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明倫館と松下村塾

■村田清風

長州藩士・村田家の長男に生まれる。
明倫館で優秀な成績を修め、学費免除
のうえ明倫館書物方となる。
藩主毛利敬親(たかちか)に登用され
小姓となる。
後に、藩の家老として藩政改革を推進
した。兵制改革、殖産興業を行い、
長州藩興隆の基礎を築いた。



1611 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
歴史から学ぶ  「明倫館と松下村塾」

松下村塾は私塾で、入塾時の身分の規定はなく、
志さえあれば武士に限らず、町人や僧侶も入門できた。
明倫館では学べない、足軽や中間の子弟が多かった。

一方藩校「明倫館」への入学は、長州藩の士分の者に
限られていた。
江戸時代、明倫館同様の藩校が全国に約280あった。

その中で特に優秀だったのが、水戸藩の「講道館」
岡山藩の「閑谷(しずたに)学校」、そして明倫館・・
日本三大学府の一つに数えられた。

松陰が「松下村塾」で塾生を教えたのはたったの2年間。
和室二間の小さな塾に対し、藩校「明倫館」は、松下村
塾より100年もさかのぼる1718年、萩城三の丸に
5代藩主によって開塾した。

その130年後の1849年、城下の中心に1万5千坪
の敷地を求めて移転。
明倫館では朱子学を教え、経済、歴史、制度、兵学、
博学、文学などの科が置かれた。

兵学師範には吉田松陰がなり、楫取素彦は儒家の当主
として、19歳で司典助役兼助講を務めている。
高杉晋作は、成績優秀な生徒にのみに許される
「明倫館居寮生」に選ばれている。

明倫館は、吉田松陰と志士たちの出会いの場になった。
明倫館に学んだ後、藩主の小姓になることが、側近予備
軍になり、出世コースの登竜門になった。

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