« 2012年04月 | メイン | 2012年06月 »

2012年05月 アーカイブ

2012年05月03日

イソップ寓話「牛を食べたライオン」

フランス小話「性に目覚めるころ」


母親が娘に道徳的忠告を与えた。

「いいかい、男が熱っぽくお前の体を求めてきたら、

  たった”一時間の快楽”のために、一生を台なしにしても

  よいのか、自分に聞いてみることだよ」


すると娘は、急に興味をそそられて、

「ねえママ、教えてよ! 快楽を一時間も続かせるには、

どんな風にしたらいいの?」


962  【吉村外喜雄のなんだかんだ】

~イソップ寓話~ 「牛を食べたライオン」


イソップは、二千五百年も前のギリシャの奴隷だった人です。

地位の低い弱い立場にあった彼は、動物を例え話にして、人々に注意を喚起しようと創られたのが、イソップ寓話です。


人から人へと語り継がれて、世界に広がっていったが、今日では、子ども向けの童話になって、広く親しまれている。

本来は、大人のための「人生の教訓物語」だったのです。


♪三頭の牛が、いつも並んで草を食べていた。

ライオンが、この牛を狙っていたが、三頭が団結している限り、百獣の王といえども勝ちめがない。

そこで、ライオンは考えた・・「要するに、仲間割れさせて、離ればなれにすればいいのだ」


次の日から、草の陰に忍耐強く隠れて、わずかでも牛が仲間から離れるチャンスをうかがっていた。そして、離れた一頭にそっと近づき、「君のことを、彼らはバカにしていたぞ」とささやいた。


牛たちは、初めはライオンの言葉になど、耳を傾けようとしなかったが、だんだん疑いが生じてきた。

些細なことで激しい喧嘩になり、三頭の牛の心は離れ離れになっていった。それぞれが、勝手に好きな場所を選んで、草を食べるようになった。


頃合いよしとライオンは、そのうちの一頭に襲いかかり、引きづっていった。それても、残された二頭は見て見ぬふりをして、助けようとしなかった。
やがて、二頭目が殺され、三頭すべてがライオンの餌食になってしまった。


韓国ドラマを見ていると、妬みや陰口で相手を陥れる場面がよく出てくる。それをまともに信じて、仲間や友を疑ってしまうのです。

一度疑い出すと、なんでも悪い方に思えてくるからやっかいです・・
やがて、収拾のつかない争に発展していく。


三国志「赤壁の戦い」のように、戦国時代、敵対する相手の結束を損なわせる手段に重用され、まんまと敵をその策略に陥れた事例は、取り上げればきりがない。

2012年05月07日

教育で才能は開花する

3歳から教えると才能が開花する


人間の才能を育てるのに一番大切な期間は、ゼロ歳から5歳です。

この間、子どもが何に一番興味を示すのかよく観察して、3歳の頃
から両親が正しく教育すれば、子どもの潜在能力が開花するのです。


人が奏でる曲を一回聴いただけで、寸分違わず真似て、奏でること

ができる人のことを「絶対音感の人」といいます。
プロの音楽家で、絶対音感のある人は、十人に一人と言われている。


追跡調査によれば、4歳までにピアノやバイオリンを習い始めて、

その後プロになった人の92%に、その能力が見られるという。

小学校に入ってからだと半分に減り、中学生になってからでは、

ほぼゼロになる。


音楽に触れる機会が一年遅れるごとに、人間が潜在的に持っている

特殊な能力が、急速に失われていくのです。

私のようなごく平凡な親が、夢を子どもに託すなら、3歳の頃から

何か一つ集中して習わせ、厳しく教育・訓練することです。


963 【心と体の健康】 ~子育て~

「教育で才能は開花する」


1914年インドで、狼に育てられた二人の姉妹が発見された。

姉は7歳、妹は2歳くらいでした。その当時インドの庶民は貧しく、女児の捨て子がしばしば見られたという。二人とも肩や胸に長い毛が生えており、行動は狼そのものでした。

夜目がきいて、鼻もよく効く。四つ足で歩き、犬のように早く走った。物をつかむのも、手ではなく口を使い、食べ物も水も、犬のような格好で食べた。


狼に育てられた期間の長かった姉の方は、生肉を、しかも腐肉を好んで食べた。食べているとき邪魔をすると、歯をむいて吠えた。
暑くても汗を流さず、舌をたれて犬のようにあえいだ。
夜中には三回必ず吠えて、他の狼と鳴き交わした。

