■吉田松陰が北山安世に宛てた手紙
「独立国として三千年来、他国の束縛をうけ
なかった偉大な国日本が、一夜にして他国の
束縛を受けることは、血性ある者には見るに
忍びない。 - 中略 -
私は、その大事業を成功させることができな
いことを知っている。昨年来、微力をもって
自分なりに粉骨砕身したが、全く役に立たな
かった。
これ以上の所置、みだりに発言すれば、必ず
一族全体にお咎めが及ぶだろう。
しかし、今の幕府も諸侯も既に正気をなくし
ているので、救いようがない。在野の優れた
人物の出現を望む以外に、期待することは
できない 」
※北山安世は、佐久間象山の甥
松陰は手紙で憤激をぶちまけている
1252 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「吉田松陰の覚悟(2)」
今の日本の軍事力では、ペリーと互角に戦うなどとてもできない。
何とかして、西洋の技術を手に入れなければ・・
これまで唯一、西洋の中で我が国とつながりのあるオランダを通せば、出来ないことはないはずだが・・
しかし松陰の期待に反して、幕府は勝ち目のない戦は望まなかった・・
それは、長州藩も同じであった。
1854年1月、ペリー艦隊が再び来航した。
予告通り、前回より3隻多い7隻の大船団で、幕府に開国を迫った。
3月3日、ついに幕府はアメリカと日米和親条約を締結。
武力を背景としたペリーの圧力に屈したのです。
アメリカと国交が開かれた以上、松陰にとって攘夷は現実的手段では
なくなっていた。大国に屈しない日本の在り方は何なのか?
松陰は、これから何をすべきかを悩み、考えた。
3月18日、松陰は弟子の金子重之助と下田に入った。
ここで松陰は、誰も予測しなかった驚くべき計画を練っていた・・
海外密航だ。ペリーの船で日本を抜け出し、優れた西洋文明を自ら
学ぶしかない・・と。
当時日本人の海外渡航は固く禁じられていた・・発覚すれば死罪になる恐れがあった。にもかかわらず松陰は「日本の独立を守りたい」との
思いから、この手段に賭けた。
どうしても海外へ行きたい・・松陰は、この思いをペリーに伝えるため、書状をしたためた。松陰は素晴らしい戦略家だったが、こういう時は、
ろくに計画も立てなかった。
「動けば道は開ける!」とばかりに、小舟を盗んで荒波に漕ぎ出し、
そのまま黒船に乗り込んだ。
アメリカの水兵は驚いた・・無防備な侍が法を犯し、命がけで「学ばさせてくれ!」と挑んできたのだ。
その覚悟に恐れをなし・・日本人の底力を思い知らされた。
松陰の小さな決断が、後に「明治維新」という、大きなうねりを生んでいくことになる。
池田貴将「覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰」