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江戸の町は女尊男卑

江戸八百八町


江戸八百八町とは、江戸が大都会で、江戸の

町数の多いことを示した言葉です。
吉宗の代、享保九年(1724)には、江戸の
人口は二百万人を超え、当時のパリ、ロンド
ンをしのぐ大都会だった。


町人数642,190人、1,672町になった。

江戸の全体の六割は武家地で、残りを寺社と

町人が半々で住み分けた。

町人は、二割の土地にひしめき合って生活

していたのです。

山住昭文「江戸のこばなし」



1213 【吉村外喜雄のなんだかんだ】

~歴史から学ぶ~ 「江戸の町は女尊男卑」


江戸庶民が住む居住区域は、住民税などが無税ということもあるが、

非常に制限されていた。

江戸の人口百万の八割が町人なのに、町人の居住区域は、全体の面積の二割たらずしかなかった。単純計算でいくと、武士・神職・僧侶などの16倍の密度で住んでいたのです。


町人の住宅には庭園がない・・表通りは、壁を塗った商家が防火帯になっていて、その裏手に板葺の平屋の町人長屋が、路地を挟んで並んでいた。

一軒の広さは今でいう2DK・・六畳と八畳の二間で、たな賃は月1200円くらい・・収入が少なかったから、特別安いわけではなかった。

その日の稼ぎを、パッと使ってしまえばなくなってしまう・・翌日また働けば、何とか食っていける程度の収入だったのです。


以下は、当時の町人の生活を書き記した「世事見聞録」からの引用です。

『今、軽き裏店(うらだな)の者、その日稼ぎの者どもの様子を見るに・・

親は生活に追われる辛き渡世を送るに、娘は化粧し、よき衣類を着て、

遊芸または、男狂いをなし・・

また夫は・・まだ暗い未明より、草履・わらじにて家業に出るに・・
妻は、夫の留守を幸いに、近所女房寄り集まり、己(おの)が夫を不甲斐性者に申しなし、互いに身の湯薬なること話しあい、
また”紋カルタ、めくり”などという博打をいたし・・

或いは、若き男を相手に酒を飲み・・或いは、芝居見物、遊山初参りに

同道いたし、その道筋、料理茶屋、水茶屋のたぐい沢山出来た故、

これ等へ立入、また二階などへ上がり、金銭を費やしてゆるゆる休息し、また晩に及んで、夫の帰りし時、終日働いた労を厭(いと)いやらず、
却って水を汲ませ、煮炊きを致させ、夫をたぶらかし、すかして使うを

手柄とし、女房、主人の如く、夫は下人の如くなり。

たまたま、密夫などなきは、その貞実なるを恩にきせ、これを高ぶり、
これまた兎にも角にも気随我がままなり 』


多少誇張した描写になっているが・・当時、女房族が上位にあったのには・・理由がある。

江戸は地方からの出稼ぎ者が多く、そのほとんどが男性だったから、
アメリカの開拓時代のように、二対一の割合で女性が少なかった。

必然的に女性が強くなり、岡場所といわれた遊郭も繁盛するようになった。


                        樋口清之「梅干と日本刀」

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