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2013年06月 アーカイブ

2013年06月03日

失われていく日本の精神文化

~ 行為の意味 ~

                                    詩人 宮澤章二

「こころ」はだれにも見えないけれど

「こころづかい」は見える


「思い」は見えないけれど

「思いやり」はだれにでも見える


あたたかい心が  あたたかい行為になり

優しい思いが  やさしい行為になるとき

「こころ」も「思い」も  初めて美しく生きる

それは  人が人として生きることだ

 

  ※二度・三度、繰り返しゆっくり黙読すると

    心はしだいに美しく、やさしくなっていく・・

 

 

1077 「吉村外喜雄のなんだかんだ」

~歴史から学ぶ~ 「失われていく日本の精神文化」


現在の日本国の繁栄の基礎は、明治維新に遡ることができます。

ペリー来航から70年後の1902年(大正9年)には、国際連盟設立にあたり、仏・英・伊と共に常任理事国になり、有色人種の国でありながら、米国を含めた五大国の一員になったことは、特筆すべきであろう。


その後、第二次大戦で日本は焦土と化し、欧米から「復興に百年かかる」と言われたが、短期間に奇跡の復興を果した。
1954年(昭和39年)には東京オリンピックが開催され、世界第2位の経済大国に成長して世界の富を集めた。


ところが、日本人はその代償に大きなものを失った・・「日本人の伝統的精神文化」である。

維新以前の日本の庶民は、大自然と生活が見事に調和し、人々は勤勉でよく学び、質素で慎ましく、笑いの絶えない、伸び伸びとした生活をしていた。

浦賀に上陸したタウンゼント・ハリスが、本国に送った書簡によれば・・

「この土地は貧困で、住民は貧しく、生活するだけで精いっぱい・・
装飾的なものに目を向ける余裕がない。それでも人々は、楽しく暮らしており、食べ物や着る物に困った様子はない。

それに、家屋は清潔で、日当たりもよく気持ちが良い。世界の如何なる国においても、庶民が下田におけるよりも、良い生活を送っているところはあるまい。
柿崎は小さくて貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりしていて、礼儀正しく丁寧である。世界のあらゆる国、貧乏に付きものの不潔さがない」

当時の日本人は、「衣食足りずとも礼節を知る」世界に誇るべき国民だったのです。

                                                                              竹田恒泰「竹田研究会」
**********************************
現在の日本はどうだろう? 汗して働くことを忌嫌い、楽して儲けることばかり考え、やたら人と見比べて不服を思い、豊かさを求めようとする。


年寄を騙して金銭を搾取する「オレオレ詐欺」が後を絶たない。

年寄の子を思う気持ちにつけ込んで、何ら恥じるところなく、件数は増える一方。

かって西欧人が驚嘆した、高水準の教育は堕落し、日本人が誇りにすべき美徳は過去のものになろうとしている。

2013年06月06日

私のモットーは有言実行

七割の力


防災訓練で、バケツに水をくみ、一列に並んでバケツリレー
で火を消す。この時、いちばん早く一定量の水を運べるのは、
バケツに”七分目”の水を入れた時です・・それ以上でも、
それ以下でもうまくいかない・・この方法が一番効率がよい。


バケツいっぱいに水を入れて渡そうとするように、100%の
力を出しきることを求めるノルマのきつい職場は、逆に効率
が落ちて、急な目標変更や仕事には対応できなくなる。


