■松下村塾
松下村塾を受け継いだ松陰は、藩の野山獄を
出た後、安政3年(1863)の秋から塾を
始め、11月8畳1室の学舎が完成。
翌年春手狭になったので10畳半1間を増築。
安政5年7月、日米修好通商条約締結の報が
伝わると、松陰の言動はにわかに激しくなり、
塾も次第に政治集団を示す様になった。
危機意識を持った藩は11月、松陰を一室に
閉じ込め、松陰塾もわずか2年で閉鎖された。
1607 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
歴史から学ぶ 「吉田松陰の生い立ち」
松下村塾・・わずか2年余りの短い間に学んだ志士は
約80名。明治維新にかけて、名のある志士を多数輩出
した松下村塾。志士を育てた吉田松陰という人物は、
どのようにして生まれたのだろう?
[ 少年期 ]
長州藩士 杉百合之介の次男に生まれる。
5歳の時父の弟で57石の叔父、吉田大助の仮養子に。
吉田家は山鹿流を以て毛利家に仕える、兵学師範の家柄。
松陰が吉田家の養子になった翌年当主大助が病死して、
わずか6歳で吉田家の当主になり、一朝事には長州藩の
参謀として、藩主に軍略を講ずる身分になった。
父の弟玉木文之進は、松陰をお役全う出来る人物に育て
るため、一藩の軍師となるべき山鹿流兵学の奥技を叩き
込んだ。後に松陰「死ぬかと思った」と迩懐するほど
厳しいものだった。
わずか11歳にして、藩主毛利敬親(たかちか)の御前
で講義し、その見事さを称賛された。
殿様の御前に出ても、恥ずかしくない侍に仕上がって
いたのです。
(将棋界の天才少年、藤井聡太を彷彿させる)
少年にして、藩主を訓育するまでになった松陰は、
自然と天下国家を憂うるようになった。
[ 青年期 ]
阿片戦争で清が敗北の報に接するや、山鹿流兵学の時流
の遅れを悟り、江戸に出て洋学者佐久間象山に師事した。
諸国を回って見聞を広めようと藩に届けを出したが、
許可が下りる前に旅立ってしまった。
これが脱藩にとられ、士籍を剥奪され、家禄は没収され
た。
1854年松陰は伊豆下田でアメリカ軍艦による海外
渡航に失敗し、江戸伝馬町の牢に捕らえられた。
その後、長州藩・萩の野山獄に入れられたが釈放され、
父・杉百合之助の実家で謹慎。脱藩の罪を待つ身となっ
た。その間、読書と著述に専念し、近親者や近隣子弟に
孟子や武教全書を講じた。