28日、ハンセン病元患者の家族らが国に
損害賠償を求めた判決が熊本地裁であった。
戦後直ぐ治療法が確立されたにもかかわらず、
国の間違った隔離政策がその後50年続き、
患者家族への差別被害の発生を放置 して
きた。
原告541人に国の責任を認め、 国に計
3億7千万円の賠償を命じた。
1721 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「今も続く、元ハンセン病患者
家族への偏見と差別(2)」
「父が連れて行かれた時、私は一緒に行くと泣いた
ようです。でも覚えているのは、家の中が雪が降
ったように真っ白だったことだけです」
体験を語る原田信子さん(75)の脳裏には、
白衣を着た人たちが、噴霧器で家中を消毒する姿が
焼き付いている・・昭和26年7歳の時でした。
町内に直ぐ「らい病患者が出た」ことが知れ渡っ
た。母は親戚、近所付き合いとも拒まれ、勤め先の
海産物加工場を解雇された。
母は行商に出たが、母子の生活は困窮した。
食べる物がないとき、母は「死のう、死のう」と言
った。私は「いやだいやだ」と泣いた。
小学校では「そばに来ると菌がうつる」といじめら
れ、雑巾を投げつけられた。いじめが怖く、学校に
行けなくなった。家の裸電球の下で一人泣いた。
母は父のことを一切言わなかったが、成長する中で
だんだんと分かってきた。
父が隔離されている青森の療養所に、何度か行った
が、父は病気がうつると思い込んでいて、決して
自分に触れず、食器に触ると怒鳴った。
中学卒業後に知り合った男性と、18歳のとき結婚
する際は、事情を説明し父にも会ってもらった。
理解してくれたと思っていたが、その後夫は様変わ
り。
「あんな病気の親から貰ってやったのに」とベルト
で殴るなど、ひどい暴力をふるうようになった。
私は次第に「こんな辛い目に合うのは父のせい」と
恨むようになった。父に面会するたびに「あんたの
せいで夫に叩かれる」と八つ当たりした。
夫と別れたかったが、「自分は父を取られて辛かっ
た」ので、子どもたちのことを思い我慢した。
離婚したのは、子どもたちが成人した後でした。
母は95年に他界。父も2001年の熊本地裁判決
の前に、療養所で亡くなった。父とは最後まで親子
らしい関係を作れなかった。父も辛かったでしょ
う。
国の間違った隔離政策で、家族がどれほど辛い思い
をしてきたか・・分かってほしいのです。