1596 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「総理夫人の心得/佐藤栄作夫人」
希望の党は、民主党との新党「国民民主党」に参加する
玉木代表ら民主党出身者と、希望の党結党メンバーに
よる新党、そのいずれにも参加せず無所属となる議員の
、3つの党に分裂することが確実になった。
1955年、吉田自由党と鳩山民主党による保守合同が
実現・・自由民主党が誕生しました。
この時、佐藤栄作は新党に加わりませんでした。
「たった一人の反乱」とも呼ばれています。
100人もの吉田シンパの議員が、入れ代わり立ち代わ
り佐藤邸に押し掛け、入党するよう説得しましたが、
首を縦に振りませんでした。
このため佐藤は1年2か月、無所属の悲哀を味わいます
が、暇を見つけては大磯の吉田茂邸に通い、帝王学を
学びます。
その佐藤に、「よくぞ筋を通した」と、多くの励ましと
カンパがあったといいます。
シワだらけの100円札、1000円札、たくさんの
郵便切手・・寛子夫人は、中が空の大きな火鉢に入れ
大切に保管しました。
不遇時代に世間さまから受けた真心に、手を合わせた
のです。
69年秋首相訪米の際、夫人はひざ上3センチのミニ
スカート(今はこの程度はミニといわない)で、飛行機
のタラップに立ちました。
手を上げるとひざ上5センチに見え、「いい年をして
ミニスカートなんかはいて」と批判されたそうです。
この時夫人は62歳。
当時、アメリカでミニスカートが流行っていました。
とても勇気のいることでしたが、「沖縄返還のため少し
でも、アメリカの印象を良くすることができるなら」と
思い、お国のために頑張ったというのです。
安倍首相夫人の言動は、首相と政府の信頼を大きく失墜
させたが、総理夫人の一つの姿がここに あります。
読売新聞