■松下村塾を開く動機
塾を開いた動機は、いかにも松陰らしいもの
でした。
「 自分が塾を開くのは、人にものを教える
ためではない。
世に優れた人物を見つけて親しく交際し、
自分が囚われている狭い心を解き放ち、
愚かなところを矯正したいが為である 」
塾を開いて塾生から学び、自らを高めようと
したのです。塾生1人ひとりの長所を見つけ
ては「君はここが際立って優れている」と・・
ズバリ長所を指摘されれば、誰もが感激し、
奮い立ち、自らの可能性を追い求めようと
するものです。
1254 【幸せな人生 】 「吉田松陰・福堂策」
国禁を冒した松陰は、長州藩・野山獄に投獄された。
牢内には11人の囚人がいた・・松陰は最年少の新入りながら、
楽天的で誠実な人柄から、直ぐに信頼を得、問われるままに自らの
体験を語り、やがて「孟子」を講義するようになった。
出獄の当てもない囚人たちは、何れも生きる希望を失っていた。
心を痛める松陰・・獄を、単なる「刑罰を受ける場所」ではなく、
「人間を更生し成長出来る場所」にしたいと考えた。
松陰「日々を無為に過ごしていても仕方がない・・これを機に習い事を
始めてはどうか?」と持ちかけた。
”書”に優れた者や、”俳句”が得意な者などを”師匠”に立て、
皆で習い事を始めた。
やがて囚人たち、それぞれ松陰から長所を見出され、師匠になったり
弟子になったり・・互いに学び合うようになった。、
それ迄張りもなく、只生きているだけの囚人たちに急激な変化が現れた。懸命に面倒を見る松陰の姿に、囚人たちは、師匠・先生と尊敬するようになった。
どんな悪人でも、自分の長所を認められ、人様のお役に立てるなら、
何にも勝る喜びになるだろう。
更に、司獄官や看守までもが、松陰に私淑するようになった。
松陰は、監獄という最も劣悪な環境を、学びの場に変え、自己を回復し、更に高める場にしていったのです。
高い志を持って人生を歩むなら、どんな過酷な環境でも、より善い方向に変えていくことが出来ます。しかし、現状に甘んじ、学び・努力する気のない者は、道が拓けることなど到底無理なのです。
松陰の野山獄での生活は1年2か月で終わった・・
その後は自宅に蟄居して、松下村塾を開くことになる。
松陰、獄中での体験を基に、獄制の改革案「福堂策」を書き上げた。
「牢獄を”福堂”にするべし」とした、お上への建白書になっていて、
孟子の「性善説」の影響が伺える。
内容は優しさと自愛に満ち、野山獄に対してだけではなく、罪人全般への処遇の改善を求めるもになっていた。
「人は生まれながらにして善き心を持っていて、根っからの悪人はいない」という考えに立ち、獄内を役人が全て監視し、管理するのではなく、獄囚たちにある程度自治を任せ、学問や諸芸を身につけさせる」
また「一度の罪で、その人間全てを否定してはならない」と・・
後に、多くの囚人が出獄を許され、立派な人物になり、余生を送っている。人は誰でも、他人から”必要”とされるとき、大きな充足感を覚える。
それまて、暗く無為な時間を過ごしていた、野山獄の囚人たち・・
学びと教えの場を得たことで、自己を取り戻し、幸福な場所に変貌していったのです。
小山ひな子「人生勉強ブログ」