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逆境をバネに成功した早川徳次(3)

”澤 穂希”の名言

度重なる逆境・試練を乗り越え、いよいよ今晩世紀の大決戦へ!

なでしこジャパン・・大和魂で悲願の金メダルゲット!


「苦しくなった時は 私の背中を見なさい」
   ※北京五輪で 宮間あやへの励ましの言葉

「夢は見るものではなく 叶えるもの」
   ※なでしこが世界の頂点に立った日

「苦しい思いをすると 同時にもっとやれる自分が見えてくる」

「何をやるにしても壁はある 壁にぶつかるからこそ 人は頑張れる」


「有頂天になったら そこまでの選手ですよ」

「沢山の子どもたちに目標や夢を持ってもらえたらいい。

                  ”不可能はない”ということを証明できたから・・」



990 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「逆境をバネに成功した早川徳次(3)」


大正12年9月1日正午、関東大震災が発生。徳次が20年の歳月をかけて必死で積み上げてきたものすべてを、一瞬にして奪い去った。

妻と二人の息子が亡くなり、建てて数年の工場も自宅も壊滅した。


早川は絶望・・窮状のどん底に投げ込まれた。手持ちの資金は焼けてしまい、得意先からは借金返済を迫られた。
早川は、一からの出直しを決断した。

焼け残った機械、シャープペンシルの特許など約50件を、借金返済のために手離して、大阪の現在のシャープ本社の所在地に都落ちした。


2年後の大正14年春、早川に再びチャンスが巡ってきた。
米国から輸入されたばかりの、2台の鉱石ラジオセットの一台を手に入れた。
すでに欧米ではラジオが普及し始めていたが、日本でも三月からNHKラジオ放送局が開設されるのだ。


早川は、このラジオセットを徹底して分解し、研究した。

同年四月、日本初の鉱石ラジオ受信機一号を完成させた。

すぐに、鉱石ラジオの製造に着手・・シャープと命名した鉱石ラジオは引っ張りだこの大ヒット。昭和四年、交流式真空管ラジオを発売・・ラジオのシャープとして、業績を拡大。


その後第二次世界大戦、そして終戦を挟んで、徳次は幾度となく苦境に追い込まれた。その都度、持ち前の発明家精神で、苦境を脱する新製品を開発・・普及させていった。


昭和25年、国内は金融引き締めと、労働争議が吹き荒れ、シャープは倒産の危機に直面した。

人員整理を条件に、銀行の融資が受けられることになったが、早川は「社員を失業させてまで延命しようとは思わない」と、銀行の条件を拒否した。「社員588名、全員一蓮托生で会社を去ろう」と厳命した。


思いもかけぬことに・・労組から「我々の中から210人が希望退職します・・融資を受けて再建してください」との申し出。
至誠天に通ず!・・早川は感泣した。


以後労使一体となって、再建へ立ち上がった。直後、朝鮮戦争勃発・・戦争特需で、日本経済とシャープは一挙に回復軌道に乗った。
昭和30年以降の日本は、高度経済成長時代へ・・家電業界の黄金期を迎える。

「人にまねをされる商品を作れ!」をモットーに、昭和28年国産テレビ第一号を開発し、量産。昭和35年、カラーテレビの量産開始。
38年に太陽電池、39年世界初の電子卓上計算器発売。

48年、液晶を小型電卓のディスプレーとして実用化。
日本を代表する総合電機メーカーになっていった。


昭和55年、86歳でその偉大な生涯を閉じた。

現在、連結売上3兆219億円、グループ総人員6万5千人の、世界的企業に成長した。

                                                                             理念と経営五月号より

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