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2015年02月 アーカイブ

2015年02月01日

五百羅漢修復

座禅は呼吸法

座禅を組んで、まず背骨を真っ直ぐにして
丹田に意識を集中し、自然な息づかいで腹式

呼吸をする。座禅は呼吸法だと思えばいい・・


吸った息を下腹部に下ろし、静かに長く鼻か

ら吐く・・吸うときは薄く目を開け、吐くときに

目をつむる。そうして、お寺の静寂の中に身

をゆだねる。

丹田呼吸が無意識にやれるようになると、

セロトニンという神経伝達物質が脳内に満ち

てくる・・心穏やかになり、落ち着いてきます。


座禅の最中”無”になろうとしても、雑念は
次々湧いてくる・・止められない。それなら
雑念に囚われないようにするのがよい。

自分の吸う息、吐く息に集中し、呼吸の数を

数えるようにする・・すると、妄想に取りつか

れなくなる。

雑念は、忘れたころに次々出てくるので、
自分の呼吸に意識を集中する。


         越前市/お誕生寺住職・板橋興宗



1247 【吉村外喜雄のなんだかんだ】

「五百羅漢修復」


毎月月初めの1日、寺町の曹洞宗・桂岩寺で、まだ暗い早朝5時から
般若心経を三度唱え、その後座禅を組む。

その桂岩寺には、526体の羅漢が安置されています。

桂岩寺は、江戸初期の1642年、金沢市傳馬町で開基・桂岩和尚の
発願により創建された。

1733年4月26日昼九つ、傳馬町からの出火して焼失※。
現在の寺町に移転して再建された。

1809年、海運天麟和尚の発案により、五百羅漢の安置が始まる。

その後、二代の和尚が引き継いで、残りの尊像を完成させた。


昭和37年、子どもの火遊びから寺は全焼・・五百羅漢のほとんどが焼失した。
寺の復興と平行して、羅漢の再興を京都の仏師、吉岡元造、
定一親子に依頼。
二人は、焼失した寺の依頼に応え、その後25年の歳月と人生をかけて、526体の仏像を彫り上げた。

1987年(昭和62)に完成し、奉賛法要が行われた。


あれから三十年、安置してある羅漢の一部が、台座がひび割れるなど老朽化し、傷んできた。

吉岡さん親子は既に亡く、蒲田住職は、父親吉岡元造さんの兄弟弟子を祖父に持つ、京仏師の富田珠雲さん(39歳)を探し出し、羅漢の修復を依頼した。

修復は昨年の7月から始められた・・損傷の激しい仏像から順に、当面2年間で”10体”を目標に、修復当時と同じ”絵の具”と”接着剤”使って、修復するという。

                                       001桂岩寺
桂岩寺の鎌田住職(31歳)は、檀家などから修復のための寄進を募りながら、住職の生涯の悲願として、五百羅漢の修復に取り組む決意を新たにする。


※金沢・享保の大火

フェーン現象強風の中、傳馬町から出火した火は、河原町、大工町、
十三間町など795戸を焼き尽くした。その3日後、今度は寺町から
出火・・野町、遊郭のある石坂、千日町など537戸を焼失する大火
になった。

2015年02月04日

技術革新に揺れる自動車業界(2)

緊急連絡システム「ヘルプネット」


運転年齢の高齢化に伴い、高齢者による自動
車事故が多発するようになった。
高齢者が運転中、体調に異変をきたした時、
自動運転がアシストしてくれる。


装置が異常を察知したら、前後の安全を見極
めて路肩に自動停止・・ハザードランプが点滅。
センターにGPSでドライバーが運転出来ない

ことと、位置を自動的に知らせる・・。


こうした「ヘルプネット」緊急連絡システムが、
国内メーカー各社の一部の車両に、既に搭載

されている。

自動運転が、身近なものになりつつある。



1248 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「技術革新に揺れる自動車業界(2)」


ドライバーが運転操作しなくても走行する「自動運転車」
世界の主要メーカーは、新技術の開発にしのぎを削っている。

自動運転車で一歩先をリードする、欧米メーカーの取り組みは・・
ドイツ車を中心に、高速道路での安全自動走行や、渋滞中の自動運転システムなどが、既に実用化されている。


そうした欧米の各社と一線を画し、独自の取り組みをしているのが、
スエーデンのボルボ社・・スビードより安全性と堅ろうさを特徴とする
ボルボ車を、私は十数年愛用してきた・・
そのボルボ社は今、「自動運転車」の最先端にいる。

