■相対する「老荘思想」と「孔孟思想」
孔子孟子の「孔孟思想」が、秩序を重んじるとすれば、
老子や荘子の「老荘思想」は、自然にあるがままに・・
ということになる。
老子の思想は、純粋無垢な赤子の生き方・・柔軟で
柔らかい生き方が最も強い生き方と説いている。
荘子は老子より気宇壮大で、話が大きい。
生死の問題に言及しているのが特徴・・老子より
具体的に人間の生き方、命について、分かりやすく
説いている。
老子ほど身近な感じはしないが、悩める現代人の
指針になる言葉が見つかるだろう。
道家<道>学院
1282 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
寓話 「匠の技/包丁解牛」
荘 子(推定・紀元前369~286)は、中国の戦国時代の宗国の思想家で、老子とともに道教の始祖のとされ、老荘思想として道教の神に崇められている。
著書「荘子(そうじ)」は、内編七編、外編十五編、雑編十一編からなり、
内編は”寓話”を多く用い、読む者を夢幻の世界へと引き込んでいく。
■荘 子「養生主編・第三」
包丁(料理の名人・丁)があるとき、魏の恵王・文恵君のために牛を料理した。その時、手でさわり、肩を寄せ、足をふんばり、ひざ立ちする彼のしくさが、一つひとつ節度をわきまえ、しかも、刀が肉を割く音は音楽のようだった。
その様子を見た文恵君・・技(わざ)は、ここまで高めることが出来るものか・・と驚いた。
包丁は進み出て言った・・
「私が求めているのは”道”であって、手先の”技”以上のものです。
私が初めて牛を料理したときは、目に映るものは牛ばかりでしたが、
三年もすると、牛の全体は目に入らなくなりました。
この頃は、私は心で牛に対していて、目で見ているわけではありません
・・知覚は働きを止め、精神、心の中の自然な動きだけが働いているのです。
天の理(本来の自然な道筋)に従って、牛の各部位の大きなすき間に
刀刃をふるい、大きな空洞に沿って走らせ、牛の本来のしくみに
その まま従っているのです。
脈が複雑に入り組んだところや、肉と骨がからまったようなところでさえ、
試し切りをすることはありません。
ましてや、大きな骨のかたまりのところは、なおさらです。
腕のいい料理人でも刃こぼれするので、一年くらいで牛刀を取りかえる。ほとんどの料理人は、ひと月ごとに取りかえても、刀を折ってしまうのです。
私の牛刀は19年使い続けて、数千もの牛をさばいてきましたが、
その刃先はたった今、砥石で仕上げたようです・・
包丁の匠の技を見た文恵君は、感嘆の念を漏らした。
「実によい教えを受けた・・包丁の話を聴いて、今後の養生の道を得た」
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宮本武蔵がそうであるように、たゆまぬ努力と経験の積み重ねによって技が磨かれ、名人から更に”匠”へと昇りつめていくのです。
身近にはゴルフ・・ゴルフを始めた頃は、球を前に真っ直ぐ飛ばそうと
必死に当てにいったが、今は球を打ちにいくのではなく、力みのない
自然なスイングワークで、心に描いたスイングを心掛けるようにしている。
私のような高齢で運動神経のにぶい人間でも、毎日休まずコツコツ練習していれば、その内に力が抜け、無駄な動きが減って、 少しづつだが
上達して、 ゴルフとは何ぞや?が分かってくるようになる。