姉の方は死ぬまでの九年間、夜吠えをやめることはなかった。


狼の子として育てられた人間の赤ん坊は、狼として生きるに必要な能力を身につけたのです。

人間は、人にも狼にもなれる無限の可能性を秘めた生き物なのです。

ところが、そんな素晴らしい能力がありながら、「うちの子は駄目だ」と、持てる能力を生かそうとしない。


どんな子であれ、正しい教育を施し、経験を積ませ、鍛え、訓練し、努力を重ねるなら、才能は必ず開花するということです。

つまり、才能は持って生まれたものではなく、創っていくものです。


ですから、曲がったこと、間違ったことを教えたら、曲がった・間違った才能が育ちます。優れた才能を持った人は、それだけ正しい教育と訓練、努力の積み重ねをしてきたのです。

ならば、優れた才能を身に付けるには、どのような育て方をすればいいのか?

その方法は一つ! 何度も繰り返し、身に付くまでやり通す習慣を身に付けさせることです。

2012年05月10日

生ビールの季節

会社の宴会


40年くらい前、日本が好景気に沸いていた頃の話です。

当時は、会社の忘年会・新年会は、温泉一泊で行われるのが通例だった。

上座には、社長を真ん中に重役が序列順に並び、上座に近い両サイドの

席は、部長や支店長、課長などが、上下をわきまえて座っている。


下座に座る入社間もない私たちは、頃合いを見てお酌に回る・・

これが結構大変なのだ。

相手が喜ぶ話題を用意し、上座から順に膝をにじらせながらお酌して歩く。

時に「それ、立てつけ三杯、飲め!」・・ゲコだと言うと、「おれのさした杯が

飲めないのか」と強要される。


同じ釜の飯を食う会社の酒宴の席で、日本酒を酌み交わすのは、コミュニ

ケーションの酒というより、強要の酒であり、上下関係・力関係を確かめる

酒である。

こうしたへきえきする仲間意識と、日本酒宴会の一種独特のねばっこさは、

最近の若い社員に嫌われ、全社的宴会は行われなくなってきている。


964 【吉村外喜雄のなんだかんだ】

「生ビールの季節」


四月は中旬頃まで肌寒い日が続いた。ようやく桜が咲いたと思ったら、急に気温が上がり、汗ばむ暑い日が続いている。

暑くなると、生ビールが恋しくなってくる。仕事やゴルフなど、汗をかいた後に飲むビールは、喉から五臓六腑へキュ~と音を立ててしみわたり・・たまらない。

こんなことを書くと、酒豪と間違われそうだが・・実は下戸。

350ミリリットル1缶飲んだだけで、酔いが回って寝てしまう私です。

「お酒が飲めません」と言うと、”酒嫌い”と誤解されそうだが、生ビールの最初のあの喉ごしは、飲めない私でもたまらなく美味い。


ウイスキーは足に来て、日本酒は頭に来て、ビールは腹に来て、焼酎は瞼に来て眠くなる・・私は何を飲んでも直ぐ眠くなって、寝てしまうのです。

仕事を終えて、ひと風呂浴びた後のビールは格別だ。今日一日の解放感が喜びになり、幸せを感じるひと時です。

夜も更けて、一人静かに思いをめぐらし飲む酒は・・ウイスキーがいい。私は、ワイルド・ターキー・ストレートをロックで飲むのが好きだ。


昔、景気が良かった頃は、取引先を招待したり、招待されたり・・忘年会、新年会、○○記念と、何かあれば温泉旅館に一泊して、仲間と思いっきり飲んだものです(飲んで寝るだけなら、下戸の私もじっくり腹を据えて飲めるのです)。

宴会では、ビールの後は日本酒である。「さしつ、さされつ」酒を酌み交わすことで、交わりが深まっていく。


盃がやたら小さいのは、酌み交わすためであろう・・しかし、一人で飲むのなら、コップ酒がいい。日本酒が酌み交わす酒なら、ビールはジョッキで泡ごと一気に飲み干す酒である。


