■大岡越前守忠相
延宝5年(1677)大岡忠高の三男に生まれる。
享保2年(1717)、41歳の若さで北町奉行に抜擢された。
晩年、寺社奉行を勤める。
八代将軍吉宗に用いられて、裁断公正、名判官と称せられ、
越前守に任じられて、72歳で一万石の大名になる。
「大岡裁き」は、講談・落語などによって作られたものが多く、
良い裁きはみな、大岡の手柄にされてしまった。
大岡の功績は、裁判以外に「好色本の禁止」「私娼取締まり」
「薩摩芋の栽培・普及」など・・数多く、なかでも最大の功績は、
いろは四十八組による「江戸町火消し制度の確立」
寺社奉行の時に書き残した「大岡忠相日記」は、吉宗の頃の
幕閣運営の実情を示す好史料として、今に残っている。
1018 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~ことば遊び~ 「落語・帯久(後半)」
帯屋久七は、呉服屋・和泉屋与兵衛を放火の罪で、大岡越前守・北町奉行所に訴えて出た。
日を改め、双方呼び出された。
「和泉屋与兵衛、面を上げい・・その方、火付けをしたとあるが・・
どうじゃ」
『ハハ・・火つけをいたしたこと相違ありません』
「なぜ、そういう大それたことをいたした」
『はい・・実は十年前、帯久が金を借りにまいりまして・・返していただいたのですが・・その時百両紛失しまして・・』
充分な下調べをした奉行所
「帯久、その方、親切から持ち帰り、返金するのを忘れたのであろう?・・そうであろう」
『いえ、それは師走の31日に・・確かに・・』
「黙れ! そうじゃなかろう・・親切から持ち帰ったのであろう・・
思い出してみい・・思い出さんとあらば、マジナイをしてやるから・・
手を 出せいッ!」
帯久・・何気なしに手を出した。
お奉行は、帯久の右手の人差し指と中指を、半紙できりりと巻いて、
糊で封をし、上から印を押した。
「もしも封印が切れたら、その方は死罪、家は召し上げ・・
じゃが、思い出 したとあらば、届け出よ」
さあ、戻って来てみると、糊でヒョイとひっつけてあるだけ・・
なんぞに当たっても、はずみで切れる・・切れると首がございません。
帯久、その晩から寝ることも、飯食うことも、どうすることもできません・・三日目には精根尽き果てた。
「こりゃ、帯屋久七・・思い出したとあるが、返金するのを忘れたのであろう・・どうじゃ」
『ハイ・・お察しの通りでございます・・借りた百両持ってまいりました』
「で、利子はどうした」 『ハ、ハイ・・よしなにお取り計らいを』
「15両でどうじゃ」
『ハ、ハイ・・ありがとうございます・・それで結構でございます』
「一ケ年に15両・・十年で150両・・これへ出せい」
『へェ~利息が150両・・』 「なに、高いと申すのか」
『い、いぇ、高いとは申しませんが、ただいま持ち合わせが・・』
「たわけ者・・百両は帰ったら早速持参いたせ・・
あとの50両はお上の慈悲をもって、月賦か年賦にしてやろうの」
『年賦でお願いいたします』
「どうじゃ、年十両も払うか」 『いえ・・』
「五両か」 『もう少し・・』
「一両か」『ハイ、よしなにお取り計らいを・・』
「年一両」・・証文を書いて金銭の借り貸しの一件は落着。
和泉屋与兵衛は、元金と利息合わせて二百両を受取り、あとの五十両は、帯屋から年に一両ずつ受け取ることになった。
「ところで与兵衛、火付けの罪は軽からん、その方は死罪にいたすから、心得ませェ~」
「しかし、即刻処刑すれば、五十両の金の受取人がない・・五十両の金、残らず受け取った50年先に、死罪を執り行うから、さよう心得よ」
「ところで与兵衛、その方何歳に相成る」 『61歳でございます』
「還暦か・・めでたいの~」 『見事なお裁き、有難うございます』
「見事と言うほとではない・・
相手が帯屋だから、少々きつめに締め上げておいた」