■達成感のある仕事
世の中に役に立たない仕事など一つもない。
どんな仕事であれ、それは社会に必要であり、
無くてはならないし、無いと困るのです。
囚人に与える最もきつく辛い仕事は、
穴を掘らせて埋め戻す仕事だという。
この作業を毎日延々と続けさせると、
どんなに精神的に強い囚人でも、心が折れ、
やがては肉体も崩壊するという。
逆に、どんなに過酷な労働でも、それが
何かの役に立ち、達成感のある仕事なら、
耐えることができるのです。
1498 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
幸せな人生 「仕事と人生」
私の父は、昭和12年の支那事変で召集された。
しばらくして病気になり、本国に送還され入院。
回復後、出征前に勤めていた会社が戦時閉鎖され、
働き場を失った。
戦時中で働き口は皆無・・そこで「商い」で生計を立て
ることにしたが、何が自分に向いていて、何をすれば
家族を養っていけるか? さっぱり分からなかった。
保険の外交員も考えたが、営業は苦手だし、親戚を勧誘
するのは嫌だった。
隣町に、ローブや縄を商う問屋があった。
段ボールやガムテープなど、まだなかった時代です。
どの家庭も縄や紐は必需品と、「紐屋」を始めた。
細々と商っているうちに終戦。
戦後引揚者が増え、赤玉布団袋や女性の手提げ袋などを
店先に並べて売った。世の中が落ち着くと、学生鞄や
ランドセル、セールス鞄などを商う「鞄店」が父の稼業
になった。
当時、私は結核を患っていた。病気が快方に向かい、
家でぶらぶらしている私に、父は金沢の繁華街にハンド
バックと小物の店を持たせてくれた。
父は本店を、支店は私に任せ、一切口出ししなかった。
昭和40~50年は小売業の全盛期・・飛ぶように商品
が売れた時代です。
商いの経験なしに店を任された私ですが、店は儲かった。
療養しながら、仕入れ、販促・販売、在庫管理、店員の
育成。簿記3級を取得し、帳付け、月次損益作成など、
経営に必要なマネージメントを身に付けていった。
将来一本立ちするには、更に大きな仕事をして経営を
学び、自らを成長させなければ・・と、順調だった店を
たたみ、学生時代目指していた建築の世界、積水ハウス
に就職した。
入社3か月、自営経験が買われたのか? 富山営業所
初代所長の辞令を受け、赴任した。
出遅れた人生を取り戻す、絶好の機会を得たのです・・
塞翁が馬です。