■松陰を育んだ長州藩
長州藩は、江戸時代初期の頃から、藩内の
優秀な人材を登用して、藩政を任せてきた・・
中下級武士が藩政を動かすという、他藩には
ない風通しの良さと、風土があった。
能力のある若者の意見を十分に反映させる
組織風土・・そして、自己変革をしないと取り
残されてしまう風土が、長州藩にあっ たの
です。
そうした風土から、幕末に高杉晋作ほか、
討幕運動の中心となる人物が、多数輩出
する のです。
1251 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「吉田松陰の覚悟(1)」
江戸の末期・・アジアの諸国は次々欧米列強の植民地になっていった・・
あの大国中国までもが、植民地支配の巨体な波に呑まれ、列強の要求に屈して、生き延びようと苦悶している。
かたくなに鎖国を続けていた日本にも、転機がやってきた・・松陰が東北の旅から戻ってきた翌年の 1853年6月、4隻の黒船・ぺりー艦隊が突如浦賀に現れた。
いきなり大砲3発を威嚇発射・・江戸市中は大騒ぎになった。
ペリーは強力な武力を背景に、幕府に開国を迫った。
「返事は翌年まで待つ」としながらも、江戸幕府をどう喝した・・
「これらの船は艦隊のごく一部に過ぎない・・次は、全艦を率いて戻って
くる」と・・
要望を聞かないなら、武力も持さないという傍若無人なペリー。
そんなやり方は余りに横暴! これは対等な国どおしの外交ではない。
このままでは、日本の独立が危うくなってしまう。
江戸幕府・・いくら強がったところで、刀では大砲に勝てないと沈黙。
日本はもうおしまいだ・・武士から農民まで、眠れない夜が続いた。
そんな中ただ1人、西洋を出し抜いてやろうと意気込む若者がいた・・
吉田松陰25歳の時である。
兵法にくわしい松陰・・当初は「どうやって西洋を倒そうか」と思案する
「攘夷論者」だった。黒船を目にして考えが変わった・・ これでは勝てない!・・「開国論者」になった。
ぺりー来航から2カ月後、松陰は主君・毛利敬親に、「将及私言」を提出した。 年再びペリーがやって来た時、どういう態度で臨むべきか・・
対応策を、長州藩を通して、幕府に訴えようとしたのです。
外国から侮られるなら、幕府は諸藩の兵を引きいて、その恥辱をそそがねばならない。松陰はペリーを相手に「断固戦うべき!」と訴えた・・
「攘夷を決行すべき」と主張したのです。
しかし、松陰の攘夷は単に「異国を追い払え」という主張ではなかった。「大砲・小銃ともに西洋のものに習うべし。海軍も西洋のものに習った方がよい」
松陰は、西洋の優れた所は学んでいかなければ・・と思っていた。
そのためには、 国を開くことも有りうる!・・と。
松陰の頭の切り替えは早かった・・いくら敵意を燃やしたところで、
日本は守れない・・それより、西欧のやり方を学び取ることの方が先ではないか・・「よし!あの軍艦でアメリカへ行こう」
鎖国の中密航すれば死刑である・・松陰は気にもとめなかった。
翌年、再び黒船がやってくると、「日本にとって今なにが1番大事なのか」を考え・・すぐさま思い切った行動に出た。
その時、松陰が言い残した言葉がある・・
「海を渡ることが禁じられているが、たかだか江戸250年の常識に 過ぎない。今、自分がやろうとしていることは、日本の今後3千年の歴史にかかわることだ。
くだらない常識に縛られ、日本が沈んでいくのを傍観するのは、我慢が
ならない!」
池田貴将「覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰」