« 2016年09月 | メイン | 2016年11月 »

2016年10月 アーカイブ

2016年10月02日

死はこわくない


1430 【心と体の健康】
「死はこわくない」

私が死を意識したのは20歳の頃・・
16歳の時に肺結核になり、通学しながら薬で治療して
いたが、四年後に再発・・隔離病棟に入れられ、
いつ癒えるとも知れぬ病床に伏せていた頃です。

面会は許されず、訪れる人もいない病棟に10室
20人の患者が収容されていた。
20代から60代の男女が・・5年、長い人は10年
いつ癒えるとも知れない無期懲役囚のような、社会から
隔離された病室で、我慢できないほど退屈で、希望のな
い日々を過ごしていた。

入院生活で唯一の楽しみは食事・・しかし、冷えて固ま
った麦飯に具のない味噌汁、ヒジキ、小さなカレイの
煮つけ・・暖房のない冷え切った病室での食事は不味く
、我慢の限界を超えていた。

ひたすら静かに寝ているだけ・・それ以外は何も許され
ない。 時間と暇は有り余るほどあった。
学問をするにはまたとない機会・・大学に行けなかった
私に、神様は勉強する機会を与えてくれたのだろう。

歴史書、哲学書、経営書などを読みあさり、スタインベ
ックの「怒りの蒲萄」「戦争と平和」「老人と海」など、
長・短編小説を読破していった。
心理学や手相にも興味を持ち、手品も暇にあかせ練習
した。
私と同室の老人は東大出のインテリで、囲碁を教えて
くれた。そうした病床での積み重ねが、その後の人生の
大きな支えになっていった。

入院中、何人も死を見送った。栄養をとらなけなければ
ならないのに、糖尿病を併発して死んでいく患者がいた。

真夜中に廊下をバタバタ行き交う音・・病室が騒がしい。
翌朝、亡くなった患者のベッドは、何事もなかったよう
に、真白のシーツが空しい・・
数日後、新しい患者が入室し、空きベッドの住人になる。

数日前まで挨拶を交わしてた人が・・もういない。
臨終に立ち会ったのは医師と看護師のみ・・
寂しい旅立ちだ・・自分はあと何年生きられるだろうか?

”死”とは何か? 何のために生まれ、何のために死ん
でいくのか? 自らの”生と死”に向き合っているうちに
死生観」が芽生えた。

今を、、今日一日を精一杯生きよう・・
一日一生」が座右の銘になった。
好きな言葉は・・「今いまと 今という間に 今ぞなく
                          
今という間に 今ぞ過ぎゆく

人生「四苦八苦」は付きもの・・その覚悟が出来ていれ
ば、その時が来ても慌てふためき、恐れ嘆くことはない。
くよくよ考えても仕方がない・・なる様にしかならない。

どんな不治の病でも、どんなに痛く苦しくても・・
「死ねば治るではないか」・・禅宗の教えです。

そんな境遇・環境を経験して、どん底を乗り越えてきた
人は、普通の人生を歩む人の何倍も生きるエネルギー
があり、はるかに人間として成長する・・
立花氏の言葉です。

2016年10月05日

死はこわくない/臨死体験

■臨死体験

母親の実家の長男が、内灘海岸で溺れた
ことがあった。 目が覚めたらベッドの上・・
二日後だった。

招かれるままに、きれいなお花畑を対岸
に向かって歩いていたら、後ろから大きな
声で呼び戻された・・ そして目がさめた。

お見舞いに行った私に、生死の境い目・
三途の川を渡ろうとしていた臨死体験を
語ってくれたのです。


1431 【心と体の健康】
「死はこわくない/臨死体験」

ノンフェクション作家の立花隆氏は、臨死体験を取材し
ながら、長年臨死体験のTV番組制作や、出版に関わ
って きた。
それに、自身の死生観をまとめた著書、文芸春秋
「死はこわくない」は、ガンなどで2度の大手術を乗り
越え、脳死問題や臨死体験など、死をテーマに、
75歳を迎えた心境をつづっている。

「臨死体験は”死後”の体験ではなく、 死に瀕した
脳の働きではないか・・死とは夢の世界に入っていく
・・ いい夢を見るような気持ちで死んでいける」

「臨死体験は、死の直前脳内で起きる幻覚である」
最新の脳科学により、その働きが浮かび上がってきた。

臨死体験をした人の多くが、体験中に”強い幸福感”を
感じるのは、死に瀕するときに、脳内の”辺縁系”と
呼ばれる部分が化学物質を大量に出すことによる。

また、体外離脱の感覚は、脳内の”側頭葉”が刺激を
受けたときに生じやすいという。

++++++++++++++++++++++++++
[ 臨死体験 ]