一杯は人酒を呑み 二杯は酒酒を呑み 三杯は酒人を呑む

お酒に飲まれて、ふにゃふにゃになった状態を”泥酔”と言うが、この言葉は、中国に伝わる空想上の”虫”に由来している。


その虫の名は”泥(でい)”・・海に住む骨の無い生物です。水の中では活き活きしているのに、水が無くなると、酔っぱらったかのようにフニャフニャになって、泥のようになってしまいます。この状態が酔っぱらいに似ていることから、”泥酔”と呼ばれるようになった。


お酒は”飲んで”楽しむもの・・くれぐれも”飲まれて”泥酔しないように。

2012年05月14日

どうすれば幸せになれるか

絶好調男「中畑 清」                            職場の教養


昨年まで、四年連続セントラルリーグ最下位に沈んでいた球団が

「横浜DeNAベイスターズ」になった。 この球団の新監督に中畑清
氏が就任した。

中畑氏は現役時代、読売巨人で活躍。引退後は巨人軍コーチを務め、
アテネ オリンピック日本代表では、体調を崩した長嶋茂雄監督の
代行を 務めている。

ところで、氏の選手時代に付けられたニックネームは「絶好調男!」

どんなに苦しい状況でも、明るい笑顔と大きな声で周囲を鼓舞してきた。

監督就任会見で「四年連続最下位のチームを率いる心境は?」との
質問に・・
「新しいベイスターズは、明るくイキイキ元気のいいチームに なる。
それができそうな気がするんですよ。たとえ負けが込んでも、前向きな
姿勢で、次の日にまた頑張ろうという・・負けているのに何でこんなに
元気がいいのか・・不思議だな、と思わせるチームにしていきたい」
と答えている。


965 【心と体の健康】 ~幸せな人生~

「どうすれば幸せになれるか」


人間はそもそも、究極的に何に”幸福”を感じる生き物なのだろう?

それを突き詰めていくなら、一人の人間として周りから”認められる”ことに、幸福を感じるのではないでしょうか。

私たちが生きてきた昭和の時代は、「身近な人や社会からの承認 = 幸福」という図式が成り立っていた。
そうした幸福観が、平成になって大きく様変わりしてきた。

私が歩んできた時代は、勤めた会社で真面目に働いていれば、年齢相応に出世し、収入も増えていった。暮らしが豊かになっていくのを、肌で感じることができる時代でした。 それが昭和に生きた私たちの”幸福の源泉”でした。

この時代は、「年功序列」と「終身雇用」という、日本独自の二つのシステムに守られ、多くの人は会社で得た地位や評価が、そのまま社会の評価につながり、認められたのです。


会社から月々安定した給料を貰い、車や家を買い、専業主婦の妻と子どもを養うことが出来たのです。家事や育児を分担しなくても、家庭で夫としての地位を保つことができた時代です。

これが昭和に生きた私たち年代が描いた「幸福の図式」だったのです。


会社での地位や肩書は、家族にもそのまま認められた。
こうした、働く者に約束された幸福への一本道が、今、音を立てて崩れはじめている。夫婦共働きでなければ、幸せな家庭を築けなくなり、
旧来の会社システムが崩壊したことにより、大企業といえども、リストラや減給、倒産といったリスクに見舞われる時代になったのです。


今の時代に働く人たちは、私たちの世代が過去に描いてきた図式からは、幸福を見出すことが難しくなったのです。

大学を卒業し、普通に勤めてさえいれば、そこそこの地位まで昇進し、定年退職できた時代は終わったのです。


大きな会社に就職して、将来安泰と喜んでいたのも束の間・・一流企業は人材が豊富・・昇進に格差が生じ、比較的早い時期に将来が見えてしまう。

会社で自分が必要とされなくなったとき、定年まで居られるかどうか・・先行き不透明な時代になったのです。


待遇に不満を持って会社を辞めても、誰も振り向いてくれず、誰からも認めてもらえず、「こんなはずではなかった」と歎くことになる。

私が現役の頃は、肩書きがなく平社員のままでも、給料を家に入れてさえいれば、妻や子供から働き手として、一家の主として尊敬されたのです。

しかし今の時代は、家事を分担しないお父さんは「大切な人」には思われない。たとえ今は許されても、将来家に居場所がなくなり、家族に介護してもらえなかったり、熟年離婚の憂き目に合うことになる。


