1706 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「兼六園の菊桜」
兼六園の菊桜は、昭和45年に枯れ死していて、
現在の菊桜は2代目です。
江戸時代に前田家が京都御所から賜った、歴史ある兼六
園の菊桜。昭和3年に国の天然記念物に指定された。
京都の造園業「植藤造園」の家系・14代佐野藤右衛門
が、兼六園の菊桜を一目見るなり「余命いくばくもない
、接ぎ木をして残さなければ絶えてしまう」と警告。
その後何度も金沢を訪れ、昭和6年接ぎ木の枝を京都に
持ち帰り育てた。ところが、せっかく育てた貴重な桜が
、戦後の混乱期に行方不明になってしまった。
息子さんの15代籐右衛門は、父の思いを継ぐべく、
昭和34年から「菊桜の枝」を京都に持ち帰り、接ぎ木
を始めた。しかし、2年続けて失敗に終わった。
兼六園「それだけやってもダメならあきらめるわいね・・
親桜が弱っているので、接ぎ木のためとはいえ、もう
枝を切らんといてほしいがや」と・・
籐右衛門は「最後にもう一度だけ!」と頼み込み、
これが成功しなければあきらめよう・・
朝日が出る夜露がまだ光っているときに枝を切り、
270キロ離れた京都に、急ぎ持ち帰った。
持ち帰った10本のうちの1本が、奇跡的に育ったので
す。
「これでダメやったら、兼六園の菊桜は途絶えてしまう。
こっちも必死ですわ・・夜半に雨の音がすれば、飛び
起きて畑に走ってビニールで覆い、虫が付かないよう
手当をしたり・・大変な苦労をしました」
接ぎ木の成功を確信したのは、3年後でした。
現在の兼六園の菊桜は、京都の15代籐右衛門が育てた
二代目になります。
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昨年、大切に育てられた2代目若木、2本のうちの1本
が枯れ死。残された1本は元気に育っている。
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