〇 医師が「ご臨終です」と家族に告げている・・
    自分の死の宣告を聞いている。

〇 家族に囲まれ、ベッドに寝ている自分を・・ 
    高いところから見下ろしている。

〇 暗闇のトンネルを抜けると急に明るくなり、
     一面お花畑の中に降り立ち、先に亡くなった家族に
     出会う。

〇 生前親しかった人が手招きするままに三途の川を
     渡っていたら、後方から「戻ってこい」の声で我に
     返り、引き返したら目が覚めた。

〇 まぶしく輝く光の精が現れ、生か死か選択を迫る。

2016年10月07日

人生逃げたらあかん

1432 【心と体の健康】
「人生逃げたらあかん」

以下は、大島修治氏が九死に一生の命拾いをした体験記
です。
♪平成8年7月23日に事件は起きた。福岡市博多にあ
る通信販売会社の本社に、一人の男が「クーラーの点検
に来ました」と、ポリバケツと雑巾を持って訪ねてきた。

男は3階の社長室に入ると、いきなりポリバケツのガソ
リンを床に撒き、社長の私にガソリンを浴びせた。
そして、逃げ去る際に私に発煙筒を投げつけたのです。

ボーンと音を立ててガソリンに引火し、たちまち火だる
まに・・女子社員が消火器で消し止めてくれたものの、
救急車で病院に運ばれたときは、顔は焼けただれ、
右手の指は、熱で溶けてしまっていた。

火傷は全身65%に及び、医者は「助からないだろう」
と見放す寸前の状態だった。集中治療室で駆け付けた
家族に「俺はもうダメだ、子どもをよろしく頼む」と
遺言し、気を失った。

その時私は48歳、福岡でいくつもの事業を手がけて、
得意の絶頂にあった。グループの総売り上げ70億円、
従業員230人、不況どこ吹く風と急成長しているとき
に起きた事件でした。

火傷後3日間、体が風船のように膨らんで、血圧が20
まで下がり、危篤状態を5回も繰り返しながら、意識を
取り戻したのは2週間後だった。

加えて全身感染症と、熱気を吸って肺炎を引き起こし、
危険な状態が続いた・・三途の川を往き来していたので
す。
「もう死んでしまいたい」・・意識を取り戻した私は、
猛烈な激痛に襲われ、更に風評から、業者は取引継続を
断ってくるし、取引銀行は融資を打ち切り、返済を迫っ
てきた。
会社の経営内容は急速に悪化いていったのです。

                                                                        次号に続く

2016年10月10日

人生逃げたらあかん(2)

1433 【心と体の健康】
「人生逃げたらあかん(2)」

以下は、大島修治氏が九死に一生の命拾いをした
体験記・・前号の続きです。

♪「もう、死んでしまいたい」・・意識を取り戻した私は
何度も自殺を考えた。事業が追い詰められただけでなく
、火傷の激痛のあまり精神状態も異常をきたしていた。

イソジンという消毒液を振りかけての治療は、傷に猛烈
にしみるのです。あまりの痛さにモルヒネを注射して
もらうのですが、30分とは持ちません。

傷の痛さと睡眠不足でノイローゼになってしまいました。
首を吊ろうにも、右手の親指が無くなっていますから、
紐を結ぶことができません・・死のうにも死ねない自分
に悔し涙を流しました。

そんな私を励ましてくれたのは、やはり肉親でした。
妻は、中村久子という両手両足の無い女性が、誇りをも
って生き抜いた話しをして、励ましてくれました。
(吉村外喜雄のなんだかんだ/2009年9月3日 
   「中村久子/幸福は汗みどろの中から掴むもの」 )
http://www.noevir-hk.co.jp/magazine/2009/09/post_73.html

そして、私に生きる勇気を与えてくれたのは、74歳の
母の言葉でした。
「いいか、決して死にたいなどと思うなよ。おまえが
どんな体、どんな姿になっても、元気になってくれる
なら、私はもう一人子どもを産んだつもりでいるから
ね」
ぼろぼろ涙がこぼれた・・親より先に死ぬ親不孝はない。
二人の息子も入院して、お尻の皮膚を移植する手術に
協力してくれた・・
家族みんなから生きる勇気を与えられ、生きる勇気を
貰ったのです。
4か月半後の平成8年暮れに退院・・自宅療養に入っ
た。