では、どうすれば幸せになれるのか?
まず、何よりも人間関係を大切にして、沢山の友達”ブレーン”を持つことです。そのためには、会社以外での人間関係を深める努力がいります。
会社の外での付き合いの中で、自分の能力が評価され、必要とされる人間になることです。


ややもすると、男性は組織の中でしか人間関係が築けず、それも、与えられた「役割」の範囲でしか動こうとしない傾向があります。

故に、会社の外で人間関係を築くには、趣味のグループや、スポーツ同好会、経営者の集いなど、何らかの組織に入って、世話役を買って出るか、自分で組織を作らないと駄目なのです。


そうした組織が苦手だったり、煩わしく思う若者が多いのも今の時代です。フェイスブックで友達を増やし、情報を交換して交流を深めるのも、一つの方法でしょう。

自分の能力、好きなこと、得意なことを生かして、ほめてもらえる場所を作り、人生を選択する巾を広げ、エンジョイすることが大事なのです。


                                              中央大学教授・山田昌弘「生きづらい時代」より

2012年05月16日

どうすれば幸せになれるか-2

水木しげるの「幸福の七ヶ条」

「ゲゲゲの鬼太郎」の水木しげるが、自らに定めた幸福の条件です。


1. 成功や栄誉、勝ち負けを目的に事を行ってはならない

2. しないではいられないことを し続けなさい

3. 他人と比較しない。 あくまで自分の楽しさを追求すべし

4. ”好き”の力を信じる

5. 才能と収入は別。 努力は人を裏切ると心得よ

6. 怠け者になりなさい

7. 目に見えない世界を信じる


966 【心と体の健康】 ~幸せな人生~

「どうすれば幸せになれるか-2」


「幸せになりたい」「どうすれば幸せになれるのか?」・・すべての人に共通する課題であり、知りたいテーマです。

禅修行の目的の一つに「足るを知る」がある。己の欲望が抑制され、煩悩妄想による迷いが消えて、心清き状態になることで己の幸せを追及していく。

何も求めず、現状に満足し、貧しくても歎くことなく、悲しみ事を回避できるなら、不幸な思いをせずに済むし、傷つくこともない。
しかし、修業僧でもない凡人の私たちが、こんな生き方をしたのでは、生きている意味もないし、喜びも湧いてきません。


一方で、幸せは「目標や夢を、努力の積み重ねで達成していく中で、掴み取っていくものだ」と、信じている人も少なくない。

しかしこの方法では、人生を「成功か失敗か」でしか推し量れない、考え方の狭い人間になってしまいそうです。


金持ちを目指して失敗すれば、貧乏を嘆くことになります。
成功を目指して努力した・・しかし上手くいかなければ、不幸になります。

成功者は成功に至るプロセスが・・苦労や努力が賞賛されます。
反面敗北者は、能力のなさを思い知らされ、我が身の不幸を歎くことになる。

成功への坂を着実に登って、人から成功者と言われるようになっても、「まだだ、まだだ」と言う・・人の欲にはきりがありません・・一体いつになったら満足できるのか。


貧乏な人とは 何も持っていない人のことではなく 多くをもち
  ながら まだまだ欲しい欲しいと 満足できない人のことである

寺の伝道掲示板に書かれていた言葉です。


ヤドカリは、己に似合った貝殻を身につける・・己の器の大きさを知らなければならない。自分にはない、他人の長所をうらやましく思う・・
でも、他人も自分をうらやましく思っているかもしれない。人は人、自分は自分です・・リンゴはリンゴ、バナナはバナナであって、リンゴがバナナをうらやましく思うのは、愚かなことです。


自分の長所を知り、その長所を生かしていくことで、人のお役に立つことができるなら、それはそれで幸福です。「幸福の物差し」の長さは、一人ひとり皆違うことを、知らねばならない。

