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第四高等学校生徒11人・琵琶湖遭難事件

■琵琶湖周航の歌

我は湖(うみ)の子    放浪(さすらい)の
旅にしあれば    しみじみと
昇る狭霧や    さざなみの
滋賀の都よ    いざさらば

松は緑に    砂白き
雄松が里の    乙女子は
赤い椿の    森蔭に
はかない   恋に 泣くとかや

波のまにまに    漂えば
赤い泊まり火    懐かしみ
行方定めぬ    浪枕
はかない恋に    泣くとかや

瑠璃の花園    珊瑚の宮
古い伝えの    竹生島
仏のみ手に    いだかれて
眠れ乙女子    安らけく


2115 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「第四高等学校生徒11人・琵琶湖遭難事件」

昭和16年4月6日(私が生まれる半年前)の春休みに、
金沢第四高等学校の漕艇部員8人に京都帝大の学生3人
を加えた11人が、午前7時に琵琶湖を大津に向かって 
漕ぎ出して、遠漕訓練を行った。  

   IMG_4943  

午後6時になっても到着しなかったため、滋賀県警が捜索を
開始。翌早朝より大がかりな捜索が行われ、午前10時頃
に定置網にオールが、午後2時頃に遭難者の持ち物と思わ
れる下駄が発見された・・が、11人の生存は絶望視された。

     IMG_4942 
      

比良山から吹き下ろす3月の突風「比良おろし」によって
ボートが転覆したのです。引き続き捜索が行われたが、
11人全員の遺体が見つかるまで、更に2ケ月を要した。

この遭難は、関西以外ではあまり取り上げられなかった。

その後、犠牲となった四高の生徒を痛む「琵琶湖哀歌」が
東海林太郎と小笠原美都子によってレコード化されると、
そのヒットに相まって全国に知れ渡った。

尚、昭和46年に加藤登紀子が歌い大ヒットした「
琵琶湖
周航の歌」は、遭難から25年も遡る大正6年に、阪高の
ボート部員小口太郎か作詞、吉田千秋が作曲したもので、
以後永く全国のボート部員に歌い継がれてきた。
四高の遭難者を痛んで作られた歌ではないのです。

萩の浜に「四高桜」と銘した追悼の石碑が建てられ、
犠牲になった11人の遺影は、金沢大学のボート庫に掲げ
られている。

( 写真 )

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