1417 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「朝鮮の英雄・金忠善将軍は日本人?」
全羅道訪問の旅7日目、日韓友好交流「韓日有効館・
鹿洞書院(ノクトンソウォン)」を見学した。
ろ以下は、鹿洞書院のパンフレットに記載されている文章
で す。
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1590年代から1600年代にかけて国を護り、
忠節の一生を送った”金忠善”将軍(日本名・沙也可)
の偉業を称え、鹿洞祀、崇義堂、向陽門、そして将軍の
経歴と功績が記された跡碑と位牌を祀った、鹿洞書院が
1794年、全国の儒学者の志によって建てられた。
金忠善(キム・チュンソン)将軍は日本人です。
若い頃から人徳・倫理を重んじて、朝鮮の思想を敬い、
日本の朝鮮出兵に大義がない・・との思いから不満を
抱いていた。
文禄の役では、加藤清正の右翼先鋒将として朝鮮に出兵
するが、釜山に上陸して直ぐ、3千人の部下とともに投降。
礼儀の国として敬う朝鮮に帰化してしまった。
沙也加将軍は投降するや、大義のない戦いを止めさせ
ようと、火縄銃の制作技術を韓国に伝授し、慶州や蔚山
(うるさん)などの戦いに参戦して日本軍と戦い、功績
を挙げた。
※投降人数に誇張があるとの説も・・また当時の日本の
歴史書には、そのような記述は何も残されていない。
今回の訪問で、このような史実があることを初めて知っ
た私ですが、韓国では名将と敬われ、歴史にその名が
刻まれているのです。
その後も女真族による侵略を撃退するなど、大きな功績
を残し、朝鮮王から”金忠善”の姓を賜り、”三乱功臣”
とも言われた。
1617年には”正憲太夫”という、正二品の高い官位を
授かっている。
大邸近郊に家屋敷が与えられ、現在子孫が暮らしている。
晩年、金忠善は家訓や郷約を定め、住民の教育に励んだ。