■珍島(チンド)の海割れ
珍島は、毎年旧正月の2月末と6月中旬に
「海割れ」現象が起きる。
引き潮の時、長さ約3キロ、巾40メートルの
海底が現れ、道のようになる。
旧約聖書のモーゼの伝説に似ていることから
「モーゼの奇跡」とも呼ばれている。
1299 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
韓国・全羅南道訪問(2)
「文禄・慶長の役と李舜臣」
全羅南道最南端の珍島(チンド)にある、韓国の英雄
李舜臣(イ・スンシン)将軍と、文禄・慶長の役の詳細
を展示した、殉節基域を見学した。
日本を統一した秀吉は、1592年中国の明を攻める
決意をした。そこで、朝鮮に道案内をさせようと、対馬
の宗氏を交渉に向かわせたが、拒絶された。
激怒した秀吉、加藤清正、小西行長を主力にした
15万の軍勢を朝鮮に送り込んだ。
向え打つは、李舜臣率いる朝鮮水軍・・
1591年、文禄の役の一年前に、朝鮮南西部の水軍の
総帥になった李舜臣は、日本との戦いを予測し、日本水
軍の弱点を見つけ出し、対抗できる”亀甲船”を作らせた
戦いの直前、王が李舜臣に出陣を命じたが、事前に情報
を入手していた李舜臣は、日本軍の罠に気づき出陣しな
かったため、政敵の諫言により失脚。
投獄・拷問の末、死罪を言い渡されたが、一平卒として
軍に留まることで許された。
1597年の慶長の戦いで、朝鮮水軍は惨敗・壊滅。
将軍の多くが戦死したため、復帰を許された。
その時残されたわずか12隻の軍船で、明・韓連合軍は
日本の水軍と戦った。
戦いは、地の利を知り尽くした、鳴門海峡のように潮の
流れの激しい海峡に日本の船団を誘い込み、全滅させ
大勝・・約400隻の日本の軍船と兵士は、海のもずく
となった。
秀吉の死去により、日本軍は明国と休戦を結び、朝鮮
半島から撤退を開始。
和睦に反対する李舜臣は、順天城沖の海上を封鎖。
一足先に撤退していた日本水軍と海戦に及び、李舜臣の
水軍は敗れ、李舜臣は戦死したと伝えられる。
近年になって、韓国の国民的英雄として崇められるよう
になった。