゴヤ球場に取材に行った。
試合前、山本昌がキャッチボールを始めた瞬間、目を見張った。
4ヶ月前まで大きな体を持て余し、手先だけで投げていたはずのフォームが、
別人のように変わっていた。腕が上り、スムーズに投げているではないか。
この5年間、何人もの指導者が、変えようとして変えられなかったフォームが、
わずか半年の留学で、変わってしまった。
気になって山本昌に聞くと、答えの代わりに一枚の小さなメモを見せた。
そこには、4行の文字が書かれていた。
(1)野球をやれることに感謝しながら投げること
(2)低めに投げること
(3)ボールは、前で離すこと
(4)常にストライクを先行させること
米国で面倒を見てくれた、アイク生原さんが書いたメモだった。
米国の育成法は…育てるために、中4日でキッチリ投げさせる。
日本ではほとんど登板することのなかった山本昌…。
米国での投球数は、わずか4カ月で150イニングを超えていた。
「登板前には必ずメモを見ました。腕が上ったのは、上げなきゃ疲れて、低めに投げられなかったからです」
メモの教えを守っているうちに、無意識のうちにフォームが身に付いた。
4年間で、わずか2イニングしか投げていなかった山本昌。この年5勝して、優勝に貢献した。
私の記憶では、期待されての"留学"ではなかったと思う。当時の星野監督が、ドジャースとの縁をつくった関係で、
数人の若手が送り込まれた。
人のいい山本昌は"付け足し"でしかなく、球団の期待も低かった。
解雇されてもおかしくなかった入団5年目の留学。
そして、アイク生原さんとの出会いがなかったら…。運命を感じてしまうのです。
今年セ・リーグが始まるとき、42歳を考えると、7勝するのは大変…と思った。
5月にトントンと3勝した後、6試合登板して3敗…3勝3敗…やたら200勝が遠く感じられた。
7月15日、ようやく巨人から1勝もぎ取り、21日広島、そして一昨日阪神と3連勝して、ようやく200勝に大手が掛かった。
昨年と今、落合監督には、その違いが見えるようだ。
「去年なら勝てなかったと思う。まだ来年があった。今年勝てなきゃ来年はないわけだし、 土俵際にいるということで、
甘い考えを捨てたんじないかな」
当初、プロに入るつもりはなかったし、ここまでやれるとは思っていなかった。
高校の恩師に背中を押されてプロに入り…25年。
次回の登板で歓喜の瞬間を味わってほしいものです。
「とにかく一つ勝つことが大変…1試合1試合頑張っていきたい」と山本昌。
野茂英雄は201勝で引退…その時「悔いが残る」と言った言葉が残る。
「いつか辞める日は来るけど、満足して終わることはないでしょう。
でも、ここまでやってこれた…チームのために頑張りたい」と、何処までも謙虚な山本昌…。
■ヨーロッパ時間
定刻になっても人が集まらない、「金沢時間」というのがどの地方にもあります。
日本人は一般的に"せっかち"で、定刻に遅れることにはうるさいようです。
「時間を守る」ことについて、ヨーロッパ各国を見ると、
ドイツ人は…定刻きっかりに集まってくる。
英国人とアメリカ人は…10分くらいの遅れは許容範囲。
フランス人は…30分、イタリア人は1時間くらいまでなら待てる。
スペイン人は、定刻に電話したら、まだ寝ていた…。
ドイツなどの北欧の寒い国は…全員揃うまで待っていられない。
時間を守り、定刻に遅れないようにすることが、気配りになる。
一方、温かい南の国…温暖な気候が、のんびりとした風土を育む。
少しくらい待たされても、苦にならないのです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 580】
~ことば遊び~ 「かなざわなまり(2)」
「かっこいいジー」「うェ」「おいね」「ほうや」
「そうけ」 「な~ん」「…がやわいね」
交通網が整備され、一時間もあれば、富山や福井へ行けるというのに、
金沢の北部、競馬場の近くには、早口ことばの八田弁?があり、
金沢の中心部だけに通じる方言(例…キンカンなまなま)があったりと、
わずか数キロ離れただけで、意味が相手に伝わらない方言がある…不思議ですよね…。
※「キンカンなまなま」…真冬、道路が凍ってツルン・ツルンになった状態のこと
「昨日、春スキーに行ってきたうェ。これ、そん時の写真ながヤ!」
『そんながけ、そりゃよかったわいね…あら~!かっこいいジー』
「な~ん、たいしたことないわいね…でも、昨日は天気やったさかいに、良かったわいね」
『おいね…ほやとこと、いい天気で…よかったわいね』
「ほやけど、天気良すぎて…雪質悪て、ダメやったわいね…」
日常、こんなやり取りが交わされている。
転勤してきた男性、女子社員から「かっこいいジー」と言われて苦笑する。
「かっこいいね」と素直に言われると喜べる…が、語尾に付く「ジー」が分らない?
この「ジー」、金沢弁独特の文末詞である。
東京でうっかり「そのスーツ、いいジー」なんて言おうものなら、「イージーオーダー」のスーツのことと、勘違いされてしまう。
北陸三県には、それぞれ味わいのある文末詞がある。
富山県は、「新聞きとったゼ」と、「ゼ」を多用する。
福井県では、「ほんなことしたら、あかんザ」と、「ザ」を多用する。
「おいね」
は、相手の話に同感し、相づちを打つ「ハイ」「そうだ」の意味になる。
同じ相づちでも「ほうや」
は、「その通り」「まったく同感」と、相手の話題を励ます。
そうだそうだと相づちを打つ時、「ほや、ほや」と重ねる。
更に強調すると、「ほうながや~」「ほうながかいね~」と語尾を伸ばす。
そこには、相手に対して、いささかの不信感も存在しない…。
「でもねー」という意味の、「ほぅやけど…」もよく出てくる言葉です。
「そうけ」
もよく使われる。「そうですか」といった意味で、「ほうや」よりも消極的肯定となる。
お婆ちゃんことば、「そうけ、そうけ…そうかいね」となると、今度は相手の話に深い関心を示す言い方になり、その使い分けは、
よそから来た人には難しい。
妻「映画面白かった?」 夫『なーん』…金沢で、こんな会話がひん繁に交わされる。
県外の人が聞くと、「日本語じゃないみたい」と言う。
「なーん」
は否定する「いいえ」の言葉だが、そんなに強いニュアンスはない。
さりげなく、気を抜いたように、あいまいに発音する。
又、「別に…」という意味に、「なーん」を使うことも多い。
夫「近頃、元気ないジー」 妻『なーん…』
相手を思いやってか、その後の言葉がない…その先は察するしかない。
それ以上聞かないで欲しい…という意味が「な~ん」に含まれる。
十年ほど前の裏話だが、米露首脳会談で、当時のクリントン大統領が、エリツィン大統領に注意を促した。「日本人のYESは、
NOである」と…。
金沢ことばの「なーん」は、必ずしも「NO」を意味しないのです。
「頑張りまっし、金沢ことば」より
■ダーウィン展(6/22日まで)
日曜夜のNHK・TV「ダーウィンが来た!」を、毎週楽しく見ている。
5月末、東京出張の折、上野の国立科学博物館で「ダーウィン展」を見学した。
アメリカで好評を博し、日本初公開。ダーウインの生い立ち・人生をたどりながら、
「種の起源」(1859年出版)を世に出した、時代背景を追っていく。
当時は、「地上のあらゆる生命は、主イエスキリストが創造した」と、固く信じられ、
生命の起源に異を唱えようものなら、捕らえられて絞首刑にされかねない時代だった。
20代に進化論を完成…その後様子を見ること20年。
四十半ばになり、他の生物学者が、類似の理論を発表するに及んで、ようやく世間に発表。進化論は、それまでの世界観を大きく変えていった。
ダーウインは進化論で、
「最も強いものが生き残るのではなく、
最も賢いものが生き延びるのでもない。
唯一生き残るのは、環境に変化しうる能力を持ったものだけである」
と言っている。「何代も永続する企業」の絶対条件でもある…。
会場は、進化論の着想をもたらした、ガラパゴス諸島の生物のはく製、地球一周の航海に乗船した「ビーグル号」の模型、航海日誌、 身の回り品など、日本では見られない展示品の数々…。生きているゾウガメと、ガラパゴストカゲも見た。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 576】
「コモンズの悲劇」
米国の生物学者ハーディンが1968年、「コモンズの悲劇」というエピソードを学会に問題提起した。 コモンズというのは、 イギリスの農民が慣習的に共用利用してきた、「共有地と、その運営仕組み」のことです。
たとえば、羊を飼う放牧地があります。その放牧地は、村人達が共同利用しています。
そこで、一人の農民が、自分の羊を一頭増やしました。
すると、本人の財産が増え、得をします。
それを見た農民たちがみんな得をしようと、次々と羊を一頭、また一頭と増やしていったら、どうなるでしょうか?
餌となる牧草がどんどん減っていって、ついには、その牧草地は滅んでしまいます。
日本にも、古くから「コモンズ」があります。山や川などの資源を村の人々で共有する「入会権」、漁師の「漁業権」などがそうです。
山には所有権者がいます。主に山に生える樹木を所有します。
でも、山に入れば、枯れ木が落ちていたり、キノコが生えていたり、動物が生息しています。それらを、村人が自由に採って、
自分のものにできるという慣習が、「入会権」です。
村人たちが共同で山を管理し、森がもたらす様々な恵みを、村人みんなで享受するのです。山は「みんなのモノ」であり、「自分のモノ」
でもあるのです。
ところが車社会になり、「入会権」を持たないよそ者…町に住む人たちが、休日ともなると、大勢山に押しかけて、村人の共有財産…
山菜やキノコを採って、山を荒らすようになったのです。
村人がキノコを採るときは、来年また生えるようにと菌糸を残し、キノコの土壌を荒らさないよう注意しますが、
町からやってきた人たちは、採った後のことなど考えようともしません。
山は荒れ、山菜もキノコも採れない山になってしまうのです。
海もまた、漁師たちは「漁業権」を大切に守り、海の恵みをむやみに乱獲したりしません。
お互をい守り合う、暗黙のルールがあったのです。
それは、漁村の人々が、海の資源維持を何よりも大切にしてきたからです。
ところが、魚群探知機や捕獲技術の発達、漁船の大型化などで、年々魚が採れなくなり、
暗闇に紛れて禁漁区域に密漁船が入ったり、漁業権に拘束されない外国の船がやってきたりして、資源が枯渇。
漁業が成り立たなくなったのです。
今、中国は、なりふり構わず世界の「燃料資源」「穀物」などを買いあさっている。
6月初め、ローマで開かれた食糧サミット…アメリカは、日本やフランスの反対を押し切って、食料になるトウモロコシから、
バイオ燃料を更に増産すると発表した。
穀物価格が高騰して、世界に餓死者が増える心配よりも、自国の利益を優先したのです。
地球温暖化や食糧危機が叫ばれる今世紀。資源には限りがあります。
奪い合いが争いを呼び、そして滅亡が待っている。
国の利益の枠を超えた、国際的「入会権」の概念を構築していかなければならないでしょう。
自国の利益ばかりに囚われていると、ハーディンが警告する「コモンズの悲劇」を迎えることになります。
■ことば遊び/ジョーク「犬」
~見栄~
「お肉屋さん、ステーキにするの、最高のところ1キロ2枚に切ってちょうだい」
隣の奥さん
『犬の餌にするので、一番安いところ100グラム、コマ切れにしてちょうだい』
すると、連れていた子ども…
「ママ、うちに犬なんかいないよ、いつから飼うの?」
~心配ごと~
「あら奥さん、心配そうな顔して…どうしたのよ?」
『主人が犬を捨てに行ったきり、帰ってこないの…』
「遠くへ捨てに行ったんでしょう、心配することないわ」
『でも…』
「何なの?」
『犬はとっくに帰ってきているのよ』
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 213】
「ヘブン・ありがとう」
我が家のビーグル犬、名前はヘブン。家族の一員に加わったのは13年前。
それまで妻は"犬"恐怖症…見た目におとなしい犬でも、恐くて近寄れなかった。
カナリヤを飼ったときも、餌の交換が怖い…。ゴキブリを見つけたら大騒動…。
生き物は何であれ、恐かったのです。
当時娘は、アメリカに留学していた。生後間もないビーグル犬を、アパートの一室で飼い始めた。子犬は、娘が学校に行っている間、
キャンキャン泣き、隣人から苦情が出た。
動物を飼うのは契約違反…と、大家から立ち退きを命ぜられた。
「飼えなくなったので…」と、処置に困った娘…国際電話で泣きついてきた。それが縁で、はるばるアメリカから、
我が家にやって来たのです。
10日間検閲に留め置かれた後、小松空港へ引き取りに行った。狭いゲージに押し込められ、痩せておしっこまみれ…
哀れな姿での初対面となった。
犬が怖いはずの妻…愛くるしくシッポを振る子犬を見て、思わず抱きしめていた…(つい今しがたまで犬嫌いだった妻)…
わからないものです。
その日から、ヘブンが家族の一員になった。
毎日が癒される日々…ヘブンがいると、家族みんなが和む。
一緒に散歩するのが楽しくて、ヘブンを連れて、夫婦で出かけることが多くなった。
夫婦喧嘩をすると、ヘブン、自分が叱られたと勘違いし、妻の足元で「クゥン…クゥン…」と摩り寄り、ご機嫌を取る…いつしか、
夫婦喧嘩もしなくなった。
そのヘブンも…寄る歳には勝てず、昨年の1月中旬、突然ケイレンを起こし、口から泡を出して倒れた。
医師に見せたら、「数日持つかどうか…このまま入院させ、預かりましょう」
どうせダメなら…家で死なせてやろうと、連れて帰った。
妻と交代で、寝ずの看病が十日あまり続いた。
しょっちゅう外れる点滴の管を付け直し、アガリクスを混ぜた餌を与え、看病した。
お陰で、家の中を歩き回り、階段を上り下りできるまでに、回復した。
それから一年、何度も倒れながら、ヘブンは頑張った。
"生きよう"とする執念はすごかった。
倒れた後の一年間、大好きな散歩をやめていたヘブン。12月下旬の暖かい日、八日市の公園へ散歩に連れ出した。
あっち…こっち…と、嬉しそうに臭いをかぎ、30分くらい歩きまわって、大きなウンコをした。
それがへブンとの最後の、楽しい思い出になった。
いよいよ、お別れの時がやって来た。
正月の二日、家族に看取られ、眠るように天国へ行った。
ヘブンと過ごした十数年…長野や岐阜での一泊旅行、松本城や善光寺を歩いた思い出。
小布施にも行った。嬉しそうに足を踏ん張り、首紐を引っ張るヘブン。
思い出をいっぱい残して、天国へ行った。ありがとう…ありがとう…ありがとう
■志賀高原スキー
16~17の土・日、スキー同好メンバー4人で、志賀高原へ遠出した。
初日は青く晴れ上がり、最高のコンディション。
聞くと、昨日までの3日間に、新雪が3メートルも積もったという。
今年初滑り。存分に滑って、焼額山スキー場からリフトを乗り継いでの帰路、
ゴンドラが故障して動かない。思わぬハプニングで5時を回ってしまい、リフトもストップ。
仕方なく、シャトルバスで発哺へ…旅館に迎えに来てもらった。
[パノラマ・アウトコース]
土曜の夜も30センチの積雪。
ゲレンデの圧雪が間に合わない。
2日目は、フカフカの新雪に加え、 横殴りの 雪が降り止まない…。
視界はさえぎられ、顔や手はかじかむ、
スキー板は雪に引っかかる…で、
予定を1時間繰り上げ、温泉に浸かって帰路についた。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 212】
「私とスキー」
カービンスキーの時代になって、スキーは、中高年から始めても、楽しめるスポーツ
になった。長くて直線的な従来の板だと、向きを変える際に、脚の特殊な動きや、
難しい姿勢が必要でした。
カービンスキーは短く、両端が太く膨らみ、中央がくびれていて、しなりや、ねじりが生まれ、体の向きを変えるだけで板の方向が変わり、
無理なくターンできる。
スキーは、重力を利用して滑るため、強い筋力を必要としません。
長時間の屈伸運動がほどよい運動になり、俊敏性を養う。
丸一日自然と戯れながら、楽しく体を鍛えることが出来る…運動不足になりがちな
中高年に、もってこいのスポーツである。
晴れ渡ったゲレンデを、真っ白に輝く北アルプスの山々を遠望しながら、
薄っすらと汗ばみ、美味しい空気を一杯吸って、右に左に滑降を楽しむ…
浮世のストレスから解き放たれ、身も心もすがすがしい。
毎年出かける志賀高原…夕暮れホテルに戻り、露天風呂に首までつかり、
ほどよい疲れを癒す…その後のビールの美味いこと。
今は昔と違ってリフト待ちがなく、1日たっぷり、心地よく滑れる。
私のもう一つの趣味、スキューバーダイビングはハードだ。
若い人とバディを 組み、一日に4本潜ることもよくある。
海のアウトドアーは疲れる。潜っていて、途中で疲れたから、トイレに行きたくなったからと、グループを抜け出すわけにはいかない。
海中にいて、トイレが近いのも困るが、運動不足で足がケイレンしたら、尚大変。
一緒に潜っている仲間に、迷惑はかけられない。足腰を鍛えておかなければ出来ないスポーツである。
本格的にスキーを楽しむようになったのは、50に届く歳になってから。
スキューバを続けるには、冬の間に足腰を鍛えておく必要がある。
スキューバ仲間が冬にスキーをやる…一里野や新穂高へ、仲間とよく出かけた。
54歳の春、上越アライへ春スキーに出かけ、コブに足を取られて転倒…骨折。
翌々日、入院を断って、ギブスで固めた足をひきずり、松葉杖で大坂出張という
無茶をやった。
ギブスを外した後も何故か、足首は引きずったまま…8月初め、業を煮やして県立中央病院へ行った。
「歩いてきたの?」と先生 … 『ハイ』 … 「アキレス腱が切れています。よく歩いて来られましたね…4ケ月も…
気づかなかったのですか?」
切れたアキレス腱が、モモの上部に団子になって丸まり、癒着していた。
直ちに入院・手術。手遅れなら、肩から"腱"を移植する予定だったという。
町医者のヤブめ!何ヶ月も通院したのに、気づかなかったとは…。
遠赤外線を照射し、歩行練習を繰り返す毎日。
入院を断ったため、先生に見放されたのでは…と、やっかむ。
スキー下手が原因で起きた事故。50半ばの年齢を思えば、スキーは止めるべきだった… が、11月、スキー同好会に入会…
まだ治りきらない翌年の1月下旬、同好の皆さんと
八方尾根へ。スキー教室にも入った。
今年もスキューバーをやりたい…足腰を鍛えなくてはと、恥ずかしくもなく、 下手なスキーに出かけている…。
■バレンタインに、カードを交換するようになったわけ…
バレンチノとは(英語ではバレンタイン)、キリスト教の司祭の名前です。
西暦3世紀、戦争に行きたがらない若者に手を焼いたローマの皇帝は、
心が浮わつくのが原因と、兵士の結婚を禁止してしまった。
かわいそうな兵士たち…見かねた司祭のバレンチノは、内緒で結婚させたのです。
これが皇帝の耳に入り、投獄されてしまった。
当時のローマは、キリスト教が迫害されていた。
バレンチノは獄中にあっても恐れず、看守たちへ"神の愛"を説いた。
ある看守に、目の不自由な娘がいた。
バレンチノが彼女のために祈ると、奇跡が起きて、目が見えるようになった。
このことで、バレンチノは処刑されてしまった。
死ぬ直前に、「あなたのバレンチノより」と表書きした手紙を、彼女に残していった。
その言い伝えから2月14日、男性が好きな女性に、愛をつづった手紙を出すようになった。そして、世界中に広がっていった。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 211】
「バレンタインデー」
2月14日はバレンタインデー。
ローマでは毎年2月14日に、豊穣を祈る祭りが行われていた。
約二百年前、お祭りが開かれる頃に殉教したバレンタインを、このお祭りの守護聖人に据えることにした。
その後次第に、この日に恋人たちが、贈り物やカードの交換をするようになったのです。
女性から男性に、しかも、チョコレートに限定して贈る習わしは、日本だけ。
欧米では、恋人や友達、家族などが互いにカードを交換し合い、 花束、 お菓子などを贈ります。バレンタインカードは、
クリスマスカードに次いで、多く交換されているのです。
日本で、チョコレートを贈る風習の始まりは、1978年の伊勢丹キャンペーン。
クリスマスケーキにあやかろうと、商魂たくましく始めたが、一年目は、板チョコ数枚が
売れただけ…その後しだいに全国に広がり、現在では年間消費量の4分の1が、
バレンタインで売れるという、国民的行事になった。
当初は、女性から愛を告白できる日としていたが、今では、夫や同僚・上司などへの「義理チョコ」、女性から女性の友だちに贈る
「友チョコ」がほとんど。
今年は、女性が自分のために買う、「マイチョコ・ご褒美チョコ」がよく売れるという。
更に、日本や韓国・台湾では、1ケ月後の3月14日に「ホワイトデー」がある。
日本では、男性から女性へ返礼として、クッキーやハンカチなどをプレゼントする。
’07年、大手上場企業の意識調査によれば、女性の約70%、男性の約50%が、
「こんな無駄な習慣なくなればいい…」と回答して、財布に影響する義理チョコには
ネガティブなようです。
ところで、昔の女性も、愛の告白にはひたむきだったようで、百人一首の中の
"嵩徳院"の恋歌がその代表…。
「瀬をはやみ 岩にせかかる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」
「川の瀬が速いので、岩にせき止められた滝川の水が、分かれても末は一つになるように、今あなたと別れて逢うことができなくても、
ゆくゆくは必ず逢おうと思う」
女性の方から、心のうちをストレートに歌に託し、思いを打ち明けている。
落語「崇徳院」は、"古今亭志ん朝"の得意ネタで、この歌を恋文にしている。
NHK朝のテレビ小説「ちりとてちん」でも、弟子が「瀬をはやみ~」と、繰り返し
稽古している・・・部屋で飼っている九官鳥も「セヲハヤミー…セヲハヤミ…」
■二月は縁起を担ぐ事の多い月
受験シーズーンを迎え、高校や大学受験を控えるご家庭では、神仏にすがりたい思いでしょう。
兼六園の金沢神社。学問の神様・菅原道真を祀り、受験生の参拝がひきもきらない。
参道脇にくくられた絵馬に目をやると、受験生の切なる願いが重なって見える。
この時期、「道路が凍っているから、滑って転ばないように…」とか、「落ちる…」とか、常日頃のなにげない言葉が"禁句"である…
周りも気を使う。
しっかり勉強していれば、そんな"言葉尻"に惑わされることもないだろうが…。
節分の豆まきも、縁起事の一つだが、節分の夜に、その年の恵方に向かって、目を閉じて願い事を唱えながら、太巻きを丸かじりする風習…
4~5年前から金沢でも見られるようになった。
このバカバカしい縁起担ぎ…大坂・船場の商売繁盛の祈願事として始まったと言われる。「食べている間は無言でいてね…」と、
私に一本差し出し、真顔で講釈をたれる妻…縁起が良いからと、本気でほお張っている。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 209】
「縁起をかつぐ風習」
会社に隣接する駐車場。1から順に番号を振ってあるが、4と9がない。四は"死"につながり、九は"苦"通じて「縁起が悪い」
というのがその理由。
ことばに実体があるかのように一人歩きし、"四"や"九"を嫌う日本の風習。
四がダメなら、"詩"や"師"、"士"も"氏"も"市"も、すべて"死"につながり、縁起が悪いということになるじゃないの…?
こだわること自体可笑しいし、ばかげている。なら、無視すればいいかというと、世間一般の慣わしである以上、そうもいかない…。
易の本家中国はどうかというと、"四"については全く気にならないし、"九"は "久"につながり、長寿を意味するとかで、
逆に喜ばれる。
59歳、69歳、79歳の年は「慶九」として、盛大にお祝いをするくらいです。
金沢市と蘇州市が姉妹都市になって、昨年25周年。中国では縁起の良い数字"九"にちなんで、99本の"桜"を蘇州市に寄贈している。
西洋では、13日の金曜日は不吉な日。日本でも、家を建てる時、13階段を嫌う。鬼門を気にし、風水にこだわって、
間取りにあれこれ注文を付ける人も少なくない。
鬼門には、北東の「表鬼門」と、南西の「裏鬼門」があり、鬼が出入りする方角、災いを呼ぶ方角として、古くから忌み嫌われてきた。
私が建築に従事していた頃、鬼門から玄関や水まわり、トイレを外すように…と言う要望が多かったことを思い出す。
表鬼門の北東は、家の中の他の場所より寒く、暗い場所になる。
そこに居間や茶の間を持ってくるのは、健康に悪い。一方、裏鬼門にあたる南西は、西日が当たって暑く、物が腐りやすい場所だ。
台所や厠を持ってくると、病人が出たり不幸になるという、古くからの言い伝えがある。
今は、冷暖房や照明が整い、上下水道が完備し、冷蔵庫のある時代。限られた敷地で、間取りの良い家を建てるためにも、
昔のように鬼門にこだわってはいられない…。
日本人は、仏滅に祝い事を避け、友引には葬式を避ける。
近頃は、ハワイで結婚式を挙げるカップルが多くなった。が、そこは、日本の神仏が及ばないアメリカ…私たちの先祖・
仏様の前で誓いを立てるのではなく…信心したことのない、聖書も読んだことのない…キリスト教教会に出かけて愛を誓うのです…
それでいて、大安吉日にこだわろうというのでしょうか?
私の娘もハワイに出かけ、キリスト教会で式を挙げた。予約をしたら、日本の仏滅の日しか空いていなかった…やはり…日本では、 その日は仏滅かもしれないが、ハワイは日付変更線をまたいで、一日さかのぼり、仏滅には当たらないし、ハワイには仏滅など存在しない…。 皆さんはどうしますか? 予約を入れますか? 別の日にしますか?