2016年10月12日

人生逃げたらあかん(3)

■不思議な体験

大島修治氏は、ガソリンを浴びせられて
全身の65%を火傷・・九死に一生・奇跡
の生還を果たした。
その体験講演が金沢であった。

講演終了後、ホテル大浴場の脱衣場で、
大島氏は私たちに不思議な実験をして
見せた。
脱衣場で私と友人は、大島氏に言われる
まま、手を差し出して重ねた。

大島氏がおもむろにその上に手をかざ
すと・・あら不思議!重ねた私と友人の
手が金縛りに合ったように、離そうにも
離れない。
大島氏が言うには、火傷が全快した時、
自分の体に超能力のような不思議な
パワーが備わっていることに気づいた
という・・
それを今、目の前でやって見せたのです。


1434 【心と体の健康】
「人生逃げたらあかん(3)」

以下は、大島修治氏が九死に一生の命拾いをした、
体験記の続き3回目です。

♪退院後も、皮膚の移植手術を繰り返すこと15回に
及んだ。
会社へは1年3カ月ぶりに復帰したが、私だけ浮いた
存在になって、居場所がなくなっていた。
同時に、今までの私はお山の大将で、傲慢な人間だっ
た ことに気づかされた・・生死をさまよう苦難を体験して
気づいたのです。

会社に復帰後、ある人から「人生において、その人の
性格から、その人にふさわしい事件を引き起こす」と
言われました。
事件は誰のせいでもなく、誰が悪いわけでもなく、
「自分のせい」で起きたのだと、気づかされたのです。

いつしか、自分をこんな目に遭わせた犯人への恨みも消
え、苦難を通して、新しい世界が見えてくるようになった。
まさに苦難が、新しい幸福の扉を開いてくれたのです。

私は生まれ変わったのです!
平成8年7月23日は私の命日であり誕生日なのです。

今までの人生観や仕事観、人間観を変えていこう・・
そのためには勉強しなければならないと、自己啓発セミ
ナーなどに、積極的に参加するようになった。
(私はセミナーに参加して大島氏にお会いした)

阿蘇に2千坪の土地を確保して、新しい事業「阿蘇温泉
やまびこの湯」を推進・・平成11年に開始した温泉
掘削で、地下千メートルから64度の温泉を掘り当てる
ことに成功。
火傷の後遺症や皮膚病で苦しむ人たちが、心と体を癒せ
るバリヤフリーの温泉施設をオープンした。 

           阿蘇温泉・やまびこの湯

良い人間関係を築くことは、すべての幸福の源になる。
人のお役に立てる人間になることを生涯の使命とした。

いつの間にか、心の痛みを抱える人がいると、その人の
体に触れることなく、治すことができるようになった。

2016年10月17日

幸せな老後を望むなら・・

■未 来

未来は、それに備える人々のものである
未来は ずっと先にあるのではない
未来は  ”今”にある。

将来実現したい何かがあるなら
今 そのために行動しなければならない
未来とは・・
あなたの現在の考えが現れたものである 
あなたの考え方を変えるなら、 
あなたの運命も変えられる 



1435 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
幸せな人生 「幸せな老後を望むなら・・」

年老いてから、連れ合いに先立たれることほど、寂しい
ものはない。
私の母は、夫が亡くなった後、束縛から解き放たれた
ように生き生きとした楽しい余生を送って、あの世に
いっ
た。
夫が1人残され、一人暮らしの場合は・・
そうはいかな
い。 日々の洗濯・掃除は何とかなるが、
毎食一人分作って一人で食べる食事はつまらないし、
ろくな料理が作れないから、作る気にならないだろう。

そうしてしだいに・・しょぼくなっていく。
しょぼくならないためには、仕事を続けるか、
何かの会のお世話役を引き受けて、社会とのつながり、
人との交わりを断たないことです。

また、若いうちから趣味を持ち、人と交わる場を作って
おくことでしょう。
私の場合は、スキューバーダイビング、ゴルフ、歩こう
会、座禅の会、囲碁など・・何れの趣味にも楽しい仲間
がいる。
一般に、定年近くになってから「老後をどうする?」と
考えるが、それでは遅すぎます。