働き過ぎは体を壊す・・労働は、車の運転と同じで、余計な

アクセルやブレーキを踏まず、七分の操作で淡々と長続き
する運転に徹する・・それが長期間の安定した効率につなが
るのです。

これは、東京大学物理学者・西成活裕教授の説です。

今こそ「損して得取れ」「急がば回れ」などのことわざを教訓

にするときでしょう・・



1078 【吉村外喜雄のなんだかんだ】

~幸せな人生~ 「私のモットーは有言実行」


以下は、日経新聞・私の履歴書/JXホールディングス・渡 文明相談役「有言実行」からの抜粋です。

自分が歩んできた軌跡を改めて振り返ってみると、人生はいわば「再現不能のドラマ」だなと思う・・シナリオをいくら精緻に書いても、その通りいくことは絶対にない。


私は三十代末に、うっかりすれば命を落としかねない”大病”をして、
一年を棒に振った。
その他、いくつもの山谷を超えてきて、まさに七転び八起きの人生だった。

こうした人生でつかんだのは、「自分を限界に追い込むことの大切さ」である。

人前で言葉に出すと、引っ込みがつかなくなる「有言実行」・・退路を断つことで、爆発的な力を出せる。

「不言実行」は、やらなくてもだれにも分からない・・逃げ道を用意しているように思える・・私のモットーは「有言実行」である。


今の若者たちは閉塞状態にあると言われるが、ぜひ勇気を出して一歩前に踏み出してほしい。

ただし、自分の力を過信するのはよくない。やはり”運”の助けがあると思う・・それも、努力しなければ巡ってこないのだが・・


私の人生が開けたのは、「巡り合わせ」によるところが大きい。
尊敬できる上司に出合えたのは幸運だった。
同僚・後輩の支えに救われたことが、何度あったことか・・感謝の気持ちでいっぱいだ。

2013年06月09日

世界のプロゴルファー岡本綾子

■1988年 文芸春秋が選んだ

「昭和のスーパー・スポーツマン10人」


[織田幹雄]日本人初のオリンピック陸上「三段跳び」
                     金メダリスト

[人見絹枝]日本人女性初のオリンピックメダリスト

                     100メートル・200メートル・走り幅跳びの
                       元世界記録保持者

[双葉山] [川上哲治] [古橋広之進] [白井義男]
[力道山]  [長嶋茂雄]  [上村直巳]  [岡本綾子]


■2006年 カナダCBCスポーツが選んだ
「日本の偉大なスポーツ選手10人」


[木村政彦] 柔道家。全日本選手権13年連続保持。 
                      15年間不敗のまま引退し、プロ柔道家へ。

[王貞治] [アントニオ猪木] [田村亮子] [釜本邦茂]

[大鵬][岡本綾子][高橋尚子][荒川静香][イチロー]



1079 【吉村外喜雄のなんだかんだ 】

「世界のプロゴルファー岡本綾子」


日経新聞「私の履歴書」は、先週まで岡本綾子でした。

1980年代に活躍したプロゴルファーといえば尾崎将司ですが、当時、米ツアーで活躍していた、青木巧、岡本綾子の二人も、忘れてはならない存在です。

岡本綾子は、瀬戸内海を望む安芸津町で、ジャガイモやタバコなどを生産する農家に生まれた。家の手伝いをしているうちに、強靭な足腰が鍛えられた。お転婆で、男の子と日が暮れるまで、草野球で遊んだ。

中学に入って野球部を希望したが、女子は入れてもらえず、ソフトボール部に入部した。
高校へは、ソフトボールの強豪・愛媛県今治明徳高校に特待生で進学。
同校卒業後、ソフトボール部のある大和紡績に就職・・福井工場に配属された。
サウスポーの剛球エース兼4番として活躍し、1971年和歌山国体で優勝している。
国体優勝のご褒美の祝勝ハワイ旅行で、子どもの頃からの憧れアメリカへ・・

