■馬術の名手家康・・
諸兵には笑われ、将には手本とされた
小田原攻めに出陣した時のこと・・
川を渡ろうとしたが橋が細く、馬でわたるの
は難しかった。
馬術の名手・家康公が橋にさしかかった時、
たまたま山の上から丹羽長重、長谷川秀一、
堀秀正が見ていた。
従者に馬を渡し、家康は背負われて渡った。
それを見た兵たちは、「馬の名手と言われた
家康公が、背負われて渡られた」と笑ったが、
三人の将は感心して・・、
「馬の達人ならばこそ、危険は冒さないもの
だ・・さすが、我らが殿さま家康公だ」
1191 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
歴史から学ぶ 「江戸前は蒲焼のことをいう」
家康が入る前の江戸は、今日の日比谷、丸の内、桜田門のすぐ近くまで海だった。 これを家康は、まず西の丸下、今日の皇居前広場から丸の内にかけて埋め立てた。
浅洲とはいえ、海を埋め立てるのだから、大変な土木工事である。
全国の大名に、千石につき2ないし3人の人夫を割り当て、神田の山を崩して埋め立てた。
人夫たちの食事は、昼には大きな握り飯を出す。
何しろ大人数だから、味噌が付いているだけで・・おかずがない。
それに目をつけて、おかずを売りに来る商売が生まれた。
現場付近の泥沼でウナギを獲ってくる・・
それをブツ切にして、縦に串を通して、焼いて味噌を付けて売る。
それが”蒲の穂”の形をしているから、「江戸前の蒲焼き」になった。
江戸前とは・・江戸城の前、皇居前広場のことを言うが、”東京風”という意味ではない。 埋め立ての任期を終えて、全国に散らばって帰郷した人夫たちは、”江戸前”と聞くと、江戸をイメージする。
それが今日、”江戸前”が”東京風”ということになり、ついには
鮨やそばまで”江戸前”になってしまったのです。
後に、江戸前で獲れた魚で握った鮨を”江戸前鮨”と言うようになったが、もとはといえば、皇居前の泥沼に棲んでいた、ウナギの蒲焼きのことである。
樋口清之「梅干と日本刀」