2012年05月21日

原発に依存しない社会へ

脱原発へ一歩


5月5日、子どもの日の午後11時3分、北海道電力泊原発3号機が、

定期検査のため運転停止した。

国内にある54基の原発が、1970年以来42年ぶりに、すべて停止した。

原発が運転再開するめどは立っておらず、昨年3月の福島第一原発

事故を経験した日本は、発電量の三割を占める原発の運転ゼロが続き、
前例のない事態になった。


原発の安全性に不信を抱く市民グループは、「原発ゼロ」を掲げ、

全国各地で集会やデモを行っている。

能登の北陸電力志賀原発も、沖合に新たな活断層が見つかるなど、

市民グループが街頭で、再稼働反対を呼びかけている。

                                                                        5月6日中日朝刊


967 【吉村外喜雄のなんだかんだ】

「原発に依存しない社会へ」

東北大震災から一年・・地震と津波と原発事故の三重苦・・いまだに、その苦しみかられられずにいる。

地震に見舞われるまで、私たちの社会は、原発にすっかり依存していることに気づかず、原発に頼っていることが”誤り”であるとは、考えもしなかった。

気づいてみれば、アメリカの104基、フランスの59基に次いで、世界で三番目に多い54基の原発を、人口が密集する狭い国土の日本が保有しているのです。

放射線被害が及びにくい広大な土地のアメリカでもなく、地震の少ないフランスでもない・・私たちが住む日本で。


原発に隣接して、人口が密集する町や村があり、世界で発生する地震の一割がこの日本で起きている。更に困ったことには、津波が押し寄せる海沿いに施設の全てがある。

放射性廃棄物を処分しようにも、技術が確立されていなく、保管場所もない・・放射能を浴びた残材の処理も、宙に浮いたままです。


そうしたことを、地震の後、国民は思い知らされたのです・・以前から、専門家が危惧していたことが、「まさか」の現実になって、起こってしまったのです。

地震から一年を経過した今になって、想定していた何倍もの大きな地震と津波が、過去に何度も起きていたことが、地質学者や地震博士の調査で明らかになった。

全国各地で、巨大地震と津波の痕跡が次々と発見されたのです。

「想定外だった」の一言で、すべてをやり過ごそうとする無責任さ・・
無関心さ。

私たちは、大きな誤りを冒していたことに、気づかなければならない・・
津波被害も原発事故も、”人災”だったことを・・死者を弔うためにも、誤りの問題点を明らかにし、次の災害への備えを十分にし、「原発に依存しない社会」をどう実現していくか・・今後の課題です。

                                                                                    同朋新聞「時言」

2012年05月25日

日露海戦と対馬島民

ヒュースケンの日本滞在記


ペリーが戦艦黒船で下田沖に来航して、日本が開国に至ったのは、

明治維新を遡ること15年前の1853年。

その3年後に、ハリスが下田玉泉寺に初の米国領事館を開いた。


ハリスの通訳ヒュースケンの、日本滞在記によれば・・

『びっくりするくらい愉快で明るい日本人。この国の人々の飾り気の
なさを、私は賞賛する。至る所に子供たちの笑い声が聞こえ、
どこにも悲惨さが見えない。むしろ私たちは、西洋の悪徳を日本に
持ち込もうとしている。


北斎や写楽などの浮世絵、歌舞伎、東海道中膝栗毛などの芸術文化

は、これからもずっと続くだろう。貧しくても清貧さを失わず、生活の
苦労をほとんど気にしない日本人には、驚きです』



968 【吉村外喜雄のなんだかんだ】

~歴史から学ぶ ~ 「日露海戦と対馬島民」


1905年5月27日は、バルチック艦隊と日本海軍戦艦が、戦いの火ぶたを切
った日である。この戦争で負けていたなら、ロシアの植民地になっていたであろう、東アジアの小国日本。

戦いは、対馬沖でバルチック艦隊38隻を撃沈して、日本海軍の一方的勝利となって、世界をアッと言わせた。


翌日28日昼過ぎ、島の東端に突き出た岬の丘で、麦刈りをしていた村人が、
海原で何かキラと光るもを見つけ、腰を伸ばして見つめていた。

それは次第に大きくなり、ボート4隻であることが確認された。

間もなく真下の浜辺に上陸し、浜から草の茂った急斜面を、ぞろぞろこちらに登ってきた。

色白で赤茶けた髪、赤ら顔で背が高く眼が青い。見たこともない恐ろしげな偉人たち。村人は、草刈鎌を握りしめ、恐ろしくなって後ずさりした。異様な空気に驚いた子どもたちは、泣きだし、母親にしがみついた。


