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日本で最初にウイスキーを造った男

「マッサン」の主役に抜擢された
   外国人女優


ヒロインオーディションは、国内から232人、

アメリカ、イギリス、フランスなど海外から

289人の応募があった。

起用の決め手は「日本人に好まれる雰囲気、

笑顔、演技力」

 

3分に及ぶ日本語の台本を受取り、セリフの

意味を理解し、丸暗記とは違う演技力で圧倒

し、夫婦の人情喜劇を演じるコメディセンスも

抜群の、米女優ケイト・フォックスが選ばれた。


竹鶴政孝の妻リタが、右も左も分からない

異国の地日本で奮闘し、成長していった姿を
女優フォックスも同様、「ドラマを演じながら

日本人になっていく」

その変化していく姿が、朝ドラの魅力になる

と、期待したのです。

                                                    NHK


1242 【吉村外喜雄のなんだかんだ】

「日本で最初にウイスキーを造った男」


NHK朝ドラ「マッサン」こと竹鶴政孝は、ニッカウヰスキーの創業者です。1894年(明27)広島県の作り酒屋の三男に生まれた。
大阪高等工業・醸造科を卒業後、日本で本物のウイスキーを造りを考えていた 摂津酒造に入社。


1918年(大正7)社命により、24歳で単身スコットランドのグラスゴー
大学に留学。 政孝が極度のホームシックにかかっていた頃、柔道を
通して開業医一家と親しく
なった。
長女リタと恋に落ち、二人は出会いから半年後に、両親の反対を押し切って結婚。

「日本で本物のウイスキーを造りたい」との情熱を胸に、現地の蒸留所でウイスキ ーの製造法を修得。


プロポーズの時「スコットランドで生活してもいい」と言う政孝に、リタは・・

「私はあなたの夢と共に生き、お手伝いをしたい」と、遠い異国日本に
嫁いでき
た。
政孝は新妻を伴って帰国したが、日本は大不況の真っ只中・・
ウイスキー製造を断念
した摂津酒造を退社した。


妻のリタは、日本の生活に溶け込もうと努力を重ね、漬物や塩辛まで
手作りするよう
になった・・周囲は「日本人以上に日本人らしい」と感心
した。

関西弁も流暢に操れるようになったリタ・・「マサタカサン」の発音が
難しかったの
か、夫・政孝を「マッサン」と呼んだ。


1923年(大正12)、国産ウイスキー造りを模索していた寿屋(現サントリー)に入社。
山崎に日本で最初のモルト蒸留所を建設。初代の工場長になって、本格ウイスキ製造に従事。
昭和4年、日本最初のウイスキー「サントリー白札」を発売したが、
日本人の好みに合わず、ほとんど売れ残った。


昭和9年、40歳を目前にした政孝は、10年間の契約期間終了を機に、寿屋を
退社。ウイスキー造りの理想郷と心に温めていた、北海道余市町に「大日本果汁(株)」を設立。リンゴジュースや果汁ゼリーを製造して、ウイスキーが完成するまでの繋ぎにした。


昭和15年、自らの手で造り出した第1号ウイスキーが完成・・
「大日本果汁」を略
して「ニッカ(日果)ウヰスキー」と命名し出荷。

本格ウイスキー造りを夢見てイギリスに渡ってから、22年の歳月が
流れていた。

その後、昭和31年に発売した「丸びんウイスキー」が大ヒット・・

37年には「スーパーニッカ」、38年に「ハイニッカ」と立て続けにヒット

し、ニッカはサントリーに次ぐ全国ブランドへと成長していった。


昭和54年、85歳で天寿全う・・病床でもウイスキーグラスを離さなか
ったという。

                                             小樽市「ニッカバー・リタ」のホームページより

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