■国交回復の条件
朝鮮王は、以下の二つを国交回復の条件
とした。
(1)正式文章で、侵略行為を謝罪すること
(2)王陵を掘り起こし持ち帰った財宝を
返還すること
仲介役の対馬藩・宗氏は、幕府の謝罪はあり
えない と、家康の謝罪文を偽造して朝鮮に
渡した。
二つの条件の回答を兼ねて訪日した”刷還使”
の目的に、日本に拉致された技術職人を探し
出し、 連れ戻すことがあった。
儒家のほとんどは帰国したが、陶工など職人の
多くは日本に留まった。
理由は、朝鮮での職人の身分は最下層の賤民。
帰国すれば、奴隷同様の過酷な身分と差別が
待っている。
対する日本は、身分の差別は無に等しく、
師匠と慕われ、尊敬される環境にあった。
1418 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
歴史から学ぶ 「朝鮮通信使」
韓国全羅道訪問の旅四日目、対馬からフェリーで釜山へ
・・釜山の歴史が展示されている「臨時首都記念館」
「釜山近代歴史館」「釜山博物館」を順に見て回り、
「朝鮮通信使歴史館」へ・・
以下、通信使歴史館・展示室入口の日本語の説明文です。
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文禄・慶長の役により、朝鮮は日本と国交を断絶した。
その後徳川の世になり、江戸幕府は国内政治の安定と、
先進文明受け入れのために、対馬藩主を通して朝鮮に
国交の再開を要請してきた。
朝鮮王は、その真偽を察するために、大師を日本に派遣
し、1607年回答を兼ねた”刷還使”を派遣した。
翌年1608年約定を結び、国交を正常化し、再び
巫山浦に倭館を設置して、制限された範囲での交渉を
許容し た。
これに朝鮮国王は、延べ12回通信使を日本に派遣した。
通信使一行は三使(正使、副使、従事官)を中心に、
通訳、画家、書家、医者、僧侶、楽隊など三百から五百
人で編成され、受け入れる日本も多くの人員と莫大な
費用を負担して、通信使を手厚くもてなした。
漢城(ソウル)を出発してから対馬、壱岐を通り、
江戸に着くまで、約半年を要する長旅になった。
展示室のレプリカ
朝鮮通信使は、当初は政治的・外交的使節の性格が
強 かったが、徐々に文化使節へと変化し、朝鮮から
先進 文明を伝える役目を果たした。
一方、通信使を通して日本の文物が伝えられ、それまで
朝鮮の知識人が持っていた日本と社会を再認識する
契機になった。
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案内役は対馬藩が勤め、約八百人が随行した。
通信使が通過する道沿いの諸藩は、道路や橋を整備し、
宿泊施設の世話、警護、送迎、接待と、大きな財政負担
を強いられた。
通信使は、将軍が代るときに祝賀に訪れるので、幕府は
接待費に百万両(約500億円)の膨大な出費をした。
尚、徳川三百年、正式に国交を交わした国は朝鮮一国
です。