米グーグルがハンドルもブレーキもない「完全自動運転車」の実現を
目指しているのに対し、ボルボの自動運転車は、安全運転を支援し、
人為ミスによる事故を大幅に減らそうというものです。


ボルボ社は、ユーザーの交通事故による死亡事故とケガ”ゼロ”を
スローガンに掲げ、安全性を追求する自動運転機能搭載車を、
16年度から導入していくという。

(1)前方車両への接近や障害物を感知し、自動ブレーキをかけて
      停止する

(2)車両の他、人や自転車を検知して危険を察知する

(3)ドライバーが求める安全速度を保ち、スムーズに走行する

(4)車線逸脱防止支援システムにより、車線維持をアシストする
(5)渋滞時、前の車が発進すると、自動的に追従する

(6)路肩のガードレールや柵などを感知し、道路から逸脱する
      危険性があるときは、自動的にステアリングを修正する


(7)人の手を借りずに無人で駐車場の出し入れをする。
     ドライバーは、駐車場の入口で車を降り、スマートフォンの
     アプリで「自動駐車機能」を起動させる。
     車に搭載されたセンサーが駐車スペースを察知し、
     自動走行して入庫や出庫を完了する。


2017年には100台のボルボが、一般道路を時速50キロで自動運転する計画。頻繁に渋滞が起きる通勤道路、高速道路などで、試験走行する。
このテストに参加するのは一般人というから、大変な自信である。

このプロジェクトには、スエーデン政府及び各省庁、開催市など、
官民協力して推進していく。
日本では、道路交通法の改正がなければ、一般道路での実験走行は
認められない。

2015年02月07日

神様からの手紙

学ぶことは真似ること


学ぶということは

真似をするというところから出ている


一日真似をしたら 一日の真似

二日真似して
  それであと      真似をしなければ
  それは二日の真似


ところが 一生真似をしておったら

真似が ホンマもんになる

              永平寺 宮崎奕保禅師



1288 【幸せな人生 】
「神様からの手紙」


人間は、この世に生まれてくるとき、神様から一通の手紙を託されて生まれてくる。その手紙には「何をすれば人の役に立ち、世の中のお役に立てるか」が書き込まれている。

しかし多くの人は、自らの使命が何であるかに気づかず、手紙を開封
することなく、一生を終えていく。
どうすれば、何歳になったら、自らの使命に気づくだろうか・・。


幕末の志士・越前福井藩の橋本佐内は、15歳の時に、五つの誓い
「啓発録」を書き上げ、今後の人生の規範とし、戒めにした。
その一つ「立志」には、「自らの目標を揺るぎなく定め、ひたすら精進
せよ」とある。

