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2019年06月 アーカイブ

2019年06月03日

過疎化で集落が消滅する

1712  【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「過疎化で集落が消滅する」

令和元年、日本は世界のどの国も過去経験したこと
のない 「超高齢社会」を突き進んでいる。

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国の調査では、2015年現在65歳以上が半数を
占める「限界集落」が全国に1万5千600あり、
この5年間で174集落が消滅した。
近い将来消滅の恐れがある集落は、3千を超えるという。
戦後、日本海側で唯一人口が増加し続けた石川県も、 2005年(平成17)を境に人口減少に転じ、
2040年には100万人を割り込み、97万4千人になるという。
更に2060年には、33%減の79万人まで減少するという。 
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65歳以上の老年人口の割合は、2010年の24%が、2040年には36%にまで大幅に上昇。
中でも深刻なのは奥能登・・
2040年の人口は現在の半分以下になってしまう。
能登の過疎化に歯止めがかからず、農業を担うのは年寄りで、結婚適齢期の女性不足が深刻な問題を投げかける。嫁がいなければ都会に出るしかない。

働き手の若者が都会に出ていったら、町は右を見ても左を見ても年寄りばかりになり、未来はない。

子どもと老人の生活を支える15~65才の労働人口は42%まで減少し、農業だけでなく全ての産業が深刻な人手不足に悩まされるようになる。
後継者がいなければ、事業を畳むしかなくなる。

危機意識はあっても打つ手がない。
まだまだ先のことと気づかぬ振りをして、1日伸ばしにしていると「ゆでカエル」になってしまう。
このまま、人口減少に歯止めがかからなければ、石川県に将来はない。

2019年06月07日

わずか数家族の過疎の町に・・

1713 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「わずか数家族の過疎の町に・・」

昭和16年、旧石浦町(現在香林坊2丁目)の商店
街に生まれた私・・
昭和30年当時、私が中学生の頃の香林坊は、
商店や飲食店、映画館などが軒を連ね、約140
世帯の住民が住む町内は 活気にあふれていた。

私と兄弟が通った小学校は、武家屋敷の一郭にあっ
た長町小学校。放課後運動場は、大勢の子どもたち
が暗くなるまで遊んでい た。

子どもの頃、石浦神社の春と秋のお祭り、6月の
百万石
祭りには、子どもたちが、町内の軒先に
しめ縄を張って歩いた。
市のお祭りには市内の各町会から「子供太鼓行列」
が繰り出し、太鼓を叩き、提灯を掲げ、青年部と
婦人部が付き添って、市内を練り歩いた。

昭和38年、国道の拡張に伴う商店街の再開発で、
私の家は前半分が道路に取られ、4階建のビルに
生まれ変わった。
その時の再開発で、町内約4
分の1の世帯が郊外に
引っ越していった。
昭和40年頃から、市の郊外に大規模住宅団地が
出来始め、市の中心部の人口が減少して、櫛の歯が
抜けたようになった・・ドーナツ現象である。

昭和50年頃から、香林坊に都市銀行や生保の会社
が次々進出し、町会から住人が消えていった。

昭和61年には、大和デパート本店が香林坊に移転
してきた。 真向いに東急109と、東急ホテルが建った。
香林坊の住人は、土地と店を売り渡し、郊外に
引っ越 していった。住人のいない町になった。

最後まで残ったのは私の家と、お隣の傘屋さんの
Tさん、曾祖父が明治に、石川県で最初に自転車店
を開業したIさん、そしてお多福香林坊店の3階に
一人住むお爺ちゃんの、3家族と1人のみの過疎の
町になった。
市中心部の過疎化が進み、90年の歴史ある長町
小学校は、
近隣の小学校3校まとめて廃校になり、
新設の 「中央
小学校」に統合された。

町会が消滅した後、取り残された私の家族は、
2人の子供の将来を考え、郊外に移転することにし
た。その後Tさん、Iさん家族も郊外に移転して
いった。
旧石浦町と四校記念公園に面した旧仙石町、2町
合わせて155世帯の故郷が消滅してしまったのです。

