■石見鉱山遺跡
一昨年、妻と出雲大社を訪れた時、
石見銀山を見学した。
江戸初期、日本が世界の銀産出量の3/1
を 占めたのは、石見銀山の存在があった。
同山では環境に配慮し、山を崩したり、煙害
でハゲ山にならないよう配慮し、自然と共生
して鉱山運営に努めたことが評価され、
2007年世界遺産に登録された。
1508 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
「別子銅山跡を歩いて」
5月19日にトレッキングで登った、愛媛の住友別子銅山
は、栃木の三井足尾銅山、茨木の日立銅山と共に日本
3大銅山に数えられる。
1690年、元禄3年に採鉱が始まり、豊富な産銅量で
住友の発展と日本の近代化に貢献した。
銅の歴史は古く、弥生時代には「青銅器文明」が、
その後「和同開珎」が造られ、奈良・平安時代には銅の
精錬・鋳造加工技術が進歩して、東大寺大仏をはじめ、
仏像・武具・工芸品が盛んに造られるようになった。
明治21年、洋式精錬所の操業が始まると、亜硫酸ガス
が農作物を枯らす「煙害」が表面化。農民運動が相次い
だ。
別子の山は燃料用に森林が伐採され、煙害で山肌が
むき出しになった。
最盛期には、約1万人が標高千メートルの山の斜面に
石垣を積み、猫の額ほどの土地に住宅や作業小屋を建て
た。
小学校には300人の生徒、保育園、病院、二千人収容
の劇場などがあって「東洋のマチュピチュ」と呼ばれた。
昭和48年、海面下1000メートルまで掘り進んだ
ところで、地圧の増大と地熱の上昇で掘削が限界になり
280年の歴史を閉じた。
現在、当時の建物は取り壊され、石造りの貯蔵庫や
通洞跡、廃墟の石垣を残すのみとなっている。
鉱山跡の山道を歩いていると、滅びゆくものへの
ノスタルジア感じるのです。
住友グループの住友化学は、銅を製錬する過程で発生
する有毒・亜硫酸ガスを処理する、肥料製造所として
創業。
また、住友重機工業は、別子銅山の採鉱に必要な機械
設備の製造所として創業している。
明治27年、別子銅山の支配人になった”伊庭貞剛”は
煙害でハゲ山になった周辺の植林を、積極的に進めた。
現在銅山は豊かな緑に覆われている。
この植林事業が、現在の住友林業の礎になっている。
※伊庭貞剛(いばていごう)1847~1926
近江に生まれた明治の実業家で、住友二代目総領事。
「 別子銅山中興の祖」と言われ、煙害問題を解決し、
植林による環境復元に心血を注いだ。