お釈迦様は苦行・瞑想の後、35歳の時に悟りを開かれた。
その悟りを、人々に伝え・広めるために伝道行脚し、救済することを
自らの使命とした。

私のような取り得のない凡人であっも、その気になれば、世のため人のためのお役に立てるのです。


人のためになることなら何であれ・・
覚悟を決めて十年頑張ってみる・・
すると、二十歳の頃からでも、
三十までには一仕事できる。

それから十年本気でやり続ける・・すると四十の頃には、
人に認められる人間になるだろう・・

が、それでいい気にならず、また十年頑張る。
すると五十までには、ひとかどの人間になっているだろう。

ところが、五十の声を聞くと、大抵の人は息を抜いて、
楽をしたいと思うようになる。
それがいけない・・
これからが仕上げと、新しい気持ちでまた十年頑張る。

そうして、六十の還暦を迎える頃には、もう相当に実を結ぶことだろう。

だが月並みな人間は、この辺りで楽隠居がしたくなる・・

更に、十年頑張る。
すると七十になる・・人は敬愛の念で、盛んな祝いをやってくれるだろう。


しかし、それからの十年が人生の総仕上げ・・もう十年頑張る。
すると、その頃が人生一番充実して、面白い。

「よき人生だった」と、神様からの手紙に気づくのです。

2015年02月11日

黒船来航以前の松陰の海防認識

「不羈(ふき)独立」
松陰、17歳の時に友人から贈られた
「坤輿図識」(こんよずしき)に世界の地理や

歴史が書かれていた。


この書物で、松陰が関心を持ったのは、
アメリカ合衆国のことが書かれたページ
「不羈独立ノ国タルヲ約ス・・」の記述。


松陰は、アメリカがイギリスと戦って独立を
勝ち取った記述に、強い関心を示した。

当時混迷していた日本の、これからの姿を

アメリの独立に置き換えて、日本もこれを範

として生きていかなければならない・・と


「他者から束縛されず、確かな独立を目指す」
松陰の人生をかけた”命題”が、

この「不羈独立」により定まったのです。



1250 【吉村外喜雄のなんだかんだ】

「黒船来航以前の松陰の海防認識」


黒船来航以前の西洋に対する松陰の知識は、まだまだ幼稚なものだった。松陰が、長州藩の海岸防備を調べた時の報告書「廻浦紀略(かいほきりゃく)」に、戦を想定した文章が残されている。


「地元の漁師の舟で海に出た。この船、巾七尺長さ三丈、
  実にしっかりしており、軍用に使える」
松陰は、わずか9㍍の漁船が、軍艦になると思っていた。


翌年松陰は、旅先の長崎で、自分の知識がいかに浅はかだったかを
痛感した。
当時、日本で唯一の海外の窓口だった長崎・・
松陰はここで、阿片戦争の実情を探った。
そして、驚がくの実体を知ることになる・・松陰はその内容を、日記に
書き写していた。

「イギリス軍艦の砲撃は百発百中だった・・それに対し、清国の大砲は
10発の内9発は当たらなかった・・アジアと西洋の力の差は歴然として

いた」

日本には、山鹿流兵学、伝統兵学、和流砲術がある・・
それで十分ヨーロッパと戦えると思っていた。阿片戦争がどれほど厳しい戦争だったか・・中国の軍備が全く通用しなかったのだ。


従来の兵学や軍備では、まったく役に立たないことを知った。
今まで自分が学んできた兵法では、西洋に太刀打ちできない!
長州を護るには・・どうしたらいいか?・・ 松陰は苦悩した。

2015年02月12日

吉田松陰の覚悟(1)

松陰を育んだ長州藩
長州藩は、江戸時代初期の頃から、藩内の

優秀な人材を登用して、藩政を任せてきた・・

中下級武士が藩政を動かすという、他藩には

ない風通しの良さと、風土があった。

能力のある若者の意見を十分に反映させる
組織風土・・そして、自己変革をしないと取り

残されてしまう風土が、長州藩にあっ たの

です。

そうした風土から、幕末に高杉晋作ほか、
討幕運動の中心となる人物が、多数輩出

する のです。



1251 【吉村外喜雄のなんだかんだ】

「吉田松陰の覚悟(1)」


江戸の末期・・アジアの諸国は次々欧米列強の植民地になっていった・・

あの大国中国までもが、植民地支配の巨体な波に呑まれ、列強の要求に屈して、生き延びようと苦悶している。


かたくなに鎖国を続けていた日本にも、転機がやってきた・・松陰が東北の旅から戻ってきた翌年の 1853年6月、4隻の黒船・ぺりー艦隊が突如浦賀に現れた。
いきなり大砲3発を威嚇発射・・江戸市中は大騒ぎになった。

ペリーは強力な武力を背景に、幕府に開国を迫った。
「返事は翌年まで待つ」としながらも、江戸幕府をどう喝した・・

「これらの船は艦隊のごく一部に過ぎない・・次は、全艦を率いて戻って
くる」と・・
要望を聞かないなら、武力も持さないという傍若無人なペリー。
そんなやり方は余りに横暴! これは対等な国どおしの外交ではない。
このままでは、日本の独立が危うくなってしまう。


江戸幕府・・いくら強がったところで、刀では大砲に勝てないと沈黙。

日本はもうおしまいだ・・武士から農民まで、眠れない夜が続いた。

そんな中ただ1人、西洋を出し抜いてやろうと意気込む若者がいた・・

吉田松陰25歳の時である。


兵法にくわしい松陰・・当初は「どうやって西洋を倒そうか」と思案する
「攘夷論者」だった。黒船を目にして考えが変わった・・ これでは勝てない!・・「開国論者」になった。


ぺりー来航から2カ月後、松陰は主君・毛利敬親に、「将及私言」を提出した。  年再びペリーがやって来た時、どういう態度で臨むべきか・・
対応策を、長州藩を通して、幕府に訴えようとしたのです。