2019年06月10日

朝ドラ・おしん再放送

1714 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「朝ドラ・おしん再放送」

毎週月曜から土曜、朝7時15分から「おしん.」
が再放送されている。

昭和58年(1983)4月に「おしん」の放送が
始まると、瞬く間に「おしん症候群」と呼ばれる
ブームが巻き起こった。

おしんの奉公先・山形県酒田市には、団体がバスを
連ねて押しかけ、駅前には赤ん坊を背負ったおしん
像ができた。

銀山温泉の旅館では、わざわざ「大根めし」が
メニューに加えられ、各地でおしんの名を付けた
土産物が売られた。

明治から昭和の時代を、おしんという一人の女性が
小作農家の貧しさに耐えながら生きる姿は、修身が
復活したかのように受け取られた。

乙羽信子が演じるおしんは、晩年にかけて
スーパーの仕事に専念する。すると視聴者から
「商売の鬼になっている」「こんなおしんは見たく
ない」といった反響が増えてきた。

あの頃の日本人は金もうに走りすぎて、自分を見失
ってはいなかったか・・金儲けと、人としての幸せ
の区別がつかなくなってはいなかったか・・

外国で放送されると信じられないことが起こった。
イランでは最高視聴率が82%、タイでは81%、
北京でも76%を記録したという。

耐えるおしん、夢を捨てないおしん、優しさを失わ
ないおしんの姿が、言葉や宗教を超えて、人々に
届いたのだろう。
                                            日経新聞・橋田寿賀子「私の履歴書」より

2019年06月13日

生きることすべてが修行

1715 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
幸せな人生 「生きることすべてが修行」

以下、正眼寺住職・正眼僧堂師家・山川宗玄師の
若き修行僧時代の体験講和から・・

禅僧は、悟りを得るために厳しい修行を続ける。
それぞれ煩悩に囚われた生き方”小我(自我)”の
自分から、自分の本来の姿、大いなる存在”大我”
に目覚めようと修行する。

中国の「易経」に『窮すれば通ず』という言葉が
ある。
窮して窮して窮し尽くした・・その時どうするか?
行きつくところまで行って、どうにもならなくなっ
て、それでもあきらめない!

すると、何かがフィッと変化する。
思いもかけない活路が開けてくるのです。
禅宗における修行とは、まさにそれです。
論理を超えた世界なのです。

40年前腰を痛め、簡単には治らない状態の中、
修行も限界がきて、これ以上は身体か持たない・・
腰を病み、足がしびれるのをこらえながら、作務や
托鉢を続けてい た。

夜坐が終わるのは夜中の1時半、起床は3時半。
床に入る時間はわずか2時間・・これを毎日やる。
座禅3時間、托鉢に行く。毎日やればいかに若い僧
でも身体がおかしくなってくる。

そんな日々が続き、傷が化膿しても治らなくなっ
た。このままでは身が持たない。
死んでしまえば、修行も何もあったものではないな
い。そこで「何とかしなければ」とあれこれ考えた。
限界まで座禅や作務をして、意識不明になって倒れ
るのはどうか?
救急車で病院に運ばれ、入院することになるだろう。
そうすれば、医師の診断書で堂々と体を休めること
が出来る・・これが、考えた末の結論でした。

翌日から実行に移した。
座禅や作務を、誰よりも熱心にギリギリまで頑張っ
た。托鉢は、与えられた区域に、更に隣の町まで
行った。
こんな苦行を続けたら、早くて3日後、遅くとも
1週間後には倒れて、病院に運びこまれるだろう。

ところが、1週間経っても倒れなかった。
そこで又考えた・・「ガンバリが足りない」と!
作務も托鉢も今以上に頑張り、睡眠時間も短くした。
 
                                                                             次号に続く

2019年06月14日

全米オープン開幕

                       17年        18年       19年

マスターズ     ガルシア      リード       ウッズ

全米プロ        トーマス      ケプカ       ケプカ

全米OP         ケプカ        ケプカ          ?

全英OP        スピース      モリナリ       ?