ゴルフ場を見学したことがきっかけで、ゴルフを始めた。

動機は「アメリカでプレーしてみたい」というものだった。

大和紡績を退職後、1974年二度目のチャレンジでプロテストに合格。

この時「将来の夢は、アメリカでプレーすることです」と答えて、「プロになったばかりで生意気な!」と反感を買った。

プロデビュー1年目の1975年、美津濃トーナメントで初優勝。

杉原輝雄が「俺より30ヤードは飛ぶね・・いやになる」と言うほどで、ソフトボールで
鍛えた強いリストと、強靭な腰のバネで、男子プロ並みの飛距離、豪打で鳴らした。

岡本綾子が、日本のスポーツ界に与えた影響は大きい。

野茂秀雄に始まり、イチローや松井秀喜など、数多くの日本人プロ野球選手がアメリカで活躍するようになったが、成功の先駆けとして道を拓いたのが、岡本綾子である。


まったく違うジャンルなのに、イチローのバッティングのベースは、岡本のゴルフスイングを参考にしているという。

イチローの父・鈴木宣之が、岡本の美しいフォームから、男子選手顔負けの飛距離を出す・・その打ち方を習って、か細いイチローの参考になるのではと研究。

”イチロー打法”の大きな特徴は、インパクトの瞬間に、体重を右の軸足から左の足にスムーズに移すことと、上半身の大きな捻じりによって、より強いエネルギーをボールに与え、速くて強い打球を打つ。


こうしたアドバイスを息子のイチローに与えた。その後、中学・高校・プロを通じて、
間の取り方を除いて、イチローのバッティングの基本は、小学
時代から変わっていないのです。
                                                            フリー百科「ウィキペディア・岡本綾子」

2013年06月13日

孔子の教え(31)学ぶ心

孔子は”私学の元祖”


学校をつくる決心をした孔子を慕って、遠くから若者が
集まってきた。
日本では、福沢諭吉が月謝を取って学校を経営しましたが、
いろいろと批判する人もいました。

それを、孔子は二千五百年も昔に実践したのですから、
孔子は”私学の元祖”といえます。


日本では、徳川時代の半ばごろから「寺子屋」が普及しま

した。

寺子屋の数は、明治に全国に張り巡らされた郵便局の数

よりも多く、当時日本が、世界で最も識字率が高かったのは、
寺子屋教育があったからです。

                                              伊与田寛「論語の対話」より


1080 【心と体の健康】

古典から学ぶ 「孔子の教え(31)学ぶ心」


貧しい母子家庭に育った孔子だが、立派な人物になることを志して勉学に励み、知識を吸収していった。


子曰く  賢を見ては  ひとしからんことを思い
  不賢を見ては  内に自ら省みるなり
」     里仁第四

(知徳兼備の優れた人を見たら、自分もそのようになりたいと思い、

つまらない人を見たら、自分はどうかと内省する)


孔子は、賢人も不賢な人も、自分を立派に成長させる先生であると考え、誰であれ教えを受ようとした。


子曰く  三人行えば  必ず我が師あり 
  其の善き者を択びて之に従い  其の善かざる者にして
  之を改む」
                            述而第七

(三人が行動を共にしたら、必ず自分の先生になる者がいるものだ。
その善い者を選んで素直に従い、悪い者を見ては反省して、自らを改 
める)

孔子はよく学んだ。人間は、内容が充実すると、自然に外部や表情に表れて、誰が見ても「この人はよくできる・・感心なものだ」とわかります。

学ぶ者と学ばない者・・年月が経てば経つほど、両者の差が開いていく。


子曰く  之を知る者は  之を好む者に如かず

  之を好む者は   之を楽しむ者に如かず」   雍也第六

(知っているだけの者は、好んでやる者には及ばない。
             好んでやる者は、楽しんでやる者に及ばない)


この「」は、何も学問だけの問題ではなく、仕事にも通じます。ですから、楽しんで物事をやることは大変大切なのです。

更に、この上がある・・


子曰く  道に志し  徳により  仁に依り  芸に遊ぶ」  述而第七

(人として正しい道を志し、これを実践する徳を本分とし、仁の心から
離れないようにする。そうして、世に立つ上で重要な仕事に、我を忘れて 熱中することです)
「芸」とは・・礼節、音楽、弓術、馬術、文学、数学の六芸を言い、
「芸に遊ぶ」は・・”仕事に熱中する”の意味になる。