クリスマスを例に挙げると、日本では、子どもにオモチャを買ってやり、ケーキを食べる日であって、 キリストの生誕を祝う家庭は少ない。西洋の風習を都合よく、生活慣習に取り込み、年中行事にしていく日本人…なんと心の広いこと。
私は、世間一般に信じられる、名前の字画から吉凶を占うことや、印鑑に絡む縁起を一切受け入れないし、認めない。知れば、
一生気にするだろうから…。
"見ざる・知らざる・聞かざる"を、押し通している…。
宿泊したホテルの脇に神様の入り口が…。バリではこのような建造物がごく普通に見られる |
海鮮レストランで昼食をとっていたら… |
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 208】
「バリ島見聞録/ヒンドゥー教」
マレー半島の先に、大震災に見舞われたスマトラ島。
その先、東南方向にジャワ島が、ジャワ島の最南端にバリ島がある。
インドネシアは、1万7千の島々から成り、9千の島々に、日本の倍の人口の2億3千8百万人、
約490の民族が多様な文化を持って暮らしている。
バリの人口は330万人。その人口の87%がイスラム教、11%がキリスト教、1%が仏教その他、ヒンズー教は1%に満たない。
また、火山島だからでしょう、岩石は"浅間山の鬼押し出し"のように黒っぽい。
寺院の仏像も、海岸に突き出た岩も黒っぽい…。
バリには、2万を超えるヒンドゥ教寺院が点在する。インドから伝わったヒンドゥ教の神々は、大乗仏教やバリ土着の宗教と混じり合い、
バリ・ヒンドゥーという独自の宗教が育った。
インドネシアでは、独自の文化を持つ島である。
バリにも、日本でいう表鬼門、裏鬼門がある。
住まいから、島中央部の3千メートルの活火山、アグン山の方向が表鬼門になる。
その反対方向の海側が裏鬼門になる。だから、島民が住む場所によって、鬼門の方向が変わってくる。日本のように方角が一定していない。
表鬼門の方角は、「聖・善・平和」を象徴し、海の方角は、鬼神が棲む"凶"になる。
バリの家々、住宅も、官庁も、前庭のある家の入り口には必ず、割門(チャンディ・ブンタル)があり、神聖な世界と俗世界を分ける。
敷地を取り囲む塀の所々に、地の神の彫刻が、魔除けとして置かれている。
バスガイドさん、「私の家には、18対の神々が祀られている」と語る。
日本人夫婦が経営する、ダイバーショップの入り口にも割門があり、敷地内を見渡し、数えると、5ケ所に神様が据えられていた。
大きなものは、約1坪半くらいの囲いに、墓石のような塔が据えられ、神様が祀られている。小さなものは、 日本庭園の石灯篭のような塔に神様が祭られ、お供え物がしてある。
毎朝、すべての神様にお供え(チャナン・ヌパン)をして、お祈りを欠かさない。
敷地の出入り口の床にも、お供え物を置く。見ると、椰子の葉で編んだ12センチ角くらいの浅い器の中に、
ビスケットや花などの供物が入れられている。
ショッピングセンターの、高級ブランド店の入り口脇の床にも、お供え物が置かれていた。
バリでは、農作業から、宗教行事、ガムラン演奏や踊り、公共への奉仕活動、冠婚葬祭すべてを、村人みんなで相談して行う。
地域住民の相互扶助共同体が確立していて、一昔前の日本のよう…。
バリの人達はお祭りが大好き。毎日島のどこかで祭事が行われているという。
写真は、元日の昼、村人が白装束で、頭の上に神様?を乗せ、楽器を鳴らし、私たちが食事をしている前を通り過ぎていったものです。
島内を歩けば、どこかで写真のようなお祭り行事にぶつかるのです。
車窓からは、日本によく似た水田風景が遠望できる。
年三毛作のバリでは、牛は農作業に欠かせない。畦に沿って点在する小屋に、牛が飼われているのが見える。ヒンドゥー教だから、
牛を大切にしているのでしょうね…。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 207】
「バリ島見聞録」
正月休み、バリ島ビーチ・ジンバラに出かけ、スキューバーダイビングと観光を楽しんだ。
その時見聞し、印象に残ったことをまとめてみました…。
インドネシアの通貨はルピア(70~80ルピア=1円)。 1,000ルピアが、日本の約12円ということになる。
観光初日の夕食…仲間8人でレストランで食事をした。レストランの円卓席に着いたら、ウエーターが日本語メニューを持ってきた。
「お、日本語のメニューか!親切だなァ」なんて喜んだら、実は"日本人価格"。
お腹一杯飲んで食べて3千円は安い!…と満足する私たち。
カモがネギしょって、お店にやって来たようなものでしょう…。
食後、手渡された清算書は240万ルピア…「えェ~、240万だってェ~」。
1人当たり約30万ルピア食べたことになる。日本円に換算すれば、3千円あまりだが…あまりに金額が大きくて…。
バリだけでなく、香港やセブなどのアジアの観光地…必ず"日本人プライス"がある。
なら、真のプライスは?How Much。
それは、その店と親しい関係にある日本人のみが知る、"友人プライス"に頼るしかない。
商品価格が、売り手と買い手の値段交渉によって決められるバリ。
コネのない私たちが買い物をする時、店員との駆け引きの上手・下手が大事になってくる。
高額のお土産を買う時、"半値八掛"を目安に、どこまで粘れるか…
駆け引きのタイミングと、心理を読むことだ…。
バリの道を歩くときは、スリと足元に注意しなければならない。
道路は狭く、歩道はあっても、注意しないと突然陥没していたり、枯れ木や廃材が歩道を塞いでいて、
バイクが猛スピードで走る車道に出なければならない。
鉄道や高速道路がなく、道が狭く渋滞するバリでは、バイクが最も有効な交通手段になる。
運転するお父さんの前に子供を立たせ、後部でお母さんが乳飲み子を抱え、腰掛ける…大人2人に子供2人までは乗車OKなのだ。
が、ヘルメットをかぶらないと、反則金を取られる。
無数の相乗りオートバイが、縦横無尽に走り回る。
クルマが道を空けろと警笛を鳴らしても無視…バイクもクルマも、前方にちょっとでもすき間があれば、ハンドルさばきも巧みに、
次から次と割り込んでくる。
交通事故に巻き込まれるのではと、恐怖に駆られる。が…2日もすると、危険感がマヒしてくる。
ダイバーショップで…レストランで…用を足した後、水を流そうとノブを回したら…水が出ない。
町の外へ出かける時、「トイレットペーパーを1巻持ち歩くと良い」と、同行のショップ社長…。
聞けば、バリ人はパンツをはかないという?どの家も浴室内に便器があって、もよおしたら、下半身丸裸になって便座へ…用を足した後、
手桶の水をお尻にかけて、手で拭いて、後は自然乾燥?…だから、ペーパーの備え付けがない?
東南アジアの国々を観光し、ビールやおつまみを買おうと、食品スーパーに入ると…その国だけの、独特の臭気が店内に漂う。
「臭い!」…食欲を減退させる臭い。ニンニクと香辛料の混ざった肉ダレの臭いのよう。上海でも、セブでも…。
西洋人が日本にやってきて、味噌や醤油、沢庵の臭いに、「臭い!」と顔をしかめるように…。
バリ4日目頃から、香辛料の強い油ぎった豚や鳥肉料理には、食欲が湧かなくなる。食べたいものが限られてくる…。
南国の果物は美味しい。ところが、バリの果物は甘みがない…スイカにしか手が出なかった。
バリお薦めは、王宮文化華やかな時代から受継がれた「バリ・マッサージ」
バリ伝統技で、アロマオイルを全身に塗って揉みほぐしてくれる。
古い角質が取れ、新陳代謝を促し、観光で疲れた身体を気持ちよく癒し、やみつきになりそう。
ところで、浜辺に"椰子の木"という風景が、南国のイメージである。
が、バリでは、道路脇や山間部の斜面に、何千本もの椰子の木が葉っぱを広げ、ココナッツが生っている。
週2回メルマガを配信して、6回目の正月を迎えようとしている。
一年を振り返り、読み返すほどに、いろいろ書くことがあるものだと、我ながら感心している…続けるうちに、それが記録となって残っていく。
10年は続けたいと思う。
30年続けたら、90歳以上生きたことになる。
その時「いい人生だった」と、自らを褒めることができるようになりたい…。
来年も引き続き、なんだかんだと、お届けします。
皆さま よいお年をお迎えください…
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 205】
「地球温暖化を考える」
インドネシアのバリ島で、地球温暖化をなんとか食い止めようと、世界の国々が集まって、新たなルール作りを話し合った。
その国際会議の名称は、「気象変動枠組条約第13回締約国会議(COP13)」…舌を噛みそうな、なんとも長ったらしい名前です…。
そしてこの15日、国別削減目標や、期限にかかわる数値目標を取り除いた形で、大混乱の中、何とか合意に到った。
国際社会が、目先の損得に囚われ、このまま手をこまねいているようなら、人類の未来も、地球の生命も、
深刻な危機にさらされることになるだろう。
今世紀末には、世界の平均気温が6~7度上昇するという。
南太平洋、海抜1.5メートルしかない、サンゴ礁の小さな国ツバル。
満潮のたびに、人々の家が、地面から湧き出てくる海水で壊されていく。「最初に沈む国」として、何度かTVで放映された。
北極では氷が融けて、白熊が絶滅するという。
今年は3月に入るまで、まったく雪がなかった。
スキーが趣味の私。山に雪が無ければ、スキーを楽しめない。1~2月の真冬に雪が無い北陸なんて、過去何十年記憶にない。
毎年、11月中旬に夫婦で、京都の寺院へ紅葉狩りに出かけている。
近年は、鮮やかに紅葉する前に、薄汚く枯れてしまう。そんな庭園を散策する気になれず、今年は出かけるのを止めてしまった…。
明日から正月休みの間、地球温暖化国際会議が開かれたバリ島へ、スキューバーダイビングに出かける。
当初予定していた、沖縄の石垣島を変更してのツアーである。
世界有数の広大なサンゴ礁群で、世界遺産に指定されてもいい、沖縄ケラマ諸島。
今年の秋、台風が少なかったため、海流がよどみ、水温が例年より1~2度上昇した。
あの美しかったサンゴ礁が…ああ~、サンゴの80%が窒息・死滅しようとしているのです。
サンゴの墓場と化した海底は、一面真っ白になる。
生態系が破壊され、美しく群れる熱帯魚、集まって来る回遊魚、いろんな生き物が陰をひそめ、お魚のいない水族館のような、
殺伐とした風景になってしまう…。
そんな惨状を目にするのは、耐えられない…。
美しい自然、海や山をこよなく愛する私。
毎年秋に、真っ赤に美しく燃え上るはずの山々が、一面枯れ山になり、小鳥も小動物もいない、死の山になったのと同じ状態…
そんな海になっていく。
地球温暖化が私たちの身近で、目に見える形で、警鐘を鳴らし始めている。
この地球に生きる私たち。「もし空気が無くなったらどうしよう」などと、考えもしない。
まだ大丈夫、まだ大丈夫と思っているうちに、人類の生存できない地球になっていく…。
「ゆで蛙」の逸話を笑ってはいられない。
恐竜が地球上から忽然と消えてしまったように、人類の生存を賭けて、子孫繁栄のために、何をどうすればいいか…?
一枚余分に着て、室温を下げるなど、小さなことでも、出来ることから実行していきたい。
■「人生は塗りばしのようなもんや…」
NHK朝のテレビ小説「ちりとてちん」。
福井県若狭の塗りばし職人の娘が、落語家を目指して巻き起こす、笑いあり、涙ありの物語。
以下は、今は亡きお爺ちゃんが、孫娘"喜代美"に託した思い…
「若狭塗りばしは、卵の殻や、貝殻や、松葉やら…
そういうもんで色を付けて、上から何度も何度も漆を塗り重ねて、研ぎだす。
そうしたら、みごとな模様の 塗りばしになる」
「人生は塗りばしのようなもんや…一生懸命生きてさえおったら、悩んだことも、落ち込んだことも、きれいな模様になって出てくる。
だからお前は、なりたいもんになれ…」
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 204】
「歌は世につれ人生とともに」
第一生命のサラリーマン川柳に、「こりゃ誰だ この歌なんだ 大みそか」というのがある。
紅白歌合戦を見ながら、「世の中、わけの分らない歌ばっかりになっちまったよなァ~」と、つぶやくお父さんが多いのではないでしょうか…
。
平成になって19年、老若男女が愛唱する、国民的演歌が見当らない。
一つだけ、昨年のNHK紅白歌合戦で歌われた、「千の風になって」が、そうだろう。
演歌は人生の愛唱歌である。戦後六十数年、豊かで平和な世の中になり、みんなが心から愛唱し、口ずさむ…
そんな演歌を作曲する人がいなくなった。
そんな中、文部科学省の検定に合格して、来春から使用される、高校と中学の教科書の音楽の教材に、
初めて演歌が登場することになった。
北島三郎の「まつり」と、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」です。
そこで、私たちが口づさみ、親しんできた…その時代を表す、心にしみる歌…
国民的愛唱歌を世に送り出してきた、作曲家を並べてみました。
【古賀政男 1903~1990】
日本人すべてに親しまれ、愛唱された"古賀メロディー"
「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」「二人は若い」「東京ラブソディ」
「男の純情」「うちの女房にゃ髭がある」「人生の並木道」「人生劇場」「新妻鏡」
「誰か故郷を想わざる」「湯の町エレジー」「無法末の一生」「柔」「悲しい酒」
「ゲイシャワルツ」「りんどう峠」など…あまり多くて選びきれません。
【服部良一 1907~1993】
終戦直後の何もない苦しい世の中に、元気と希望を与えてくれた…
「東京ブギウギ」「銀座カンカン娘」「青い山脈」「蘇州夜曲」「湖畔の宿」
「山寺の和尚さん」「別れのブルース」
【猪俣公章 1938~1993】
日大芸術学部に在学中から、バンドマンとして活躍。
古賀正夫に師事して作曲を学ぶ。
森進一のデビュー作、大ヒットした「女のためいき」で、桧舞台に踊り出る。
「女のブルース」「君こそ我が命」「港町ブルース」「空港」「千曲川」「祝い酒」
「おふくろさん」「冬の旅」「大坂ラプソディー」など…
【吉田 正 1921~1998】
ソ連シベリアに抑留され、昭和23年夏、舞鶴港復員。厳しい抑留体験から、
「生きていることは素晴らしい。私の歌づくりは、ここに始まり、ここに終わる…」と、
その後の作曲人生で、国民に愛唱された歌曲は数限りない。
「異国の丘」でデビュー。
「誰よりも君を愛す」と「いつでも夢を」がレコード大賞に。
「同期の桜」「街のサンドイッチマン」「花の三渡笠」「弁天小僧」「赤と黒のブルース」
「有楽町で逢いましょう」「おまえに」「東京ナイト・クラブ」
【市川昭介 1933~2006】
「さよなら海峡」「皆の衆」「連絡船恋歌」「恋吹雪」「伊豆の雨」「大坂しぐれ」
「渡り鳥仁義」「夫婦坂」「さざんかの宿」「細雪」「浮草くらし」「東京めぐり愛」
「ふたりの大坂」…何れも、居酒屋でよく歌われた…。
【船村 徹 1932~ 】
「王将」「柿木坂の家」「兄弟船」「東京だよおっ母さん」「別れの一本杉」
「なみだ船」「矢切の渡し」「哀愁波止場」「みだれ髪」「女の港」「おんなの出船」
「風雪ながれ旅」
【遠藤 実 1932~ 】
乞食同然の少年期を過ごし、17歳の時、貧乏から脱出したいと、上京。
プロ歌手を夢見て、流しの演歌師に…。
幼少の頃に見たお月さんを懐かしみ、「お月さん今晩わ」でデビュー。
貧しくて行けなかった高校生活を思い、「高校三年生」を作曲。
世に送り出した楽曲は、五千曲に及ぶ。
「星影のワルツ」「せんせい」「くちなしの花」「北国の春」「すきま風」「新宿そだち」
「ついて来るかい」「他人船」「水割り」「夢追い酒」「昭和流れうた」「みちづれ」など、
私の青春期の思い出を彩る歌ばかり…
その他、昭和50年代、60年代と…口ずさみ愛唱した演歌の数々…。
[平尾昌晃] 「うそ」「グッドバイ・マイ・ラブ」「瀬戸の花嫁」「二人でお酒を」
[中村八大] 「黒い花びら」「おさななじみ」
[曽根幸明] 「圭子の夢は夜ひらく」は、少年院の中で作ったという伝説がある
[山本直純] 寅さんの「男はつらいよ」
[小椋 桂] 「シクラメンのかほり」「夢芝居」「流氷の街」「愛燦燦」「夢追い人」
[森繁久弥] 「知床旅情」
[谷村新司] 「群青」「サライ」「昴」「いい日旅立ち」
■徳川家康「東照宮遺訓」
一. 人の一生は 重き荷を負うて遠き路を行くが如し 急ぐべからず
一. 不自由を常と思えば不足なし
一. 心に望みおこらば 困窮したる時を思い出すべし
一. 堪忍は無事長久の基
一. 怒りを敵と思え
一. 勝つことばかり知りて負くる事を知らざれば 害その身に至る
一. 己を責めて 人を責むるな
一. 及ばざるは過ぎたるより勝れり
最初の「人の一生は重き荷を負うて…」は、ズシッと心にしみる言葉です。
この言葉は、"千利休"が言った言葉というのが、最近の歴史家の通説です。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 203】
~歴史から学ぶ~ 「辞世の句」
516号の 「ことば遊び」で、石川五右衛門が釜茹でにされる時、"辞世の句"を読む噺をしましたが、 歴史に名を残した人たちの辞世の句は何だったのか、集めてみました。
今宵は、赤穂浪士が元禄15年吉良亭に討ち入り、主君の仇討ち果たした日である。大石内蔵助は、翌年の2月4日、
享年44歳で切腹した。
辞世の句は、
「あら楽し 思いは晴るる身は捨る 浮世の外にかかる雲なし」
無事復讐を遂げ、武士の面目を保つことができて、晴れ晴れとした心境が詠まれている。
事件の大元、浅野内匠頭の句も有名です。
「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかんとやせん」
歴史に名を残した人たちが人生の最後に詠った句。万感の思いが伝わってきて、心打たれる。以下幾つか紹介しますが、
中でも戦国時代、1516年に北条早雲との戦いに破れて自刀した"三浦義同(よしあつ)"の辞世の句は、心打たれる。
「討つ者も討たれる者も 土器(かわらけ)
よ 砕けて後はもとの土くれ」
この句は詠むほどに、世の無常、武家に生まれた無常を、土器・土くれといった無機質なモノに例え、 心の内の無念さを詠に込めている。 (濱野意忠)
数ある辞世の句で、最も知られていて有名なのは、豊臣秀吉。
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 難波のことも 夢のまた夢」
上杉謙信は、天正6年3月、毛利と連合して織田信長と対決しようとしたが、出陣直前に急死。死の予感があったのか、
2月に描かせた自画像に、辞世の句を書き残している。
「四十九年 一酔の夢 一期の栄華 一盃の酒」
松尾芭蕉(1694没)の辞世の句も、よく知られている。
「旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる」
我が故郷の歌人…加賀千代女(1775没)。
「月も見て われはこの世を かしくかな」
石川五右衛門の句は、人の世を皮肉っている。
「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」
細川ガラシャ婦人の句は美しい。
「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
浄瑠璃・滑稽本の作者、十返舎一九の辞世の句です。
「この世をば どりゃお暇(いとま)
に せん香の 煙とともに 灰 さようなら」
このようにダジャレを言って、明るくこの世とオサラバしたいものです。
最後に、明治天皇の崩御に合わせて夫と共に自害した、乃木将軍の妻の句。
「出でまして かへります日の なしと聞く けふの御幸に 逢ふぞ悲しき」
室町・鎌倉の頃から、武家、文人、僧侶、庶民、おしなべて辞世の句を残している。古の人は何れも、高い教養があった。今の時代に、 このような辞世の句を残せる人はどれだけいるだろうか…。私には、とてもとても…とても…。
■ゴールド免許
今月、自動車免許の更新をした。5年間無事故・無違反だったから、優良ドライバーのあかしである、
コールド免許が取得できると思っていた。
ところが駄目だった。5年間とは、免許の有効期限の誕生日から5年さかのぼり、更に41日加えた期間だという。
5年+41日、その41日の間に、シートベルト着用違反で、キップを切られていたのです。サッカーの試合の終盤、
3分間のロスタイムに点を入れられ、負けてしまったような残念さが残った。
負け惜しみを言うなら、「コールド免許=優良ドライバー」では決してない。
ゴールド免許保持者の中に、かなりのペーパードライバーがいるという。
運転免許を持っていても、運転しないから"無事故無違反"ということに…。
それで、免許更新をすれば、ゴールド免許取得者になってしまう。
ゴールド免許はただちに、「安全運転優良ドライバー」であることの証しにはならないのです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 201】
「飲んだら動かぬ」
忘年会・新年会シーズンに入り、なにかと飲む機会の多い今日この頃…。
「乗るなら飲むな」。飲む時はタクシーか代行の何れかにする。ごく当たり前のことになった。それでも、
飲酒運転で検問にひっかかる人が後を絶たない。
「飲んだら乗るな」から、「飲んだら動かない車」…。そんな車が数年後には実用化されそうです。
明日、新車の香りが車内に漂うトヨタ車のセダンが、我が家に届く。10年間愛用してきたボルボを、日本車に乗り換えたのですが、 10年前のクルマに比べ、安全運転のための装備がきめ細かくなされていて、嬉しい限りです。
自動車メーカは、低燃費車の開発と、より安全なクルマの開発にしのぎを削っている。日産自動車は、 運転者がマウスピースに息を吹き込んで、アルコールが検知されたら、エンジンが始動しない車を実用化した。
更に一歩進んだ試作車も発表。運転席に埋め込んだセンサーが、運転席に座って運転しようとしただけで、
吐く息や汗からアルコールを検知し、エンジンをかからなくした。
日産は、更に一歩進めて、「常習者向けに、強制的に動けなくする」ことを検討しているという。他メーカーも同様の開発を始めているが、
「装置の誤作動をどこまで減らせるか」という課題があり、実用化には至っていない。
アメリカは一歩進んでいて、多くの州で既にインターロック装置を導入し、飲酒運転防止の決め手にしているという。
裁判所が認めれば、飲酒運転の違反者に対し、免許停止処分の代わりに、装置の設置を義務付けているのです。
スゥエーデンでは、すべての乗用車に装置を義務づける計画があるという。
読売新聞「新車社会論」より
昨年八月、飲酒乗用車に追突された車が海に転落、幼児3人が亡くなるという痛ましい事故があり、つい先日、 道路交通法では最も重い、30年の実刑が求刑された。そうした中、今年9月、飲酒運転の罰則がより一段と厳しくなり、 酒を提供する飲食店や同乗者も、処分の対象になった。
昨年の全国の飲酒運転による死亡者は、611人。10年前の半分に減少…。
それでも、悲惨な事故は後を絶たない。事故を起こし、解雇されるケースも珍しくなくなった。
また、飲酒運転常習者は、シートベルト着用率が、平均より極端に低いという。
車を運転する時の、安全に対する意識が低いのです。いくら、安全な車を開発しても、車に乗る人の意識が低ければ、意味がないのです。
9日~13日、ハワイ観光を楽しんだ。
ハワイは八つの大きな島と、約120の小島から成る。
オアフ島は東京都くらいの大きさ。
島人口は約130万人。内100万人がホノルルに集まっている。
ハワイ一番の産業は「観光」。
街を走っていて、大きな看板やネオンが無いことに気づく。
上海で気になるベランダの洗濯物、ハワイでは見苦しいからと、禁止。
ハワイの現地語は"12音"で出来ている。「ワイキキ」の"キキ"ように同じ"音"が重なった言葉が多い。
「ワイキキ」の「ワイ」は現地語で"真水"。"噴出する水"の意味になる。
「アロ~ハ」は、"いらっしゃい、さようなら、愛してます"などに使い分ける。
では、「フムフム・ヌクヌク・アプアア」は??