外国から侮られるなら、幕府は諸藩の兵を引きいて、その恥辱をそそがねばならない。松陰はペリーを相手に「断固戦うべき!」と訴えた・・
「攘夷を決行すべき」と主張したのです。

しかし、松陰の攘夷は単に「異国を追い払え」という主張ではなかった。「大砲・小銃ともに西洋のものに習うべし。海軍も西洋のものに習った方がよい」

松陰は、西洋の優れた所は学んでいかなければ・・と思っていた。
そのためには、 国を開くことも有りうる!・・と。


松陰の頭の切り替えは早かった・・いくら敵意を燃やしたところで、
日本は守れない・・それより、西欧のやり方を学び取ることの方が先ではないか・・「よし!あの軍艦でアメリカへ行こう」

鎖国の中密航すれば死刑である・・松陰は気にもとめなかった。

翌年、再び黒船がやってくると、「日本にとって今なにが1番大事なのか」を考え・・すぐさま思い切った行動に出た。

その時、松陰が言い残した言葉がある・・

「海を渡ることが禁じられているが、たかだか江戸250年の常識に 過ぎない。今、自分がやろうとしていることは、日本の今後3千年の歴史にかかわることだ。
くだらない常識に縛られ、日本が沈んでいくのを傍観するのは、我慢が 
ならない!」

                                                      池田貴将「覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰」

2015年02月14日

吉田松陰の覚悟(2)

■吉田松陰が北山安世に宛てた手紙


「独立国として三千年来、他国の束縛をうけ
なかった偉大な国日本が、一夜にして他国の
束縛を受けることは、血性ある者には見るに
忍びない。 - 中略 -

私は、その大事業を成功させることができな

いことを知っている。昨年来、微力をもって

自分なりに粉骨砕身したが、全く役に立たな
かった。
これ以上の所置、みだりに発言すれば、必ず
一族全体にお咎めが及ぶだろう。
しかし、今の幕府も諸侯も既に正気をなくし
ているので、救いようがない。在野の優れた
人物の出現を望む以外に、期待することは

できない 」


※北山安世は、佐久間象山の甥

松陰は手紙で憤激をぶちまけている


1252 【吉村外喜雄のなんだかんだ】

「吉田松陰の覚悟(2)」


今の日本の軍事力では、ペリーと互角に戦うなどとてもできない。

何とかして、西洋の技術を手に入れなければ・・

これまで唯一、西洋の中で我が国とつながりのあるオランダを通せば、出来ないことはないはずだが・・


しかし松陰の期待に反して、幕府は勝ち目のない戦は望まなかった・・
それは、長州藩も同じであった。

1854年1月、ペリー艦隊が再び来航した。
予告通り、前回より3隻多い7隻の大船団で、幕府に開国を迫った。


3月3日、ついに幕府はアメリカと日米和親条約を締結。

武力を背景としたペリーの圧力に屈したのです。

アメリカと国交が開かれた以上、松陰にとって攘夷は現実的手段では
なくなっていた。
大国に屈しない日本の在り方は何なのか?
松陰は、これから何をすべきかを悩み、考えた。


3月18日、松陰は弟子の金子重之助と下田に入った。

ここで松陰は、誰も予測しなかった驚くべき計画を練っていた・・
海外密航だ。
ペリーの船で日本を抜け出し、優れた西洋文明を自ら
学ぶしかない・・と。

当時日本人の海外渡航は固く禁じられていた・・発覚すれば死罪になる恐れがあった。にもかかわらず松陰は「日本の独立を守りたい」との
思いから、この手段に賭けた。


どうしても海外へ行きたい・・松陰は、この思いをペリーに伝えるため、書状をしたためた。
松陰は素晴らしい戦略家だったが、こういう時は、
ろくに計画も立てなかった。
「動けば道は開ける!」とばかりに、小舟を盗んで荒波に漕ぎ出し、
そのまま黒船に乗り込んだ。


アメリカの水兵は驚いた・・無防備な侍が法を犯し、命がけで「学ばさせてくれ!」と挑んできたのだ。
その覚悟に恐れをなし・・日本人の底力を思い知らされた。

松陰の小さな決断が、後に「明治維新」という、大きなうねりを生んでいくことになる。

                                           池田貴将「覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰」

2015年02月15日

吉田松陰の覚悟(3)

松陰がペリーに渡した手紙


ペリー提督「日本遠征記」に、黒船に乗り込ん
だ松陰たちの様子が記されている。
「・・自分たちの目的は、合衆国に連れて行っ
てもらうことであり、そこで世界を見聞したい」
と訴えた。

黒船に漕ぎ着き、ペリーに渡した手紙には・・
「・・我が国は海外渡航が禁じられている。
世界に行きたいという想いが湧きあがりなが
らも、中々叶うことがなかた。

今幸いにも、貴方の国の軍艦が留まっている。
決行を決めた・・密かに船に乗せてもらい、
海外へ行きたい。我ら両人、世界を見物致し
たく候・・ 」



1253 【吉村外喜雄のなんだかんだ】

「吉田松陰の覚悟(3)」


懸命に海外への想いを訴える松陰・・しかしその願いをぺリーは受け
入れなかった。

連れて行きたいのは山々だが、条約調印直後だけに、幕府が禁じて
いる密航に手を貸すわけにはいかなかった。
松陰の人生を賭けた選択は失敗に終わったが、ペリーに日本人の
底力を印象付けることになった。

ペリー提督「日本遠征記」に、この事件の感想が書かれている・・

「 この事件は、死の危険をも辞さない2人の教養ある日本人の、
  激しい知識欲を示すものとして、実に興味深い。 2人の日本人を

  見ると、この国の前途は何と可能性を秘めていることか・・ 」


密航を自首して出た松陰・・ペリーの幕府への助言もあって、命は助け
られた。仮釈放され、山口・萩に送り返された・・実家で謹慎生活を送ることになる。
そこに、松陰と同じように日本の将来を憂う、多くの若者が集まって
きた。
松陰は、自宅の十畳と八畳を改築して、若者たちと学び合った・・
松下村塾だ。

自らの命を省みず、アメリカに行こうとした松陰の生き方は、
若き志士たちに大きな刺激を与えた。
松陰、自らアメリカに渡って、実際に様子を見ようと実行した人物であることが、志士たちを引きつけたのです。


集まった門下生に、松陰は1人1人の個性を活かした教育を行った。
そこで教えた期間はわずか二年半・・長くは続かなかった。

その頃、幕府で実権を握っていたのは、大老・井伊直弼。


井伊は幕府の権威を取り戻そうと、幕府を批判する者を取り締まった・・安政の大獄である。

松陰も、この取り締まりの対象になった。幕府が「外国の言いなりで政治や外交を行っている」とした、過激な言動で幕府を批判していた故に・・。
幕府は、松陰に死罪を言い渡し、1859年10月27日斬首・・
享年30歳だった。

松下村塾のわずかな期間に、高杉晋作、伊藤博文(初代の総理)、
品川弥次郎(内務大臣)、山縣有朋(3代と9代の総理)、山田顕義、
その他多数、時代を駆け抜け、幕末維新の原動力となった志士たち・・


吉田松陰を生涯にわたって”師”と仰ぎ、自分たちの学びの原点は
「松下村塾」にあるとしたのです。

2015年02月18日

吉田松陰・福堂策

松下村塾を開く動機

塾を開いた動機は、いかにも松陰らしいもの

でした。
「  自分が塾を開くのは、人にものを教える
    ためではない。
    世に優れた人物を見つけて親しく交際し、
    自分が囚われている狭い心を解き放ち、
    愚かなところを矯正したいが為である 」

塾を開いて塾生から学び、自らを高めようと

したのです。塾生1人ひとりの長所を見つけ

ては「君はここが際立って優れている」と・・


ズバリ長所を指摘されれば、誰もが感激し、
奮い立ち、自らの可能性を追い求めようと
するもので

 

1254 【幸せな人生 】    「吉田松陰・福堂策」


国禁を冒した松陰は、長州藩・野山獄に投獄された。

牢内には11人の囚人がいた・・松陰は最年少の新入りながら、
楽天的で誠実な人柄から、直ぐに信頼を得、問われるままに自らの
体験を語り、やがて「孟子」を講義するようになった。


出獄の当てもない囚人たちは、何れも生きる希望を失っていた。
心を痛める松陰・・獄を、単なる「刑罰を受ける場所」ではなく、
「人間を更生し成長出来る場所」にしたいと考えた。


松陰「日々を無為に過ごしていても仕方がない・・これを機に習い事を

始めてはどうか?」と持ちかけた。

”書”に優れた者や、”俳句”が得意な者などを”師匠”に立て、
皆で習い事を始めた。

やがて囚人たち、それぞれ松陰から長所を見出され、師匠になったり
弟子になったり・・互いに学び合うようになった。、


それ迄張りもなく、只生きているだけの囚人たちに急激な変化が現れた。
懸命に面倒を見る松陰の姿に、囚人たちは、師匠・先生と尊敬するようになった。
どんな悪人でも、自分の長所を認められ、人様のお役に立てるなら、
何にも勝る喜びになるだろう。


更に、司獄官や看守までもが、松陰に私淑するようになった。

松陰は、監獄という最も劣悪な環境を、学びの場に変え、自己を回復し、更に高める場にしていったのです。


高い志を持って人生を歩むなら、どんな過酷な環境でも、より善い方向に変えていくことが出来ます。
しかし、現状に甘んじ、学び・努力する気のない者は、道が拓けることなど到底無理なのです。


松陰の野山獄での生活は1年2か月で終わった・・
その後は自宅に蟄居して、松下村塾を開くことになる。


松陰、獄中での体験を基に、獄制の改革案「福堂策」を書き上げた。
「牢獄を”福堂”にするべし」とした、お上への建白書になっていて、
孟子の「性善説」の影響が伺える。

内容は優しさと自愛に満ち、野山獄に対してだけではなく、罪人全般への処遇の改善を求めるもになっていた。


「人は生まれながらにして善き心を持っていて、根っからの悪人はいない」という考えに立ち、獄内を役人が全て監視し、管理するのではなく、獄囚たちにある程度自治を任せ、学問や諸芸を身につけさせる」
また「一度の罪で、その人間全てを否定してはならない」と・・


後に、多くの囚人が出獄を許され、立派な人物になり、余生を送っている。
人は誰でも、他人から”必要”とされるとき、大きな充足感を覚える。

それまて、暗く無為な時間を過ごしていた、野山獄の囚人たち・・
学びと教えの場を得たことで、自己を取り戻し、幸福な場所に変貌していったのです。 
                                               小山ひな子「人生勉強ブログ」

2015年02月21日

吉田松陰の世界観

■油田の発見がもう10年早かったら

1853年にペリーが来航し、開港を求めた

のは、捕鯨船の補給基地が欲しかったから・・

アメリカで、世界で初めての本格的油田が
発見されたのは、その6年後の1859年。

その後、わずかの間に、ランプの油が鯨油
から灯油になり、アメリカの捕鯨産業は一気
に衰退していった。
もし油田の発見がもう10年早かったら、

ペリーは日本に来航しなかっただろう・・

明治維新も違った形になっていただろう?


「もし、松陰が密航を許されて、アメリカに
渡っていたら・・」、後に総理大臣になって
いたかも・・

歴史のある瞬間「もしあの時・・だったら」

運命は違った方向に向っていき、歴史は全く

違ったものになるだろう・・



1255 【吉村外喜雄のなんだかんだ】

「吉田松陰の世界観」


吉田松陰には「預言者」のような一面があった。

松陰が密航に失敗した後、獄中で書いた「幽囚録」に、今後日本が進むべき道を指し示していて、以下のようなことが書かれていた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・巨城を伏見に築いて、天皇と京都を護れ
・急ぎ軍備を固め、軍艦や大砲を整えるべし
・兵学校で砲術歩騎の兵を操練せよ

・外語学科を置き、蘭・露・米・英の原書を講じよ


・蝦夷(えぞ)を開墾して諸侯を封じ、間に乗じてカムチャッカ、オホーツ
クを奪い、琉球を論して国内諸侯と同じく参勤させ、朝鮮を攻めて人質

を取り朝貢させ、北は満州の地を割き、南は台湾・ルソンを収め、漸次進取の勢いを示せ。

朝鮮に吾れ(日本)が行かなければ、彼れ(列強)が必ず来る!
吾れが攻めなければ、彼れが必ず襲う・・「外征論」


伊豆の下田は、我が邦の喜望峰なり、船舶は必ずこの港に寄る
外国に下田を占拠されたら海路を塞がれる
浜を港場にするのがよい

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

松陰は、横浜が日本を代表する大都市になることを予言していた。

伊藤博文や松下村塾の門下生たちは、北海道開拓、琉球処分、
台湾出兵、日韓併合、満州国
創建、フイリピン占領など・・明治以降の
日本の政治・外交を、ほぼ松陰が書いた予言通りに実行していった。


