1808 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「懐かしの金沢の市電」
金沢の中心商店街・香林坊(石浦町)に生れ育った私。
当時、自宅前の国道に路面電車が走っていた。
朝5時過ぎ、1番電車がキーキーゴトンと車輪をきしませ
通り過ぎる音で一度目が覚め、またトロトロ眠り、7時に
起床する毎日でした。
当時、香林坊交差点の真ん中に、丸いトーチカのような
進路切り替え所が設けられ、その中に人が入って、広阪
から兼六園下方面に向かう電車のポイントの切り替えを
行っていた。
夏、トーチカの中は、アスファルトの照り返しで蒸しかえ
った。クーラーのなかった時代です・・氷柱と扇風機で
暑さを凌いでいた。
交差点の信号が停電や故障の時は、おまわりさんが
トーチカの上に立ち、手信号で笛吹いて交通整理をして
いたのを記憶している。
私が高校に通っている頃、最新モデルの電車が市内を走っ
た。これまでの電車とは違い、揺れも少なくキーキーゴト
ンの走行音も静かだった。
団地が出来始めた。それと共に自家用車の普及が進み、
市内は交通渋滞に悩まされるようになり、狭い道路を占領
する市電は、度重なる雪害もあって、邪魔者扱いされるよ
うになった。
長年金沢市民の足として利用されてきたが、
昭和40年6月、兼六園下から小立野台への通称尻垂坂
で、 電車が暴走脱線するという、前代未聞の事故が発生
した。
この事故が、廃線決定の引き金になったと言われている。
そして昭和42年、市電は粟ヶ崎方面の浅野川線と、鶴来
方面の石川総線を残して、金石線を含め全線廃線になり、
歴史を閉じた。(写真は廃線をなごんで市内を走った花電車)
現在、富山市の路面電車ライトレールが、市内観光の目玉
として脚光を浴びている。金沢にも、市電復活を望む声が
聞こえてくる。