答えは「カワハギ」。お魚です。
「♪この木なんの木 気になる木…」で知られる"日立の樹"。
高速からは、あちこちで見ることができる。ハワイ名は「モンキーポッド」、「アメリカン・ネムの木」である。「マロハ~(ありがとう)」
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 200】
「金沢の姉妹都市・蘇州」
金沢市と蘇州市が姉妹都市になって、昨年25周年。
金沢市に、蘇州市から寒山寺の鐘が寄贈された。今年そのお返しに、中国で縁起の良い数字とされる"九"にちなんで、
99本の"桜"を蘇州市に寄贈した。
蘇州市博物館と、金沢21世紀美術館の文化交流を、今後より盛んにしたいと、両市の市長が意欲を示した。
5/25 北国新聞
今年の2月、上海と蘇州を観光した。小松空港から上海に直行便が週3便も出ていて、アクセスが良く、
韓国同様手軽に海外旅行が楽しめる。
蘇州市は、上海から高速道路で約1時間の所にあり、太湖の東岸に位置する美しい水郷の古都。
市の人口は217万人。春秋時代には呉の国の都が置かれ、北宋代に建立された八角七層の「虎丘塔」(中国のピサの斜塔として有名)、
明代に建設された庭園、唐代に建立された「寒山寺」、清代の建築物も多い。これらはユネスコ世界遺産になっている。
"東洋のベニス"とも言われる、蘇州の水郷を遊覧船で観光した。
しかし、下水設備のインフラがまだ不十分なのでしょう…。湖面は濁り、時折ドブ臭い匂いが漂ってくる。折角の美しい景色が台無しだ。
5月29日、太湖に面した"無錫市"の上水道が、濁りと異臭で突然飲用できなくなり、百数万戸の水道管の中に、 百数万トンの汚水が残って、当面水道が使えなくなるという、深刻な事態に陥った。
6/2 無錫日報
原因は、化学肥料の多用による農業汚染。紡績染色工場、化学製造業、食品製造業などから、太湖に流れ込む大量の工業排水。そして、 人口の増加に伴う生活排水。更に、近年の高温少雨が太湖の水位低下を招き、太湖の取水口の水質汚染を引き起こしたのです。
6/3 西安新聞
石川県からは、観光客やビジネスマンが大勢蘇州を訪れる。逆に蘇州から北陸への中国人観光客はゼロに近い。 中国からの誘客に力を注ごうにも、中国の海外旅行が、まだ一般的とはいえない状況にあるのです。
十数年前までは、中国のスポーツ選手が国際大会の宿舎を抜け出し、亡命するということが頻繁に起きていた。
今の中国で海外旅行を楽しめるのは、一部の富裕層に限られている。
海外に出るには、日本円に換算して50万円以上ともされる、保証金を積まなければならない。旅行者の逃亡防止に、
随行員が監視の目を光らせたり、多額の保証金を積ませたり、受入れの国に保証人がいることを条件にしたり、まだまだ、
気軽に海外旅行を楽しむ環境には、なっていないようです。
■「ロジャーズの法則」
インターネットは便利だ。何か知りたいことがあって検索すれば、即座に、有り余る情報を手にすることが出来る。百科事典の比ではない。
日本で、インターネットが一般に知られるようになったのは、1994年から…。
その後急速に利用者が増えて、一千万人を超えたのは1998年2月。
インターネットの利用は、わずか4年で一千万人の壁を突破している。
2年後の2000年春には二千万人を突破した。
「ロジャーズの法則」というのがある。
何か新しいものが市場に出回るとき、普及率が15%~20%超えると、急速に普及率がアップし、普及していく。
日本の15歳以上の人口の20%が二千万人。同じ年にパソコンの販売台数が一千万台を超えたことからも、いよいよ成人一人一台、
誰もがキーを叩き、気軽に利用する世の中になったのです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 197】
「国民不在…政争の具にされる?国の重要法案」
国の重要法案が、ときに国民不在の党利党略の具にされているように思えて、不愉快である。国の将来のために、 何が優先課題かを考え、枝葉末節(しようまっせつ)に囚われず、与野党一致して、国の将来のために、事に当たってほしいものです。
今国会は、ネジレ国会。参院第一党の民主党は、すべての法案を参院で否決し、葬ることができる。 国の舵取りを委ねられている政府は、野党の主張に大幅に譲歩して、何とか国会を通過させようとする。一方の野党は、 あの手この手で廃案にしようと画策する。TVニュースを見ている私…。モヤモヤしたものが残るのは、一体何だろう…。
アルカイダなど、中東のテロ集団が野放しに拡大し、中東の石油がテロ組織の標的になり、戦略手段に使われるようなことになれば、 石油の97%を中東に依存する日本は、壊滅的打撃を受けるだろう。
国際社会が一致して「テロとの戦い」に臨んでいるとき、日本国内の事情を理由に離脱することはできない。政府・
与党が新テロ法案の早期成立に、最大努めるのは当然として、民主党の対応も厳しく問われる。 新法案は従来にも増して、国民の理解を得られる内容になっている。 民主党が新法案への反対(今国会での解散をねらって…)を貫いた場合、政府・与党は会期を大幅に延長したうえ、
参院で否決された後、衆院で3分2以上の多数で、再可決するという"非常手段"も考慮せざるを得なくなる。
10/18 読売新聞「社説」より 守屋氏の疑惑は、給油活動と直接の関係はない。民主党が疑惑追及を理由に、審議を拒否することは許されない。 日本がテロとの戦いを継続するうえで、給油活動を続けるのか、別の活動に切り替えるのか、 今国会で論じるべき最大の課題でなければならない。 10/24 読売新聞「社説」より |
「赤福事件」もそうだが、何か問題が表面化し、社会を揺るがす事件に発展した時、必ずと言ってよいほど、
その陰に潜む悪事が露呈して、本筋の問題の解決をより深刻なものにし、解決を遅らせてしまう。
「新テロ対策特別措置法」が国会で問題にならなかったら、守屋氏のゴルフ接待や、給油量ミス隠ぺい、元専務の三千万円ネコババは、
表面化しなかっただろう…。
今の社会、私たちの見えない暗闇のなかで、どれほどの悪事がなされているのかと思うと、やりきれない気持ちになる。
■赤福の家訓 「三つ余計に売るよりも、一つ残すな」
「赤福」の商品寿命はたった一日。今日作った赤福は、明日売れない。
売れ残った「赤福」は、すべてコストに跳ね返ってくる。企業にかかるコストは、お客様が負担することになる。売れ残ってコストになったら、
品質を下げるか、価格を上げるしかない。
一日に売れ残る「赤福」は、1%以下だという。
その秘密は「赤福が、お客様の後を追いかける」
システムにある。
300店ある売店の在庫を、本部のコンピューターが、ちくいち把握…。売れ残り状況を見て、随時「店間移動」を行うシステムが、売れ残り1%
という、驚異的数字を可能にしているのです。
早朝、ホテルや旅館の売店に並んだ赤福は、"午前九時"を過ぎると、観光客が集まる、観光地の売店に移される。
"午後三時"を過ぎると、にぎわっていた観光地の人影もまばらになる。
売店に残った赤福は、帰りの客でにぎわう駅の売店やドライブイン、高速道路のサービスステーションに移される。そして、
その日のうちに売り切るのです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 196】
「赤福の製造日偽装事件」
伊勢名物「赤福餅」。赤福の屋号の由来は、「赤心慶福」から。
"赤心"は偽りのない心、"慶福"はめでたいの意味で、
「まごころをつくそう。そうすることで、素直に他人の幸せを喜ぶことができる」
という赤福の経営理念になっている。
その有名ブランド赤福が、「製造日偽装」で農水省に訴えられたのです。
毎日40万個売れる「赤福餅」。その17%が解凍した「赤福餅」だった。
冷凍保存した"あんころ"…。解凍した日を製造日として、長年表示していたことが指摘され、TV・新聞に大きく報道されたのです。
「作りたて」とうたっていた点を指摘されたのだが、解凍までの工程を製造と考えていたという。
更に、今朝の新聞の一面に、「店頭で売れ残った商品を回収し、冷凍保存して、製造日を改ざんする"まき直し"をして、 再販売していることが発覚した」との記事。農水省は、今日から無期限の営業禁止処分を通知するという。
300年の歴史・暖簾を受継いで、素晴らしい経営理念を掲げ、経営革新を怠らず、地域社会に多大な貢献をしてきた赤福。
とんでもない汚点を残すことになった。
「赤福」よ、おまえもか…倫理・モラルの欠如は、社会の奥深くにまで蝕ばみ、腐敗臭がただよってくるようだ…。
明治の頃に来日した西洋人が、人に親切で礼儀正しく、倫理感に溢れた、心の美しい日本人を賞賛した記録が残っているが、
そんな節度ある折り目正しい日本人は、どこへいってしまったのだろう…。
和菓子業界。作り立ての餅菓子を冷凍保存して、作り置き出来るようになって久しい。
「品質や食感が解凍した製品でも変わらない」ことから、需要に合わせた安定供給が可能になり、全国の餅菓子製造業では、
冷凍保存は当たり前。
餅菓子は、まだ日が昇り始める前から作り始め、お店を開ける時間までに、店のケースに並べる。日持ちしない食品だけに、
その日一日売れる分だけ作っていた。
冷凍保存技術の普及で、餅菓子屋さんの商売がどれほど楽になったことか…。
友人の和菓子屋さんの話では、「賞味期限」のみ記載して、「製造日」は記載していないとのこと。それで、保健所の認可を得ていたのです。
ならば「赤福餅」、「賞味期限」のみの記載ではダメなのだろうか?
同じように日持ちしない「芝寿し」。
10月15日、当社の代理店研修会の昼食弁当は、たまたま「芝寿し」だった。表示ラベルを見たところ、「笹寿し弁当」
の賞味期限は10月15日の当日のみ。メイン商品「笹寿し」は、製造日10月15日、賞味期限は10月16日と、
翌日の日付が記載されていた。
「お弁当」は賞味期限の記載だけ、「笹寿し」は、製造日と賞味期限の両方書かれている。その違いは何だろう?
疑問を餅菓子屋さんにぶつけてみた。
帰ってきた答えは…
「今朝作った餅菓子を、店でお客さまの好みに応じてバラ売りしたり、その場で食べていただくには、「賞味期限」の標示だけでいい。
しかし、お持ち帰り用に箱詰めしたり、贈答品として販売する時は、製造月日と賞味期限を併記している。店の味と信用を守るには、
賞味期限はなくてはならない。故に、賞味期限がきた商品は、すべて廃棄処分している。」
とのことでした。
■私の好きな言葉 < ユダヤの格言 >
人は転ぶと 坂のせいにする
坂がなければ 石のせいにする
石がなければ 靴のせいにする
人はなかなか 自分のせいにはしたがらない
日頃の私たちの姿勢を痛烈に皮肉った言葉です。
「世の中が不景気だから儲からない」とは、よく耳にする言葉です。
そう言って、問題を他人のせいにしている間は、何一つ解決しないでしょう。
正面から問題に取り組もうとしないから、いつまでたっても、問題は解決しないのです。
自分にそんな言動があれば、反省しなければならない。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 195】
「右側通行、左側通行」
東京へ出張した折、いつも戸惑うのは、地下鉄のつなぎ道路を歩く時。
ほとんどの人が左側を歩く。
右側通行を守ろうとしたら、前からどんどん人が来て、その間を縫うように歩かなければならない。
田舎者の私は、人にぶつかりそうになり、危険すら感じる。
右側を通行する人は、間違いなく少数派である。
地下鉄を降りて、改札口へ上る階段。
狭い階段に、一時的に乗降客が殺到する。
安全でスムーズな乗降を促すため、階段の中ほどに手すりが設けられている所がある。
その手すり、4対1で電車を降りて階段を上るお客様のために、左側を広く取ってある。
階段上りのエスカレーターが、階段の左端に位置しているように、駅の構造が階段も通路も、左側を歩く人に便利なように、
設計されているのです。
なのに何で、日本は世界では少数派の「右側通行」を採用したのか?
その疑問を解き明かそうと、ネットを開き情報を収集した。
■まず江戸時代の諸説。
右側通行説…武士は左側に刀を差している。
前方から来た武士に、抜き打ちざま切られないようにする
ために、右側通行が守られていた。
左側通行説…武士は左側に刀を差している。
右側を通行すると、刀の鞘(さや)と鞘がぶつかるおそれが
あるため、左側を歩いた。
車が道路の主役になる以前は、人がどっちを歩こうが、いっこうにお構いなし…。
と、思うのだが、左側を歩く人が一般的に多かったようです。
■明治14年、警視庁通達で、人は左側を通行するようにと、告知された。
■占領下の昭和22年、道路交通取締法が制定され、「人も車も左側通行」と決められた。
■昭和24年改正で、「人は右、車は左」の対面交通が取り入れられた。
「人が、後方から来る車に引っ掛けられることが少なくなる」という理由から、
この年、道を歩く時は、左側通行から右側通行に改正されたのです。
米国の交通ルールに習えば、「人は左、車は右」になる。
しかし、当時の庶民の交通機関はバス。
日本の乗り合いバスは戦前から右ハンドル、左乗降になっていた。
出入り口を逆に付け直す必要があるのと、ハンドルも左に付け変えた方が、乗り降りが便利。
当時の日本の経済力では、アメリカ方式の採用は無理と、「人は右、車は左」になった。
この時、習慣になっていた左側通行を改め、右側通行に変更されたのです。
ちなみに、「人は右、車は左」を採用する国は少数派。
英国と英国の植民地だった国々、マレーシア、タイ、インド、オーストラリア、ニュージーランドなどです。
■ネクタイの起源
クロアチアはイタリアの東、アドリア海に面した国。
中世の頃、この国の兵士たちは、出陣の際に、妻や恋人から"布"を贈られて、首に巻いた。
武運長久(ぶうんちょうきゅう)を祈った、一種のお守りだったのでしょう。
太平洋戦争で出兵する兵士に、妻や恋人が千人針の布を持たせるのと似ている。
17世紀、フランス国王ルイ十四世は、宮殿に招いたクロアチア人の、そんな衣装が気に入った。
王様も同じように首にスカーフを巻き、宮中に広まっていった。
それがネクタイの起源になったのです。
ちなみに、ネクタイのことをフランス語で「クラバット」と言う。
クロアチア人を意味する「クロアット」が、語源と言われている。
はるか遠いヨーロッパでの、昔の兵士のファッションが、現代日本の企業戦士達には欠かせない、衣装になっているのです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 193】
「東京人と大阪人…エスカレーターの立ち位置」
エスカレーターの立ち位置…。
東京では左側に立ち、歩く人は右側を進みます。
大坂ではこれが逆。
左側を歩き、立ち止まる人は右に寄ります。
東京ではエスカレーターでは歩かず、立ち止まる人が多いので、左側に列ができ、歩きたい人は右へ出て追い越すことになる。
ところが関西人はせっかち。
エスカレーターで立ち止まったりせず、階段のように上っていく人が多い。
道を歩く延長でそのまま左側を歩く。
立ち止まりたい人は、通行の邪魔にならないよう、右に寄るのです。
外国はどうか?ほとんどが右立ちだという。
ニューヨークもパリも右立ち。
ということは、大坂が国際標準ということになる。
桂小米朝「言いたい放談」より
ちなみに私は、左側に寄って立つ東京タイプ。皆さんはどうでしょうか?
成田や関空へ出かける時に、搭乗口に通じる長い通路のエスカレーターを観察するようにしたい。
私はつい最近まで、左に寄って立つのがマナーだと思い込んでいた。
しかし、地下街や階段を上り下りする時、本能的に人は左側の壁に寄って歩こうとする。
必然的に左側通行になる。
心理学によれば、心臓のある左側をガードしようとする無意識の行動と、突然襲われた時、右利きの利点を生かすために、
左を壁にして歩くのだそうです。
という訳で、アメリカや諸外国の多くが、左側通行であることが理解できる。
昭和24年、日本は、道路交通法で右側を歩くように定めた。
当時、どんな理由で右側通行にしたのか、その訳を知りたいものです。
沖縄が日本に返還される時、占領時代の左側通行から右側通行に、島内すべての道路標識・信号機を付け替え、バス停を変更した。
本土から2500人の応援警官が派遣され、数百台の救急車が各拠点に配置されたという。
コンビ二を見ると、入り口は大概左側にある。
入って直ぐ左にレジがあり、レジ奥から時計回りに右に折れて、お弁当とパン類のコーナーへ…。
更に進むと、奥の壁一面に飲み物や缶ビール。
一回りして入り口に戻る途中に、衝動買いを誘うアイスクリーム、雑貨や雑誌類が並べられている。
近所の書店もそうだし、商店街を歩くと、左から入店して、時計回りに商品がレイアウトされ、陳列されている店が多い。
ところが、近所にある食品スーパー。
3店とも、メインの出入り口は右側で、入った正面に果物、右壁に沿って野菜…。
奥に進むにつれ、調理した食品、肉、魚、乳製品…。
時計と逆回りにひと周りして、飲料水・酒類。
そしてレジで精算となる。
さて、みなさんの近所のスーパーはどうなっていますか?
人が歩く時の行動心理を、店舗設計の専門家に聞いてみたいものです。
■沖縄の食材・料理
◎ラフテー(豚の角煮)
沖縄といえば豚肉。
皮付きの三枚肉を、泡盛を加えてとろけるように柔らかなるまで煮る。
豚肉の皮には良質のたんぱく質やコラーゲンが多く、沖縄人の活力の源です。
◎ソーキ骨(豚の骨付きあばら肉)
沖縄料理には欠かせない素材。
昆布や大根と一緒に煮込んだ、ソーキ肉がのった「ソーキそば」、内臓を煮込んだ
モツ料理などは私の大好物。
◎昆布
琉球料理には"昆布"。
昆布と豚肉の旨みが混ざり合う、琉球料理に欠かせない食材。
消費量は全国トップクラス。
その昆布、沖縄の海では獲れず、北海道から取り寄せているというから面白い。
◎チャンプルー
沖縄の家庭料理を代表するチャンプルー。
豆腐(消費量は日本一)をベースに、豚肉、季節の野菜を入れた炒め物です。
ゴーヤがメインなら、ゴーヤチャンプルー。
モヤシがメインなら、モヤシチャンプルーになる。
◎コーレーグス(島唐辛子)
島唐辛子を買ってきて、焼酎に2~3ケ月漬け込み、刺身醤油、味噌汁、カレーなど
の隠し味にすると美味しい。
ラーメンに2~3滴入れても美味しい。
沖縄離島情報 >> http://www.ritou.com/ritou/kouri.shtml
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 192】
「日本食ブーム」
今年の正月、フイリピン・セブ島で、スキューバー・ダイビングを楽しんだ時、セブ島に住む日本人がよく行くという、
日本料理店に行った。
いや…なかなか、注文する料理いずれも、日本国内で十分通用する美味しさだった。
同じくスキューバーで、マレーシア・ボメネオ島の東端コナキタバルへ、飛行機を二度乗り継いで行ったことがある。
当時、街の中心部に八百半デパートがあったが、日本人の姿は見かけなかった。
夕食を食べようと街に出たら、道端で「おでん」と日本語で書かれダンボールを下げた、小さな露店が目に入った。
テーブルの上に50~60センチの"おでん"の入ったブリキの箱を置いて売っていた。
過去に何かワケありげな、日本人のおじさん…。
私たちの夕食に招いて、一緒に食事を楽しんだ。
上海のコンビニでも、レジ横で"おでん"が売られていた。
"おでん"は、上海の日常食になっているのでしょうか…。
太平洋パラオで潜った時も、日本食の店を見つけてきて、みんなで暖簾をくぐった。
ところが出された料理は、日本料理もどき…。
まずくて食べられる代物ではなかった。
そのお店は、和食に合う良い食材が手に入らないのと、日本人観光客のためのお店ではないということ…。
現地人が食事をする、現地人の口に合わせた、日本食に似せた料理の食堂だったのです。
食の本場フランス・パリには、日本食を名乗るお店が600軒近くあるという。
世界には2万軒はある。
今年の春農水省は、世界に本物の日本食を広めたいと、海外にある日本料理店の"認証"に乗り出そうとしたことは、記憶に新しい。
本物の日本料理って何?
何をもって日本料理と言うのか…その定義づけが難しい。
現地人の好みに合った味付けになるのは当然だろう。
外国から日本に入ってきた料理で、「カツ丼」「カレーうどん」などは、日本で生まれた、日本人好みの料理です。
おなじみの「スパゲティ・ナポリタン」…。
イタリアのナポリには、そんな料理は存在しないとか…。
昨年の秋、わが家の近所に魚貝類を中心とした、フレンチ料理レストランが店開きした。
友人の弟さんが経営するシャレたお店である。
「お薦めは…」と尋ねたら"お寿司…"?
注文すると、"カリフォルニア巻き"が洋皿に並べられて出てきた。
「なぜ?」って尋ねたら、弟さん、ニューヨークで修行して、腕を磨いて帰ってきたという。
ハワイやラスベガスで人気の、アメリカ生まれの日本料理が、わが家から歩いて数分の所で、食べられるようになったのです。
■「食料自給率」が低下する一方の日本
農家の高齢化・後継者不足から、農業の危機が叫ばれて十年以上になる。
日本の食料自給率が40%を切ったというのに、危機意識がまったくない。
仮に、外国からの食料輸入が途絶えたら、一億総飢餓に追い込まれるだろう。
ところが、イソップ物語の「蟻とキリギリス」のように、食糧難の時代が訪れるかもしれないのに、美食・飽食に慣れ、
食べ物を粗末にしていても、何とも思わない…。
このまま農家の高齢化が進むと、「人手に頼らざるを得ない山村僻地…十年後には耕作する者もなく、村は荒れ果ててしまう」と、
専門家は警告する。
今後更に農家の担い手が減って、食料自給率は低下していくだろう。
将来の食料危機に備え、「家庭菜園」を始めようかと思っている。
本当は、そんな大げさなことではなく、鍬を持って土をいじり、身体を動かし、足腰を鍛えて、運動不足を補おう…というのが目的。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 183】
「輸入大国の日本。食べるものがなくなる…?」
去年から今年にかけて、穀物や水産物を輸出する国は、あれこれ条件を付けて、自国へ利益誘導する動きが目立ってきた。そして、
日本に無理な条件を押しつけてくる。
万が一、穀物の輸入が滞るようだと、餓死者が出ている北朝鮮のように、憂慮すべき状態に陥る…。
以下、最近のニュース報道から…
■6月11日、EUでは、ヨーロッパウナギの稚魚の漁獲量を、2013年までに60%減少
させると発表。稚魚は中国に輸出され、養殖されてかば焼きに加工され、日本に輸出
される。
世界の50%を消費する日本。
いずれれカニのように、庶民の食卓から消えていくだろう…。
■トウモロコシの市場価格が1.5倍になったと、牛を飼育する酪農家が嘆いている。
今、注目のバイオガソリン、エタノールの原料用にまわされるため…。
トウモロコシが原料のキューピーマヨネーズも、この6月、17年ぶりに値上した。
■日本に"割り箸"を輸出する中国。
森林資源保護を理由に、突然輸出制限を通告してきた。
日本が一年に消費する割り箸はおよそ250億膳。97%が中国からの輸入…。
■昨年11月、"黒マグロ"を段階的に漁獲制限することが決まった。
現在3万2千 トンの漁獲量、2010年には20%減の、2万5千5百トンに減らされる。
世界の日本食・魚食ブームのあおりで、日本国内の水産物価格は上昇の一途。
マグロは前年比47%高、カツオに至っては、72%も値上がりした。
■ロシア政府はこの七月から、日本向けの針葉樹丸太の輸出関税を、現行の6.5%から
20%に引き上げ、来年4月に25%、09年1月には80%にすると発表。
実質的輸出禁止措置を取ろうとしている。
背景には、中国・インドの木材需要の急増、環境保護のため、東南アジアでの天然木の
伐採制限などがある。
丸太の市場価格は急上昇。県産材に切り替えるハウスメーカーや、代替品で生産能力を
維持しようとする建材メーカーなど、各社対応に追われている。
コスト上昇分を製品価格に転嫁せざるを得ず、木造住宅の坪単価への影響は避けられ
ない。
6/3 北国新聞
「限りある資源の保全」を大義名分に、輸出国は原料を素材のまま輸出することを止め、
製品に加工して付加価値を高め、外貨を獲得しようとする。
■5月末、"生きた蟹の輸出を禁止"すると、突然ロシア政府が日本へ通告してきたのも
そう…。
十年ほど前カナダが、水揚げしたタラをそのまま、日本へ洋上で売り渡すことを禁止した
措置と同じ。
"たらこ"に高い付加価値があるからです。
現在、世界で広範囲に漁獲量制限が実施されている。クジラ、ニシン、サケ、エビなどの水産資源が、
危険な水準に落ち込んだというのが、その理由。
巨大な人口を抱える、中国やインドの生活水準が向上していくのに伴い、世界の穀物の需給バランスに"黄色"信号が灯り始めている。
■博多一風堂
先週の金曜日、「博多一風堂ラーメン」で全国展開している、
河原成美社長の講演会があった。
TVチャンピオン・ラーメン職人選手権で三度優勝し、殿堂入りを果し、’05年12月、TBS系ラーメン王座決定戦で、
見事初代麺王に輝いた…すごい社長さんです。
’05年、京都で論語を学んでいた時、河原社長と同席。10月には、受講生の私たちに、2時間講演していただいた 。
その講演の最後に、「12月、テレビで日本一を競います。皆さん是非見ていただき、応援してください」と、
口元をへの字にキリッと結んで言われたのは、昨日のことのよう…。
現在、国内46店すべて直営店。味を守るため、フランチャイズは考えていないとの事。
上海に6店舗展開し、今年の11月、ニューヨークに一号店をオープンする。
まだ、一風堂のラーメンを食べていない方…美味しいですよ!是非食べに行ってください。
◎一風堂金沢香林坊店
石川県金沢市片町1-2-3 TEL:076-263-3331 営業時間 11:00~翌3:00
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 181】
「ヒルトンホテル買収される」
6/27、多くの上場企業で株主総会が開かれた。米系投資ファンドが大株主になっているハウス食品やブルドックソースでは、
買収防衛策の導入が、出席議決権の約80%という、圧倒的株主支持で承認され、事なきを得たとの新聞報道…。
TBSも77%が経営陣に賛成し、楽天は完敗した。
そういった中、7/5読売新聞に『ヒルトンホテル買収』とのビッグニュースが飛び込んできた。
米国の新興投資会社ブラックストーンが、世界の超有名ブランドホテルを、丸ごと買い取ったのです。
買収されたのは、1919年創業の老舗ヒルトンホテル。
世界76ケ国に2800以上のホテルを経営し、従業員数7万人の世界最大級の巨大ホテル企業です。
買収価格は、日本円で約3兆1800億円(1棟当たり11億4千万円で買収したことになる)。
ヒルトン株1株47.5ドルで、すべて現金で買い取った。2日の終値1株33.87ドルを、何と140%
も上回る買収価格を提示したのです。
この破格の提案に、会社も大株主のヒルトン一族も、一斉に株式を手放すことにしたという。
日本を代表する企業に、米系投資ファンドが敵対的買収を仕掛け、市場株価の140%以上を提示してきたら…虎視眈々、
次に狙われる企業はどこだろうか?
ヒルトンを代表する日本のホテルは"ヒルトン東京ベイ"。
ディズニーランドのコンベンションホールでの、全国優績者イベントに参加するたびに宿泊するホテルで、なじみが深い。
他に東京、大阪、名古屋、小樽、成田、小田原にあり、利用された方もあると思います。
今年の秋、メーカーの招待でハワイに行くが、ハワイにあるヒルトンホテルは4ケ所。
いずれも一泊3~4万円の高級ホテル。よく知られるのは、ワイキキの西端に、真っ白な壁でひときわ高くそびえる、"ヒルトン・ハワイアン・ビレッジ"。客室数は602室。
新婚旅行などで、日本人がよく宿泊する。
お勧めは、ハワイ島カイルア・コナの、1,240室の巨大ホテル"ヒルトン・ワイコロア・ビレッジ"。 約25万平方メートルの巨大な敷地に、4,000平方メートルのラグーン(東京ドームの5倍)があり、 14頭のイルカと触れ合うことができる。
敷地内はモノレールやクルーザーで移動し、美しい景色を楽しみながら、総額7億円の古美術を鑑賞。ご家族親子、共に楽しめる、
とっておきのホテルです。
このように紹介すると、数が多いとはいえ、1棟平均11億円は、すごくお買い得に見える。
国内に目を移すと、この4月、全日空は、国内で展開する31ケ所のホテルのうち13ケ所を、約1千億円で売却すると発表した
(1棟平均77億円)。買い主は、英国系ホテルチェーン。
売却対象に、金沢と富山の全日空ホテルが含まれ、東京全日空ホテルや、沖縄の高級ホテル万座ビーチホテルも売却されることになった。
万座ビーチホテルには、20年くらい前、会社の代理店招待会で、泊まるならビーチ付リゾート高級ホテル…と奮発して宿泊した。当時、
憧れの美しくハイセンスなホテルだった。
■「最高に幸福を感じる時は?」
「アメリカで給料を貰い、イギリスの住宅に住み、中国人のコックを雇い、
日本人の女性を妻にすることさ…」
では、最低の生活とは?
