[ 本土復帰後の辺野古 ]
復帰後の基地周辺には、変わらない現実があった。
辺野古住民が、キャンプシュワブの海兵隊員に殺され、
持っていた20弗を奪って逃げるという事件が発生した。
犯人のアメリカ兵は日米地位協定により、日本の法律で
裁くことが出来ず、事件の詳細も明らかにされなかった。
殺されたことが新聞に載っただけ・・謝罪もなく、抗議
することも許されず、ただ泣き寝入りするだけ・・
口惜しさだけがつのるのです。
1975年ベトナム戦争終結・・基地から米兵が去って、
米兵相手の店は次々閉められていった。
他の町からうらやましがられていた辺野古・・
そのにぎわいは、20年も続かなかったのです。
その年、1975年に海洋博が開催された。沖縄県民の
基地負担は変わりなく続く。生活道路上空を越えていく
砲弾訓練。暮らしの近くで行われるパラシュート訓練。
[ 普天間基地の移設先に辺野古が・・ ]
1995年「沖縄県民総決起大会」が開かれた。
アメリカ兵による少女暴行事件で、普天間基地の移設先と
して、辺野古の名前が突如全国に知れ渡るようになった。
辺野古への移設を「反対する」か「容認する」か・・
一貫して反対を訴え続けてきた住民たち・・
「基地を絶対造らせないという思いは、戦争です。
基地があるということは、基本的に戦争が起こる要因に
なる可能性があるということです」
反対派の多くは沖縄戦を経験し、戦後辺野古の海でエビや
カニを採って命をつないだ、お爺お婆の世代なのです。
先人たちが大切に守ってきた海を、基地に取られてしまう
のは許せなかった。
一方、移転に積極的な住民もいた。
移転で、辺野古住民が経済的に安定するだけでなく、
政府の振興資金で、観光・リゾート開発が可能になるなど
千載一遇のチャンスと考えた。