1716 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「全米オープン開幕」

全米オープン初日、日本期待の松山英樹は1イーグ
ル、3バーディ、3ボギーの2アンダー12位で、
トップとは3打差の好位置に付けてスタートした。

日本からは松山のほか3
人が参戦しているが、
日本期待の松山は、一昨年2017年全米OPの
最終日8バーディ66の猛チャージで、ケプカに
次いで2位になり、1980年の全米の青木功に
並ぶ、日本勢メジャー最高位につけている。

今月、全米OP直前のメモリアル・トーナメントで
3日目に64をマーク、首位と4打差の3位からの
逆転に挑み、6位に終わっている。

4度のトップ10入りの実績を持つ松山秀樹。
7年連続の出場の今年に期待するのです。

期待の日本勢は、日本ツアー賞金王で全米2度目の
市原弘大、今平周吾、堀川未来夢の3人。
まず予選通過が目標です・・

2019年06月16日

生きることすべてが修行(2)

1717 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
幸せな人生
「生きることすべてが修行(2)」

以下、正眼寺住職・正眼僧堂師家・山川宗玄禅師
若き修行僧時代の体験講和・・前号の続きです

限界まで座禅や作務をして、意識不明になって倒れ
るのはどうか?
救急車で病院に運ばれ、入院することになるだろう。
そうすれば、医師の診断書で堂々と体を休めること
が出来る・・これが、考えた末の結論でした。

しかし、いくら頑張っても倒れない・・
3週間過ぎた日の夜坐、同僚が引き揚げ、一人取り
残された。その夜は満月、夜中の12時を過ぎ、
時計が2時を知らせた・・
今から寝て”も”1時間半。

そのとき「1時間半”しか”寝る時間がない」とは
思わなかった。「1時間半も」の言葉が出た。
何故””が口から出たのか? 今もってわからな
い。
自分の心が「1時間半も寝させていただく」に変化
していたのです。
その言葉が口から出た瞬間「もう倒れはしない、
大丈夫だ」と思った。
「修行しても倒れない」と思ったのです。

その後も修行に励み、腰痛も快方に向かった。
ふと気づいたら腰痛が消えていた。厳しい修行が
背骨の周りの筋肉を鍛え、完治したのです。

自分の心が「1時間半も休ませていただく」に変化
してから、今まで見えなかったものが見えるように
なった。どうして、そう思うようになったのか?

これが”悟り”なのか?修行を続けてきたからなの
か? 「授けられた」としか言いようがなかった。

                                                                  次号に続く

2019年06月18日

生きることすべてが修行(3)

1718 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
幸せな人生
生きることすべてが修行(3)」

以下、正眼寺住職・正眼僧堂師家・山川宗玄禅師
若き修行僧時代の体験講和・・前号の続きです

修行時代、管長の運転手になり、様々な行事につい
ていった。管長の講演・・開催地や主催者が変われ
ば、講演の内容も演題も変わった。
演題は違っても、話の内容は7~8割同じだった。

何度も同じ話を聞くうちに、後の流れがわかってく
る。始めの頃は熱心に聞いていたが、回を重ねる
うちに、退屈して居眠りするようになった。

ある時、管長の講演を何度も聞きに来ている社長
さんに会った。その社長さんに、私はうっかり
『7~8割同じ話ですよね』と口を滑らせた。

社長さん『その通りですね・・でも、毎回違います
よ』
それを聞いた時私は”ゾクッ”とした。
私は、今日も同じ内容と、寝て聞いていたのです。
社長さんは、真剣に聴いていて『毎回違っていた』
と・・
内容はおおむね同じなのに、何が違ったのか?
それは、聴いている社長さんが変化していたので
す。同じ話を、前とは違う聴き方をし、学んでいた
のです。
修行僧は、毎日定められた時間に起床し、座禅を
組み、作務をし、同じ日課を繰り返しているが、
日々新しく変化していく・・それが修行なのです。

2019年06月24日

今も続く、元ハンセン病患者への偏見

6月28日、元患者の家族が
一人当たり550万円の損害賠償金と
謝罪を求めた判決が熊本地裁で
言い渡される。

 

1719 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「今も続く、元ハンセン病患者への偏見」

昨年9月、岡山県瀬戸内海にある、国立ハンセン病
患者隔離療養所・長島愛生園を訪問見学した。
国の無理解から、生涯を島で暮らすことを強いられ
た、元患者の生々しい体験談を聴いた。
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日本のハンセン病(らい病)患者は、1907年
以降、国は「恐ろしい伝染病」として89年の長き
に渡り、患者を強制的に隔離し、一生出られなくす
る政策を続けた。