「中国で給料を貰い、日本の住宅に住み、イギリス人のコックを雇い、
アメリカ人を妻にすることさ!」
・イタリア人の幸福とは、愛人とパスタを食べながら、サッカーを見ている時。
・イギリス人の幸福とは、うまいブラックジョークが決まった時。
・ドイツ人の幸福とは、計画通りに物事が運べた時。
・スペイン人の幸福とは、美味い物を食べて、のんびり昼寝をしている時。
・日本人の幸福とは、食事もそこそこに、再び仕事に熱中している時。
・ロシア人の幸福とは、踏み込んできたKGBが、人違いに気づいて帰っていった時。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 180】
「危険食品・偽物がまん延する中国」
中国の二輪社メーカーが、"日本ヤマハ"という商号を、我が故郷石川県で登記し、
ヤマハにそっくりのスクーターを、中国で製造して販売していた。
中国の最高裁は、そのメーカーに1億3千万円の損害賠償を命じた。
また、つい最近開催された、中国国際自動車ショーに、マツダ車に瓜二つのデザインの
中国車が展示され、物議をかもした。
中国では商標権にとどまらず、日用品から電化製品、車に至るまで、無数の模造品が
大手を振って出回る。
また、コンピューターソフト、映画、音楽、日本のキャラクターなど、海賊版が氾濫する
「偽モノ天国」である。
6/6の読売新聞一面には、「タクシー券中国で偽造、東京都内に7千枚出回る」と、
大きく報じていた。
以下、6/3北国新聞 稲も薬も酒も偽物だった…という、中国の小話です。
「農民が稲を植えたが芽が出ず、服毒自殺をしたが死ねなかった。
助かったことを喜んだ妻と、祝いの酒を酌み交わしたら、二人とも死んだ」
中国製練り歯磨やペットフードから有毒物質が検出され、せき止めで死者が出て、
購入しないようにと、米国政府が警告を発した。
中国は偽物天国。食品や医薬品の事故は、日常茶飯事である。
●この数年、中国で問題になった危険食品
・プラスチックで光沢をつけた「毒米」 | ・ブタの糞で調味した「豆腐」 |
・下水の油で揚げた「パン」 | ・でんぷんで作った偽「粉ミルク」 |
・髪の毛を混ぜた偽「醤油」 | ・古革靴を煮て作った、偽「牛乳」 |
・ブタの廃棄物で作った「肉まん」 | ・でんぷんや樹脂で作った偽「卵」 |
あまりにも不衛生…やることがおぞましい。
中国旅行の折、下町の朝市に出かけ、何度か食事をしたが、もしかしたら「知らぬが仏」
だったかも…。
更に、読売新聞には…
・低品質のナプキンに、回収したゴミを漂白したものを使用し、使用済みの
生理用ナプキンや、病院が廃棄したガーゼが混じっていた。
色つき紙ナプキンは、漂白剤すら使わず、ゴミを着色してごまかしていた。
大腸菌や結核菌、肝炎ウイルスなど、病原菌が多数検出された。
中国の有力紙「南方週末」
・レストランやゴミ捨て場から回収した"つまようじ"を、水に浸けて汚れを落とし、
包装し直して販売。
この種のようじから、大腸菌・結核菌の他、エイズウイルスまで検出された。
広東省の地元紙
十年くらい前、お得意様を招待して、香港旅行をしたことがある。
旅行代理店の割安パックで行ったのが失敗だった。
同行した妻、その後、海外旅行を企画するたびに、「中国には行きたくない」と言うように
なった。
中国の飲食店で出される、プラスチックの箸やスプーン…繰り返し使うのは当たり前。
食器の洗浄が不十分だったのでしょう。べトついた不衛生な食器や箸が出され、
気持ちが悪くて食べられなかったという。
中国で飲食することの、不潔感が残ってしまったのです。
日本では、居酒屋チェーンのワタミが、中国の割り箸輸出規制に対処して、
全国グループ614店全店で、年間約3400万膳消費していた割り箸を、この7月から廃止することにした。
1200回繰り返し使える、プラスチック製の箸に切り替えることにしたのです。
■誤報
昨年、「アガリクスから癌発症物質発見」と厚生省が発表。
それまで築いてきたお客様との信頼関係が、失われそうになった。
その後、中国から輸入したアガリクスに付着していた農薬が原因であることが判明。
たった一社の不始末が、アガリクス業界全体の信用を失墜させた。
アガリクスが原因と早とちりした厚生省、間違いを謝罪したかどうかは定かではない…叩かれ損である
・問題の商品を販売した、大手ビールメーカーの子会社は…輸入した乾燥アガリクスを、そのまま粉末処理・袋詰めして販売していた。
・当社が扱うアガリクスのメーカーは…
(1)台湾の自社農園で露地栽培され、品質管理されたものを使用
(2)ビタミン剤のように、有効成分のみを抽出・濃縮し、顆粒にして販売
(3)アガリクスの研究開発では日本一。国際学会での評価も高い
わが家の愛犬ヘブン。今年1月すい臓ガンで、医者から余命数週間と言われた。
あれから半年、ガンを抱えながら今も元気なヘブン。
医者が驚き、「何かしているの?」と尋ねた。
「毎日、餌にアガリクスを混ぜて飲ませています」
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 479】
「環境汚染」
5月26~27日にかけて、金沢に黄砂が降った。街並みは霞がかかったよう。
視程は4キロと、快晴時の5分の1ほどに落ち込んだ。
五箇山では、黄砂で雪が赤褐色に染まることを「赤雪」と呼ぶ。飛騨や信州でも同じように言う。
偏西風に乗り、中国から飛来する黄砂は、3~4月が一番多い。
黄砂が降ると、自家用車が薄汚く汚れるので、すぐにわかる。
十年ほど前から黄砂が目立つようになった。問題は、黄砂とともに飛来する汚染物質。
中国の急速な経済発展で飛来する窒素酸化物が、日本各地に光化学スモックを発生させ、酸性雨を降らせる。そして、日本の山が枯れていく。
林野庁の調査では、北アルプスの日本海側斜面の樹木の立ち枯れ面積が、ここにきて急速に増えてきているという。
今年2月、5年ぶりに上海を観光した。
上海市街を遠望しようと、外灘・浦東のシンボル、高さ468メートルのテレビ塔「東方明珠塔」に昇った。
ところが光化学スモックで視界がかすみ、市街を見渡すことができなかった。
5年前には、10キロくらい先まで遠望できたのに…。
この5年の間に、上海は大きく変貌した。
自家用車が市民の足となって街に氾濫する。セダンあり、ワンボックスカーあり。
開発途上国ではごく普通に見られるポンコツ車がいない。
高速道路は片側三車線、ホノルル郊外を走っているような錯覚に陥る。
5年前は、旧型アウディーのポンコツタクシーが街を走る以外、トラックや乗用車がまれに走り過ぎる程度だった上海。
朝、出勤時には、ものすごい自転車の列が道路を埋めつくす…そんな光景を思いだす。
今回、イナゴ大群を思わせるような、自転車の大群は見られなかった。
世界の工場を自負する中国。庶民の生活水準が高まり、自家用車が急速に普及し始めた。
それに伴い、日本に運ばれてくる酸性雨の濃度が、心配になる。
それを示唆するのが、石川県の海岸に打ち上げられるゴミ。
ハングル語で書かれたプラスチックの容器やポリ。
中国・韓国などから流れ着いた不燃ゴミが浜辺を埋め尽くす。
海水浴シーズンを前に、砂浜に隣接する市町は、ゴミ清掃に頭を悩ませる。
環境汚染は、日本一国だけでは解決できなくなってきた…。
■魅力的スポットが次々誕生する東京
東京駅の真ん前に新観光スポットが4月27日に誕生した。新丸の内ビルディングである。
地上38階建てで、地下1階~地上7階は商業ゾーン。商店、飲食店など153店が入る。
東京駅前の新観光スポットとして、人気を集めている。
東京は今再開発ラッシュ。丸の内、銀座、六本木、新宿、青山…。
東京が、国際都市としての地位が低下していくことへの危機感からか、再開発計画が目白押し。
国際会議の開催件数は、1998年は東京が70件で、ソウル48件、北京37件を上回っていた。
ところが2005年には、東京56件、ソウル103件、北京82件と、逆転されている。
政府は01年、都市再生本部を設け、人が集まる魅力的都市作りに乗り出した。
急成長する上海など、国際都市との競争に勝ち抜くため、どうやって人やモノを呼び込むか。
上海などの大規模な都市再開発に対抗して、何を目指し、街並みをどう変えていくのか…。
5/28 読売新聞「街を創る」より
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 177】
「六本木の人気スポット」
連休明け、研修で東京へ出張した。
その折り、東京ミッドタウンを見学した。六本木ヒルズ、国立新美術館に続き、この春完成した東京ミッドタウンは、
六本木三番目の人気スポット。
防衛庁跡地にそびえるミッドタウンは、広大な緑地公園と6つのビルからなり、ショップやオフイス、ホテル、美術館、
高級賃貸住宅など、複合施設が各階を埋める。
総事業費は3700億円。開発の中心となったのは三井不動産。「都市再生の象徴として、東京が輝きを取り戻す起爆剤になれば…」と、
世界のVIP(最重要人物)に選ばれるような街づくりをキャッチフレーズに、建てられた。
施設内の診療所「東京ミッドタウン・メディカルセンター」は、全米医療機関ランキングで、16年連続1位の「ジョンズ・ホプキン」
との提携で生まれた。
米国の本部が年4回医療アドバイス。高度な治療は本部の医師が相談に乗るという。
ミッドタウンに誕生した高級ホテル「ザ・リッツ・カールトン東京」は、TVで紹介され、マスコミで話題になったので、
ご存知のことと思います。
1泊210万円の最高級スイート(約90坪)は、5月は満室、6月も3分の2が予約済みという。
5/28 読売新聞
1泊210万円…私には気の遠くなる金額だ。
今回出張の研修会場で、宿泊も兼ねたホテルオークラ。別館スイートルームは1泊13万円する。どんなに豪華なお部屋でも、
眠ってしまえば皆同じ…もったいない。
ミッドタウンを訪れる人の最大の関心は、レストラン。
おにぎり専門店から、イタリア料理、韓国料理、ベトナム料理、高級ステーキレストランなどの他、24時間営業のスーパーマーケット、
カフェやデリ、フードコートなど、世界の食文化が楽しめる。
2~3階は、個性的デザインのインテリアショップや、ライフスタイルショップが並び、美術館にいるよう…。
店頭は非日常的商品が多く、人通りは多いのに紙袋を下げている人は皆無。
世界のファッションブランドが軒を連ねるお台場とは、まったく違った雰囲気。
気に入った品があったので手に取り、値札を見たら「ウッ!高い」。
六本木にはもう一つ、お勧めのスポットがある。
はとバスのコースにもなったニューハーフのお店で、夜の六本木を楽しむ。
どの店もそれぞれ趣向を凝らして楽しい。
中でも、交差点近くの坂を下った「金魚」がお勧め。
食事をしながら1時間半のショータイム…理屈ぬきに楽しい。
舞台近くの良い席を求めるなら、予約を忘れないこと…。ダンサーの中に女の子も数人混じっているので、男か女か?
当てっこしながら見るのも、また楽しい…。
■石川県は、日本一有感地震の少ない県
石川県がこの4月に発表した、2007年度「石川100の指標」によれば、昨年、有感地震の回数が日本一少ないのが、石川県でした。
過去30年の平均で算出し、全国平均が409回なのに、5分の1の僅か84回。
二位の富山県は99回。
地震の少ない土地柄だと言われてきた。ところが能登に大地震が発生した。
一昨年、政府の地震調査研究推進本部が発表した、全国地震発生確率予測によれば、今後30~50年の間に、
金沢に震度6以上の地震が起きる確率は3~5%。
2004年10月の新潟県中越地震の場合は、その数ヶ月前に確率3%と発表されたばかり。統計上、金沢より発生確率が低かったのです。
神戸・福岡・中越・能登、何れも、地震発生確率が極めて低い所です。
日本中どこにいても、安全な所などないということでしょうか…。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 174】
「増加する北陸の外国人観光客」
4月17日、能登半島地震後初めて、能登空港に台湾からの観光客130人が降り立った。地震の影響で、
海外からの観光客が減少するのではと心配していただけに、嬉しいニュースでした。
一行は、北陸各地を観光して、21日富山空港から帰国した。
台湾の新聞社が、「一生の間に必ず行くべき、世界の観光地28ケ所」を公表した。その中に、日本の京都と立山・
黒部アルペンルートが入っていた。
立山・黒部アルペンルートを訪れる"海外からの観光客"は、平成14年2万人、16年は4万6千人、昨年は9万3千人と、
猛烈な勢いで増加している。
昨年アルペンルートを訪れた観光客は、総数102万3千人。10人に1人は外国人という計算になる。
国別では、台湾からの観光客が8割を占め、韓国からも5年前の10倍の1万4千人が訪れている。訪れた人の評判が、
次の客を呼び込んでいるのです。
今後、台湾だけでなく、韓国、香港からの観光客の増加が期待される。
一方、兼六園や温泉卿を抱え、観光立県を自負する石川県。お隣の富山県に負けじと、あの手この手の誘客策を講じている。
昨年、兼六園を訪れた外国人観光客は、27%増の9万6千人。
能登和倉温泉の加賀屋は7%減って、1万7千人。ほとんどが台湾人客でした。
北日本新聞・北國新聞から
今年は、台湾の航空機会社3社が、55便のチャーター便を予定している。
韓国の航空会社2社と中国の2社も、チャーター便で観光客を送り込んで来る。
石川と富山が、狭い了見で客を奪い合うようなことをせず、北陸三県協力して北陸の魅力をアピールし、いつかは、
外国からの観光客数が京都をしのぐようになれば…なんて思うのです。
東海北陸道の全線開通は目前。東海方面から能登に接続する能越自動車も、この4月、高岡北~氷見間が開通。名古屋・ 東海方面からの観光客の増加が望まれます。が、中国や韓国からの観光客の方が、より期待できるのです。
一方金沢港には、世界最古の現役客船"ドゥロス号"6,800トンがやってくる。
世界50ケ国以上の国、約350名のボランティアスタッフが乗船していて、国際親善と文化交流を目的に、
5月24日から6月5日の間滞在。
様々な交流行事が予定されている。
■クレージーキャッツのヒット曲 「ウンジャラゲ」
♪サラリーマンは ウンジャラゲ お役人は ハンジャラゲ
国会議員は スイスイスイ お百姓さんは モーリモリ
お巡りさんは キンキラキン
大学生は ギンギラギンのギンギラ ギンのギンギラギンのギン
みんなそろって ランラ ランラ ランラン
ウンジャラゲのハンジャラゲ スイスイスイのモーリモリ
キンキラキンの ギンギラギン ランラ ランラ ランで一週間♪
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 172】
「植木等とクレージーキャッツ」
「クレージーキャッツ」は、私が25歳の頃、1960年から70年代の初め(昭和三十年代後半)、
日本が高度成長の時代を迎えた頃に、大活躍したグループです。
「♪スーダラ節」 「♪ドント節」 「♪五万節」 「♪だまって俺について来い」
「♪ゴマスリ行進曲」 「♪ハイ、それまでよ」など、
当時、クレージーキャッツの曲が日本中に流れていて、よく歌われた。
その多くは、青島幸男が作詞している。
昭和の最もよき時代のシンボル、植木等。
俳優でコメディアン・歌手・ギタリストと、何をやっても天才肌…。
その植木等が、美空ひばり、ハナ肇、渥美清、いかりや長助など、昭和を演じた人たちの後を追って、天国に行ってしまった。
葬儀には、クレージーの一員だった谷啓、犬塚弘、桜井センリ、そして植木の付き人だつた、小松正夫が参列している。
4月8日日曜の「波乱万丈」は、植木等を忍ぶ特別追悼番組だった。
父親は住職。後を継ぐため、東京の仏教系大学へ進学。
ところが、趣味がこうじてジャズ演奏者に…。ずばぬけた歌唱力、学生時代陸上競技で鍛えた卓越した運動神経に、リズム感覚。
ジヤズギタリストとしての腕も並み外れていた。
植木等がお寺を継がずに、芸能界入りを決意した時、父親の許しを得ようと考え出した屁理屈…
「坊主は死んだ人間を供養する。芸能人は生きた人間を楽しませる。この俺は、生きた人間のために芸能界に入る」と…
父親は、理屈をこねる息子を激しく一喝した。
当時の映画やヒット曲から、植木等には「無責任男」のイメージが強烈に焼きついている。が、実際の植木等は、
自他共に認める真面目な性格…。
「スーダラ節」の楽譜を渡された時、「こんな曲は歌えない」と悩み、父親に相談した。
僧侶の父は、「人類が生きている限り、この"わかっちゃいるけどやめられない"という生活はなくならない。それを"真理"というんだ。
上出来だ!頑張ってこい」と諭されて、歌う決心がついたという。
「歌えば歌うほど腹が立ってくる」と言いながら、「♪スイスイスーダララッタ、スラスラスイスイスイ…」。
平泳ぎのように手をかき、がに股で陽気に歌う植木等。
当時の人気番組「シャボン玉ホリデー」。
或る時植木は出番を先走り、違うコントに出てしまった。で、「あ、お呼びでない?こりゃまた失礼いたしました!」と言って引っ込んだ…
これがウケた。
その後、カンカン帽にステテコ、ちょび髭、腹巻に下駄という姿が定着した。
「タイムスリップグリコ」より
映画「無責任シリーズ」。
当時流行語にもなった"猛烈社員"さながら、がむしゃらに働いていた私。
組織に縛られず、自由な男を演じる植木等とクレージーキャッツの面々を見て、日頃のストレスを発散するには十分…。
なんとも楽しい映画だった。
植木等は18年11月、我が故郷金沢で、東宝映画「舞妓Haaaan!!」のワンシーンにゲスト出演したのが、
最後の役者仕事となった。
日本がどんどん元気になり、豊かになっていった時代に、老若男女を問わず、すべての国民を虜にした、植木等とクレージーキャッツの面々。
私の中からまた一つ、懐かしい昭和が消えていった…。
■昭和22年頃
終戦直後から、激しいインフレになり、米国政府から派遣されたドッジがインフレ解消策を打ち出す昭和24年まで、物価は高騰を続け、 数百倍になった。
*都の職員給与が3倍に引き上げられ、男子400円、女子300円に
*国鉄東京~大阪間値上げ。三等15円が36円に…都電20銭が40銭に
*映画の入場料3円、電話料一通話10銭が20銭に
*郵便料三倍の15銭に値上げ
*たばこ「ピース10本入り」7円(日曜・祭日のみ発売/一人1コのみ)
昭和20年の財閥解体に続いて、農地解放が実施され、小作人の八割が自作農になった。
当時の農地価格は、全国平均10アール当たり760円だった。
22年4月の総選挙で、社会党が143議席を獲得して第一党に。5月20日、社会党の片山哲が首班となり、内閣を組閣。新憲法のもと、
歴史に残る第一回国会が召集された。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 171】
「わが家のコレクション」
3月中旬、事務所を1階から2階に移転したついでに、自宅の押入れなどに仕舞い込まれていた不用品を処分した。
その時、戸棚の奥に仕舞い込まれていた父親の手文庫を開けた。
中から戦前の10銭札、1円札に、中華民国で発券された壱百円札、拾円札、そして戦後間もなく印刷された新円などが、
大きな牛皮の二つ折り財布の中に仕舞い込まれていた。
昭和21年2月、加速度的に進むインフレを抑制するため、預金封鎖が実施された。
そして、新円への切り替えが行われた。新円への交換引き出しは、1ケ月に所帯主は300円、家族一人当たり100円認められ、
後は引き出すことができず、預金は封鎖された。
興味を引いたのは、昭和15年に発券された、"支那事変"の軍事費調達のための「戦時国債」。
額面300円の債券が、大切そうに手文庫の底に仕舞い込まれていた。利率年3分6里5毛、昭和35年を最終として、
毎年10円95践を20年分割で受け取る内容。
仕舞い込まれていたのは、昭和21年以降、35年までの15年分約164円、敗戦で紙くずになってしまった証書。捨てきれなかった、
当時の父の思いが伝わってくる。
昭和21年11月1日、一日大人一人2合5勺(355グラム)の"お米"の配給が始まった。
国民待望の主食の配給である。
この時、政府配給米の価格は一升5円23践。
ヤミ値は、政府配給米が出たことで、8月一升80円だったのが、50円に下がった。それが翌々年の23年8月には、
一升270円になっていた。
敗戦色濃い19年春頃から食料が欠乏しだし、栄養失調に近い状態が続いた。
当時私は5歳。食卓には、スイトンに芋のツルの佃煮、つくしの酢の物など…。
タンパク質を補うため、四高(第四高等学校・現在の中央公園)グランド前の、用水に沿った石垣のイバラの植え込みから校内忍び込み、
イナゴや銀杏を採ってきて、夕飯の食材にした。
イナゴの佃煮はパリパリと香ばしく、美味しかった。
満州から引き上げてきた叔父家族を含め、わが家は13人。
母親の実家が農家だったことが幸いして、ひもじいながらも、食いつなぐことができた。
米や野菜、芋など、どれだけお世話になったことか…
■欧米と日本では、「名誉」に対する観念が違う
"自殺"を考えても、封建時代の切腹は、武士の名誉を保つための行為だが、キリスト教圏の西欧では、自殺は罪悪とされてきた。
軍隊で重要なのは「規律」。命令への絶対服従が求められる。
軍人の義務は戦争で戦うこと。死を恐れず、義務を全うしなければならない。
これは、日本も欧米も同じ。
米軍には、「戦況が苦しくなれば降伏してもいい」という、暗黙の了解がある。
「死んでも守りきれ」という命令が、上官から下されるかどうかだ…。
日本の場合、戦争に行って国のために命をささげることが、軍人としての名誉であり、欧米との違いはそこにある。
「特攻」や「玉砕」は、日本の軍人に期待される行動の延長線上にあった。
指揮官の命令で軍隊は動く。命令がなければ、玉砕も特攻も生まれなかっただろう。
防衛大学教授 河野 仁著「玉砕の軍隊・生還の軍隊」より
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 167】
「日本が核保有したら…」
北朝鮮の二枚腰の薄氷を踏むような外交戦略。その裏に、辣腕の戦略家がいるような気がする。
「日本はいつ核兵器を開発してもおかしくない」。海外では長年、こうした懸念が根強い。
なぜか。日本は2005年末現在、核兵器の原料となるプルトニウムを43.8トン保有している。
国内に貯蔵している5.9トンだけでも、原子爆弾が700発作れる。
原子力発電の技術水準も、米仏と肩を並べるほど高い。
「核には核で対抗すべきだ」「独立国家が核保有を追求するのは当然だ」
昨年10月、北朝鮮の核実験後、日本で核保有論が頭をもち上げてきた。
最大の利点は、日本が自前で圧倒的な報復能力を持ち、抑止力が高まることだ。
「核保有=大国」として国際社会ににらみをきかせ、外交力が増すだろう。
米国で、「日本が核保有を目指せば、中国は日本を止めるため、北朝鮮に本気で核放棄を迫る」と、論じるコラムニストもいる。
それでは、日本が核を保有することによるデメリットは何でしょうか?
1995年、防衛庁が作成した秘密報告書によれば、「最悪のケース」として…
仮に日本国民が、日米安保条約を破棄し、国際世論を無視して自主防衛を選択したとしたら、どうなるか…
3/21読売新聞「核の脅威」より
■上海でのスナップ写真
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 160】
「4年ぶりに訪れた上海」
先週、傘下の代理店を伴って、4年ぶりの上海観光を楽しんだ。
空港から乗ったリニアモーターカー。最高速度は430キロ、わずか8分の乗車時間だったが、期待したほどスピード感はなかった。
蘇州へ向かう高速道路は片側四車線。車の量も多く、ロサンゼルス郊外を走っているような錯覚に陥る…。朝夕は、出勤・ 帰宅の自家用車の列で延々の渋滞。車窓から見える景色。オレンジ瓦に白い外壁のモダンな二階建住宅が遠望できる。4年前に見た、 みすぼらしく粗末な街並みは、完全に姿を消していた。
北京オリンピックを直前に、景観整備に力を入れているのでしょう。高速道路に沿って巾約100メートル、
古くて見苦しい民家や農家は全て強制立ち退き。その跡地を植林し、公園に整備していた。
何十棟もの高層マンションを一気に建築していた、4年前の建築ラッシュは、もうない。高速道路に沿った民家は、
そういったマンションに移転させられたのでしょう…。
正月に訪れたフイリピン・セブ島は、トヨタやニッサンなどの日本車が8割だった。一方の上海は、
日本車は十台に一台くらいしか見かけなかった。
4年前、公用車やポンコツ中古ワーゲンのタクシーくらいしか走っていなかった上海。朝の出勤時は、
自転車とバイクがイナゴの来襲のように、道路を埋め尽くしていた。
今は、カローラクラスの真新しいセダンやワンボックスカーが縦横に走る。庶民が自家用車を持つ時代になったのです。日本でいえば、
約30年前の昭和60年初頭の頃でしょうか…。
けたたましく警笛を鳴らし、すき間があればどんどん割り込んでくる。車優先の、乗っている私たちが恐怖に駆られる乱暴な運転。
歩行者もまた、信号が赤だろうが、車の間を縫って道路を横断してくる。交わす会話はかん高く、街全体がセカセカと、
ヒステリックに見える。。
バスが観光地に着くや、貧しい身なりの物売りや、空き缶を持った乞食が降り口に群がり寄る。断っても、無視しても、
しつこく食い下がってくる。
4年前に比べ、乞食の数がやたらと多くなったのが気にかかる。
政府が、高速沿いの美化に力を注ぎ、イメージアップに努めても、こう乞食が多くては、中国の恥部は隠しきれないと思う。
人口1800万の大都会。排気ガスが太陽光線をさえぎり、330メートルの東方明真珠塔展望台から見下ろす上海の街はモヤに霞み、
遠望がきかない。代理店の中には、喉の痛みを訴える者も出た。
蘇州で遊覧船に乗ったが、川からドブの臭いが上ってくる。下水整備が不十分なのでしょう。
4年前に比べ、すべての面で庶民の生活レベルが上ってきているのが分る。
当時、街を歩く若い女性は、化粧なし、ヘアーは黒のストレート、ハンドバックを持つ人はなく、ミニスカートにストッキング姿は、
外資系企業に勤める女性くらいだった。
今回訪れて、女性の多くが装い、美しく髪を整え、化粧していたのは、嬉しいかぎりです。
三日目の自由行動のとき、二十歳過ぎの日本語のわかる女性を、日当350元でくどき落し、道案内役と通訳を兼ね、連れ歩いた。
中華料理に飽きた最終日の夜は、観光客がめったに訪れない下町の、しゃぶしゃぶの店で食事をした。近所に目をやると、 太郎という名と、田村という名の大きな日本食のお店があった。店に入ると、従業員が皆日本式におじぎして、「いらっしゃいませ~」と、 お愛想がいい。何れも寿司カウンターがあった。日本食のお店が、上海の下町にも見られるようになったのです。
只、"官営"の観光施設で働く従業員は、お客様に笑顔を振りまくことをしない。何をすれば、お客様に喜んでいただけるか… 分っていないようです。
■世界の核兵器
○核保有国…米国(10,104発)、ロシア(16,000発)、
フランス(350発)、英国(200発)、中国(200発)
○核を保有していると見られている国
イスラエル(60~80発)、インド(50~60発)、パキスタン(40~50発)
○核保有疑惑国…イラン、北朝鮮
○核兵器保有・核開発計画を放棄した国
ブラジル、アルゼンチン、アルジェリア、リビア、イラク、南アフリカ
ウクライナ、カザフスタン、ベラルーシ(ウクライナの隣国)
11/3 読売新聞
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 159】
「有事に、国を守れるか?」
核保有国?となった北朝鮮。外交姿勢は一段と強気。「過去、軍備を怠って滅びた国は多い。が、飢饉で滅びた国はない」と、 胸を張る。
北朝鮮の核実験を受けて、国連の安全保障理事会は、制裁決議を採択した。
北朝鮮の核は、どの国に向けられているのだろうか。
北朝鮮が保有する弾道ミサイルには、射程500キロの「スカットC」1300キロ中距離の「ノドン」、長距離の「テポドン」がある。
昨年7月に発射された、テポドン2号の射程は6千キロはあるとされ、米本土をも脅かしかねない。
中距離ノドンの着弾可能な国は、日本・韓国・中国・ロシア。
中国は同胞、ロシアは北朝鮮寄り、韓国は同一民族で、核攻撃など有り得ないと、友好的方針を堅持。北朝鮮にとって日本は、
拉致問題などでささくれ立った状態の、極めて好ましくない国である。
「アメリカの言いなりで、六カ国協議に参加する資格などない。アメリカに協議の結果を聞くだけで十分」と、反日感情むき出し。
核の照準が日本に向けられていたとしても、不思議ではない。
北朝鮮の核が、日本の安全に"あいくち"を突きつける格好になり、日本政府に衝撃が走った。国民の生存と利益を守るのが政治。 憲法を尊重し、尊守しなければならないのは当然だが、憲法に縛られて、国を滅ぼすようなことがあってはならない。
世界有数の軍事力を有しながら、憲法が足かせになって、日本周辺の安全保障を"自前"で解決できない。日米同盟に頼るしかない。
日本が核の洗礼を受けて、甚大なる被害を受け、何十万人が死んでも、北朝鮮に攻め入って、軍事基地や施設を叩くことが出来ない。
アメリカに頭を下げて、日本を守ってもらうしかないのです。
北朝鮮は日本をなめてかかる。日本に脅しをかけ、侮辱する態度をとっても、攻め込まれる危険がない。これで日本は、
真の独立国と言えるだろうか?