雍也第六と、述而第七の二つの文を合わせて・・
之を知る者は  之を好む者に如かず  

  之を好む者は  之を楽しむ者に如かず

  之を楽しむ者は  之を遊ぶ者に如かず」 になる。

                                                                        伊与田寛「論語の対話」より

2013年06月17日

岡本綾子の若手指導

「世界ゴルフ殿堂


ゴルフ殿堂はアメリカ・フロリダ州にあり、ゴルフにおいて顕著な

活躍をした選手や、ゴルフの発展に大きく寄与した人物に対して、

その功績を称えるために創設された。


往年の名選手では、ジャック・ニクラウス、アーノルド・パーマー、

ボブ・ホープ、ビング・クロスビー、トム・ワトソン、グレグ・ノーマン、

トム・カイト、ラリー・ネルソンなど、懐かしい顔ぶれが目白押し。


日本人で殿堂入りしたのは、樋口久子、青木功、岡本綾子、

尾崎将司の4名です。



1081 【吉村外喜雄のなんだかんだ 】

「岡本綾子の若手指導」


以下は、日経新聞「私の履歴書・岡本綾子」からの抜粋です。

1970年にデビュー・・81年から、日本の女子プロで初めてアメリカツアーに参戦。

12年間プレーして17勝、日本で44勝、欧州で1勝するなど、日米のツアーを股にかけて活躍。史上初、日米両ツアーの賞金王になり、「世界のゴルフ殿堂」入りした日本を代表する名選手です。


2007年の秋、契約先のミズノに頼まれ、プロテストでトップ合格した服部真夕
選手のマネージメントを引き受けるようになったのは、何かの巡り合わせだろうか。


現役中は後輩に求められればグリップ、アドレスなどアドバイスをしたことがある。
本格的に指導したのは服部選手が初めて・・彼女がきっかけで、翌年に青山加織、09年に森田理香子、一昨年からは若林舞衣子を教えるようになった。


2013年度は・・昨日のサントリーレディスで、今期三度目の優勝、賞金獲得ランキング断トツ1位の森田理香子、若林舞衣子13位、服部真夕は16位・・2012年度通算では森田7位、服部10位、若林20位と、
いずれも大活躍。

みんな個性があり、スイングはそれぞれ特有のリズム・テンポを持っている。

その個性を絶対崩さず、飛距離も落とさないように教えることが大事だ。

みんなボールを打つ基本はできている・・スイングを変えさせるのは勇気がいるし、大変・・時間もかかるだろう。

それを身をもって分かっているから、「気長にやろうね・・」と言っている。


岡本のゴルフの教え方は「褒めながら教える」・・叱ると体が委縮するからダメだ。
教えることで、自らも教えられる・・指導する立場になって気づくことは少なくない。

練習を見ていて、スイングリズムが悪いなと思ったら、しばらく打たせてから、「左脇が緩んでいる、等速でリズミカルに・・」など、ワンポイント指導する。

とりあえず本人に工夫させ、ダメならアドバイスする。

今の子はすぐ「悩んでいるんですけど・・」と泣きついてくるが、「悩むのではなく考えなさい・・考えることを優先しないと、成長しない」と説教する。

悩んでいても自分をコントロールできません。


自分に合ったスイングの連続写真を繰り返し見て、頭の中にインプットするなど、
とにかく自分で考え、気づいたことはマメに書き置きして創意工夫することだ。

教え子たちを見ていると、自ら考え工夫する作業が足りないように思うのです・・

2013年06月20日

利他の心

心の物差し


私たちは、人を評価し物事を判断するとき、自分の心の内に持って
}いる「ものさし」を基準にして、その心が 「自分より広いか狭いか」
「長いか短いか」 「大きいか小さい か」で良し悪しを測ろうとする。

周囲から「了見が狭い」と言われるのは、自分の物差しが他人より

短く、狭いことにある。 そのような捉え方で人と接すると、人間関係

がギクシャ クします。 更に、自分のものさしを振り回しているだけで

は、それ以上のものが見えず、成長もありません。

仕事も人生も、他人には測り知れない無限の可能性があります。
可能性を伸ばしていくには、柔軟で広い心で接するることができる
人間になることでしょうね。



1082 【心と体の健康】
~幸せな人生~ 「利他の心」

 

