■「韓国合邦を要求する声明書」
李容九率いる韓国推進派の最大政治組織
「一進会」は、1909年12月「韓国合邦を
要求する声明書」をしたため、上奏文と請願
書を、李完用総理と韓国統監に提出した。
『日本は日清戦争を通じて韓国を独立させ、
ロシアと日露戦争を戦って、ロシアの支配が
迫っていた韓国を救ってくれた。
なのに韓国は、これをありがたく思うどころ
か、あっちこっち他国にくっつき、終いに外
交権を奪われることになったが、これは自ら
が招いたことである・・(中略)
伊藤博文公が、我々韓国のためにご苦労され
たにも拘らず、暗殺されてしまった。
今後どんな危機にさらされるか分からない。
これもまた、韓国人自らそうしてしまったの
である・・(中略)
劣等国民として保護されるよりは、いっそ
日本と合邦し、大帝国を作って世界の一等
国民として、日本人と全く同じ待遇を受けな
がら、暮らしてみよう・・』
1139 【吉村外喜雄のなんだかんだ 】
~歴史から学ぶ~ 「韓日併合の顛末」
1895年(明28)、日清戦争に勝利した日本は、清国と「下関条約」を
結び、李朝時代属国の境遇にあった朝鮮を清国から独立させた。
下関条約の第一条は・・
「清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス」とある。
戦勝国日本が清国に最初に求めたのは、領土や賠償金ではなかった。
ロシアの南下と、欧米列強の脅威から日本を守るため、隣国朝鮮の
独立国家成立に、力を貸そうとしたのです。
しかし、一人歩きできない朝鮮は、独立から十年後の1905年(明38)、日本と「第二次日韓協定」を締結し、日本の保護国になった。
更に5年後の1910年(明43)、日本と韓国は「日韓併合条約」を締結。日本国朝鮮地方になり、朝鮮人は日本国民になった。
現在韓国は、「武力による強制併合だった」と主張しているが、当時
ロシアの侵略を恐れた韓国側が、日本に求めた併合だったのです。
日本と韓国は、国際法に則った条約として、欧米列強の承認の下に
締結したのです。
日本が朝鮮を植民地として、西欧列強のごとく奪い取る気なら、わざわざ韓国や西洋諸国の承認を得る必要はなく、武力制圧すればよかったのです。
日韓併合には・・日本側は陸奥宗光が反対派、伊藤博文、井上馨
などは慎重派、桂太郎、山縣有朋などは推進派でした。
朝鮮側は、李容九などが推進派で、総理大臣の李完用などは容認派。旧勢力の両班や儒者は、反対した。
1909年10月26日、初代内閣総理大臣・初代韓国統監だった
伊藤博文が、安重根に暗殺された。
伊藤博文という日韓合併慎重派の重鎮を失ったことで、韓国内の併合推進派に、併合推進の口実を与えることになった。
李容九率いる韓国推進派の最大政治組織「一進会」は、1909年12月「韓国合邦を要求する声明書」をしたため、上奏文と請願書を李完用総理と韓国統監に提出した。
提出は却下されたが、提出を繰り返すことで、遂に桂首相に受け取られた。以後韓国側では、次第に日韓併合に賛成する者が増え、韓国が懇願した日韓併合が成立したのです。