油とススにまみれた軍服、裂けて血だらけの者、負傷してようやく立っている者、
皆ロシア軍艦の敗残者たちと分かった。

双方立ち止まり警戒したが、やがて敵意のないことを悟り、村人の一人が語りかけた。

日本語は通じなかったが、身振り手振りで「水が欲しい」という・・

崖下にある湧き水へ皆を案内した。われ先にとのどを鳴らして、うまそうに貧り呑むロシアの兵士たち。恐ろしい中にも、同じ人間として何か哀れをさそった。

そうこうするうちに、島にたどり着いたロシア兵は163名に膨れ上がった。傷の手当をしなければと、村へ連れて帰った。村人はタライや桶を持ち寄り、井戸水が枯れんばかりに水を汲んだ。


血で汚れた服を脱がせて身体を洗い、家から大切にしている着物を持ち出して
着せたり、怪我の手当と・・村人総出で介護した。

なけなしの大切な米や芋を炊き出しした。が、彼らは毒が入っているとでも思ったのか、誰も口にしようとしない。


一口、食べて見せると、よほど空腹だったのだろう・・皆飛びついて貪り食った。
貧しい漁村故、大勢の兵隊を食べさせるだけの蓄えがない。

一息ついて、手分けして住まいや納屋を解放・・寝る所を作った。

布団を用意できず、蚊帳や古くなった帆をかけて、ムシロで寝てもらうことにした。

東洋の野蛮なサルの国と、殺されるのを覚悟で上陸したロシア兵たち・・

家族のように不眠不休の介護と、精一杯の親切、温かいもてなしを受け、皆感激の涙を流したと、記録に残されている。

       (以下、次号に続く)

2012年05月29日

歴史から学ぶ 「日露海戦と対馬島民-2」

歴史秘話「日本海海戦で、T字戦法はなかった」


日本海海戦といえば、連合艦隊がこの海戦で採用し、大戦果をあげた

「T字戦法」がある。ところが、「日本海海戦にT字戦法はなかった」と

する研究論文が、2002年に発表された。


T字戦法は、日本海海戦の1年前の明治37年8月、ロシア太平洋

艦隊と連合艦隊が、旅順沖で戦火を交えた「黄海海戦」でT字を描き、

敵の先頭に猛射を浴びせることに成功したが、決定打を与えない

うちに、ロシア艦隊は脱出に成功・・

このあと敵艦隊に追いつくのに、二時間を要した。


T字戦法では、敵を逃す恐れがあると判断した東郷は、以後、敵を

逃さないことのみに心を砕くようになり、日本海海戦では「並航砲撃戦」

戦闘隊形で、T字は採用しなかった。


後に、日本海軍が東郷を神格化するために、あたかもT字戦法で勝利

したかのごとく創作・・国民や世界の軍事専門家を騙し通したのです。

各国海軍も、この”幻の戦術”を採用しようと努力した。

昭和19年10月、フィリピンの海峡を北上する西村艦隊に対し、

米海軍が文字どおりのT字戦法を採用して、成功を収めている。


                                                    新人物往来社「日露戦争」より


969 【吉村外喜雄のなんだかんだ】

~歴史から学ぶ ~ 「日露海戦と対馬島民-2」


東洋の野蛮なサルの国と、殺されるのを覚悟で上陸したロシア兵士たち・・島民から家族のような不眠不休の介護と、精一杯の親切、温かいもてなしを受け、皆感激の涙を流したと、記録に残されている。

翌29日夕方、本土の捕虜収容所に移送するため、日本海軍の船が回されて来た。

27時間の3日間にも満たない短い間であったが、ロシアの水兵たちは、広場に整列し、村人に最敬礼して、「スパシーボ(ありがとう)」を何度も繰り返して、感謝の涙で顔をくしゃくしゃにした。


兵士たちは、金貨と銀貨を数十枚、お礼に差し出したが、「金品を受け取ってはならぬ」という役所のお達しがあり、村人は固辞・・それでも村を離れる時、無理やり置いていったという。