60歳からの人生と暮らしは・・
それまでの生き方がすべ凝縮されて出てきます

老後の貯えは、20代からやっておく必要があるし、
仕事一途の人生で無趣味の人は、老後も無趣味です。
他人との交わりが苦手な人は、老後は孤独です。

若い内にやるべきことをやっておかないと、年をとって
からでは、何も始められません。
それに気づいた時が、今が、幸せな老後への始まりなの
です。
私は18歳の時に、人口ピラミッドから、40年後世の
中がどう変化するかを想定し、危機感を持った・・
退職金や年金だけでは、暮らしていけない世の中になる
こ とを・・ 
30歳迄にやっておくこと、40歳迄にと・・
十年一区切りに計画を立て、仕事、人生、家庭、
人間
係、自己啓発など、一つひとつやれることから実行した。

潤いのある人生には”趣味”は不可欠です。
私は”動と静”それぞれ3の、計6つの趣味を、
広く浅く楽しんできた。
※動の趣味 
(スキー→ゴルフ、水泳→スキューバーダイビング、
             ドライブ→サイクリング・トレッキング、旅行) 
※静の趣味 
(麻雀→囲碁、読書→学びの会、ヨガ→瞑想・座禅)

2016年10月20日

小さな仕事をバカにしない

「営業訓」 フランスベッド(株)

一.信念を持て。信念は心の糧、
      何ごとも打破する強力な武器である。

二.一秒を二秒に活かせ。
      時間は黄金にまさる。

三.無理な仕事でも一度はやれ。
      やらずして結論を出すのは最も危険である。

四.仕事に情熱を持て。
      失敗するか成功するかは、人の能力よりも、
      情熱の度合いによって決まってくる。

五.創意工夫を忘れるな。
      アイデアの泉は尽きることなく、
      君と企業を繁栄に導いてくれる。



1436
【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「小さな仕事をバカにしない」

『 自分の出来ることを精いっぱいやる!
  英雄とは、自分の出来ることをやった人だ。
  凡人は、自分の出来ることをせず、
  出来もしないことをしようとする人だ。

  夢を追うのはいい・・しかし、できもしないこと
  ばかりを言いつのって、自分の目の前にある
  仕事をやらない人間は、絶対に成功しない 』

これは、イギリスに本社を置き、世界22カ国に
2万5千人の従業員と、年商40億ポンド
7300億 円)のヴァージン・グループの総帥
リチャード・ブランソンの言葉です。

1970年に古レコードの通信販売会社を創業し、
低価格・高サービスを売り物に、音楽・映画・航空旅行・
鉄道・金融など、多くの分野に進出。
日本の財閥・総合商社をモデルに成長した企業である
ことが特筆される。

レコード販売で成功したブランソンは、33歳の時に
ボーイング747を1
機購入し、ロンドン~ニューヨー ク
間に就航させた。
ブランソンの航空業界参入に対して、「レコード屋が
つくった飛行機会社なんて落ちるに決まっている」
と世間はバカにした。

そうした風評にもブランソンはくじけず、料金を安くし
、シートにテレビを内臓するなど、様々な創意工夫で
同社を一流航空機会社に成長させた。

彼のチャレンジは留まるところを知らず、携帯電話や
金融ビジネスにも進出。
コーラなどの飲料販売、宇宙旅行会社も立ち上げた。

                       理念と経営「小さなコンセプト」より

2016年10月23日

井原西鶴の堅実経営法

■成功の条件
私の成功の条件は”4つ”
「資金力」「人間力」「健康」「運を呼び込む力」

4つの条件を足して100%になる。
あなたはどれが何% ・・ 私は「運」70%
残り3つはそれぞれ10%です。

お金あっても成功するとは限らない。
お金も、人間力も、苦労し、努力の積み重ね
の中から生まれてくる。
健康もそう・・何をするにも健康でなければなら
ない。
運は、志を持ち、目標に向かって懸命に努力
した者でなければ、呼び込めないしょう・・
「運は前髪でつかめ」と。


1437 【吉村外喜雄のなんだかんだ 】
~賢者・名言の智恵~
「井原西鶴の堅実経営法」

小説「好色一代男」で知られる、大阪の商人作家
井原西鶴が、その著「日本永代蔵」の中で書いた
”堅実経営法”商売繁盛の原則は、
「算用・始末・才覚・信用」を守ることにある・・と。