「幽囚録」は、幕末の尊王攘夷運動や、明治初期の薩長政府に与えた影響がどれ
ほど大きかったか・・その後の歴史が物語っている。

明治政府と朝鮮国の国交交渉が進展しない中、武力で開国を迫る征韓論者が台頭するのは、吉田松陰の影響があったからでしょう。


ところで、獄中で「幽因録」を書いた当時の松陰の西欧知識度は、
アメリカ合衆国をワシントンと取り違えたり、大半が砂漠のオーストラリアを、豊かな穀倉地が広がる富み栄える国と思い込んだり・・

鎖国中の日本での知識とはいえ、
外国の地理や知識は、現在私たちが想像する以上にお粗末だったようです。

2015年02月25日

吉田松陰の教え・・志

稲盛和夫の志


高い”志”で成功した経営者といえば、京セラ
の稲盛和夫。京セラを創業して間もない頃に、

松下幸之助の講演を聴く機会があった。


講演後の質疑応答で「松下電器はダム式経営

を行っているが、どうしたらダム式経営がで
きるのか」という質問が聴衆から出された。


幸之助「それはダムを造ろうと、強く思うこと
ですね」と答えたという・・「なんだ、当たり前
のことじゃないか」・・会場は笑いに包まれた。


しかし稲盛氏「そうか、ダムを造ろうという
強い思いがなければ、ダム式経営はできない
のだ。自分の会社も、ダム式経営をやろう」


それから寝ても覚めても、このことを忘れず

に取り組んだという。
「現在の京セラがあるのはこの言葉のお蔭」

と、後に稲盛氏は語っている。



1256 【幸せな人生 】    「吉田松陰の教え・・志」


吉田松陰は、弟子たちに「志」を持つことの大切さを教えている。

松陰が、塾生”入江すみ蔵”と書簡のやり取りをした中に、そのことが
言い交わされている。


「松蔭先生は、常日頃”志を持って生きる”ことの大切さ語っておられる

  が、自分にとっての役割とは?志とは何か?・・分からないのです」
と弟子の入江は戸惑った。


「塾生に一番伝えたいこととは何でしょうか?」と先生に問うなら、「”志”を立てることが万物の源となす」と答えるでしょう・・最初に”志”あり

 きと・・

”志”とは、ビジョンのことです。 ビジョンを一言で言うなら
「自分は将来どうなりたいのか?」でしょう・・。

「将来どうなりたいのか・・考えなさい」と先生は繰り返し言われる。


志であれば何でもいいのか・・というと、そうではない。
先生は「地域の ためや、国のためになることを考えなさい」と言う。
先生の言う地域とは、自分が住む村のことであり、国とは藩のことである。 
塾生には「小さな目標と大きな目標、両方同時に考えるようにしなさい」と指導された。

それを今ふうに言うと、船井行雄先生の口癖「世のため、人のためになることを第一に考えなさい」になる。
世の中のためになることが「大きな目標」で、身近な人の役に立つことが「小さな目標」になる。


弟子のすみ蔵、これを聞いてもまだ、「”志を持て”と先生は言われるが、何のことやら・・何をどうしたらいいのか・・さっぱり分かりません」と
答えた。

そこで先生は付け加えた・・目の前に起きることに、全身全霊でぶつかっていきなさい・・それを”至誠”と言う。
目の前に起きたこととは・・鳥に餌をやること、ご飯をちゃんと食べる
こと、箸の上げ下ろし、布団の上げ下げ、庭の掃除、農作業・・
すべて 全身全霊でやりなさい。


「これ以上は出来ない!」と思うまでやりなさい。
そうすることで、心がワクワクしたり、トキメクものにぶつかるでしょう…
それを”真骨頂”と言いま
す。真骨頂とは、その人が持つ”長所”のことです。
どのように生きるかを考えるのは、真骨頂(長所)が何かが分かってか

らでよい。”志”は、己の生きざまの中から生まれてくるものであって、ちょっと頭で考えて生まれてくるような、簡単なものではありません。

己が真骨頂(長所)が見つかって後、自分がどう生きたらいいかを考え 
ればよい。真骨頂を果たすことを”生きる”と言うべし・・と松蔭先生。


自分の長所に則って生きていくことが、志を果たすことになり、自分の
役割を果たすことになる・・と教えているのです。

                                               佐藤芳直「船井行雄から学ぶ」

己の長所を知って後に、自分の生き方が定まる・・経営理念を成文化
する時も、
このようにゆっくり時間をかけて考えることです。

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