沖に迎えに来た海軍の輸送船まで、漂着した時のボートに乗って浜を離れた。
途中何度も振りかえり、一斉にオールを直立させて、深い謝意を表したという。

村人もまた、波間に見えなくなるまで、手がちぎれるほど振り続けた・・

後に、村人たちの対応を聞いて感動した東郷は、「戦争で死の海となった対馬が、敬愛の海になった。その義はなんと気高いものであろうか」と、書物に書き残している。

現在、日本海を見下ろす岬に、東郷直筆で彫られた記念碑が、訪れる人もなくひっそり立っている。


この海戦を遡る15年前・・紀伊半島南端の串本大島沖で、トルコ軍艦が嵐に合って難破・沈没した。

生き残りの兵士69名を、村民が命がけで救った実話は、今日も美談として私たちに受け継がれ、トルコでは教科書に載せているという。


トルコが親日的なのは、こうした過去の歴史によるものです。

一方、日露海戦における対馬島民の美談は、現在日本でもロシアでも、学校で教えることはなく、歴史から忘れ去られてしまっている。

2012年05月31日

心と体の健康 「はく息と健康」

共感脳の活性化                                    (職場の教養)


ある日の朝礼で、S氏は不思議な感覚を味わった。
S氏は、スローガンを唱和する社員の声が一つになるよう、普段以上に
大きな声を出して、氏自ら声を合わせるようにしたのです。


全員の声がピッタリ一致した時でした…S氏はこれまで味わったことの
ない心地よさを感じ…心が明るく、元気になったのです。

この現象は脳の研究で、すでに解明されているのです。


東邦大学医学部教授の有田秀穂氏は、自分以外の誰かとコミュニケー
ションが密になると、脳の前方にある「共感脳」とよばれる部位が活性化
して、癒しの効果が表れることを、学会で発表している。


人に感謝される行為をしたとき、自分も周りも、幸せな気分になります。

声を合わせて挨拶したり、発表者の話に相づちを打つなど、「共感脳」を

適度に刺激する行為を、S氏は朝礼で行なっていたのです。


こちらが、相手の共感脳を刺激するように働きかけると、幸福感あふれる
癒しの効果が表れ、場の雰囲気をなごませるのです…


970 【心と体の健康】

「はく息と健康」


アメリカの心理学者、エルマ・ゲイツ博士は、人間のはきだす息を集めて、次のような実験を行った。

人がはきだした息を、フラスコに詰め、マイナス270度の液体窒素で冷やしてやると、底に沈殿物がたまります。


○健康な人間がはきだす息の沈殿物は ・・ 無 色

○怒っている人がはきだす息の沈殿物は ・・ 栗 色

○苦しんだり、悲しんでいる人の沈殿物は ・・ 灰 色

○後悔して、くよくよしている人の沈殿物は ・・ 淡 紅色


さて、この沈殿物のどれかが、人を死に至らしめる猛毒になるのです。

博士は、栗色の沈殿物を水に溶かし、ネズミに注射したところ、わずか数分でネズミは死んでしまった。


もし、一人の人間が一時間、腹を立て続けると、なんと、80人の人間を殺すことができる毒物を、口から吐き出していることになるのです。

ですから、相手が怒り出したら、いち早くその人から離れることです。

でないと、毒を吸ったあなたも、意味もなく怒り出してしまいます。


更に、私たちの血液は・・

○怒ると ・・ 黒褐色になり、なめると渋い

○悲しむと ・・ 茶褐色になり、なめると苦い

○恐れると ・・ 紫 色になり、なめるとすっぱくなる


日頃、怒ってばかりいる人、悲しみにくれている人、苦しみに耐えている人は、しだいに健康が蝕まれ、病気になります。

家族や周りに毒をまき散らし、迷惑をかけるばかりでなく、自分自身を傷つけることになるのです。

いつもニコニコしている人は、心身ともに健康になり、まさに「笑う門には福きたる」状態になることをお忘れなく・・

メルマガ購読受付

このブログの記事をメルマガで定期的にお届け致します。

メルマガ購読のお申し込みはこちら >>

About 2012年05月

2012年05月にブログ「吉村外喜雄のなんだかんだ」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2012年04月です。

次のアーカイブは2012年06月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.36