憲法九条で平和、平和と言っているだけでは、国の安全は守れません。
核が打ち込まれた時、日本は何が出来るのだろうか?ひたすら防戦するだけ?
日本に代わってアメリカが北朝鮮を叩く? アメリカの国民が、自国が侵略されてもいないのに、日本の為に自らの命を投げ出し、 戦ってくれるだろうか?
"NO"である。
つい数年前まで、有事の時、自衛隊が前線へ戦車を走らそうとしても、道路交通法に払拭して、走らせることができなかった。
法整備がなされていなかったのです。国会で議論しようにも、野党の猛反対が目に見えていて、放置されていたのです。
日本の石油の90%は、イランやその周辺の中東諸国からの輸入で賄っている。
自衛隊のイラク派遣のような、国際平和への協力も、日本が一国平和主義を貫いて、"不参加"とは言えない国際情勢にあるのです。
今の憲法のままでは、自衛隊を海外に派遣するのも、自国が非常事態に陥った時の対応も、難しいのです。
読売新聞の政治報道を読んで
■フイリピン・セブ島でのスナップ
↑ 斜め前から ↑ 正面から
お魚(イザリウオ)が潜んでいるのが分りますか?
滅多にお目にかかれない、約30センチの大物です。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 156】
「フイリピン・セブ島にて…」
正月休み、フイリピン諸島中央部のレジャースポット、セブ島でバカンスを楽しんだ。出発日の29日、金沢は雪だった。 関空から5時間で、常夏の国セブ国際空港に降り立った。スキューバダイビングのメッカである。
フイリピン第二の都市(人口60万)セブ・マクタン島。私たちのホテルはヒルトンに隣接し、セブでは三本の指に入る、ゴルフ場、 ビーチ、ヨットハバーが付属する「シャングリラ・マクタンLR」。ホテルに着くと、アメリカや日本の観光客でいっぱい。
ホテルで取る朝食・夕食の楽しみは、何と言ってもバイキング。品数は、東京の五つ星ホテルのゆうに3倍はあろうか…。 日本食の種類も多く、寿司コーナー、うどん・ソバコーナー、沢庵・キュウリの漬物など。味噌汁も何種類か用意されていた。
着いたその日から街へ繰り出し、レストランで夕食。タイ料理、韓国料理、イタリア料理など、本場の味が楽しめる。
驚きは日本料理店。みんな思い思いに注文したが、故郷の居酒屋のよう…。最後に注文したカレーウドン、うどんダシの味付けが良く、
大うけだった。毎夕食が楽しみで、グルメツアーのよう…。
31日夜は、ホテルのプールサイド広場で、「カウントダウン・パーティ」。
飲んで・食べて・ディスコを踊って…。11時59分、舞台の上のミュージシャンの掛け声に合わせ、19、18、17…スリー、ツー、
ワン、「ハッピーニューイヤー」。
と同時に、夜空に花火がバンバン上る。アメリカ人は隣の人と抱擁し、新年を祝っていた。
ところで、フイリピンと言えは、古代から伝わる「ヒーリング・マッサージ」が観光の目玉。観光客が集まるところには、
しやれたマッサージ店が人目を引く。
セブ島の住民はほとんどキリスト教徒。フイリピンで、アジア首脳会議が開かれることと、フセイン処刑直後ということで、
警備は厳重を極める。
一般道からホテルへの入り口は、屈強な警備員が犬を従え、ホテルに入る人や車、積荷をチェック。
ミラーで車体の下までくまなくチェックする。
韓国ドラマ「オールイン・運命の愛」の、アメリカン・マフィアの別荘警備シーンのよう…。数百メートル入ったホテルの玄関前は、
手荷物チェックを受ける人の列。
1月2日の夕方は、セブ市最大のショッピンクセンターへ。入り口道路は渋滞、人で溢れかえっている。ショッピングセンター出入り口でも、
手荷物と身体チェックを受けた。
通貨はペソ。400ペソは日本で約千円(1:2.5)。お腹いっぱい飲んで食べて大体550ペソ。日本で3千円はするTシャツが、
500ペソで買える。
デパートや専門店は、品質も良く安心だ。台湾やマレーシアのように、店員の売り込みもなく、買う時の駆け引きも不要だった。
問題はタクシー。相手が日本人と見れば吹っかけてくる。
メーター上では170ペソ程度なのに、一緒に行った若い女性、ホテルに着いたら500ペソ寄こせと、降ろしてくれない。
先に着いた私たちの仲間が交渉して、ねばる運転手を説得。350ペソで何とか話をつけた。理屈が奮っている。帰りは空車になるから、
往復運賃を寄こせと言う。メータの付いていないタクシーには絶対乗らないこと。乗る前に運賃交渉することでしょう。
運転が乱暴なのは東南アジア共通。すき間を見つければ、前の車の左でも、右でも構わずに追い越す。信号は市の中心部にあるだけ。
人よりも車が優先する社会だ。
貧しい人が多く、道路沿いに目をやると、三畳一間くらい、トタンで囲っただけの、豚小屋のような粗末な家が並んで見える。
市営バスは見当たらず、庶民の足は、軽トラックに屋根を乗せた乗り物。
10人くらい乗れる。街を走る車の半分はこの軽トラ。50メートルに一台くらい走っていて、やたらと多い。
一人乗りの自転車輪タクから商売を始めて、お金が貯まると、二人乗りサイドカー付バイクへ。それでしっかり稼いで、
乗り合い軽トラックを手に入れるのが夢という。
いつも思うことだが、東南アジアを観光する日本人の姿を、現地人はどんな目で見つめているのだろうか?
■「月のうさぎ」
「うさぎ うさぎ 何見てはねる…」で始まる、童謡「うさぎ」。
古く、江戸時代から子ども達に歌われ、親しまれてきました。
ある時、キツネと猿とウサギが、神様に食べ物を差し上げることになった。
ところがウサギは、食べ物を見つけることができなかった。
そこでウサギは、「自分を食べてください」と、火の中に身を投げた。
神様はそれを哀れみ、ウサギを月の世界に住まわせたのです…
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 152】
「童謡"しゃぼん玉"に込められた親の愛」
10月の初め、久しぶりに神渡良平先生の講演を聴いた。講演の中に、童謡作家、野口雨情(1882~1945)の逸話が出てくる。 雨情が「しゃぼん玉」 を作詞した時の逸話である。何度聞いても目頭が熱くなる。
なかなか子宝が授からなかった雨情、結婚八年目にようやく女の子を授かった。
目の中に入れても痛くないほど可愛がった。
ところが、二歳のとき伝染病にかかり、雨情の必死の祈りも虚しく、死んでしまった。
雨情は、悲しみを忘れようと、浴びるように酒を飲んだが、忘れることが出来なかった。ある日、娘が夢の中に現れた。泣いていた。
涙に濡れた顔を見たときハッと我に返り、目が覚めた。
「このままでは天国にいる娘に会わせる顔がない。
お前の分まで一生懸命生きよう…」
それが雨情の転機となり、「七つの子」「青い目の人形」「十五夜お月さん」など、後世に残る童謡を書き残した。「しゃぼん玉」は、
亡くなった娘さんへの思いを歌に込めて、作詞したものです。
「しゃぼん玉飛んだ 屋根まで飛んだ 屋根まで飛んで こわれて消えた
しゃぼん玉消えた 飛ばずに消えた 生まれてすぐに こわれて消えた
風 風 吹くな しゃぼん玉飛ばそ 」
私はこの歌を、ごく平凡なしゃぼん玉を飛ばしている情景だと思っていた。
が、そうではなかった。亡くなった我が子への、父の思いを歌にしたものだったのです。
致知出版 神渡良平著「下座に生きる」から
1920年に発表され、当時の人々を大感激させた童謡「十五夜お月さん」
も、野口雨情の実体験を童謡に、作詞したものです。
野口家は、水戸藩ご用達の豪農だったが、雨情の時代になって家勢が傾き、一家は離散してしまった。その悲しみを歌にしたのが
「十五夜お月さん」です。
「十五夜お月さん ごきげんさん ばあやは おいとまとりました
十五夜お月さん 妹は いなかへ もらわれてゆきました
十五夜お月さん 母さんにもいちど わたしは逢いたいな 」
お母さんが亡くなってしまったので、小さい妹は、遠い田舎へ貰われて行った。
婆やも、お暇をとって国へ帰ってしまった。雨情一人、後に残された寂しさを、十五夜お月さんに訴えたのです。
雨情の悲しみは、メロディーの美しさと重なって、世の親たちの心を打った…。
そして今も、心に残る名曲として、歌い継がれているのです。
日本人は、こよなく「花鳥風月」を愛する。とりわけ、春の花見と秋の月見には深い思い入れがある。童話「かぐや姫」や「うさぎ」
に代表されるように、"お月さん"は、日本人の心の拠りどころなのです。
※神渡良平
S23年生まれ。作家。若くして脳梗塞に倒れ、半身不随の危機を乗り越えて、
「人はそれぞれなすべき使命がある」という人生観で、作家に転進。
著書に「安岡正篤の世界」「中村天風の世界」「一隅を照らす人生」など多数…
■ダム建設で発展したラスベガス
-PARIS- |
ロサンゼルスから飛行機でロッキー山脈を越えると、そこはネバタ州。
ラスべガスに向かう飛行機の窓から見える景色は、一面の砂漠。
水も電気もない砂漠のド真ん中に、突然光り輝くラスベガスの街が現れてくる。
街路は植樹・植栽で青々とし、ホテルの周りも、東京の公園と見まがうくらい、
様々な植物が生い茂っている。
よほど大きなオアシスがあるかと思いきや、年間に降る雨の量はわずか300ミリ。
植栽に沿って塩ビ管が敷かれ、朝夕時間になると、自動散水する仕組み。
なるほど、これなら植物が育つ…。
1935年、大恐慌を乗り切りる景気策の一環として、フーバーダムが完成。
そこから50キロ離れた町ラスベガスに、水と電気を供給。
1941年に、ストリップ通り初のホテル"スワン"が誕生。以来65年、次々と個性溢れるホテルが建ち、
現在人口150万人、年間3千万人の観光客が訪れる大都会に発展した。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 149】
「成長発展し続けるラスベガス」
10日から一週間、ノエビアの招待で、ロサンゼルスとラスベガスを観光した。
ラスベガスは今回で三回目。
数々のアトラクションやショー、ダイニング・スポットにショッピングモール、そしてカジノ。
24時間眠らない街… 私達を眠らせない街。
メインストリートは、パリス、ベネチアン、ベラッジオ、MGMなど、お馴染みのホテルはどこも人でごった返している。 そのストリップ通りに、更に6000室はあろうかという、超巨大ホテルが4つも5つも建築中…。
3年前に訪れた時、超人気"海賊船ショー"の、トレジャー・アイランドホテルがMGMに売却された。
私たちが夫婦で訪れたその日、 ショーの最終日で、見ることが出来なかった。
売却の理由は、より巨大で集客力・競争力のあるホテルを建築するためという。既存のホテルをリニューアルするより、 人気度が高い間に、ライバル企業にアトラクション付きで、高値で売却した方が賢い…。
今回は時間がなく、数箇所ある新しいホテルの見学はしなかった。
また、今流行りのアウトレッドは、ストリップ通りを南へタクシーで15分くらいの所にある。
今回、より斬新なアウトレッドが、 ストリップ通り反対の北側260メートルの展望台があるストラストフィアの外れに完成。
早速、昼食とショッピングを楽しんだ。
8年前、当時まだ目新しかったアウトレッド。わざわざ見学に出かけたものです。
端から端まで歩けないほど長く大きな建物だつたが、 今はどうなっているだろうか。
ふと、3~4年前に学んだ、イトウヨーカ堂鈴木会長の言葉を思い出す…。
「過去の経験を破壊せよ! 昨日の続きを断て!
土台から、基本から会社を造り直せ!新しい創業をせよ!」
今はまさに戦国の世。激動の時代、不安定な時代。強いものは益々強くなり、弱いものを駆逐していく。
過去の延長は全くありえない。 現状を維持し、守ろうとすれば、たちまち時代に取り残され、生き残っていけなくなる。
過去原爆実験が繰り返された、ネバタ州の砂漠の真ん中のアミューズメントシティ。
空港の乗降客数は全米3位と言うから、すごい!
世界中から人が集まってくる、金のなる街。生存競争は、私たちの想像を超える熾烈さ…。
ところでお勧めは、今年6月ミラージュホテルに常設オープンした"ショー"。
円形劇場の真ん中、20メートルの天井から垂れ下がった4本のロープをメインに、
60名が繰り広げるアクロバッティックな演技。 命綱や落下防止ネットなどはない。
ビートルズの曲目を主体に、ベラッジオの「オー」に似た演出で1時間半。
時間の経つのを忘れ、ラスベガスの夜を堪能した。
わが家のビーグル犬"ヘブン"。娘がアメリカに留学していた時、アパートで飼っ
ていて、大家さんに見つかり、処置に困って、はるばる日本に送られてきた。
小松空港へ引き取りに行った。
狭い犬小屋に2週間も閉じ込められ、げっそり痩せて、オシッコまみれ。
私達が覗き込むと、尻尾を千切れんばかりに振って、擦り寄ってきた。
昨日まで犬が怖くて、傍へ寄ることも出来なかった妻。
あまりの可愛さに膝に乗せると、喜びで全身を震わせ、ペロペロ顔中なめ回した。
あれから12年、人間なら75歳のお婆さんになった。最近急に足が弱くなり、
階段の上がり降りを嫌がる。毎朝の散歩も行きたがらなくなった。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 145】
「愛するヘブンと家族旅行」
先週の連休、可愛い"ヘブン"を連れて、思い出作りの一泊旅行 に出かけた。来年連れて出るのはもう無理だろう…。
愛犬を伴っての旅行は、今回で四回目。着いた所は、愛犬と共に泊まれるお宿、妙高赤倉高原 プチホテル「dogs.inn」。
ペンションを経営しているご夫婦 は、大の犬好き。寝室も食堂も、<館内すべて愛犬同伴OK 他所にはない、愛犬がくつろげる、 レンガ貼りリビングルームもあって、嬉しい。
一歩外へ出れば、高原の涼やかな風が頬を伝う。"ヘブン"は嬉しくて、白樺の
散歩道を、ぐいぐい手綱を引っ張り、嗅ぎ回る。
旅の最大の楽しみは、何といってもホテルの食事。「dogs.inn」の自慢は、
オリジナルのイタリアン料理。
私達夫婦は、家族旅行の前日、友人の税理士事務所の記念パーティに招待され
た。そこで頂いたフランス料理は、金沢ではトップクラス。
だが、このペンションで出される料理の美味しさには、勝てないと思う…。
では、美味しかった「dogs.inn」の夕食メニューを思い出し、書き出してみます。
前菜は、「戻りカツオの刺身と柿のもとのサラダ」
次いで「秋ナスとお豆腐のグラタン」、「若鶏と栗のスープ」へと続く。
メインは、「虹マスのアカアパッツァ」と「津南町の豚肉のサルラィンボッカ」
デザートは「栗のパウンドケーキ」、そしてコーヒーor紅茶。
地元の季節感あふれる食材を上手に取り込み、白ワインが美味しさを引き立て
る。一皿一皿、出される料理を味わうごとに、美味しさが喜びになり、幸せな
気分に浸る。
更に感激したのは、翌朝の朝食。私達を精一杯もてなそうとする、ペンション
ご夫妻の想いが伝わってくる。
テーブルの土鍋の蓋を取ると、郷土料理「ソバ粥」。フツフツとソバの香りが
漂ってくる。茶碗によそい、塩味の効いた野沢菜や、鮭の塩焼きと一緒に戴い
たが、とっても美味しかった。
郷土料理の「くるま麩の卵あえ」や、「柿の千切りあえ物」も、初めて口にする
料理。美味しかった。宿の朝食は、これに味噌汁、温泉卵、海苔があれば十分
なのに、感動したのはここから…。
これも郷土料理でしょう、「里芋の団子汁」が出てきた。けんちん汁に里芋を
擂って、団子に丸め煮込んだもの…。いや~満足、満足、美味しかった…。
これで終わりと思ったら、柔らかくじっくり煮込んだ、四センチ角のボリューム
ある豚肉の塊が二個出てきた。噛まなくても、口の中で肉汁が柔らかくとろけ
る。沖縄の豚の角煮を西欧風味にしたような、さっぱりとしていて、美味しか
った。デザートはリンゴ、絞り立ての牛乳、コーヒーor紅茶。
こんなに豪華で美味しい朝食は初めて…朝食から、お腹のベルトを緩めること
になろうとは…。夕食の時も、朝食の時も、ご主人が一品運んで来るたびに、
私達のテーブルの前で、料理と食材を丁寧に説明してくれた…。
このプチホテル、定員は六部屋。夫婦二人が心からもてなすには、ここが限界
かも…。玄関前まで、ご夫妻が見送りに出た。素敵なプチホテルに泊まれたこ
とに感謝…「来年又来ます」と約束し、車を出した。
◆ある零細企業の挑戦
河内長野は爪楊枝の国内生産地。
ところが安い中国産に押されて
産地は壊滅。強い相手と同じ土俵で戦っていては勝ち目はない。
将来が見えないまま、ほとんどが廃業してしまった。
そんな中、しぶとく生き残っている工場がある。
自分たちの会社には、長年培った"技術"があるじゃないか…。
生き残る道はないかと、必死に考えた。
「新しい市場」を求め、「新しい商品」を模索する苦闘の日々…。
ついに、歯の治療が目的の「高級三角楊枝」を発案。
商品化に成功した。歯科医業界は新しい市場、競争相手がいない。
そこに自社の新しい商品を売り込んだ。
新商品の楊枝は一本2円20銭、中国産爪楊枝は20銭。
11本分に相当する。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 143】
「昔は皆、自前の"はし箱"を持っていた」
今年の春、小池環境相は、昨年のクールビズ成功?に気をよくして、
"風呂敷"の利便性を国民に提唱した。
ジャスコでは、レジ袋に詰め替えずに、自前の「マイバスケット」の普及を
呼びかけている。近所の生協でも、レジの袋を使わずに「マイバック」の持参を
促すようになり、私も車にマイバックを常備している。
マスコミの報道でご存知でしょうが、コンビニ弁当についている割りばしが、
有料になるかもしれない…。日本の割りばしの消費量は、年間二百五十億本。
90%が中国からの輸入。その中国製割りばしの値上げが原因という。
理由は「原木の高騰」。昨年中国は、50%の値上げを一方的に通告してきた。
更に追い討ちをかけるように、中国政府は今年の3月、「森林保護・環境保護」
を理由に生産を制限し、何れ輸出そのものを禁止すると言ってきた。
中国には、割りばしを使う習慣がない。「人件費が安いから」と、目先の単純な
動機で、中国に製造機械を持ち込み、ノウハウを教えた日本の産地企業。
技術ノウハウを、そっくり中国に持っていかれてしまった。
国内の割りばしの生産地は、奈良と北海道。高級品主体の奈良は、今も命脈を
保っている。が、中国産と競合した北海道は、競争に勝てず、85年当時約70社、
1900人就業していた生産地が、04年現在8社40人にまで激減、壊滅してし
まった。
外食業界は、今後の対応を模索している…。
全国に760店舗の居酒屋を展開し、年間1500万本消費する"海鮮マルシェ"
は、対応策として、全店2月からプラスチック箸に切り替えた。
発想は良かったが、箸を洗うコストや、箸袋に詰める手間が余分にかかる…。
そこで「自前の箸の持参」をお客様に呼びかけ、「マイ箸割引サービス」を始めた。
箸を持参したお客様に50円のポイントを差し上げ、10ポイント貯まったら、
500円分の飲食をサービスする。
更に、お客様から頂いた50円を、自然環境保護団体に寄付することにした。
この会社では、お客様だけでなく、社員さんも自分の箸を持ち込むよう徹底…。
携帯ストラップのように、社員が思い思いに、一言自慢したくなる、
意味ありの箸を持参するようになった。環境保護への意識も高まってきた。
マルシェは、"マイ箸"へこだわる社員を見て、「これはビジネスになる!」と、
「お箸の専門店」を計画しているという。
割りばし同様、産地衰退の道をたどったのが「爪楊枝業界」。
生産地は大阪河内長野。つい最近まで、日本のシェアーの70%を押さえてい
た。割りばし同様、中国に機械を持ち込んで技術を教えたのは、河内で一番の
製造業者。
同業者の反対に合い、組合を脱退してまで、中国に工場を作った。
ところが三年もせずして真似され、生産地、河内長野は壊滅。残っている
工場はわずか数軒。
今は忘れているが、昔は皆"自前の箸箱"を持っていた。
会社や学校では、自前の箸で食事をした。
そこで、外へ食事に出かける時、自前の箸を持ち歩いてはどうだろう…。
食品スーパへ「マイバック」を持参するように、そんなささやかな行為も、
みんなでやれば、温暖化防止と、資源保護の一助になる…。
少し前の号で、中国や韓国には、庶民の暮らしに密着した"お祭り"がないという
話をした。日本にお祭りがなかったとしたら、どんなにつまらないだろう。
昭和39年、19歳の時、津幡の河合谷の夏祭りに招かれ、ご馳走になったことが
ある。普段は質素な山村。お祭り当日、数日前から準備したご馳走が、テーブル
いっぱい並べられた。会社の同僚に招かれた私、大いに飲み、お腹いっぱい
ご馳走になった。
河合谷の三ッの村が、三年に一度持ち回りで、隣村の人達をご馳走するのが
習わし。知らない人であれ誰であれ、座敷に上った人は、飲み食いすべて無礼講
…。
正月、尾山(金沢)へ出かけ、初売りと映画を見るのが楽しみな、娯楽の少なかっ
た時代…。河合谷の夏祭りは、正月以上に心待ちの行事だったのです。
私の家にも、少し似た風習があった。春と秋のお祭りには、母親が腕に依りをか
けた赤飯やご馳走を、お重に詰めて親戚に配った。普段の食事は質素なだけに、
親戚のお祭りで、わが家に届けられるご馳走。家族みんなの楽しみだった。
今は、食べたいものを、食べたい時に、好きなだけ食べられる、飽食の時代。
いつの頃からか、こうした親戚づきあいをやらなくなった。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 141】 今年3月から4月にかけて、金沢に黄砂が降り、車が薄汚く汚れることが、
中国の温家宝首相が六月中旬、アフリカ七カ国を歴訪した。一月には外相が、 ブラジルの農家に中国のブローカーが大挙入り込み、好条件の長期契約で、 上海の「エース鞄」の工場を見学した時聞いた工場長の悩みは、突然の停電。
|
■衣装に見る、西洋と東洋の美意識の違い
(パキスタンの婚礼服) |
母親が嫁ぐ娘のために刺繍を施し、 レースをあしらった手の込んだ 衣装は、世界共通。 娘の幸せを願う母の気持ちは いずこも同じです。
そんな中、和服だけが、どこの国にもない独自の衣装文化をかもし出し、際立って美しい。
古代ギリシャの男性裸体像や、女性の裸体を描いた中世の名画のように、
「美しいものは見せればいい」というのが西洋の美意識。文化の違いが女性の着姿
に現れる。胸元を露出し、肢体のふくらみを美しく見せようとする、西洋のドレス。
反対に、中近東やアジアの美意識は、美しいもの、大事なものは、奥ゆかしく覆い
隠し、目立たなくする。女性の色香を、着る物の中に包み込む…。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 139】
「ホールインワンの確率」
8月25日、プロゴルファー宮里三兄弟の次男"宮里優作"が、米男子PGA
ツアーで、何とワンラウンドに二回もホールインワンするという、米ツアー
初めての快挙をなしとげ、話題になった。
ゴルファーなら、誰もがあこがれるホールインワン。保険会社の調べでは、
約1000ラウンドに一回の確率だという。1ラウンドにショートホールが4つ
あるので、入る確率は4000回に1回ということになる。
私のように、平均月二回のプレーヤーは、ゴルフが出来ない冬場を除いて、
1年間のラウンド数は約20回。すると50年に一回、一生かけて一度あるか
ないかの確率になる。数字だけ見れば、宝くじに当たるようなもの…。
ホールインワンで記憶に残っているのは、滋賀県の竜王カントリーで、メーカー
主催のコンペがあったときのこと…。参加者は60人くらい。
その中に、180くらいのスコアを出して、ブービー賞を取った若い女性がいた。
その女性、ショートホールで、右に大きくはずれたボールが土手に当たって、
グリーンにこぼれ落ち、コロコロ転がってカップインして、ホールインワン!
