■江戸地割での逸話
江戸を難攻不落の都にすべく、家康が計画を
練って、毎日江戸周辺の地割をしていたある
日の夕方、甲州街道の入り口四谷まで来た
時のこと・・
家康はお供の内藤駿河守に・・
「そちはよく働いたから、その方にも好きな
だけ土地をとらす」
内藤、しからばと馬に飛び乗り・・
『この馬で駆け巡った範囲をいただきたい』
「面白い・・望みにまかす」
内藤は広い範囲を必死に走った・・
走り過ぎて、馬が倒れ死んでしまった。
今日、新宿御苑の近くに馬の塚が現存してい
る。
当時二万五千石の小大名の内藤・・
広大な新宿の土地を下屋敷にしたばかりに、
後々維持管理に苦労することになる。
梅干と日本刀
1183 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
~歴史から学ぶ~
「家康が幕府を江戸に開いたわけ」
家康が、関八州四百万国を豊臣秀吉からもらったとき、居城を定める候補地は三か所あった。かっての政治の中心であった鎌倉・・それに秀吉に滅ぼされた小田原・・そして当時まだ未開地だった江戸。
太田道灌が江戸城を築いた後、荒れるにまかせていた江戸・・その地を居城にすることを決めた理由は・・小田原は、箱根の山がすぐ後ろに迫っていて土地が狭く、港も小さい。鎌倉は狭いうえに、大きな河川がない。
対する江戸は、広大な関東平野の扇の要にあり、前は海で、横には隅田川という大きな河がある。
河川があって、海に面して港があり、後背地が広いというのは、ロンドンのように、世界の大都市に共通することで、大都市の立地条件にピッタリだったのです。
江戸を選んだということは、将来の天下国家を計算してのことだったのです。
秀吉が没する8年前の1590年、江戸入りした家康は、江戸の都市計画を考えるため、江戸周辺を調査して歩いた。
テーマは「難攻不落の都」・・その構想に従って、大名・社寺・旗本・町人たちの地割をした。
最も家康が心をくだいたのは、江戸に入る五街道・・それぞれの街道の出入り口を、有力大名で押さえることにした。
中山道は前田家、日光街道は水戸家、甲州街道は家康の側近内藤家、水戸街道は伊達家、そして東海道は毛利家である。
梅干と日本刀