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心に太陽を持て/ハガキ

弱腰外交


竹島や尖閣諸島・・領土問題に対する日本の外交下手?に、
歯がゆい思いをしている。

愛国心を刺激することを恐れ、平和・穏便に事を収めようと、
へりくだり、沈黙を決め込んでいると、相手国は見透かしたように
高飛車に、理不尽な要求を突きつけてくる。


中日新聞小説「天佑なり」を愛読している。
国力・軍事力共に十分の一の日本が、勝ち目のないロシアに
戦争を仕掛けた。
「無い袖は振れない」・・緊急を要する軍費調達に、単身英国に
乗り込んだ高橋是清。負けるに決まっている、極東の小国日本の
外債引き受け手を求めて、孤軍奮闘・綱渡りの日々。


資金調達のために、時にはハッタリを利かせて、 西欧の投資家を

煙に巻く・・器が大きく人望が厚く、周りから信頼された高橋是清・・
是清の外交手腕によって、予想を上回る資金調達に成功した。


破たん寸前の国家財政を救い、日本を戦勝に導いた功労者・是清。

さて、今の日本にそれだけの器の人物がいるだろうか。



1003 【吉村外喜雄のなんだかんだ】

「心に太陽を持て/ハガキ」


フェイスブックの「魂が震える話・一分で感動」を毎号楽しく読んでいる。

「理念と経営/小桧山博・くちびるに歌を持て 心に太陽を持て」もそう。
六月号の「ハガキ」も、感動の内容だった。


♪僕が十歳のころ、ときおり町役場の富永さんという二十歳くらいの青年が、滞納している税金を取りにきた。
しかし七人家族の貧農の僕の家にお金はなく、富永さんは「気にしないで・・これも私の仕事なんで。ないものは払えませんよね・・」と笑っていた。

そして、そばにいる僕に「どうだ パッチでもするか?」と言った。
パッチとはメンコのことだ。
富永さんは僕を外へ連れ出すと、しばらくパッチで遊んでくれたのだった。


あれから四十年・・富永さんは僕の郷里の教育長になっていた。

僕はもの書きになり、富永さんは町の図書館に僕の文学コーナーを設置し、自費で「小桧山博・文学の軌跡」という本を編集し、出版してくれた。僕の著書が出るたびに町民に薦めてくれたり、何度も講演に呼んでくれた。

そんなある日、富永さんは脳溢血で倒れて入院した。

手術をしたが一時危篤になり、再手術したが、病院での車椅子生活になった。僕は感謝の仕方に困り、結局一日に一枚、入院中の富永さんあてにハガキを出すことにした。


最初は元気づける文だったが、三十枚、五十枚と書くうち、季節の山の風景や、自然の様子も知らせた。

最後の一行には、たとえば「初雪がきて庭の菊が雪化粧しました。

しかし安心してください・・冬は春の使者です・・冬がくると必ず春がきます」と書いた・・何とか力づけたかった。


富永さんは、喋ることも歩くこともできなくなり、僕の手紙は奥様や息子さん、娘さんが、交代で読んで聞かせてくれているという。

僕はハガキを毎日、一枚ずつポストへ投函し続けた。


僕なりのお礼の方法のつもりだった。百枚二百枚、三百枚四百枚と続けたが、四百五十枚を超えたある日、富永さんは亡くなった。

僕は天をあおいだ。瞼の裏には四十年前、税金を取りに来たのに、いつも子どもの僕の遊び相手をしてくれるだけで、手ぶらで帰っていった富永さんの姿が浮かんでくる。


富永さんが亡くなった日、僕は残った百枚の真っ白いハガキを紙に包み、封印して、机の奥にしまい込んだ。

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