\(^O^)/
一生に一度あるかないかの確率といっても、このように、ゴルフを始めて間もなく、
運良くやってしまう人もいれば、ゴルフ漬の毎日でも、ゼロという人もいっぱいいる。
やろうと思って出来るものではない。拍手を打って、神様にお願いするか、
あるいは、一所懸命練習して、ニヤピン率を高めるしかない。
万一に備えて、ホールインワン保険に加入する人は、東京海上一社だけで約
200万人。同社で、昨年ホールインワンして、保険請求した人は約3600人、
わずかに0.18%。この数字からも、たやすく達成できないことが分る。
ホールインワン2回達成となると、更に確率は下がる。週1ゴルフアーなら
年間50回・20年間プレーした人で、250人に一人という極めて少ない確率。
ところがプロはすごい。米女子ツアー若手のホープ"ミッシェル・ウイー"は、
12歳のときに最初のホールインワンを出し、既に6回、一年に一回の驚異
的ペースで、将来、過去の最多記録を更新するのではと、期待されている。
世界最年少達成は、英国の5歳の坊やで、ギネスブックに載っている。
タイガー・ウッズは、6歳の時が最初というから、やはり只者ではない。
ものすごいのは、2002年、米国コロラド州の高地(空気が薄く、よく飛ぶ)、
「517ヤード・パー5」のロングホールで、ホールインワンが出たという記録がある。
ちなみに、今の私のレベルでは「イーグル」は難しい。でも、ワンラウンドで
14回チャンスがある。ホールインワンのチャンスは4回だから、確率で見れば
3.5倍になる。これは、プロの大会では実証済み。ホールインワンはたまにしか
出ないが、イーグルの出ない大会はない…。
聞いた話では、ホールインワンで記念品を配る慣習は、日本だけだそうで、
他国では余り例がないという。一緒にラウンドした仲間に、酒を一杯振舞う
のがせいぜいだという。
これは、個人より集団に重きを置き、人間関係と和を大切にする、農耕民族
日本人ならではの気配りでしょう…
上海に旅行した時必ず訪れる「東方明珠塔」。新租界のシンボル、高さ468
メートルのタワーです。アジアでは最も高く、世界で3番目だと、上海の人は
誇らしげに言う。何でも一番でなければ気が済まない中国人。
採算性は二の次。根底に中華思想があり、他所には負けたくないという強い
意識が働く。
日本人も"世界一"がお好きなようです。東京の浅草に「新東京タワー」が
建設されることになった。高さは世界一の610メートル。完成は2011年。
地上デジタル放送開始に合わせ、新しいテレビ塔が必要なのです。
ところで、世界一高いビルは台湾の「台北101」。508メートルある。
ご存知、エンパイアステートビルは381メートル。最上階に昇った時、
眼下のニューヨークの夜景が、時折雲にさえぎられて見え隠れ…。
さすがエンパイアと、感嘆したものです…。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 134】 7月23日読売新聞一面、「中国、相次ぐ巨額修正、疑わしい経済統計」と題し、 中国政府の発表を見る限り、中国経済が順調に成長発展しているのは確かな 日本の政財界の中国礼賛姿勢…、ここへ来て変わりつつある。自国の利益の 現在の中国は、大量の国債発行でもって、経済危機を乗り切ろうとしている。 経営が破たんしても、借りた金を返す気などさらさらないのが、中国の企業。 社会主義の計画経済は、「ノルマが達成できたかどうかをチェックし、評価す 上海の大開発ラッシュ。机上の建設計画に従い、次から次へとビルを建築。 だから、高層ビルディングのオフィスは、入居率30%という惨状…。 |
●言葉遊び、同じ文句を並べた「畳語人生訓」です。
「まことに日に新たに 日々に新たに 日に又新たなり」
古代中国、殷
(イン)の湯王の盤の銘にあった言葉です。
毎日自分の垢(あか)を落として、日に日に新たになることを言います。
"座右の銘"には、大変よい言葉です。
「楽が邪魔して楽にならず、
楽せぬ楽が はるか楽々」
三百年の間、営々と受け継がれてきた
「富山の配置薬」。
この言葉を商いの基本にして、現代にまで受け継がれてきた。
今を懸命に努力している者は、今が苦しい。
それでも、あきらめずに頑張り通せば、何れ必ず"楽"がやってくる。
今に、今にと、今の努力を怠るものは、いつまでも、いつまでも苦しみが
追いかけてくる。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 132】 月曜の早朝、ワールドカップ最終戦を見た。PK戦の末、イタリアが念願の
念願が叶い、四度目の優勝を勝ち取ったイタリアチーム。選手のほぼ全員自陣 |
■長江・三峡ダム
中国二大河川の一つ、長江の中流域に世界最大の貯水ダムが完成した。
長江から上流の重慶にかけて建設され、そのスケールは、日本人の想像を遥か
に超える。
えん堤の長さは2309メートル、高さ185メートル。ダムのある湖北省から上流の
重慶まで、660キロが水没(直線距離で、金沢~福岡市が657キロ)。
水没面積は、日本の四国に匹敵する。流域の住民110万人が強制移転させられ
た。
貯水量は、日本にあるダムの貯水総量のおよそ二倍。名勝旧跡も数多く水没し、
流域の工場からの未処理汚水の大量流入で、長江の水質悪化と、生態系への悪
影響が懸念されている。
最初に構想したのは孫文とされるが、建設反対の声が強く、計画は進展しなかっ
た。天安門事件で反対派が抑制され、建設賛成派が勢いづく。全会一致が基本の
"全人代"で採択されたが、棄権と反対が計30%出たのは異例のこと。 様々な
問題を残したまま、着工が強行された。
1993年着工。今年の春、15年に及ぶプロシェクトが終了した。
発電能力は1.820万キロワット。中国の電力需要の10%がまかなえる。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 131】 以下、PHP研究所 拓殖久慶著「中国の本当の危なさを知らない日本人」から 共産国中国は、国策的に食費が安い。ビールを二本飲み、二人で料理三皿と 中国の現状を航空機に例えるなら、旧式のボーイング機に、最新高性能エンジ 経済を最優先した結果、上海・広州・大連といった都市には、年収十億元以上稼 しかもそれだけではない。海外でのショッピング金額が、一人当たり千ドルに達っ 私(吉村)が上海を訪れたとき、高速道路の彼方に、クレーンが林立し、工事中 都市開発は、農民たちの犠牲の上に成り立っている。工業団地が造成され、 貧しい農民から土地を奪い、そこへ外国企業や地元有力者に密着した企業を 中国の繁栄は、こうした農民たちの犠牲の上に成り立つ、砂上の楼閣のような 北京オリンピツクが一段落して、経済が停滞すれば、矛盾山積の中国社会。 |
先週の木曜日、金沢音楽堂で、チャイコフスキー未完成交響曲「ジーズニ」を
鑑賞した。チャイコフスキーが亡くなる一年前(1892)、交響曲5番と6番「悲愴」
の間に作曲されたが、未完成のまま埋もれていた作品です。
ロシアのチャイコフスキー記念財団が補筆して、日の目をみた。
"日本ではまだ誰も聴いたことのない作品"と聞けば、是非にとも思う…
ロシア交響楽団と共に来日した"西本智実"指揮による、日本初公演ツアー。
何と、ラッキーなことに、東京公演に先がけて、金沢で聴くことができたのです。
「ジニーズ」とは"人生・生涯"のこと。運命・夢・混沌・苦悩など、あやなす人生を
重奏な交響曲の楽章にのせて、ロシアの一流オーケストラが、聴衆を魅了する。
期待にたがわず、あっという間の1時間でした。
*西本智実 (宝塚の男役にぴったりの、美しく魅力的な女性指揮者)
チャイコフスキー記念財団・ロシア交響楽団の芸術監督及び、主席指揮者。
ロシアを代表する指揮者で、日本にも多くのフアンがいる。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 127】 一昨日6月7日は「計量記念日」でした。そこで今日は、ほとんど忘れ去られた 私の身長"五尺七寸"と言うと、今の若い人は「?」でしょう。 ■子どもの頃、肥満の子がいたら「わ~い、わ~い、百貫デブ」と、囃し立てた ■子どもの頃、初めてフナ釣をした時、最初に釣れたのが"尺鮒"だった。 私たちの日常生活で、「尺貫法」は今も生きている。 大工が家を建てるとき、今も昔ながらの「曲尺(カネジャク)」が使われる。 そうした建設業界の慣習に逆らったのが、以前私が勤めていた積水ハウス。 床に敷くコンパネや、壁に貼るベニヤは「3×6(サブロク)版 91×182セン 「尺」には幾つか種類があって、それぞれ長さが違う。中でも、着物を仕立てる ■子供の頃、冬になると、大人も子どもも皆、"足袋"を履いた。 ■面 積 |
4~5年前、東洋一の近代都市上海を旅行して、林立する超高層ビルを、田舎者
のように仰ぎ見たのを思いだす…。が、夜の上海は真っ暗。百万ドルの夜景の
香港とは大違い。ネオンも街灯も無く、車のヘッドライトの列も見えず、観光客で
にぎわう旧租界と新租界の一角のみ、照明で照らし出され、まばゆく輝いている。
その極端な落差が印象に残る…!
上海伊勢丹に並べられた商品は日本と同じ。上海の男性の平均月収は、当時
1万3千円くらい。とても庶民の手には入らない。
上海の人口は1750万人(東京1260万人)。「市民の2%、約35万人の裕福な
お客さまに来ていただければ、それでいいのです…」とは、支配人の弁。
日用雑貨の国際見本市を見学した。あらゆる商品が並べられ、東京の見本市と
遜色はない。ところが、街に目を向けると、お化粧をしたオシャレな女性は皆無。
日本でいえば、昭和30年代に近い…。町並みや庶民の暮らし、この4~5年で
どのように変わっただろうか? 現在の上海を見てみたいものだ。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 123】 友人のM社長が、北陸大学「孔子学院」の開校に参列した。その記念講演で、 そこで、中国には中国なりの国内事情があることを、題材にしたいと思う。 「庶民は共産党を憎んでいる。心底憎んでいる。共産党以外の政党が許された 特権とは無縁の、ヒラ党員の知人と政治談議すると、よくこんな話になる。 「中国脅威論」が国際的に取りざたされるようになって久しい。 しかし、15億中国の真の「脅威」は、党の威信が地に落ちるなか…、 体制のほころびは、既に幾多の悲惨な現実となって露呈している。 社会矛盾に対する国民の不満は、常にはけ口を求め、暴発を繰り返す。 2001年、IOCの投票で決定したのだが、中国が抱える「人権問題」や、国民 |
石川県は、台湾のエバー航空に「小松-台湾」チャーター便増発を働きかけてい
る。今年、エバー航空がボーイング(216人)から、エアバス(253人)に変更する
に伴い、滑走路が二千メートルの富山空港への乗り入れが出来なくなる。
そこで、新たなチャーター便の就航先として、2,700メートルの滑走路を持ち、
大型機への対応が可能な、小松空港に着目。エバー航空は昨年、富山空港で
78便就航した実績があり(小松はわずか5便)、富山県は危機感を強めている。
04’の石川県の外国人宿泊数は、前年比6割増の7万8千人。うち台湾からが、
前年1万6千人から二倍の3万3千人と、全体の43%を占める。台湾人に最も
人気のある「雪・花・温泉」。
外国人観光客誘致に力を入れる石川・富山の両県、互いに譲れないところです。
3/8 北国新聞
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 120】 昨年秋、五輪誘致に敗れたパリ市民は、「ロンドンだけには負けたくなかった」 近年、韓国や中国は日本に、政治・経済・スポーツ、すべての面で、露骨なまで 身近には、富山県が石川県を、富山市が金沢市をライバル視するのは、今に 富山県は今年度、企業誘致の助成金を最大30億円から、50億円に引き上げ 一方、町村合併で見せた富山市の、金沢市に対するライバル意識もすさまじ 週に2便就航していた小松ー上海便も、富山に負けじと、火曜に一便増便した。 中国からの観光客が期待できない中、北陸という狭い地域での顧客の奪い合 しかも、富山空港週3便のうち2便は、先に運行している小松と同じ、木曜と |
毎朝犬を散歩させる公園の桜。つぼみが大きく膨らみ、春のおとづれを告げる。
そこへ思わぬ寒波…明日から4月というのに、雪が降った。
翌日の土・日、4月1日、スキー同好会の皆さんと六人で、志賀高原に遠征した。
新雪で真っ白に輝く2千メートル高原ゲレンデ。真っ青に晴れ上がった空。最高のスキー日和になった。まばゆい太陽をたっぷり浴びて、
ゲレンデを滑降。二日間、たっぷり春スキーを楽しみ、青春(※)を謳歌した。
夜は、渋温泉の外湯巡り。
露天風呂につかり、雪景色を眺めながら、ビールで喉をうるおした。
そのひと時がたまらなく幸せ! 今年は雪が多く、大いに楽しめた。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 119】 今から五十年前、金沢の郊外金石海岸の砂浜は、今の二倍近く広かった。 当時、この砂浜で毎年、全国高等学校相撲大会が開かれた。 あの美しい千里浜ドライブウェイも、今は海岸が侵食され、消滅寸前…。 メディア論の学者、マーシャル・マクルーハンが、好んで語った言葉…。 このまま温暖化が進めば、地球環境はどんどん悪化し、破壊されていくだろう。 数年前から、古都ベネチュアが、高潮の被害に悩まされるようになった。 温暖化が進めば、2100年には水面が88センチ上昇し、日本では500万人 昨年、中米やヨーロッパで、記録的な干ばつに見舞われた。世界至る所で乾燥 スペインも、昨年145年ぶりの大干ばつに見舞われ、雨は平年の半分しか降 穀物生産の将来予測では、ロシアやカナダは増える。アフリカ南部、アメリカ、 日本の稲作。シュミレーションでは、北海道は13%増収となる。関西以西は、 |
■正月、紀伊大島にて…
元旦、朝七時と十時2本潜り、 お雑煮で新年を祝った後、もう1本潜った |
海中でバーディを組んだ仲間 |
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 117】 2/28中日新聞。沖縄・石垣島にある日本最大規模のサンゴ礁が、海水温の 紀伊半島の南端、和歌山県串本沖。「この一帯はもう半分以上やられた」と、 この紀伊の海に"オニヒトデ"が大量発生したのは、一昨年から…。 紀伊沖の海水温は、冬になると15度以下に下がり、オニヒトデは死滅して、 気象庁によると、20世紀百年で0.8度、平均気温が上がったという。 この後100年で、日本の平均気温が更に2~3度上昇するという…。温暖化
3/8 中日新聞
56豪雪の頃の北陸は、毎年大雪に悩まされた。今年は新潟・中越が、測候所 |
小池百合子環境相は、昨年夏の「クールビズ」に続いて、冬場の省エネ、
「ウォームビズ運動」
を推奨している。「室温20度で快適生活」をうたい、
ニット製品の重ね着や、保温性の高い下着・帽子・靴下などの着用を促している。
寒いからと、安易に暖房器に頼らず、「寒ければ着る!」の考え方…。
寒くなったら「暖房器で室温を上げる」。そんな習慣を改めなければならない。
私も、この冬から長袖のシャツを着るようにしている。
子どもの頃、朝、目が覚めると、枕元に雪が吹き込んで、積っていた…。
中学の頃、隙間だらけの教室の暖房、大きな四角い火鉢が一つあるだけだった。
網金を乗せ、皆で弁当を温めた。昼近くになると、ご飯の焦げる香ばしい匂いが
教室に広がった。冬寒いのはなんでもなかった。が、しもやけには悩まされた。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 113】 2月18~19日夜9時のNHKスペシャル。地球温暖化の影響が100年後の ところで、普段は目には見えない"海の中"。温暖化による自然破壊が、驚くほ 開発で土砂が流れ込み、河川汚染なども加わり、サンゴ礁が壊滅し、ダイバー そんな中、サンゴ礁を昔に戻そうと、沖縄の人たちが、珊瑚の移植に取り組み 地球温暖化は、北極先住民族の生活基盤も破壊しようとしている。氷河が海に 凍土が溶けて更に怖いのは、氷の下に閉じ込められていたメタンガスが、 タイタニック号の乗客は、誰一人船が沈むとは思わなかった。四万六千トン、 温暖化に、「自分一人、何が出来る…」「自分には関係ない」と言いながら、 誰もが、地球がおかしくなりつつあることに気づいていながら、沈みゆく地球 |
女子プロゴルフ界のニューフェイス"宮里藍"。 工藤と賞金女王一位を争っている。
彼女は、日本男子ツアー・沖縄オープンに出場(12/15~18)することになった。
日本の女子プロで、男子ツアー大会に出場するのは、宮里藍が最初だという。
宮里藍の男子ツアー初挑戦、俄然興味が湧いてくる。長兄で前年の覇者"聖志"、次兄の"勇作"も当然出場するだろう…。
男子ツアーのコース設定は、女子ツアーに比べ、かなり難易度が高い。無事予選通過出来るかどうかが、ツアー最初の関門となる。男子プロの中で、どこまで実力が発揮できるだろうか? 宮里藍の正確なショット、強靭な精神力と集中力…。今から楽しみです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 102】
「いたれりつくせり、日本のゴルフ場」
先月、サンフランシスコの名門ゴルフ場、ハーフ・ムーン・ベイ・ゴルフリンクスで、海外初のゴルフを楽しんできた。
日本を出発する日の朝、5時に起きて、NHK・BSで、男子ゴルフ世界選手権、アメリカン・エキスプレス選手権を見た。これから私が向うサンフランシスコで、プレーしているのです。
画面では、最終ラウンドが行われていた。タイガーウッズとジョン・デーリー が共に10アンダー。プレーオフ2ホール目で、ウッズの貫禄勝ち。プロならではの技を堪能、見ごたえのある好勝負だった。(丸山選手は11位)
私たちがプレーしたリンクス。名門クラブとはいえ、クラブハウスは質素で、日本では普通にある施設やサービスがない。パブリックのよう…。
ロッカールームがなく、キャディさんもいない。浴場なし、コース売店なし、喉が渇いても自販機なし、表彰パーティ会場もない。ごくありふれた喫茶ルームがあるが、クラブハウス・食堂が、ホテルなみに豪華な日本のゴルフ場とは比べようもない。
また日本では、プレー半ばにクラブレストランで、ホテル並みの高い昼食を取るのが一般的。しかし、アメリカにはそんな習慣はない?
ハーフ(9ホール)を回り終わる頃、屋台スタイルの軽ライトバンがカート道にやってきて、サンドウィッチやドリンクを販売する。それを買って、ほお張りながらプレーを続行するのです。(安上がり)
至れり尽くせり、贅沢な日本のゴルフ場。そんなサービスに慣れている私には、本場のゴルフ場の有りようは以外だった。考えてみれば、ゴルフ本来の目的は、コースプレーを楽しむこと! 不要なものはできる限り削除し、安い料金でプレーできる、アメリカのゴルフ場に大賛成です。
名門ゴルフ場ということで、コース設計も期待した。が、思ったほどではなかった。金沢リンクスとどっこいどっこい…かな。取りわけ思い出に残るコースはなかった。
フェアウェイを外すと、ラフの芝は硬く、長く伸びた芝草にクラブが取られる。
ラフに入れたら、トラブルを覚悟しなければならない。
(手入れが悪いとしか思えなかった…)
サンフランシスコは乾季で晴天続き。なのにゴルフ場は海辺のせいか、一日中ガスで視界をさえぎられ、太陽が見えない。打ち終わった球が、霧の中へ吸い込まれていく。霧のサンフランシスコである。
初めてのコースで、しかも、四方よく似た景色のリンクス。どっちを向いて打てばいいのか、キャディがいないため、コース取りに戸惑った。
● I Nの12番ホール(右写真)
201ヤード・パー3・ショートホール。左は海。コースの中ほどに断崖絶壁が食い込んで、ぽっかり口を開けている。
そこへ、力んでヘッドアップ、OB球を打ち込んでしまった。
ガスがかかっていなければ、絶景だろう…。
名門コースの雰囲気が漂う中で、一日存分にプレーを楽しんできた。
昨年までの私のゴルフは、年に数回のお付き合いゴルフ。だから、いつまでも
上達しない。ゴルフはルールと罰則に縛られるスポーツ。
自由きままにマイペースで、好きなだけ楽しむというわけにはいかない。
雨が降ろうが、風が吹こうが、プレー出来る間は、否応なしに18ホールお付
き合いしなければならない。ミスショットが多いと、周りの人に迷惑をかけるし、
一緒に廻る人から「マナー知らず」と言われたことも…。気配りのいるスポー
ツである。
スキーやスキューバーにも、守らなければならないルールやマナーがある。
中でもスキューバーは、しっかりルールを守らないと、命に関わることになる。
どちらもストレス発散型…、だから無条件に楽しい。
ゴルフは、ミスの回数の少なさを競うスポーツ。我慢が付きまとう。下手な私に
はストレスである。でも、ゴルフは楽しい…。コンペの前夜はワクワクして眠れ
ない…。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 101】 ゴルフの話題で、少し古い話を思い出した。 日本では、ゴルフのエチケットがまだ未発達で、接待ゴルフで招待を受けたプレ アメリカ女子プロゴルフ界にすい星のごとく現われた、16歳の天才ゴルファー、 間近でこれを見ていた新聞記者のマイケル。"ルール違反したのでは"との その夜、記者は眠れぬ夜を過ごした。「ルール違反なら失格になる」。 翌日ウィーは、2打罰の申告漏れで失格した。そして、610万円の賞金がフイ 11/1読売新聞 |
■「早起きは三文の得」
十年前に比べ、若者の運動能力が低下しているという。
若い女性と一緒に旅行したとき気になるのが、朝食をとらない人が多いことです。
これも原因の一つなのでしょう…。
読売新聞の世論調査によると、二十代の55%、三十代の35%、何と約半数が、
朝は遅くまで寝ていて、
朝食抜きの生活をしている。
海外へ行くと、
朝、ジョギングをする人、公園で新聞を読む人、朝の時間帯を沢
山の人が、思い思いに楽しんでいる。
それに引き換え、日本の朝はなんて静かなんだろう…。毎朝犬と散歩する朝6時
過ぎ、外の空気は美味しい、太陽がまぶしい。なのに…、私たちの住む街は、
人の気配がしない。
何だかすごくもったいないし、恥ずかしい気がする。日本人は怠け者なの…?
そう思うのは私だけでしょうか?
「早起きは三文の得」というが、今の日本人には、忘れ去られた言葉かも…。
エネルギー資源のない日本、アメリカのようにサマータイムを採用すべきでしょ
うね…。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 99】
「ハロウィーン」
海外旅行で、車窓から見える景色、日本ではお目にかかれない風景に出会う。
そのたびに心が引き寄せられ、旅の楽しさが倍増する。
サンフランシスコからヨセミテ国立公園へ移動する車中から見える景色、
前号では、「家の柱に黄色いリボンがヒラヒラしているのは何?」の話をした。
車窓から、道路沿いの畑に目をやると、スイカ畑のように、鮮やかなオレンジ
色に実ったカボチャが、畑一面何百個と転がっている。通り沿いのドライブイ
ンに目をやると、何列にもカボチャが並べられ、テーブルの上にも一個づつ、
大きなカボチャが置かれている。それが、周りの景色や建物にみごとにマッチ
していて、アメリカらしさが漂ってくる。
「ハロウィーン」のお祭りに欠かせないカボチャ。
私たち日本人にはなじみが薄い。
アイルランド古代ケルト民族の収穫祭の行事に、ローマの果実の女神"POMONAの祭り"が混ざったもので、
1800年代にヨーロッパからの移民によってもたらされたものだという。
アメリカでは、10月31日の夜に、悪魔や幽霊、魔女・悪霊が現われ、人間に
悪さをすると言い伝えられている。(日本のお盆に似ている)
そのような悪い霊たちを追い払うため、家々の軒先に恐ろしい顔を刻んだ、
大きな"カボチャあんどん"を置いた。正式名は「ジャック・オ・ランタン」という。
こうした行事が始まった由来は、
「けちんぼジャック」と呼ばれる意地の悪い男がいて、彼を「黄泉の世界」に連
れて行こうとした悪魔を、うまいこと騙したという、アイルランドの伝説です。
ジャックが死んだ後、生前のいたずらが過ぎて、天国にも地獄にも行けず、
明かりを灯した"カブ"の提灯を持って、暗い道をさまよい続けるというお話し
から、カボチャ行灯が魔除けに置かれるようになった。
「ハロウィーン」の日になると、子供たちは怖そうな服を着て、近所の家を訪問
する。すると、悪い霊は怖がって、その家に寄りつかなくなるという。
家の人は、訪れた子供たちへのお礼に、飴やお菓子を手渡す。もし、お菓子が
貰えなければ、その家の霊除けのカボチャをつぶしたりして、悪さをしてもいい
ことになっている。
国土が広いアメリカ、日本のように近所にお菓子屋さんがない。お菓子を買っ
て食べる習慣のないアメリカの子供たちにとって、「ハロウィーン」の日は、
クリスマス同様、沢山の家を回って、お菓子を集めて歩く、楽しみな日なのです。
もう一つ、車窓から見える景色で、日本では見られないものに、クリスマスツ
リー"もみの木"を栽培する畑があることです。1m50センチくらいの可愛い
もみの木が、何列にも行儀よく並んで植わっている。
12月、全米に出荷され、ツリーの産地として有名だとか…。
叱られるかもしれないが、今回の解散総選挙ほど面白い選挙はない。
ここへ来て、政治の世界に新たな変革の兆しが出はじめたようです。
1980年、大平正芳の時の「ハプニング解散」は、自民党内の対立から。
社会党が出した内閣不信任案に、反主流派の福田、三木氏など69人が欠席。
可決解散。この一つ前の選挙の「消費税導入」で、自民党が大敗したことが発端。
90年代、宮沢喜一の「政治改革解散」がある。この時「小選挙区制導入」をめぐり、
中選挙区制維持を訴える党内勢力が強く、羽田、小沢氏ら39人が内閣不信任案
賛成に回り、解散。自民党は分裂。羽田氏を中心に44人が「新政党」を結成、
武村氏ら10人は「新党さきがけ」を旗揚げした。今とよく似た情勢です。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 92】
「首相公選の時が来た」
今回の解散選挙、それぞれ、思うところがあると思います。日頃私が思ってい
ることに近いことを書いている新聞記事があるので、読んでみてください。
■8/23読売新聞 田中明彦「論壇思潮/首相公選の時が来た」より
小泉一郎が総理大臣になっていなければ、今回の衆議院選挙はなかっただろう。
小選挙区制度が定着した今回の選挙。ほとんどの選挙区は、自民と民主の一騎
打ち。勝った方の政党から首相が出る。小泉さんを信任するか、岡田さんに政権
を委ねるかが争点となる。
ということは、今回の選挙は、"日本で初めて、国民の一票で重要法案の信任
決定という、滅多にない"首相公選選挙"の機会を、有権者に与えたことになる。
とすれば、政権を担っている小泉首相にしてみれば、すべての選挙区で、自分の
代理として選挙を戦ってくれる候補者が必要になるのは、当然だろう。
郵政民営化こそが自分への信任・不信任を分けると言っている小泉首相にとって
、法案に反対し、党議決定に背いた候補を、自分の代理とするわけにはいかない。
故に、郵政民営化に反対した候補者の選挙区に、賛成候補が立つのを、「刺客」
と騒ぐのは見当違い…。
小選挙区制は、政権を担う二大政党がねらい。政党間の一対一の戦いとなる。
当然、国民の選択は「マニュファスト」。政党が掲げる政策を見て、一票を投じよ
うとする。
党本部が選挙に勝つために、強力な落下傘候補を敵陣に送り込む、今回の新し
い手法、興味津々である。自民党から30数名の離反者が出たことで、新人にも
チャンスが訪れた。自民党が立候補者を全国に公募したところ、八百名もの自
薦・他薦があったという。
■8/24中日新聞 斉藤学「本音のコラム/国民の判断」より
小泉首相が任期中に果たした公約は、皮肉にも、何事も派閥主導で党内をまと
めてきた旧来型の自民党を、ぶっ潰したことにある。
委員会採決し、政府決定した重要法案に、あくまでも反対する党員が多数出る
騒ぎになったのは、小選挙区制によって、派閥の力が弱まり、タガが外れて、締
め付けがきかなくなったことによる。
村山内閣成立以来、歴代の首相指名の手続きは、国民不在の派閥総領の話し
合いの中で為されてきた。首相候補の中で最も人気がない小渕さんが首相に
なつた頃は、絶望が支配した。彼の急死後、派閥のボス数名が密室で談合し、
仲間の一人、森さんを首相に担ぎ出した。その瞬間、自民党は国民から見放さ
れた。彼らはやり過ぎたのだ。
この瀕死の中、最大派閥の信任を受けず、国民の人気をバックに、小泉首相が
誕生した。そして、郵政民営化騒動。派閥間の融和を何より優先してきた自民
党にあって、党首のリーダーシップが、今ほど全面に押し出されたことはない。
ヒトラーごとき独裁者と反発し、反旗をひるがえす族議員が出るのは必然のこ
と。
一方、政権を取るためと、郵政問題には目を反らし、選挙向けの都合の良い政
策を並べて、国民におもねり、与党の内紛・失点に乗じようとする、何でも反対
の民主党。万年野党に甘んじた、一昔前の社会党と何ら変わらない。
小さな政府と構造改革を推し進めるには、郵政民営化もまた避けて通れない問
題…。世の中が大きく変化していく中、これからの日本を正しい方向に導く政党
・政治家は誰か?しっかりとした目で一票を投じ、首相を選ばなければならない。
先週日曜日の朝、福岡県沖でマグニチュー7の地震が発生した。九州北部の地震発生確率はわずか0,4%(金沢は5%)。
過去百年のデーターでも、全国で最も地震の少ない地域。「まったく想定外の地域で起きた」と、専門家も驚いている。
振り返れば、神戸震災も、新潟中越地震も、まったく無警戒の地域。日本列島、地震の活動期。どこで地震が起きてもおかしくない。
神戸と同規模の激震が100万都市を襲ったにもかかわらず、家屋の倒壊が少なく、死傷者も少なかったのは、
福岡県が硬い地盤に覆われていたことと、直下型を免れたからだという。
阪神大震災の犠牲者の八割は建物の倒壊が原因。もし同規模の地震が金沢を襲ったら、ただでは済まないだろう。金沢の北部は地盤が軟弱。
山手は地すべり地帯。
道路も狭く、耐震性に弱い古い木造家屋が七割以上。
2000年には鳥取、そして新潟、福岡…。次々地震に見舞われた。裏日本で残る空白地域は…? 災害は忘れた頃にやってくる。 普段からイザというときに備え、用心するに越したことはない。
【吉村外喜雄のなんだかんだ 第72号】
「地震保険ってどんなもの?」
忘れた頃にやってくる災害。皆さん、地震保険に入っているでしょうか?
