四高全景図
1576 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
歴史から学ぶ「第四高等学校開校」
明治19年文部省令により、東京の一高、仙台二高、
京都三高に次いで第四高が金沢に、第五高は熊本に置か
れた。
北陸の四県、新潟、富山、石川、福井は、猛烈な誘致
合戦を行った。
加賀藩の藩校から専門学校と医学校を受け継いだ石川県
は、加賀百万石のプライドもあり、官民あげて猛烈な
誘致運動を展開した。
誘致の条件として、12万円(10数億円)の巨額の
地元負担が課せられたが、約8万円は旧藩主前田家が
寄付し、残りは県民からの寄付で賄われた。
候補地視察に訪れた文部省の役人を「鍔甚」や「山ノ尾
」の高級料亭でもてなした・・との記録も残っている。
努力が実り、明治20年第四高等中学校が金沢に創設
された。
数年後、金沢城に隣接する広阪通りの2万坪の敷地に、
しょう洒な赤レンガの校舎が建てられた。
四高は設立当初から、全国から秀才が集まり、二高、
五高をはるかにりょうがする卒業生を送り出し、巾広い
分野で多数の人材を輩出した。
2回生(明治24年卒)には、西田幾太郎や鈴木大拙が
いる。
主な人物では、東京府知事/井上友一、京大学長/松本
文三郎、台湾農業の父/八田与一、東大教授で真宗僧侶
/花山信勝、物理学者/中谷宇吉郎、読売新聞社主/
正力松太郎など・・
昭和25年に廃校になるまで、幾多の人材を輩出した。