歴史から学ぶ「吉 原」
■不義密通
封建体制下の江戸時代、自由恋愛は
「不義密通」とされて、厳しく禁止された。
特に、結婚している男女の場合、発覚すれば
二人とも「死罪」。
夫が二人の不倫の現場を見つけた場合は、
二人を重ねて四つに斬っても、罪には問われ
なかった。
「間男は 薄き氷に そっと乗り」という川柳
があるが、不義密通はスリルのある、命がけ
の危険極まりない火遊びだったのです。
しかし、いくら制裁が厳しくなっても、この種の
犯罪は無くならなかった。表沙汰にしないで、
金を払って内々に済ませることが多くなった
のである。
「間男七両二分(大判一枚に相当)」が相場
だったようです。
山住昭文「江戸のこばなし」
1199 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~歴史から学ぶ~ 「吉 原」
吉原は明暦の大火(1657年3月)までは、今日の日本橋・・江戸の真ん中にあった。
大火がきっかけで、浅草の田んぼの真ん中へ移転させられ、新吉原となった。面積は2万坪・・出入口は1か所で、遊女が逃げないよう、周りは堀で囲まれた。
この遊郭・・幕府の奨励で生まれたわけではない。出稼ぎや普請場の多い江戸・・男女の比率は2対1と圧倒的に男性が多かった。
となると、遊郭が自然発生的に生まれた。
家族を残してきた出稼ぎ人、江戸詰めの侍、番頭や手代・・当時の町人は、家を持って結婚できるのは三十過ぎてからだったので、独身者が多かったのです。
吉原の遊女は三千人、花魁にまで上り詰めるのは約五百人に1人・・
わずか6~7人です。
才色兼備で、遊女に必要な芸事の他、華道・茶道・音曲・囲碁・将棋等を卒なくこなし、和歌や短歌も詠む・・27歳が花魁の定年だったから、並の努力で昇れる地位ではない(今ならタカラジェンヌのトップスターだろう)。
花魁と遊ぶには、今なら2百万円は必用で、遊べる客は限られていた。
初回、客は下座で待たされ、遅れて花魁が近従を従え上座へ・・
その初顔合わせで花魁「この男は駄目」と言えば・・それまで。
二回目も無事クリアして、三回目に吉原へ上がった時、ようやく花魁の部屋に通される・・夫に嫁しづく妻のごとく、両手をついて客を上座へ導く。
その夜は、恋する乙女のごとく振るまい、床入れが待っている・・
一晩約50万円・・三回通って150万円・・入れあげて、店を潰した道楽息子は数えきれず・・
そこで幕府は、遊郭を犯罪者摘発の場として利用した。
遊郭の経営者を警察の手先にし、金使いの荒い者や怪しい者がいたら、奉行所に通報することが義務づけられた。
その代わり、お上に納める”冥加金”は免除された。
”無税”の特典が与えられたのです。
樋口清之「梅干と日本刀」