全所帯比加入率は16%くらい。地震のない石川県は、10%にも満たないでしょう。
地震で怖いのは、神戸のような火災が起きて、次々と家が燃えてしまう被害。
地震が原因で起きた火災については、通常掛けている火災保険は下りません。
別途、地震保険に入っていないと補償されないのです。
しかも、地震保険は、通常の火災保険に加入している人しか入れないのです。
加入できる額は、建物五千万円、家財一千万円まで。更に、別途普通に掛けている火災保険の30~50%
の範囲内と決められています。つまり、建物に二千万円の火災保険を掛けていたら、
地震保険には1千万円までしか加入できないのです。
地震保険の保険料は、過去五百年のデーターをもとに、一等地から四等地まで四段階に分かれています。
一等地…北海道、福島、島根、岡山、広島、山口、香川、福岡、佐賀、鹿児島、
沖縄
二等地…東北各県、茨城、栃木、群馬、新潟、
富山、石川、山梨、鳥取、長崎、
四国三県、九州各県
三等地…埼玉、千葉、長野、福井、滋賀、岐阜、愛知、三重、奈良、京都、大阪
和歌山、兵庫
四等地…東京、神奈川、静岡
保険料は、四等地が1番高く、一等地が1番安くなります。四等地の木造家屋に一千万円の補償を付けた場合、 年間保険料は35,500円。一等地の岡山ならば、同じ条件で、三分の一の12,000円で済みます。
福岡や新潟のように、一等地だから、二等地だからと安心していたら大間違い。
日本で地震の心配がない土地などどこにもないのです。石川県は過去、比較的地震が少ないということで、
割安に査定されているだけです。
尚、昭和56年6月以降に建てられたものであれば、更に10%安くなります。
そして、耐震強化の基準を満たしていれば、10~30%割引されます。
地震保険の加入者が少ないのは、保険料率が高いことと、肝心の地震がいつ来るかわからないからでしょう。だからと、
やめた途端に地震が来たら、これは悔しいでは済まされません。安心を買うために入り続けるしかないのです。
ほうじん10月号「暮らしのレーダー」より
ことば遊び。韓国語で数を数えてみましょう。
●韓国語で1~10は
いる(一)、い~(二)、さむ(三)、さ~(四)、お~(五)、ゆく(六)、ちる(七)、
ぱる(八)、く~(九)、しぶ(十)
●11~20は
しぶいる(11)、 しび(12)、 しぶさむ(13)、 しぶさ(14)、 しぼ(15)、
しむゆく(16)、 しぶちる(17)、 しっぱる(18)、 しぷく(19)、 いしぶ(20)
●それ以上は
100は「ぺく」、200は「い~ぺく」、300は「さむぺく」…
1000は「ちょん」、2000は「い~ちょん」…
万「まん」、 十万「しむまん」、 百万「ぺんまん」、 一千万「ちょんまん」、
一億「いろく」
●1~10を、日本語の当て字にして覚えるといい。
1=家に「居る」、2=二月「い~」ね、3=三月まだ「寒(さむ)」
4=「さ~」春だ、5=「王」、6=「行(ゆ)く」、7=「散る」、8=引っ「張る」
9=「九」、10=「しぷ」柿
「い~」と言うと、中国語では「1」。韓国では「2」になるので間違えないように。
【吉村外喜雄のなんだかんだ 第71号】
「金沢にも震度7の地震がくる?」
この一月、阪神大震災から十年目を迎え、テレビでも特集が組まれた。
ところで、過去石川県に大きな地震災害をもたらしたのはいつごろでしょうか?
あまり定かではない。
「石川県は地震がない土地」と思っている人も多いのでは…。
金沢にマグニチュード7.2程度の直下型地震が起きる確率は、今後三十年の間に最大5%
。百年の間では20%になるという調査結果が、
全国の活断層の危険度を調査している、政府の調査委員会から報告されている。
金沢の北部森本から、金沢の中心部を通って、南部の富樫へ抜ける、全長26キロの断層で、
平成二年に調査をした全国の活断層17ケ所のうち、地震発生の恐れが、全国三番目に高いという。
新潟中越地方(地震発生十日前に、確率2%以下と発表された)より、金沢の方がはるかに危険度が高い数値。
いつ地震に見舞われてもおかしくないのです。
石川県の推定では、もし直下型地震が起きたら、断層東側(山手側)が2メートル隆起し (神戸より大きな段差のズレが発生するという)、金沢市を中心に、死者2,200人、 家屋全壊一万七千棟の被害が予測されるという。
私の兄のマンションは、神戸六甲口を少し上がった高台にあって、被害はなかった。1キロ下の住宅が密集した、
断層のある国道沿いの町並みは壊滅した。
断層は金沢の中心部を横断している。古い家屋が多く、屋根瓦が重い上、夏は
蒸し暑い土地柄、広い縁側のある家が多い。その上、冬場は雪が積る。
他の地域より、崩壊の危険度が非常に高いことが予測されるのです。
金沢市役所に、市民に住宅耐震化への関心を高めてもらための「住宅改修相談所」があることをご存知でしょうか? 昨年の四月から、金沢市は、耐震基準が強化された1981年(S56年)以前の木造住宅の、 耐震診断と改修工事の費用を助成する制度を新設している。中越地震の後、急に相談に来る市民が増えたという。
全国有数の豪雪地帯中越。雪の重みに耐える”雪国仕様”の住宅が多い。地震の際、耐震性を発揮したが、 それでも四千数百棟の住宅が全壊ないし半壊した。その倒壊家屋の多くが、1981年以前に建てられたものだという。
「中越だったから、あの程度で済んだ。もし、金沢だったらと思うと恐ろしい…」と、市の担当者がポツリと漏らす。 金沢は古都。木造家屋132,000棟のうち、1981年以前のものが92,400棟と、全戸数の七割も占めている。
なのに、市民の危機意識は薄い。1981年以前に建てられた住宅は、耐震構造上最も大切な”基礎”が弱い上、
かなめに金属が使われていない。だから、補強する費用もバカにならない。石川県に大きな地震が来ないという保証はない。
万一に備え、本気で自宅の安チェックをしておく必要があるようです。
中日新聞と読売新聞の記事より
吉村外喜雄のなんだかんだ 第67号
「節分の風習?恵方巻き」
二月三日節分の日、仕事を終えて自宅に入ったら、妻がパックされた太巻きのお寿司を差し出し、「西南西の方を向いて黙って食べて! 食べてる間しゃべっちゃ駄目! 黙って食べたら願い事が叶うから…」。
まともに聞く気になれず、「何やそれ…?」って反発したら、「いらんのやったら食べんといて…」と言う。「わかった、わかった」
と受け取り、黙って一本丸かじりした。こんなことして何が御利益なんや…? なんともバカバカしい。
そこで、インターネットを検索したら、あるある…。古くは江戸時代、大阪の花柳界で行われていた縁起かつぎの風習。
商魂たくましい大阪商人が目をつけた。
巻き寿司の重要な脇役は”海苔”。 昭和四十年後半に、大阪の海苔業界が、何とか販売量を増やそうと、この”丸かぶり”に目をつけて、
イベントにした。
この模様がテレビに大々的に放映され、広まるきっかけとなった。
それが近年になって、コンビニが全国展開を始めた。昨年ローソンは70万本売った。阪神デパートは、二月三日、一日で4万本売ったという。
大阪では、この太巻きのことを「恵方巻き」といい、節分の日に食べると福が来るという。
何で太巻きかというと、「福を巻き込む」ためで、包丁を入れないのは「縁を切らない」ためだという。
更に”恵方”に向かって食べなければ、ごりやくがないと、妻も娘も、その方角に向ってモクモク食べていた。
それを見て、「バカバカしい」などと言おうものなら大変! 一般に、女性はこのたぐいのことが大好きなようで、すぐ真に受けてしまう。
”恵方”とは、陰陽道を元に決められる最も良いとされる方角で、毎年、方角が変わる。2005年は西南西だという。
金沢には「氷室の饅頭」がある。七月一日に饅頭を食べると、無病息災になるという古くからの風習です。縁起をかつぐこういった風習、
つい先日のバレンタイン同様、売り手にとって美味しい話である。商魂たくましく、来年は更に加熱するだろう。消費者を”巻き込んで”
広がっていきそうです。
「災害は忘れたころにやってくる」というが、最近は忘れる間もなく、次から次と天災に見舞われる。昨年暮れのインドネシア・
スマトラ沖地震は、阪神震災の何と1600倍(想像がつかない)。過去百年、世界で四番目に大きな地震だったという。
ところで、大きな余震は起きなかったのだろうか?‥。津波の被害があまりにも大きかったためか、
地震による直接被害の報道がほとんどなかった。
地震発生後の政府・行政の対応の悪さが、被害を大きくしているようだ。
日本人の行方未確認者が、まだ43人もいるというのに、もう、過去の出来事になろうとしている。
先週のNHK。「安政大地震」の時の大津波で、村落が壊滅した当時の惨状を再現していた。そして、安政の地震の後の日本で、
大地震が二度も起きているのです。
今また日本は活動期に入っている。今年は大きな地震がなければいいが…。
明日は我が身。日ごろから、万一に備えた心構えが大切です。
吉村外喜雄のなんだかんだ 第64号
「スマトラ沖地震に思う」
外国人で、今回の地震で犠牲者を多くだした国は、三千人近い死者を出したスゥエーデンなどの北欧諸国。 この時期は、午後3時前には日が沈み、長く寒い夜が続く。そんな太陽の恵みの少ない北欧から、 クリスマス休暇を利用して避寒にやってくるのが長年の習慣。
タイのプーケットや、インドのお隣モルディブは、名だたるダイビンクスポット。
そこで、多数の犠牲者が出た。
私が訪れるダイビングスポットは、そういったリゾート地の沖合いにある小さなさんご礁の小島。
美しい自然に囲まれた水上コテージが、何とも魅惑的だ。
コテージの中は、都会の一流ホテルと見まがう調度や設備が整い、レストランは朝・昼・夜バイキングで、西洋料理、
中華料理、果物、飲み物など食べ飽きることがない。
コテージから目を外へ転じると、はるか対岸の岸辺に、粗末な水上家屋の集落が見える。漁業を生業としていて、
文明社会とは無縁の極貧の暮らし。
子供達が丸木舟でコテージの下にやってきて、「マネー、マネー」とお金をねだる。贅沢な遊びをしている私達を、
どう見ているのたろうか?
海抜1mしかないさんご礁の小島。干満の差が激しく、干潮時には3m近く潮位が下がり、 島が数百メートル沖まで陸地になる。そんな自然現象が毎日繰り返される中で、ある日突然、 波打ち際が百メートル後退したとしても驚かないだろう。それが津波の前兆とも気づかず、 物珍しさで沢山の人が海岸に集まってきた。その数分後、高さ10mの津波が襲ってきた。そして、 島にあるものすべてをさらっていった。
原住民は人なつっこく、優しい人達ばかり。私がお世話になった現地人や、
ダイバーズクラブの人達はどうなっただろうか? 大きなクラブには、若い日本人インストラクターが必ず数名いる。
お世話になった人達の顔が思い浮ばれ、胸が締め付けられる。
ニュースによると、波にさらわれた後、泳ぎ慣れているため、椰子の木にしがみついたりして、助かった人もいるという。
日本人で休暇を楽しんでいた家族もいた。運悪くその場に居合わせたばかりに、逃げる間もなく波にさらわれてしまった。”
天国から地獄へ”とはこのことだろうか。 ”一寸先は闇” 先のことはわからない。今を大切に生きなければと思う。
NHKスペシャル”ローマ帝国”を見られたでしょうか。二千年の長きに渡って巨大帝国を維持できたのは、
占領地の異民族に対する、したたかな人心掌握術にあったという。
昨年、塩野七生著「ローマ人の物語」を熱くなって読んだ。紀元前753年建国。
周囲わずか10k、人口千人の小さな国ローマ。以来1千年、中東、北アフリカ、ヨーロッパ全土を支配下に治める兆大国になった。
東・西ローマに分裂後、更に一千年続いた東ローマ帝国。その首都が、1453年オスマン・トルコ軍に攻め滅ぼされる。 その情景を物語にした塩野七生著「コンスタンティノープルの陥落」を、一ヶ月前に読み終えたところです。
二ヶ月に渡る攻防の末、勝者オスマン・トルコは、歴史・文化・財宝の詰まったコンスタンティノーブルになだれ込み、 殺りくと略奪の限りを尽くす。捕虜は本国へ連れ去られ、奴隷として売り飛ばされた。奪い取ったキリスト教会。聖像・ 十字架などはすべて破壊され、イスラムのモスクになった。そしてローマは滅びた。
世界の歴史をたどると、キリスト教世界とイスラム世界の間には、激しい覇権闘争の歴史がある。そしてその歴史のうずきが、 人々の心の奥底に怨念となって染み付いているのです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ 第58号】
「イスラム教って何?」
イスラム原理主義過激派のテロ行為は、世界の国々を震撼させている。しかし、
イスラム原理主義そのものが悪いわけではない。
世界には、十億人以上のイスラム教信者がいます。中東、アフリカの国々に信者が多いことはよく知られていますが、
信者が一番多い国はインドネシアで、1億9000万人います。3週間前の11月13日、一ヶ月間の断食(ラマダーン)
の行を終えたところです。近年、ヨーロッパやアメリカでも信者が増えつつある。
■キリスト教 | 32.8% | (カトリック 56.4%、プロテスタント 19.5%) |
■イスラム教 |
16.5% |
(スンニ派 84.2%、シーア派 14.5%) |
■ヒンズー教 | 13.3% | |
■仏 教 | 6.3% |
世界四大宗教の一つ、イスラム教ってどんな宗教なのでしょうか? 日本人にはなじみが薄く、
ほとんどの人がイスラム教のことを知りません。
イスラム教は、今から千四百年前、サウジアラビアのメッカで、ムハマンドという人が、神様の声を聞いて広めた宗教です。
”イスラム”とは、”平和”という意味の言葉からきていて、「すべて神様の言うことを聞きます」という意味です。
この神様のことをアラビア語で「アッラー」といいます。
アッラーの声を聞いたムハマンドが、その内容をまとめたのが「コーラン」です。
イスラムの人々は、このコーランの教えに従って暮らしています。
豚肉は食べません。お酒は神様を忘れるので、飲んではいけません。貧しい人には、施しをしなければなりません。
人にお金を貸しても、利子を取ってはいけません。「コーラン」の教えに、そう書いてあるからです。
神様の前では全て平等。みんな助け合いながら生きていこうという教えです。
ところが、信者の中には、こういった戒律を守らず、お酒を飲む人や、西洋人のように、 人前で肌をさらす女性も出てくるようになった。仕事で儲けて豊かになる人が出るにつれ、貧富の差も大きくなってきた。 これも、西洋人と付き合うようになった為と思い込む人が出てきた。
イスラムで理想の社会を作ろうと考える人達が、基本に戻ろうという運動を始めたのです。それを西洋の人達は 「イスラム原理主義」と呼ぶようになった。イスラムの人たちが名付けたわけではありません。
こういった考え方をするグループの中に、武器を使ってでも理想の社会を作ろうとする人達が、 過激派やテロリストになって、事件を起しているのです。ですから、イスラム原理主義者=過激派・ テロリストではないということです。
[信仰告白]
「アッラーの神の他にいかなる神的存在もなく、ムハマンドは神の使徒である」
と、毎日唱えること!
[礼 拝]
一日五回、日の出前、正午過ぎ、午後、日没後、夜間の決められた時間に、メッカの方向に向かって礼拝を行う。
特に金曜日の礼拝は、その地の大きなモスクに集まり行う。
[断 食]
イスラーム暦の第九月(ラマダーン月)の一ヶ月間、日の出から日没まで一切の飲食を断つ。日没後はご馳走を食べ、
親戚友人を訪ね合い、夜半過ぎまで街はにぎわう。
※イスラーム歴
月の満ち欠けをサイクルとした陰暦を採用。一ヶ月は29~30日。第12月にズレを1日調整する。
イスラーム暦の一年は、西暦より10~11日少ない354~355日。
[救貧税(喜捨)]
所有する金銭、家畜、穀物に対して、一定の割合で救貧税を納めなければならない。
[巡 礼]
イスラーム暦の第二月、8~10日の三日間を中心に行われるメッカへの巡礼。
11月17日は、プロ野球のドラフト会議でした。フレッシュな新人がプロの世界に夢をふくらませる。その姿がすがすがしい。
そしてその日の夜、今年の初物、フランスワイン「ボージョレ・ヌーボ」がフレッシュに登場。
18日解禁を祝って、午前零時のカウントダウンパーティが、金沢市内のホテルや酒場で開かれた。
私達夫婦も初めて参加した。十・九・八・…の合唱の後、クラッカーが鳴らされ、樽酒が開かれ振舞われる。その後、
各テーブルに配られたビン詰めボージョレも味わった。が、樽の方が明らかに舌にまろやかで、味わい深かった。
生ビールとビンビールの違いのよう…。
ジャズ歌手の歌と生演奏を聴きながらの、ここちよいひと時でした。
【吉村外喜雄のなんだかんだ 第56号】
「不利な条件を逆手に取って成功した
ボージョレ・ヌーボの販売戦略」
私は日本酒よりワインや焼酎が好きである。ワイングラスに上等のワインを注いで、その雰囲気、香り、色を楽しむ。
そして舌の上でころがして、より深みのある味わいを楽しむ。
ボージョレ・ヌーボは、さわやかで飲みやすい一方、深みや重みがないと言われる。ところが、
一昨年の輸入量は740万本。今年は1000万本を超えようとしている。日本は最大の輸入国である。その成功の陰には、
ビジネスのお手本になるような、販売上の知恵と工夫があることを知らねばならない。
ボージョレ地区のブドウは、土壌や気候の関係で、長期熟成に向かないものが多く、高級ワインにはなりにくい。
一方で、早熟でさわやかという特徴がある。
そういった短所を長所に変えていく、商品及び市場戦略が功を奏し、特別な「新酒」として、
世界的人気を博するようになった。
品質を保つために始まったとされる解禁日も、消費者をじらし、期待感や渇望観が高まったところで、
世界一斉に販売するという、効果的商法に結びつけている。
これが、イベント性を高め、季節の代名詞になる地位の確立につながったのです。
解禁日に、酒店やレストランに一斉に張り出されるポスターの「ボージョレ・ヌーボ到着!」は、簡単にして明解。
広告の名文句となっている。日頃ワインに馴染みの薄い人まで、「そうか、飲まなくては…」という気にさせるのです。
日本酒もよく似たことをやっている。解禁日は無いにしても、「地域限定」「生産量限定」「一番絞り」
などといった商法で消費者にアピールし、販売量を伸ばそうとしている。
成功の陰には、その他にも幾つかの隠れた苦労がある。世界一斉販売は、
短期間に世界中に配送できる物流網が整備されたお陰。
また、日本で売られるボージョレの瓶は無色透明。一般に、光の影響を防ぐため色付きの瓶が普通。日本では、
色付きの瓶は再利用がむずかしい。
そこで「すぐに飲んでしまう新酒なら、光の影響も少ないだろう」と、リサイクルに配慮した瓶を使うようにしたのです。
読売新聞の記事より
伝統やルールを頑固に守りながら、遠い消費地である日本の声に柔軟に対応する姿勢は、見習わなければならない。
「味に比べて高価」「見え透いたお祭り騒ぎ」というさめた声もあるが、厳しい消費不況の中、
財布のひもを緩めさせる巧みな戦略・戦術は、見習うところが多い。
ちなみに、ボージョレ・ヌーボの”ヌーボ”とは、日本語では「新しい」の意味。
だから、「ボージョレ地方の新作ワイン」という意味になる。
西部ライオンズが優勝して、プロ野球シーズンが終わった。毎年ぺナントレースの大詰めを迎える頃になると、思うことがある。 10/20の中日新聞「言いたい放題」で、そのことを放送作家の石井 彰氏が語っている。
腑に落ちないのは、中日のセ・リーグ優勝が決まった試合と、パ・ リーグ第二ステージ、ダイエー-西部の1~2戦が、TV全国放送されなかった。なぜTBSは中継権を持っていたのに、 全国放送しなかったのか? 横浜ベイスターズの親会社として、TBSはプロ野球を盛りたてる立場を忘れちゃったの? |
中日ファンとして腹立たしいのは、中日や、ダイエーのリーグ優勝がかかった九月、
優勝戦線から離脱してしまった巨人軍の試合を、しかも毎日、ご丁寧にTV、ラジオ同時放送していることである。
気の抜けたビールのような試合を流して、優勝が気になる試合、見たいものが見られないことに腹が立つのです。
せめて、二元中継をやってくれれば、文句を言わないのですが…
「BS契約をすればいいじゃないか」と言うでしょう。が、そんな問題ではないの
です。プロ野球は、巨人がからんだ試合しか、放映の価値がないのでしょうか?
吉村外喜雄のなんだかんだ 第53号
「あなたの住いは大丈夫?」
災害は忘れた頃にやつてくると言うが、石川県に三度も四度も台風がやってきたのも初めてなら、 40m以上の風が二度吹いたのも初めてだろう。
23日の土曜日、新潟県で発生した震度6強の地震、金沢も数回揺れを感じた。
石川県は”震災”が起きないところと思っていたら、さにあらず…
金沢にマクニチュード7.2程度の直下型大地震が起きる確率が、今後三十年の間に最大5%、百年の間では20% の確率になるという調査結果が、全国の活断層の危険度を調査している、政府の地震調査委員会から出されている。
森本から金沢市街地、富樫へ抜ける全長26キロの断層で、今まで調査した全国の活断層十七ケ所(2001年調べ)
のうち、地震発生確率が三番目に高いという。
もし地震が起きると、断層東側が2メートルも隆起するという。今回の新潟地震(1.7m)より大きな地震になりそうです。
石川県の推定では、金沢市を中心に死者約2,200人、家屋全壊17,000棟の被害が出るという。
もし地震が来たら大変なことです。
今回の新潟地震発生十日前に、地震調査委員会は、同地方の地震発生率は、今後三十年間に”2% 以下”と発表したばかり。たまたま震源地が新潟だったが、金沢に直下型激震が起きても、 何ら不思議ではないのです。
私の兄の家が神戸の六甲登り口にある。壊滅的被害が出た市街地から、
1k山手にずれた固い地盤に建つマンションだったため、被害がなかった。
断層に沿って住まいがあると怖い。我が家は、どんな地盤の上に建っているのか?
断層が市内のどこを走っているのか? この機会に関心を持って見つめてみる必要があるようです。
私が住宅建設会社にいた頃は宅地開発ブーム。郊外の農地や、丘陵地がどんどん宅地に開発されていった。そんな中、 地元の人が眉をひそめるような、悪質な宅地造成を目にしてきた。
小矢部から森本、富樫にかけての活断層には、地すべりが心配される丘陵地があちこち点在している。
そこを宅地開発して、擁壁して、盛り土をした宅地が怖い。
沼地だったところを埋め立て、宅地にして売り出した業者もいた。土留め擁壁のコンクリートが、
半年ほどしたら重みで沈下して、外へ倒れかかったケースもある。
そんな宅地を買って家を建てた人は、気の毒としかいいようがない(金沢北部)。もっとひどいのは、地盤が弱いからと、 鉄筋を入れたコンクリートを宅地いっぱいにベタ打ちして、船のように建物を浮かす工法で、 数十区画の団地を売り出した業者もいた(小松)。何れも、地震にはひとたまりもない。
水害に話を戻して、口能登の西往来。鹿西町や鹿島町を車で走ると、地元の人が住む集落は、
山ぎわの緩やかな斜面にかたまっている。1番低い平地は、はるか数キロ向こうの東往来の山ぎわまで、田んぼや畠ばかりで、
国道が通っている。国道に沿って、商店や工場、住宅が建つようになり、新しい街並みが出来ていった。
今回のような集中豪雨、山から鉄砲水が小さな用水を滝のように下ってきて、平地に流れ込み、
国道に沿って流れる小川が氾濫する。そして床下浸水。
地元の人はそれを知っていて、低地に家を建てたりはしない。「天災」と思っていたら「人災だった」、ということになる。
昨年、川上さん、川人さん、そして私の三家族で立山に登った時のこと。
トップで頂上に立ったのは、中学校一年生の川上さんのお嬢さん。
脚力では自信のある私でも付いていけない。平地で大人と並んで歩けば絶対勝てない子供たちも、急な坂道だと軽々と登っていく。
私など、少し登っては一休みしないと息が切れ、体がいうことをきかない。
子供たちの体重は私の半分もない。坂道では、体重が重いほど足や膝に重力の負担がかかる。大人は、一歩一歩「どっこいしょ」 と、踏みしめながら登り降りする。なのに子供たちは、身も軽く、ヒョイヒョイと登り、そして降りていく。
【吉村外喜雄のなんだかんだ 第51号】
「野口選手が金メダルを取れたわけ」
アテネオリンピックの女子マラソン。日本時間夜中の二時スタート。
それを是非見たくて、それまでの時間、ダビングしてあった「冬のソナタ」を続けて二巻、
眠い目をこすりながら見たのを覚えている。
レースが始まる前は、英国のラドクリフ選手が金メダルの一番手。ベルリンマラソンで2時間15分台という、
とてつもない世界新記録を出している。
日本選手は、ラドクリフ選手にどこまでついていけるか、という感じだった。
ところが、ラドクリフ選手は30k地点手前で脱落してしまった。日本の代表野口選手は小さい。
身長は150cm程度だろう。いかにも細々としている。
体重はせいぜい40k前後ではないか。それに比べると、ラドクリフ選手は身長はあるし、横幅もしっかりしていて、
体重があるのは明らかである。
体長二ミリの蚤は、30cmは跳ぶ。体長の150倍は跳ぶわけだ。そこで、
DNAなどを細工して体長二mの蚤を作ったとする。この蚤は理屈から言えば300mは跳ぶはずである。
そうはならない。体重が増えた分だけ、かかる重力の負担が違うからだ。
象も平地を走らせれば結構早い。その昔、カルタゴ軍がローマ軍を、象部隊の活躍で散々なまでに破っている。ところが、
重戦車のごとき象も、坂の昇り降りとなると、そうはいかない。
勝敗を分けたのは、アテネの急な坂だった。ラドクリフは、比較的平坦なコースなら男子顔負けのスピードで突っ走れる。
だが、アテネのコースは、マラソン発祥の地マラトンから、32k地点まで延々と登り坂が続く。
起伏に富んだコースでは、体重の差がかかる重力の差となって、勝敗に影響してくる。そして、
ラドクリフ選手の途中棄権というアクシデントになった。
陸運の選考委員は、体重差によってかかる重力の負担の違いが、勝敗に影響することは十分承知していたと思う。 アテネのマラソンコースが起伏に富んでいることを加味して、体重が軽く坂道に強い、高橋選手を代表に選んでいたら、 もしかしたら、金・銀独占していたかもしれない…。
致知11月号 渡辺昇一「歴史の教訓」より抜粋
9月7日の夜、18号台風の影響で、金沢も40mの強風に見舞われた。そんな日に、金沢の奥座敷湯涌温泉で、 同窓会の懇親をやっていた。台風で飛行機が欠航するかもしれないというのに、東京から二人もやって来た。
翌朝、新聞の一面を見てびっくり。中型トラックが横倒しになり、家屋の屋根がめくれ飛んだ写真が載っていた。 V字形の山間の谷間の温泉町。強風が山の上部を通り過ぎて、風が吹かなかったのです。慌てて会社に電話したりしている。
そこで、江戸川柳を一句。
「子は二階 親父は屋根に 嵐の日」
(
バカ息子は吉原の遊郭の二階に上がって遊び呆けているというのに、家では、親父が屋根に上がって、嵐と悪戦苦闘 )
湯涌温泉は、大正初めにドイツで催された鉱泉博覧会で、泉質の良さから「世界三大名泉」に選ばれている。が、
金沢で知る人は少ない。どこの旅館も、浴場に入ると、源泉がひしゃくで飲めるようになっている。胃潰瘍、外傷、
リューマチなどによく効く。
【吉村外喜雄のなんだかんだ 第48号】
「ニセ温泉騒動」
3~4年前の話になるが、ある日突然、山代温泉で、入浴中に浴槽のお湯を誤って肺に吸い込み、 レジオネラ菌に犯されて死亡したというニュースが、お茶の間に飛び込んできて、 循環型温泉の危険性が大きく報道されたことがある。
15年前、我が家を新築したとき、その問題となった循環型24時間風呂を設置し、毎日好きなときにお風呂に入れると、 重宝していた。事件が起きた時、どうしようかと迷ったが、今もそのまま使い続けている。
人生「上り坂」があれば、「下り坂」がある。 ところで、いつも心しておかなければならないのは、思いもかけない「まさか」 という坂があることです。「まさか」の坂は突然やってくる。そしてうろたえることになる。
レジオネラ菌事件だけでなく、突然の「まさか」に見舞われ、温泉旅館の客足が遠のいた事件が、 ここ十年の間に二度もあった。一つは、1995年1月17日の阪神大震災。その後ようやく客足が戻ってきたと思ったら、 1997年、三国沖のナホトカ号遭難オイル漏れ事件。いずれも北陸の温泉町に大きな打撃となった。
二度あることは三度あった。ところが、またも「まさか」のニュースが、突然お茶の間に飛び込んできた。 ”ニセ温泉騒動” である。発端は7月23日の白骨温泉の入浴剤混入告発。 その後全国の有名温泉に飛び火して、新聞雑誌・テレビの格好の餌食となって、今もまだ報道されている。
白骨温泉は、年間43万人も訪れる全国に名だたる名湯。それだけに、世間に与えたショックは大きい。
石川県はご存知温泉どころ、加賀や能登の温泉町の湯量は大丈夫なのだろうか?今から二十年くらい前、
経済が大きく成長していく中で、温泉地を訪れる団体客を取り込もうと、山代、片山津を始め、全国名だたる温泉旅館は、
我も我もと施設を拡充していった。その頃から、湯量不足がちまたのうわさとなっていたのです。
観光客が増えるからといって、それに比例してお湯の量が増えることはない。
温泉施設が拡張すれば、当然源泉が足らなくなってくる。
新幹線や高速道路などは、何キロにも及ぶトンネル工事がついて回る。
工事によって地下水脈がズタズタになり、近くの温泉が枯渇するといった現象が、全国あちこちで起きている。
地震で源泉が枯れてしまったケースもある。こんなことが一般に知られたら大変です。地元では分かっていても、知らぬふり。
乱開発だけが悪者ではない。地球環境に優しいというふれこみで推し進められた、地熱発電所の開発が原因となって、 枯渇してしまった温泉が、全国に少なからずあるというから、泣くに泣けない。
今回の事件が引き金になって、全国にニセ温泉が100ケ所、インチキ表示温泉が26ケ所も見つかった。芦原温泉では、
四軒が水道や井戸水を使用しながら、温泉と表示していた。単なる井戸水を温泉と称して、客を騙し、
入泉料まで取っていたのは許せない。
それに比べれば、湧き出す温泉の色が乳色でなくなったため、入浴剤を入れて白濁させることくらいは、
許せるような気がするのですが… だめ?!
ところで、先般の和歌山沖地震で、和歌山県の某温泉が白骨温泉とは逆に、今まで透明だったお湯が、
牛乳色の温泉が湧くようになって、旅館は大喜び。
金沢市内も、掘れば温泉が湧き、市内には、ホテル、共同浴場、レジャー施設、ゴルフ場など、
30ケ所くらい温泉が湧いている。直径十キロにも満たない金沢。
場所によって、泉質やお湯の色が違うから面白い。
8/ 29北国新聞の記事ほか
6月25日、財務省から、国債や借入金などの国の借金が、ついに700兆円を突破し、過去最大に膨らんだとの発表。
小泉政権のこの三年間だけで、165兆円も膨らんでいる。これは、国民一人当たり550万円の借金になるという。
夫婦子供二人の平均的家庭では、2200万円。
これに、地方自治体が抱える借金、300兆円を加えると、1000兆円にならんとしている。先進国の中ではただ一国、
超債務超過にあえぐ国なのです。
65歳の年金受給者が、毎年二百万人づつ増え続ける。その一方で毎年生まれる赤ちゃんが百万人。
急速に少子高齢化社会へ突き進んでいく日本。
二十一世紀に生きる私たちは、高負担低福祉の、大変厳しい現実を覚悟しなければならないようです。
6月25日の北国新聞より
【吉村外喜雄のなんだかんだ 第46号】
「返済不能!ローン地獄に陥っている日本」
アメリカの大統領がお祈りしている。「神様、どうかイラク問題を解決してください。」神様が答える。「よろしい、
願いを聞き届けてやろう。だが、お前の任期中は無理だよ…。」
韓国の大統領もお祈りしている。「神様、どうか南北問題を解決してください。」神様が答える。「よろしい、
願いを聞き届けてやろう。だが、お前の任期中は無理だよ…。」
日本の総理大臣もお祈りしている。「神様、どうか赤字財政を黒字に変えてください。」神様が答える。「よろしい、
願いを聞き届けてやろう。だが”私の”任期中は無理だよ…。」
三月末、2004年度の国家予算が国会で承認された。一般会計の総額で82兆1100億円。積み上げると、
エベレストの92倍もの高さになる。
それを私達の家計に置き換えてみると、その深刻な財政状態が実感できるのです。
夫の月給は49万3千円(国の税収)、妻の内職が4万5千円(その他収入)、所帯の月収は53万8千円。
毎月のローンの返済と、田舎への仕送り(地方交付税)で40万円が消え、家族が衣食住に使える生活費(可処分所得)
は13万円しか残らない。毎月の生活費の不足分を、借入(国債)で補っているのが現状です。
通院費・薬代(社会保障関係費)に23万4千円もかかるほか、教育費や家の補修(公共事業)などの出費も大きい。 月々に出て行くお金が月収を43万円も上回り、毎月カードローン(国債) で何とかしのいでいるのが現状です。
妻(国民)は、洋服、ハンドバック、海外旅行と、家計が火の車だというのに、贅沢癖はいっこうに治らない。 泥棒から家を守るための防犯費用(国防費)も重くのしかかる。子ども達に車を買い与え(高速道路建設)なければならないし、 我が家の年老いた両親の面倒も見ていかなければならない(高齢化社会)。
我が家の借金は1億円にまでふくらみ、返済能力の限界をとっくに超えて、
返済のメドがまったく立たない。それを承知で今年も又、借金の上乗せをしなければ、我が家の家計は維持できない。
我が家は既に破産状態。夜逃げ寸前の状態なのに、家族は皆、「なんとかなるさ…」と安易に構え、
危機意識が全くないのはどういうことなのか?
でも、家族の誰もが将来に不安を持っているようで、毎月お父さんに預けることになっている、老後のための積立金 (年金)を、出ししぶっているし、お父さんも、今まで預かったお金を他の目的に使ってしまったりして、 将来のための積み立てた預金の残高が、少なくなってきているのを、どう埋め合わそうかと悩んでいる。
■2004年上半期の話題の商品ベスト10 (8/5 読売新聞)
(1)アテネ五輪 | (6)ロードオブ・ザ・リング 王の帰還 |
(2)DVDレコーダー | (7)ハルウララ |
(3)にがり商品 | (8)世界の中で愛を叫ぶ |
(4)べ・ヨンジュン(ヨン様) | (9)バケット定額制 |
(5)ラスト・サムライ | (10)薄型テレビ |
人気商品三位のにがり商品はノエビアも販売しているが、品質が良くお薦めです。
ノエビアの生産拠点は南大東島。大陸棚がなく、五千メートルの深海から直接上がってくる深層水を採取して、
塩やにがりを精製している。体内に不足するマグネシウムを補給し、体脂肪の燃焼を促して、ダイエットを促進する働きをします。
【吉村外喜雄のなんだかんだ 】
「新三種の神器」
昨年から今年にかけて、家電量販店では、「薄型テレビ」と
「デジカメ」、そして「DVDレコーダー」がよく売れている。
消費意欲を刺激し、景気回復の先兵となっている。
”二十一世紀初頭の三種の神器”である。我が家では、デジカメは買い換えて二台目。最初の機種は六十万画素程度だったが、
今の機種は四百万画素。既に六百万画素も発売されているという。
ビデオレンタルショップへ行くと、DVDのコーナーが充実しだした。DVDレコーダーは、画質がいいだけでなく、 一度セットしておけば、毎週のテレビ囲碁や好きな番組が120時間分も、自動録画してくれる。これは便利だと、 昨年の暮れに買って据付けた。今話題の「冬のソナタ」も、録画されたものを見ている。
三種の神器のもう一つ、薄型テレビは「液晶」がいいか?「プラズマ」がいいか?オリンピック需要を当て込んで、 この六月に、松下が液晶を十機種、プラズマを三機種、映像技術を更に改良して、リニューアル発売している。
一昨年の国内出荷は、液晶が前年比62%増の171万台、プラズマが23%増の25万台。
昨年は更に両方とも前年比80%増と、爆発的売れ行き。
しかし、まだまだ高価だし、今後、韓国・台湾製品に押されて、値下がりしそうなので、今しばらく様子を見ることにしている。
ちなみにDVD、昨年は一昨年の2.6倍、220万台売れ、今年は300万台に届く勢いだとのこと。
私の子供の頃は戦後間もなく、食べるものもなく、裸電球一つ、台所には研ぎ出しの流し台が一つ置かれ、 井戸水を汲み上げ、七輪で火を起し、ひっついさん(かまど)でご飯を炊き、 たらいの洗濯板でゴシゴシ洗濯物を洗っていた時代。今はつまみを、ひとひねりするだけで、煮炊き・洗濯が出来る。 それを思うと、私の母親の時代はどの家庭も子沢山で、朝から晩まで家事に追われていた。本当に大変でした。
私が高校を出たての頃、今から45年も前になるが、当時、昭和三十年代の三種の神器は「白黒テレビ、
電気洗濯機、電気冷蔵庫」でした。
当時、トランジスターラジオが大変な人気で、ステレオ装置はまだ高級品、
レコード盤を乗せるだけの小さなプレーヤーを買って、当時流行っていた映画音楽や、ラテン音楽を聴くのが楽しみだった。
昭和四十年代に入って、最大の関心事は、ようやく庶民の手に届くようになった自家用車。「スバル360」「サニー」
「カローラ」などが人気車種であった。その頃の三種の神器は「カー、クーラー、カラーテレビ」
の”三C”である。それから40年経った今、中国が三C時代に入っている。
つい最近、ある家電メーカーが”キッチン版三種の神器”を発表した。
「食器洗い乾燥機、IH電磁調理器、生ごみ処理機」である。
裸電球以外何もなかった時代から、現代のように自家用車から電化製品まで、何でも揃っている時代へ。何もない中から、 欲しいものを一つ一つ買い揃えて、豊かさを手に入れてきた私達の世代。これほどまで世の中が変化し、豊になろうとは…。 過去の歴史には無いことだし、これからもないだろう。そんな時代に生まれ合わせた幸福に感謝している。
[西日本で、いまだに女人禁制が守られているところ]
【吉村外喜雄のなんだかんだ 第31号】
「女人禁制」
5月8日の北国新聞に掲載されていた記事を見て、以外に思った。
大相撲の土俵に女性を上げることの是非を問うアンケートに対する回答である。
■[相撲の伝統(女人禁制)は守るべきと思うか]
全くそう思う | そう思う | その他 | 支持率 | |
男性 159人 | 82人 | 37人 | 6人 | 74.8% |
女性 116人 | 42人 | 34人 | 40人 | 65.5% |
計 275人 | 70.9% |
相撲協会は、過去何度か、太田房江大阪府知事が千秋楽で土俵に上がることを拒み、マスコミの話題となっていただけに、
男性はともかく、女性の支持率の高いのには驚いたし、以外であった。
女人禁制の慣わしは、古くから女性はけがれている、不浄とされ、清浄を重んじる神社の神事から遠ざけられて来た。
けがれの象徴が「血」。女性の生理・出産は不浄とされ、女人禁制の理由にされてきた。
宗教界でも、女性は不浄とする伝統がある。禅僧は修行を通して、あらゆる雑念を打ち払っていかなければならない。
「禁欲生活の支障になる」との理由で、女性を遠ざけてきた。
もう一つの大きな理由は、禅僧は托鉢で施しを受けて、何とか生きながらえている。妻帯し、妻子を養っていく収入がない。
いくら修行僧といえ、身近に若い女性がいれば、男女の恋も芽生えてくるというものです。
同じ5月8日の新聞に、メキシコ五輪金メダリスト三宅義行氏の長女が、金沢で開幕された重量挙げ全日本選手権で優勝し、
アテネ五輪代表入りに大きく前進したとの一面記事。
今回のオリンピックの代表選手。初めて女性選手が、男性の数を大きく上回った。重量挙げだけでなく、レスリングやサッカー、
ソフトボールなど、男性をしのぐ活躍が期待されている。
今まで男性の牙城と言われてきた世界に、どんどん女性が進出して、古い因習の壁が破られてきているのです。
昔は、女性が白山や立山に登ることは許されなかった。今まで頑固なまでに女性の運転手を拒んできた私鉄・JRも、
三~四年前からちらほら女性の運転手が誕生するようになった。
「トンネル工事現場内は女人禁制」の慣習があるが、それもぼちぼち破られつつあり、
女性がトンネルの見学会に参加できるところもある。
相撲協会が、沢山の女性ファンに支えられていることを思えば、いつまでも伝統を固持し続けるわけにはいかないだろう。
こんな文章を書いていて、ふと、近頃は逆に「男子禁制」が増えてきているように思う。
東京私鉄の「女性専用車両」、「女性だけの宿泊ホテルや賃貸マンション」などがそう…。
4月30日から1週間、南の島「パラオ」でスキューバーダイビング。グアムから飛行機を乗り継いで2時間、
太平洋の真ん中のダイビングポイントです。
マリンブルーの海にサンサンと輝く太陽。パラオで潜るのは2回目になります。
大型クルーザーに寝泊りして、ダイビングポイントへ移動。パラオは大物・小物の宝庫。3日間で12本潜り、スキューバーダイブの醍醐味を、
たっぷり味わってきた。
60cmはあるギンガメアジの大群、1メーター以上のバラクーダ群れ。それに、お目当てのマンタも間近に見ることができた。
4日目は、スキンダイブ。世界に一箇所だけという、湖に生息するクラゲの大群を見たり、カヌーで遊んだ。思い出に残る感動の4日間でした。
私がスキューバーを始めたのは46歳の時から。現在までに120本は潜っています。
【吉村外喜雄のなんだかんだ 第29号】
「海外旅行」
ゴールデンウイークは、どのような過ごし方をされたでしょうか? 私の近所の夫婦は、石垣島へ出かけた。
20日間ゆっくり滞在し、のんびりしてくるとのこと。
私はといえば、昔から観光スケジュールがビッシリ組まれたツアーはあまり好きではない。何もかもお仕着せで、
セカセカしていて、免税店を何ケ所も付き合わされたりして、自分流に旅を楽しめない。
例えば、イタリアへ行ったときもツアーには参加しなかった。私一人をローマに残して、みんなポンペイ遺跡へ。
私はビデオ片手に、ローマの街中をのんびり一人歩き。
二千年の歴史が、目の中に飛び込んでくる。
当日は日曜日。歴史の重みを感じる教会で日曜礼拝。こだます賛美歌、何とも言えない敬けんな気持ちになり感動!
下町では結婚式に出くわし、高台の広場では、子どもたちの仮装大会だろうか?
蝶ネクタイの少年、真っ白なロングドレスを着飾った少女を伴った家族連れで大にぎわい。ラッキー!
観光客が訪れない下町をうろつき、地元の暮らしを垣間見て、様々な発見をするのが楽しい。
この五月の連休は、成田や関空から海外へ出かける日本人で溢れかえった。
昨年は、SARSの影響で海外へ出かける人は少なく、”安・近・短”で済ます家庭が多かった。
今年はその反動からか、昨年の二倍近くの大変な賑わいだったという。人気の上位は欧州8万人、韓国7万人、
中国5万4千人がベスト3で、ハワイ、アメリカ本土、グアムがそれぞれ4万人と続いた。そんなわけで今年の連休は、
財布の紐がゆるんで”高・遠・長”になった。
一昨年の2002年、海外に出かけた日本人は1,652万人。
これに対して日本を訪れた外国人旅行者は三分の一の523万人。旅行者受け入れ数では、世界の33位と低い。
では、日本に来る外国人では、どこの国の人が多いのでしょうか?
アメリカ人がトップとばかり思っていたら…
(1) 韓 国 | 134万3千人 | (5) 英 国 | 39万1千人 | |
(2) 台 湾 | 83万8千人 | (6) フイリピン | 18万6千人 | |
(3) 米 国 | 71万5千人 | (7) オーストラリア | 15万2千人 | |
(4) 中 国 | 44万4千人 | (8) カナダ | 12万9千人 |
読売新聞「なんでもランキング」より
【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「人もフェロモンを出す 2」
生まれて間もないアザラシの子供が、親からはぐれてしまうと、死が待っている。はぐれた子供が乳をもらおうと、
必死によそのメスアザラシに近づいても、縄張りを侵したと、跳ね除けられてしまいます。母親に再会できなければ、
誰にも相手にしてもらえず、飢え死にするしかないのです。NHKの番組で放映していた。メスアザラシは、
自分の生んだ子供の匂いと、よその子供の匂いを嗅ぎ分け、よその子は相手にしないのです。
人の赤ちゃんは、母親の胎内にいるとき、母親の匂いと心音、血液が流れる音を知っているという。
生まれて間もない赤ちゃんが、教えられなくても母親の乳をまさぐり、飲もうとするのは、乳が母親の匂いだからです。
母親の匂いは、人間が最初に嗅ぐ匂いであり、成人して母親を想いおこすとき、この匂いが記憶と結びつくのです。
哺乳動物は、オスがメスの匂いを嗅ぎつけて寄っていくのが一般的です。人間も同様で、
思春期になると男も女もフェロモンを発散するようになる。男は女の匂いに魅せられて近づき、
女は男の体臭を嗅ぎ分けて選択する。
フェロモンの発散が弱い男や女は、性的魅力が伝わってこないため、異性を魅きつけることができないのです。
男女に限らず香水を好んで使う人は、異性への関心が高く、性的願望も強いといえます。欧米の女性は、
社交場に出る前に、ジャコウジカやマッコウクジラなどの動物系の香水を使い、異性を魅きつける材料にしようとます。
ジャコウは、オスのジャコウアゲハが一万分の一グラムを分泌しただけで、
10キロメートル先のメスが気づくと言われています。
こういった香水は、人間が発する性フェロモンの代役を果たしているのです。
少し前ですが、ノエビアにも女性を引きつける男性用コロンと、男性を刺激する香水が商品として売られていました。
発売直後、全国二千名が集うノエビアのコンベンションで、ドレスアップした多数の代理店所長が、この香水を付けてきたため、
その刺激臭に当惑したことを思い出します。
4年前に続き、今回は二度目。ラスベガスは生き物のように成長し、変化し続けている。
今、ラスベガスで最も勢いがあるのは「MGM」。アトラクション「海賊船の戦い」で有名な、客室数2885室の「トレージャー・アイランド」
他、計三つのホテルを買収した。そして、新たなイメージのホテルに作り変えようとしている。
そのあおりで、二日目の夜楽しみにしていたアトラクション「海賊船の戦い」は、その日の八時台を最後に幕を閉じてしまい、
妻に見せることが出来なかった。
一方、三つのホテルを売却したオーナーは、はす向かいのメイン通りに面したゴルフ場をつぶして、 六千室を超えるラスベガス最大級のホテルと、全く新しいイメージのアトラクションランドを建築中です。その他、 新築中や増築中の巨大ホテルがそこかしこに垣間見え、脱皮・拡大を続けている。そこにラスベガスの人気の秘密がある。
ホテルに隣接している東京お台場と同じタイプのショッピングモールは、「フォーラムショップス」や「ビア・ベラジオ」 などが有名ですが、新たにアラジンに誕生した、「デザート・パッセージ」という巨大ショッピングモールが、観光客を引きつけていた。
【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「人もフェロモンを出す」
男はなぜ女性にひかれるのだろう。もちろん女性も同様に恋をする。若い男女が出会う。二人はまず
「視覚」を最大限に働かせて、相手の印象を素早くまとめる。
次いで言葉を交わし、「聴覚」を働かせ、第一印象を補う。「嗅覚」
も働かせる。
「健康情報-29」~遺伝子から見た恋愛論4~で、フェロモンの役割を紹介しました。
私達の体内には、「MHC」というたんぱく質の遺伝子があります。 臓器移植をするときに、臓器の相性を決める物質として発見されました。一方男女の間では、この「MHC」 という遺伝子が相違していればいるほど、引かれあうということがわかったのです。
血のつながった親子兄弟は、「MHC」が似ているため、恋に落ちることはないのです。 近親結婚の弊害を防ぎ、
強い子孫を残すために重要な役割をするのです。
異性を引きつけるフェロモンは、「MHC」がフェロモンを包み込んで、尿や汗に混じって 体外に出てきます。
異性にだけ働きかける、性的魅力をかもし出すフェロモンをかぐと、
性行動などの本能にかかわる部分である脳の「視床下部」が反応します。そして、
熱にうかされたように、 恋に落ちることになるのです。
フェロモンは、多くの動物が異性を引きつけるために出している物質で、一般に「性的な魅力をかもし出すにおい」 と思われています。実際は、まったく匂わない物質なのです。
砂漠の中のラスベカスは真夏。冷房の効いたホテルから一歩外へ出ると、
44度の日ざしがジリジリと照りつけ、肌を刺す。サウナに入ったときのあの感覚です。
隣のホテルまで歩くと10分はかかるのに、みんな歩け歩けなのです。
ところが、空気が乾燥していて汗がほとんど出ない。一日中、ハンカチを使うことがありませんでした。
旅を終えて帰りついた関西空港は29度。ほとんど冷房が効かず、そこはスチームサウナ。
アタッシュを押して移動している内に首筋やわきの下がじっとり汗ばみ、ハンカチが離せない。日本はなんて暑いんだろう!
【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「セックスアピール」
ラスベガスで圧倒されたのは、白人や黒人の豊満な肉体。
馬鹿でっかい体の男や女がやたらに多いのです。そして、女性の美しく大きく盛り上がった胸元。
いやがうえにも目が胸元に吸い寄せられていく。
女性は年頃になると、スカート丈が可能な限り短くなり、胸元や背中の開いた服装を好んで装うようになります。
体のラインを強調し、よりセクシーに見せようとします。暑さが増すと共に、肩や背中、お腹など、素肌を大胆にさらけ出して、
かっ歩する女性が目立ちます。男性の視線を自分に引きつけ、挑発しているように見えるのです。
自分の容姿を売り物にしている"かのう姉妹"を見ていると、
そんな気がします。男性もこれと似たところがあって、ボディビルで鍛えた肉体美を見せびらかします。
周りにその若々しく魅力的な美しさをアピールし、異性の視線を引きつけようとする。女性の本能が男性を、
男性の本能が女性を魅惑する、動物的本能からくる行動なのでしょう。
人間と猿を比較するような言い回しをして、女性の皆さんに叱られそうですが、猿のメスは発情すると、
お尻を真っ赤に腫らしてオス猿に発情したことを知らせ、関心を引こうとします。
猿は四つ足で歩行するため、オス猿の目線の高さがメス猿お尻の高さと同じで、その変化に刺激されるのです。
ところで人間はといえば、
複数の異性の中から自分の子孫を残すにふさわしい相手を一人選ぼうとします。そのとき、
男性は女性の美しさを選択の基準にするようです。
男性の視線を引きつけて、その魅力をアピールするための大きな武器は、自らの魅力的な肉体です。 その魅力をアピールする武器の一つが、男性の目線の高さ、つまり視線が最も注がれやすい胸元になるのです。
人類は、進化の過程で直立歩行するようになりました。必然的に男性の目線が
高くなり、女性の胸の辺りに注がれます。心理学者の説によると、胸のふくらみの谷間が、女性のお尻のふくらみを連想させ、
男性の性的欲求を刺激し、誘惑し、引きつける武器になるというのです。
人間に近い猿。胸がふっくらと膨らんだメス猿が皆無なのは、そういうことなので
しょう? 以上 吉村の”学説?”です。