■家康自慢の宝物は?
徳川家康には、多くの優れた部下がいた。
特に、三河の時代から仕えてきた
「三河武士団」の強さは広く知られている。
関白秀吉は、諸大名を前に自ら所持する
宝物を自慢し、家康公にも「貴殿はどんな
宝物を所持しているのか?」と尋ねた。
家康は答えて・・
「私は田舎者ゆえ、自慢に値する秘蔵の品
など持ちあわせておりません。
ただ配下には、私のために命をかけてくれる
武士が、500騎ばかりおります・・」
秀吉は、二の句がつけなかったという。
1189 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
~歴史から学ぶ~ 「家康の都市計画」
難攻不落の都づくりに取り組んだ家康・・江戸につながる五街道の出入り口に、有力大名の下屋敷を地割し、まず江戸の守りを大名に任せることから始めた。
次いで、神社・仏閣を江戸城防衛計画に沿って配置していった。
まず東海道から攻め上がってくる敵への防衛拠点に「増上寺」を・・
増上寺は当時、所領一万石、関東浄土宗の総本山で、江戸幕府の菩提寺である。
上野には、天台宗の関東総本山「寛永寺」を・・上野は奥州と水戸街道の要所で、東北の敵に対する要の場所になる。
両寺はしっくい壁を塗り、屋根には瓦を葺いて、城郭と同じ備えを持たせた。
将来の人口の増加に備え、道路、防火、防災などのインフラ整備。
そして、食糧と飲料水の確保が重要になってくる。
江戸建設のための大量の物資、食糧や生活必需品をどうやって運搬するか?
陸路の運搬には限界がある・・そこで、港を整備し、江戸市中に人工の運河「堀川」を造ることで解決した。
堀川は、江戸市中への物資供給動脈として、重要な機能を果たした。
江戸庶民は、水路を猪牙舟(ちょうきぶね)という交通手段で往来した。
また堀川は、大火の時に類焼を食い止め、消化用水として、防災に大きな役割を果たした。
都市の人口増大で、最も重要な「飲料水」の確保にも抜かりがなかった。
家康が江戸入りする一か月前に、水源地が確保できるか、調査させている。水源地から、江戸市中に上水道を引いた・・「神田上水」「玉川上水」などが知られる。
神田上水は神田川を横切ったことから、「水道橋」という地名が生まれ、地下に敷設した長さは、6、5キロに及んだ。
その後、玉川から引いた玉川上水は、全長43キロに及び、2年がかりで完成した。
このようにして、江戸市中の飲用水が確保され、都のインフラを整えていったのです。
梅干と日本刀