■家康が考える「大将の器」
時は1575年、長篠合戦でのエピソード。
長篠城から信長に援軍の要請に向かった
鳥居強右衛門を、武田勝頼の軍が捕え、
磔にして殺してしまった。
それを聞いた家康は・・
「勝頼は大将の器にあらず・・勇者を使う器で
はない。鳥居のような豪の者は、敵であっても
命を助け、その人なりを褒めそやすものだ。
これは、部下に”忠義”とはどういうものかを
教えるための逸話です。
主君に対して忠義を尽くす武士を、憎むあま
りに磔にするということがあるか!
何れ勝頼が武運尽きて滅亡するときは、譜代
恩顧の士も裏切って、敵となるであろうから、
見ているがよい・・」
と呆きれたように言ったが、果たしてその通
りになった。
1208 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
~歴史から学ぶ~ 「江戸は横割り社会」
江戸時代は「士農工商」の縦割り社会の制度でもって、人間関係を縛ろうとした封建社会だったと私は思っていた。
現実はどうだったか? 武士は武士、商人は商人として、四つの職種に分けられたヨコの連帯関係は明確だが、当時の朝鮮王国のように、
支配する側と支配される側という、タテにつらぬかれた関係が、はっきりしていたわけではない。
この「士農工商」という言葉・・江戸中期に生まれた学者言葉であって、幕府が開かれた当時にはなく、そのような厳然たる階級制度でもって、幕府が国を治めようとしていたわけではなかった。
「経済上の支配関係」から見れば、一番下であるはずの商人の方が、
武士より上にいた。
頂点にいる領主は、土地の支配権をもって、百姓から租税に米を徴収して直接支配したが、工と商に対しての支配力は無に等しかった。
ましてや、序列二番目の農が、工の上になり、工が商を支配するようなことは皆無だった。
当時の社会をヨコから見ると、武士は武士同士「相身互い」で助け合い、百姓は百姓同士農作業を助け合い、商人も同様、職種ごとに同業組合や為替制度を作って助け合って、ヨコの連帯を強める社会構造になっていた。
江戸の住民は、今でいう所得税とか住民税などというものを納める必要はなく、無税だった。
町人が幕府に納める税金は、”冥加金”と言って、町人の組合組織を対象にしたもので、”営業行為に対するお礼のようなものだった。
農民の中で、庄屋や名主は、苗字帯刀が許された。
形の上では武士となり、商人は武家から養子をもらったり、婿にやったり・・その見返りに武家は、商人から生活の面倒を見てもらったりした・・
ここで、李斯朝鮮の身分制(09.12.21李氏朝鮮時代の身分制度)と根本的に違うところは、 http://www.noevir-hk.co.jp/magazine/
二宮尊徳のように、商人や農民であっても学問の出来る者は、”士分”として大名や将軍に仕えたり、学者として武士階級の中に入っていくことが許されたことです。
樋口清之「梅干と日本刀」