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吉田松陰の覚悟(3)

松陰がペリーに渡した手紙


ペリー提督「日本遠征記」に、黒船に乗り込ん
だ松陰たちの様子が記されている。
「・・自分たちの目的は、合衆国に連れて行っ
てもらうことであり、そこで世界を見聞したい」
と訴えた。

黒船に漕ぎ着き、ペリーに渡した手紙には・・
「・・我が国は海外渡航が禁じられている。
世界に行きたいという想いが湧きあがりなが
らも、中々叶うことがなかた。

今幸いにも、貴方の国の軍艦が留まっている。
決行を決めた・・密かに船に乗せてもらい、
海外へ行きたい。我ら両人、世界を見物致し
たく候・・ 」



1253 【吉村外喜雄のなんだかんだ】

「吉田松陰の覚悟(3)」


懸命に海外への想いを訴える松陰・・しかしその願いをぺリーは受け
入れなかった。

連れて行きたいのは山々だが、条約調印直後だけに、幕府が禁じて
いる密航に手を貸すわけにはいかなかった。
松陰の人生を賭けた選択は失敗に終わったが、ペリーに日本人の
底力を印象付けることになった。

ペリー提督「日本遠征記」に、この事件の感想が書かれている・・

「 この事件は、死の危険をも辞さない2人の教養ある日本人の、
  激しい知識欲を示すものとして、実に興味深い。 2人の日本人を

  見ると、この国の前途は何と可能性を秘めていることか・・ 」


密航を自首して出た松陰・・ペリーの幕府への助言もあって、命は助け
られた。仮釈放され、山口・萩に送り返された・・実家で謹慎生活を送ることになる。
そこに、松陰と同じように日本の将来を憂う、多くの若者が集まって
きた。
松陰は、自宅の十畳と八畳を改築して、若者たちと学び合った・・
松下村塾だ。

自らの命を省みず、アメリカに行こうとした松陰の生き方は、
若き志士たちに大きな刺激を与えた。
松陰、自らアメリカに渡って、実際に様子を見ようと実行した人物であることが、志士たちを引きつけたのです。


集まった門下生に、松陰は1人1人の個性を活かした教育を行った。
そこで教えた期間はわずか二年半・・長くは続かなかった。

その頃、幕府で実権を握っていたのは、大老・井伊直弼。


井伊は幕府の権威を取り戻そうと、幕府を批判する者を取り締まった・・安政の大獄である。

松陰も、この取り締まりの対象になった。幕府が「外国の言いなりで政治や外交を行っている」とした、過激な言動で幕府を批判していた故に・・。
幕府は、松陰に死罪を言い渡し、1859年10月27日斬首・・
享年30歳だった。

松下村塾のわずかな期間に、高杉晋作、伊藤博文(初代の総理)、
品川弥次郎(内務大臣)、山縣有朋(3代と9代の総理)、山田顕義、
その他多数、時代を駆け抜け、幕末維新の原動力となった志士たち・・


吉田松陰を生涯にわたって”師”と仰ぎ、自分たちの学びの原点は
「松下村塾」にあるとしたのです。

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