■「不羈(ふき)独立」
松陰、17歳の時に友人から贈られた
「坤輿図識」(こんよずしき)に世界の地理や
歴史が書かれていた。
この書物で、松陰が関心を持ったのは、
アメリカ合衆国のことが書かれたページ
「不羈独立ノ国タルヲ約ス・・」の記述。
松陰は、アメリカがイギリスと戦って独立を
勝ち取った記述に、強い関心を示した。
当時混迷していた日本の、これからの姿を
アメリの独立に置き換えて、日本もこれを範
として生きていかなければならない・・と
「他者から束縛されず、確かな独立を目指す」
松陰の人生をかけた”命題”が、
この「不羈独立」により定まったのです。
1250 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「黒船来航以前の松陰の海防認識」
黒船来航以前の西洋に対する松陰の知識は、まだまだ幼稚なものだった。松陰が、長州藩の海岸防備を調べた時の報告書「廻浦紀略(かいほきりゃく)」に、戦を想定した文章が残されている。
「地元の漁師の舟で海に出た。この船、巾七尺長さ三丈、
実にしっかりしており、軍用に使える」
松陰は、わずか9㍍の漁船が、軍艦になると思っていた。
翌年松陰は、旅先の長崎で、自分の知識がいかに浅はかだったかを
痛感した。当時、日本で唯一の海外の窓口だった長崎・・
松陰はここで、阿片戦争の実情を探った。
そして、驚がくの実体を知ることになる・・松陰はその内容を、日記に
書き写していた。
「イギリス軍艦の砲撃は百発百中だった・・それに対し、清国の大砲は
10発の内9発は当たらなかった・・アジアと西洋の力の差は歴然として
いた」
日本には、山鹿流兵学、伝統兵学、和流砲術がある・・
それで十分ヨーロッパと戦えると思っていた。阿片戦争がどれほど厳しい戦争だったか・・中国の軍備が全く通用しなかったのだ。
従来の兵学や軍備では、まったく役に立たないことを知った。
今まで自分が学んできた兵法では、西洋に太刀打ちできない!
長州を護るには・・どうしたらいいか?・・ 松陰は苦悩した。