算 用] 入るをはかって 出ずるを制すべし

始 末] 質素倹約に努める。一方、客のニーズに 
               こたえる先行投資は惜しまない

才 覚] 新しい発想や、顧客・取引先への心配りを 
               おこたらない
信 用] お客さまからの信用はなにより大切 
               金融機関から信用を得ることも大切

西鶴曰く・・「金持ちになりたければ”長者丸”を呑みなさい」
”長者丸”の長者は”金持ち”のことで、そのためには
西鶴の調合した丸薬を飲みなさいという意味です。

長者丸といへる妙薬の方組(調合)伝へ申すべし
と前置きして、西鶴はまず五十両の稼ぎ方を、次のよう
に示した。

朝 起/   五両] 早起き
家 職/二十両] 本業に励む。拙速の利益に走り、 
                            本業をおろそかにしない
夜 詰/   八両] 夜なべ仕事に励む
始 末/   十両] 倹約
達 者/   七両] 健康

付け加えて、この「妙薬の効力を失わせる毒」として、
以下の項目を挙げている。

「美食」   「淫乱(いんらん)」   「ぜいたく」
「お金のかかる趣味」   「付き合いにミエをはる」
「朝風呂・昼風呂に入る」   「夜遊び」   「博打」
「気安く保証人になる」   「芸ごとにうつつをぬかす」
「力量のない者が役者のスポンサーになる」
「旅行でしょっちゅう店を空ける」   「高利の借金」

妙薬の効力を失わせる”13の毒”
当てはまるものが幾つあったでしょうか?

西鶴が生きた元禄時代は、江戸期もっとも豊かに成長
した時代です。「こんな時代だからこそ本業をしっかり
守り、ムダをはぶくことに励めなさい」と諭したのです。

                                      童門冬二「先人たちの名語録」

2016年10月25日

ディズニーランドの経営哲学

■お客さまはすべてゲスト・VIP

ディズニーランド及びディズニーシーのパークは
「ステージ」と呼び、お客様は「ゲスト」
そして、お世話をするスタッフは「キャスト」
すなわち”役者”という定義づけです。

更に、キャストが付けているのはユニフォーム
ではなくて「コスチューム」
更に、自分たちの職場を「ロケーション」と
呼んでいる。


1438 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「ディズニーランドの経営哲学」 

過去大企業は「市場シェアアップと売上高」を重要視
してきたが、「顧客と長期的に良好な関係」を保ち、
総売り上げに占める「リピート客のシェアと客単価」

重要視する”加賀屋”型の企業が増えてきている。

■リピート率90%、感動を与えるサービス

東京ディズニーランドは今年、開園30年になる。
リピート率が高く、毎年客数が増え、客単価も過去5年
で13%も上昇している・・
ディズニーは、お客様に夢や感動、楽しい一日を安全に
快適に過ごしてもらうことを、従業員が全力で演出して
いるのです。
大人も子供も一緒になって楽しむことができるファミリ
ー・エンターティメントを実現したいというウォルト・
ディズニーの思いが、テーマパークの基本コンセプトに
なっているのです。

(1)お客様をお待たせしない

(2)お客様から言われる前に、望んでいることをする

(3)お客様の名前や顔、趣向を覚えておく

(4)お迎え、お見送りを感じよくする

(5)間違いやミスには、心から謝る

(6)お客様に恥をかかせない

(7)常に笑顔で対応する

2016年10月28日

詩/子は親の鏡

「三つ子の魂百までも」

脳は、生まれてから三歳の頃までに最も
急速に発達します。
このわずか数年間の育児環境の良し悪しが、
脳の組織と機能に深く影響し、その後の
人格と一生を左右することになる。

例えば、夫婦喧嘩が絶えない家庭に
生まれた幼児は、怒鳴り合う声が幼児に
恐怖心を植え付ける。

そうした幼児期の体験がトラウマになって、
他人から怒鳴られたりすると、過覚醒反応
を起し、他人には些細なことでも、不安に
おびえて泣き出したり、暴力をふるう人間
になったりするのです。


1439 【心と体の健康】
「詩/子は親の鏡」  

「子は親の鏡」                ドロシー・ロー・ノルト

けなされて育つと   子どもは   人をけなすようになる

とげとげした家庭で育つと   子どもは   乱暴になる

不安な気持ちで育てると   子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると  
子どもは みじめな気持になる

