■ヒュースケンの日本滞在記
ペリーが戦艦黒船で下田沖に来航して、日本が開国に至ったのは、
明治維新を遡ること15年前の1853年。
その3年後に、ハリスが下田玉泉寺に初の米国領事館を開いた。
ハリスの通訳ヒュースケンの、日本滞在記によれば・・
『びっくりするくらい愉快で明るい日本人。この国の人々の飾り気の
なさを、私は賞賛する。至る所に子供たちの笑い声が聞こえ、
どこにも悲惨さが見えない。むしろ私たちは、西洋の悪徳を日本に
持ち込もうとしている。
北斎や写楽などの浮世絵、歌舞伎、東海道中膝栗毛などの芸術文化
は、これからもずっと続くだろう。貧しくても清貧さを失わず、生活の
苦労をほとんど気にしない日本人には、驚きです』
968 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~歴史から学ぶ ~ 「日露海戦と対馬島民」
1905年5月27日は、バルチック艦隊と日本海軍戦艦が、戦いの火ぶたを切った日である。この戦争で負けていたなら、ロシアの植民地になっていたであろう、東アジアの小国日本。
戦いは、対馬沖でバルチック艦隊38隻を撃沈して、日本海軍の一方的勝利となって、世界をアッと言わせた。
翌日28日昼過ぎ、島の東端に突き出た岬の丘で、麦刈りをしていた村人が、海原で何かキラと光るもを見つけ、腰を伸ばして見つめていた。
それは次第に大きくなり、ボート4隻であることが確認された。
間もなく真下の浜辺に上陸し、浜から草の茂った急斜面を、ぞろぞろこちらに登ってきた。
色白で赤茶けた髪、赤ら顔で背が高く眼が青い。見たこともない恐ろしげな偉人たち。村人は、草刈鎌を握りしめ、恐ろしくなって後ずさりした。異様な空気に驚いた子どもたちは、泣きだし、母親にしがみついた。
油とススにまみれた軍服、裂けて血だらけの者、負傷してようやく立っている者、皆ロシア軍艦の敗残者たちと分かった。
双方立ち止まり警戒したが、やがて敵意のないことを悟り、村人の一人が語りかけた。
日本語は通じなかったが、身振り手振りで「水が欲しい」という・・
崖下にある湧き水へ皆を案内した。われ先にとのどを鳴らして、うまそうに貧り呑むロシアの兵士たち。恐ろしい中にも、同じ人間として何か哀れをさそった。
そうこうするうちに、島にたどり着いたロシア兵は163名に膨れ上がった。傷の手当をしなければと、村へ連れて帰った。村人はタライや桶を持ち寄り、井戸水が枯れんばかりに水を汲んだ。
血で汚れた服を脱がせて身体を洗い、家から大切にしている着物を持ち出して着せたり、怪我の手当と・・村人総出で介護した。
なけなしの大切な米や芋を炊き出しした。が、彼らは毒が入っているとでも思ったのか、誰も口にしようとしない。
一口、食べて見せると、よほど空腹だったのだろう・・皆飛びついて貪り食った。貧しい漁村故、大勢の兵隊を食べさせるだけの蓄えがない。
一息ついて、手分けして住まいや納屋を解放・・寝る所を作った。
布団を用意できず、蚊帳や古くなった帆をかけて、ムシロで寝てもらうことにした。
東洋の野蛮なサルの国と、殺されるのを覚悟で上陸したロシア兵たち・・
家族のように不眠不休の介護と、精一杯の親切、温かいもてなしを受け、皆感激の涙を流したと、記録に残されている。
(以下、次号に続く)