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吉田松陰の世界観

■油田の発見がもう10年早かったら

1853年にペリーが来航し、開港を求めた

のは、捕鯨船の補給基地が欲しかったから・・

アメリカで、世界で初めての本格的油田が
発見されたのは、その6年後の1859年。

その後、わずかの間に、ランプの油が鯨油
から灯油になり、アメリカの捕鯨産業は一気
に衰退していった。
もし油田の発見がもう10年早かったら、

ペリーは日本に来航しなかっただろう・・

明治維新も違った形になっていただろう?


「もし、松陰が密航を許されて、アメリカに
渡っていたら・・」、後に総理大臣になって
いたかも・・

歴史のある瞬間「もしあの時・・だったら」

運命は違った方向に向っていき、歴史は全く

違ったものになるだろう・・



1255 【吉村外喜雄のなんだかんだ】

「吉田松陰の世界観」


吉田松陰には「預言者」のような一面があった。

松陰が密航に失敗した後、獄中で書いた「幽囚録」に、今後日本が進むべき道を指し示していて、以下のようなことが書かれていた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・巨城を伏見に築いて、天皇と京都を護れ
・急ぎ軍備を固め、軍艦や大砲を整えるべし
・兵学校で砲術歩騎の兵を操練せよ

・外語学科を置き、蘭・露・米・英の原書を講じよ


・蝦夷(えぞ)を開墾して諸侯を封じ、間に乗じてカムチャッカ、オホーツ
クを奪い、琉球を論して国内諸侯と同じく参勤させ、朝鮮を攻めて人質

を取り朝貢させ、北は満州の地を割き、南は台湾・ルソンを収め、漸次進取の勢いを示せ。

朝鮮に吾れ(日本)が行かなければ、彼れ(列強)が必ず来る!
吾れが攻めなければ、彼れが必ず襲う・・「外征論」


伊豆の下田は、我が邦の喜望峰なり、船舶は必ずこの港に寄る
外国に下田を占拠されたら海路を塞がれる
浜を港場にするのがよい

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

松陰は、横浜が日本を代表する大都市になることを予言していた。

伊藤博文や松下村塾の門下生たちは、北海道開拓、琉球処分、
台湾出兵、日韓併合、満州国
創建、フイリピン占領など・・明治以降の
日本の政治・外交を、ほぼ松陰が書いた予言通りに実行していった。


「幽囚録」は、幕末の尊王攘夷運動や、明治初期の薩長政府に与えた影響がどれ
ほど大きかったか・・その後の歴史が物語っている。

明治政府と朝鮮国の国交交渉が進展しない中、武力で開国を迫る征韓論者が台頭するのは、吉田松陰の影響があったからでしょう。


ところで、獄中で「幽因録」を書いた当時の松陰の西欧知識度は、
アメリカ合衆国をワシントンと取り違えたり、大半が砂漠のオーストラリアを、豊かな穀倉地が広がる富み栄える国と思い込んだり・・

鎖国中の日本での知識とはいえ、
外国の地理や知識は、現在私たちが想像する以上にお粗末だったようです。

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