子どもを馬鹿にすると   引っ込みじあんな子になる

親が他人をうらやんでばかりいると
子どもも   人をうらやむようになる

叱りつけてばかりいると  
子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば  
子どもは   自信を持つようになる

広い心で接すれば   キレる子にはならない

誉めてあげれば   子どもは   明るい子に育つ

愛してあげれば  
子どもは ひとを愛することを学ぶ

認めてあげれば   子どもは   自分が好きになる

見つめてあげれば   子どもは   頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば  子どもは 思いやりを学ぶ

親が正直であれば  
子どもは 正直であることの大切さを知る

子どもに公平であれば  
子どもは 正義感の強い子に育つ

やさしく思いやりを持って育てれば  
子どもは 優しい子に育つ

守ってあげれば   子どもは   強い子に育つ

和気あいあいとした家庭に育てば   子どもは  
この世はいいところだと思えるようになる


※ドロシー・ロー・ノルト(1924~2005
   ロサンゼルス生まれ。
   40代後半・英国国立聖職大学で博士号取得。
   四十年以上、家庭関係の授業や講演で、
   家庭教育や子育てを指導。

   著書「子どもが育つ魔法の言葉」は、
   22ヶ国語に翻訳され、ミリオンセラーに・・
   詩「子は親の鏡」は国境を越え、37ヶ国で
   翻訳され、世界中の人に愛された。

2016年10月31日

焼き肉えびす/食中毒事件

■企業ビジョン

1997年操業・・
高岡市に「焼き肉酒家えびす」1号店を開店。
翌年(有)フーズフォーラスを設立。

北陸3県にチェーン展開し、2010年北陸
3県 に19店舗、7月横浜に出店して20
店舗に・・
2020年までに300店舗、、上場、、
社員の給与 日本一を目標に掲げるなど・・
本社正面玄関の一番目につくところに、
”6つ”の将来ビジョンが掲げられた。

そして中毒事件・・フーズフォーラス社のビジョンに、
食の安全安心」の項目が抜け落ちていることに
気づいたのです。



1440 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「焼き肉えびす/食中毒事件」

2011年4月「焼き肉酒屋えびす」で集団食中毒事件
が発生した。
食材の「和牛ユッケ」に腸管性出血性大腸菌0-111
が付着していたのです。 死者5名を含む、181人の
中毒患者を出す大惨事になった。

「焼き肉えびす」の経営母体フーズフォーラス社は、
金沢市入江2丁目の私が所有する貸しビルの一階に
本社を置いていた・・私とは大家・店子の間柄でした。

社長は勘坂康弘当時36歳・・富山県高岡市生まれの
活力に溢れた、将来を嘱望された経営者として、異彩を
放っ ていた。
初対面で、勘坂氏の人間性に魅了される、誠実で器の
大きな人物でした。それだけに、このような事件に巻き
込まれ、人生を挫折したことが、悔やまれてならないの
です。
人生には「上り坂あり、下り坂あり」
恐いのは、地震のように突然やってくる「まさかの坂
ではないでしょうか。

起業から十年、業績を順調に伸ばし、大空に向かって
更に大きく羽ばたこうとしていた矢先の事件でした。
事件が全国に報道されるや、私のビルは、東京からやっ
て来たNHKや民放各社の取材陣に取り囲まれた。

大きなパラボラアンテナを付けたワゴン車や、瞬間を
撮ろうと梯子にまたがって待ち構える記者たちで、
町内は異様な空気に包まれた。

私の会社に用のある人がビルに入ろうとすると、マイク
を持った記者たちがドッと取り囲んだ・・
「焼き肉えびすの方ですか?社長は今どこに・・」

ニュースで報道されるたびに、私の会社の名前も映し出
され、東京の取引先から、誤解されるので表示を見えな
くしてほしい・・と忠告された。

そのような状況が1週間・ひと月と続き、「何とかなら
ないのか」と無性に腹が立ち・・やり場のない状態が
続いた。
                                                  次号に続く

メルマガ購読受付

このブログの記事をメルマガで定期的にお届け致します。

メルマガ購読のお申し込みはこちら >>

About 2016年10月

2016年10月にブログ「吉村外喜雄のなんだかんだ」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2016年09月です。

次のアーカイブは2016年11月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.36