■加賀藩 102万5千石(実収130万石)
能登・加賀(石川県)と越中(富山県)
+
近江領今津・弘川の2村(滋賀県)
・後に富山支藩10万石、大聖寺支藩7万石を分離
■加賀藩直属藩士数
・士 分 1,840余人
・医師/坊主 140余人
・足軽/中間 5,310余人
計 7,300余人
1574 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
歴史から学ぶ「加賀藩の藩校(3)」
幕末から明治にかけて加賀藩は、才能豊かな人材を数多
排出している。
加賀藩はそもそも、戦場に算盤を持ち歩いた藩祖利家に
始まり、2代利長、3代利常、5代綱紀と、藩主は学問
好き。
藩内はその影響で、九谷焼、加賀友禅などの工芸や、
加賀宝生流、茶道、加賀料理などの文化・芸能が盛んに
なり、切磋琢磨して技能や学識の向上に勤しむ風土が
生まれた。
江戸末期、西洋の脅威が大きくっなたことを契機に、
加賀藩の旺盛な進取の精神は、一斉に西洋文明に向け
られた。
科学や医学など、加賀藩の優秀な学者たちの目は、
世界の先端科学に向けられたのです。
加賀藩は、発言力のある100万石の大藩でありながら
、政治的には佐幕派に留まり、維新をリードするには
至らなかった。
しかし科学分野においては、明治の日本の近代化の
一翼を担うことになった。
加賀藩には、西洋科学のレベルに早く追いつき、日本を
列強の脅威から救わなければ・・という、強い使命感が
あって、”武”ではなく"知”で存在感を示したのです。
明治に入り、彼らの才能は一気に開花した。
高峰譲吉(近代バイオテクノロジーの父)、桜井錠二
(日本近代科学の父)、木村 栄(地球緯度の公式を
発見)、藤井健次郎(細胞遺伝学の祖)、飯盛里安
(放射化学の父)など・・
「〇〇の父」「〇〇の祖」と言われる、日本を代表する
科学者を数多く輩出した。
金沢ふるさと異人館/学芸員・増山 仁