■戦艦大和の教訓
世界最大の戦艦大和・・昭和20年4月7日
沖縄に向かう途中、鹿児島県枕崎沖で砲門を
開くことなく、アメリカ空軍の攻撃を 受け
沈没した。
3332人の乗務員の内、生き残ったのは
わずか276人。
日本海軍航空隊が真珠湾攻撃で大戦果を
あげながら、海戦の主役が主砲の大きさを
競う戦艦から、航空機へと時代が変化して
いくのを見誤った日本海軍・・
戦艦大和の建造は、日本の軍事力を世界に
誇示するだけものになってしまった・・
1267 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「世界一の戦闘機・零戦」
天皇・皇后両陛下は8日午後、西大平洋の激戦地パラオを訪れた。
翌9日、日米合わせて1万2千人が戦死したペリュー島で、慰霊碑に
白菊の花束を供えて拝礼し、黙とうされた。
さて、大平洋戦争で日本が誇る「零戦」が、海軍に正式に採用された
のは、皇紀2600年(S15年)です。正式名称は「三菱零式艦上戦闘機」・・皇紀2600年の末尾の”ゼロ”が名称になった。
その前年の皇紀2599年に採用された爆撃機は、「九九式艦上爆撃機」、皇紀2997年に採用された攻撃機は「九七式艦上攻撃機」と命名された。
開発された時の「零戦」は、世界で最も素晴らしい性能を備えた戦闘機だった。
何より”格闘性能”がずは抜けていた。すごいのは「旋回」と「宙返り」能力。非常に短い半径で旋回できたため、空中格闘戦では絶対負けなかった。
加えて速度が速い・・スピードがある上に小回りが利くという、世界で最も
優れた飛行機だったのです。
本来、戦闘機が持つこの二つの性能は相反する・・格闘性能を重視すると速度が落ち、速度を上げると格闘性能が落ちた。
零戦はこの二つを併せ持った、魔法のような戦闘機だったのです。
零戦を開発したのは、堀越二郎と曽根嘉年の、情熱に燃えた二人の
若い設計士の、血のにじむような努力が可能にしたのです。
また、機銃は通常の7.7ミリに加えて、強大な20ミリ機銃が搭載された。
7.7ミリ機銃弾は、飛行機に穴を開けるだけだが、20ミリ機銃は炸裂弾のため、敵機に当たると爆発する・・当たったら一発で吹き飛んでしまうのです。しかし、発射初速が遅く、弾数が少ないのが難点だった。
加えて、零戦にしかない恐ろしい強みがもう一つあった・・
航続距離が3,000キロと桁外れだったことです。当時、欧米の単座戦闘機の航続距離は、数百キロ程度だった中での3000キロですから、いかに零戦が優れていたか想像できるのです。
余談ですが、もしドイツが零戦と同等の戦闘機を持っていたら?
第二次大戦で、連日のようにドイツの爆撃機が、ドーバー海峡を越えて英国に
攻め込んだ。英国空軍は総力を上げてこれを迎撃し、空爆を阻止することに成功した。
ドイツ空軍が英国空軍に敗れたのは、爆撃機に護衛の戦闘機がつけられなかったため・・重い爆弾を抱えたドイツ爆撃機は、敏捷な英戦闘機の餌食にされ、戦果を挙げることができなかったのです。
ドイツ軍にはメッサーシュミットという素晴らしい戦闘機があった。
しかし航続距離が短く、戦闘が長引くと、海峡を渡って戻ることができない・・
これが致命的敗因になった。
もしドイツ空軍に零戦があったら、ロンドンは火の海になっていただろう・・
百田尚樹著「永遠の0」