■千鶴子の夫”尹致浩”(ユン・チホ)
1909年全羅南道の玉洞村で宗家の長男に
生まれる。 大学で神学を学び伝道師になる。
1928年親を亡くした孤児を家に連れてきて、
共同生活を始める。
噂を聞いた孤児が集まってきた・・これが共生園の
始まりになった。
当時、世の中から注目されることもなく、「善行」程度
に思われていたが、韓国福祉の歴史に於いて、
先駆者と としての礎を築いたのです。
「尹致浩/尹鶴子 記念館」 日本語説明文
1425 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「韓国孤児の母・木浦千鶴子」
日韓両国の不仲が問われる中、戦前戦後の混乱期に
韓国孤児の救済に生涯を捧げた日本人妻がいたことを、
昨年の韓国全羅南道訪問で知った。 そして今年、
二度目の訪問です。
その人は”田内千鶴子”・・高知市に生まれ、日本統治
時代の1938年、全羅南道の小さな港町木浦
(モッポ)で、周囲の反対を押し切って、牧師の尹致浩
(ユン・チホ)と結婚した。
孤児を救済する”共生園”で、夫を助けて働いた。
統治時代は、貧しい施設と資金難に苦しめられた。
終戦とともに排日感情が高まり、1946年千鶴子は
夫の元を去り、2児と老いた母を連れて、故郷の高知県
に引き上げ た。
木浦に残してきた夫と孤児たちへの想いはつのる一方
・・翌年母の説得を振り切って、再び子どもを連れ、
韓国 へ密入国した。
母親と母国日本に決別し、生きていかなければならない
運命に、千鶴子は泣いた。
朝鮮戦争で荒廃する中、夫は孤児たちの食料を求めて
さまよい、行方不明になった・・
夫亡き後も千鶴子は日本に戻らず、見捨てられた孤児を
育てることに人生の全てを捧げた・・その数三千人
晩年献身的行為が認められ、1963年日本人初の
”韓国文化勲章”が授与された。
1968年、木浦市で孤児たちに見守られ、56歳の
人生を終える。
死の直前、千鶴子は長男に「梅干しが食べたい」とつぶや
いた。
木浦市で市民葬が営まれ、三万人の市民が訪れ、
死を悼んだ。
民族を超えた人間愛は「木浦の母、韓国孤児の母」と
敬わ れ、今も市民に慕われている。
「尹致浩/尹鶴子 記念館」 日本語説明文