1945年(S20年)アメリカで特効薬が開発さ
れ、100%完治する病気になった。
更に、人に伝染しないことも明らかになった。

にもかかわらず、国の誤った隔離政策は、1996
年に「らい予防法」が廃止されるまで、以降50年
も続けられたのです。
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現在、日本のハンセン病(らい病)患者はゼロ。
ところが「恐ろしい伝染病」との風評と誤解は、
現在も根強く、元患者の子どもや家族が、差別と
偏見にさらされ、苦しんでいるのです。

国の誤った政策が長年放置されたことで、患者と
家族は周囲の誤った知識や思い込みで、いじめに
就職、結婚など、差別を受け続けているのです。 
                                                   
         読売新聞

2019年06月27日

今も続く、元ハンセン病患者家族への偏見と差別

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【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「今も続く、元ハンセン病患者
                     家族への偏見と差別」

ハンセン病(らい病)患者の家族は、国が長く
家族の救済を怠ってきことによる差別や偏見で、
地域社会から排除されてきた。

家中を消毒され、家族は「バイ菌」扱いされ、
いじめられた。嫁に行った娘は子どもが作れないと
離婚に追い込まれた。

生まれた子どもは「未感染児童」として潜在的患者
扱いを受けた。差別を恐れた子どもや家族は、親の
病気をひた隠しにして生きていくしかなかった。
 
隔離は地域社会に見せつけるように行われ、患者探
しも奨励された。家族も国の隔離政策の標的にされ
たのです。
らい病患者が出た家の近所は、らい病への誤った
恐怖を植え付けられた上に、家族に近づけば自分
たちも同じ目に合うと、偏見は更に助長された。

国は2001年に隔離政策の過ちを認め、元患者ら
に謝罪し、補償に乗り出したが、あれから18年、
ハンセン病患者家族の苦しい境遇には、目を向けよ
うとはしなかった。

                                                                 6月20日 読売新聞

2019年06月29日

今も続く、元ハンセン病患者家族への偏見と差別(2)

28日、ハンセン病元患者の家族らが国に
損害賠償を求めた判決が熊本地裁であった。

戦後直ぐ治療法が確立されたにもかかわらず、
国の間違った隔離政策がその後50年続き、
患者家族への差別被害の発生を放置 して
きた。
原告541人に国の責任を認め、 国に計
3億7千万円の賠償を命じた。


1721 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「今も続く、元ハンセン病患者
                   家族への偏見と差別(2)


「父が連れて行かれた時、私は一緒に行くと泣いた
  ようです。でも覚えているのは、家の中が雪が降
  ったように真っ白だったことだけです」

体験を語る原田信子さん(75)の脳裏には、
白衣
を着た人たちが、噴霧器で家中を消毒する姿が
焼き付いている・・昭和26年7歳の時でした。

町内に直ぐ「らい病患者が出た」ことが知れ渡っ
た。母は親戚、近所付き合いとも拒まれ、勤め先の
海産物加工場を解雇された。

母は行商に出たが、母子の生活は困窮した。
食べる物がないとき、母は「死のう、死のう」と言
った。私は「いやだいやだ」と泣いた。

小学校では「そばに来ると菌がうつる」といじめら
れ、雑巾を投げつけられた。いじめが怖く、学校に
行けなくなった。家の裸電球の下で一人泣いた。

母は父のことを一切言わなかったが、成長する中で
だんだんと分かってきた。
父が隔離されている青森の療養所に、何度か行った
が、父は病気がうつると思い込んでいて、決して
自分に触れず、食器に触ると怒鳴った。

中学卒業後に知り合った男性と、18歳のとき結婚
する際は、事情を説明し父にも会ってもらった。
理解してくれたと思っていたが、その後夫は様変わ
り。
「あんな病気の親から貰ってやったのに」とベルト
で殴るなど、ひどい暴力をふるうようになった。

私は次第に「こんな辛い目に合うのは父のせい」と
恨むようになった。父に面会するたびに「あんたの
せいで夫に叩かれる」と八つ当たりした。

夫と別れたかったが、「自分は父を取られて辛かっ
た」ので、子どもたちのことを思い我慢した。
離婚したのは、子どもたちが成人した後でした。

母は95年に他界。父も2001年の熊本地裁判決
の前に、療養所で亡くなった。父とは最後まで親子
らしい関係を作れなかった。父も辛かったでしょ
う。
国の間違った隔離政策で、家族がどれほど辛い思い
をしてきたか・・分かってほしいのです。

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