以下、昨年の「理念と経営八月号・無敵の仕事術」・・会宝産業株式会社・近藤典彦社長の「利他の心をもって、人さまが喜ぶ仕事をすれば、先見力は生まれる」からの抜粋です。


住み込みの厳しい修業時代の経験が、後に生きてきた

高校を出て初めての住み込みの東京暮らし。
世間知らずで、金沢弁しか話せない戸惑いの毎日。

給料をいただくからには、どうすれば社長に喜んでもらえるかを、真剣に考えた。

そして「人さまが困っていること、嫌なことは何か」を考えるようになった。朝起きて社長の靴を磨き、社長の愛車のベンツを洗車・・それから事務所や展示場、便所の掃除。


一生懸命やったが、三年間ただの一度も褒められることなく、理不尽に思われることも数え切れずあった。

五十歳になった頃から、このときの経験が生かされていることを実感するようになった・・どんな状況に置かれても、心から感謝できるようになった。

成功とは何なのでしょうか?

人は皆、その人にとって最高の人生を演出しようと努力し、生きている。

過去はすべて”善”ととらまえ、自分の使命として「未来に向かって何をすれば心が喜ぶのか」を、楽しみながらやってみることが大切なのです。

もちろん失敗も、成功もあります。


「成功とは何なのでしょうか?」・・それは「自分の心が満足すること」ではないでしょうか。
物やお金を手にすることだけではないと思うのです。

「たらい」の話

母親が私に教えたことに、「たらい」の話があります。

電気洗濯機が普及する以前は、どの家庭も「たらい」で洗濯していた。
ごしごし手洗いしていると、たらいに泡がいっぱい立ちます・・
「その泡を、自分の方に集めるにはどうしたらいい?」と母は私に訊ねました。

私は「手前にかき集めればいいじゃない・・」と答えた。

しかしそれでは、泡がみな、脇からあちらの方へ行ってしまいます。

母は「泡をあちらへ押しやりなさい・・すると、脇から泡がこちらに集まってくるでしょう!」

この話から、
「何かを得ようと思うなら、まずは人に与えることから始める」
キリスト教の聖書の「与えよ、さらば与えられん」である。

子ども心に納得したのを覚えている。

2013年06月24日

孔子の教え(32)天の書・・論語

論語は、どのようにして作られたのか?


論語は、孔子やその弟子たちの言行を、一冊にまとめた書物
です。孔子の死後、弟子たちは三年の喪に服して、それぞれ
故郷に帰り、師の意志を継いで活動します。


やがて彼らの間に、師の言行を記録しておきたいという気運が

生まれ、論語の編さんが始まります。

論語は、学而(がくじ)編から堯曰(ぎょうえつ)編まで、全部で

二十篇、総字数15、900余字の読みごろの語録になってい

ます。

各編は一貫したテーマでつながってはなく、師や弟子たちの

印象深い言行の断片を集めた書物・・毛沢東語録のようなも

のと言えます。



1083 【吉村外喜雄のなんだかんだ】

「孔子の教え(32)天の書・・論語」


論語は私たちの「心の書」として、今日までその教えは生き続けている。
二千五百年もの長い時空を超えて、現代人の意識でもって論語を読み、現代人の心理をもって、自分自身の姿をその中に見出そうとする。


論語は「天の書」であるとともに「地の書」である。

孔子は一生こつこつと地上を歩きながら、天の言葉を語るようになった人である。

天の言葉を語ったが、彼には神がかりなオーラも、神秘も奇跡も感じられなかった・・いわば、地の声をもって天の言葉を語った人である。
門人たちも彼にならって、天の言葉を語ろうとした。

しかし、彼らの多くは結局、地の言葉しか語ることができなかった。

                                               下村湖人「論語物語/序文」より


孔子は、普通の人と変わらない生活をしながら、「天の道」を直観しようとした。

子曰く 朝(あした)に道を開けば 夕(ゆうべ)に死すとも可なり

「先師が言われた。「朝に、人としての真実の道(天道)を開いて、悟ること ができれば、夕方に死んでも悔いはない」


これは「人の道」のことを言っているようですが、「天の道」を言います。

だから孔子は、それが分かったらいつ死んでもいい・・と言っているのです。

すなわち、孔子の「五十にして天命を知る」は、孔子にしかない「直観」によって、天の道を知ったということです。

孔子は五十にして天命を知った・・そこから、孔子は人間の世界に帰っていきます。

そして、人々と同じ生活をしながら、世の中から更に学びを深めていく。

それが、「六十にして耳順う」です。
他人の言葉や天の声が、一層素直に聞けるようになったのです。


そして、「七十にして 心の欲する所に従えども 矩をこえず」になる。

すなわち、七十も超えるころになると、完全に純粋というわけにはいかないけれど、ほとんど”純”と言える状態になっていく・・いわゆる「従心」です。

                                          「理念と経営五月号/伊与田寛・論語の対話」より

2013年06月27日

平均寿命

日本人の平均寿命 
                                                             男              女
・1898(明31/第一回・国の調査)     42.8        44.3

・1947(昭22)                                   50.1        54.0

  平均寿命が50歳を超えたのは、戦後になってからです。

・1985(昭60)                                    74.8       80.5

・2013(平25)                                    79.6       86.4

  20年前と比べると、男性は3.3歳、女性3.8歳平均寿命が
  伸び、世界一の長寿国を維持している。



1084 【食と健康】 「平均寿命」


江戸時代、男子は15歳で元服・・40歳を過ぎれば初老・・家長の座を
息子に譲り、隠居を強いられた。

女性は12~3歳で嫁入りするのが普通だった。
「娘十八 番茶も出がらし」と言うように、18歳を過ぎても独身でいると、 「嫁(ゆ)き遅れ」と言われた。


昭和60年代は、女性は25歳を過ぎる頃、世間から「売れ残り」と言われて、肩身の狭い思いをした・・それは世間体が悪いと、両親は結婚をせかせた。

三姉妹の真ん中だった私の妻・・後がつかえるからと、19歳の時私と
見合い・・二十歳の誕生日の翌月式を挙げ、私の両親と同居することになった。

女学校を出てわずか二年で、舅・姑の居る家に嫁に来て、毎朝五時半に起きて台所に立った・・家政婦のような日々だったと、妻は言う。
新婚の甘いムードに浸る間もなかったのです・・当時私は、富山に単身赴任していて、一週間に1~2度しか家に帰らなかった。

妻は、今どきの若い女性のように、独身時代を謳歌する恋愛経験や、会社勤めの経験のないまま嫁に来て、 私の両親と同居・・家事と子育てに専念したのです。

私の父の時代の定年は55歳。60歳のとき、父は親族を集め、盛大に還暦を祝った。
当時、古希(70歳)まで生きれば天寿まっとう・・ 喜寿(77歳)は今なら 90歳だろうか・・男で白寿(99歳)は珍しかった。

平成24年の日本人の平均寿命は、女性86.4歳、男性79.6歳。
長寿になったものです。


還暦から平均寿命まで20年もある・・まだまだ若く、ぶらぶら遊んでいるわけにはいかない。還暦を祝って貰い、老人の仲間入りをするには早すぎるのです。

高齢者人口の増加に伴い、百歳以上は珍しくなくなった。
1958年(S33)、全国に僅か133人しかいなかった百歳以上が、
1981年(S56)には千人、平成10年には1万人を超え、昨年はなんと四万人を超えたのです。


県別、人口比百歳以上全国一位は沖縄県で、37年連続の長寿県です。ちなみに最下位は埼玉県で20年連続。

平均寿命で見ると、日本一の県は男女共”長野県”
石川県は女性11位、男性18位と、まあまあの位置にいる。


注目すべきは沖縄県・・女性の平均寿命は全国3位と、長寿県の面目を保っているが、男性は30位まで後退。

戦後、米軍基地の影響からか、食文化の洋風化が顕著に進み、年々平均寿命が短くなっている・・日本の未来の姿を象徴しているようです。

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