■日本を支えた偉人たち
私たちがよく知る二宮尊徳や上杉鷹山、西郷隆盛は、NHKのドラマ
にもなり、江戸時代日本を支えた偉人たちです。
私は、人生の後半五十歳半ばにして、ようやくこうした偉人たちの
偉業を学ぶ機会を得、自らの人生を考えるよすがにしたのです。
私たちの年代が、昭和三十年代学校で学んだ偉人は、ワシントンや
リンカーン、ニュートンなど、西欧の偉人ばかり・・
日本の歴史を彩る偉人たち・・名前は知っていても、何をなして偉く
なったのかは知らなかった。
お隣の福井県に”橋本佐内”という幕末の偉人がいる。十五歳のときに、
人生の生き方「啓発録」を著わした。啓発録は、人生の生き方の根幹を
成す名文として学校で教わるので、福井県で知らない人はいない。
(吉村外喜雄のなんだかんだ2009年1月630号632号634号)
ところが隣県の石川県では、名前を聞いても「 ? 」である。
江戸中期の国学者”塙保己一”もその一人でしょう・・
960 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「盲目の国文学者・塙保己一」
月刊「理念と経営」連載「人に歴史あり 逆境!その時経営者は」…どん底から必死に這い上がり、逆境を乗り越えていく経営者の姿から、人は順境の時よりも逆境の時に、その隠された能力が発揮されることを学んだ。
逆境が、創造のエネルギーを生み出すのです。
盲目の国文学者・塙保己一(はなわ ほきいち)の生涯は、逆境をバネに人生の成功を掴んだ、典型と言えるでしょう。
塙保己一(1746~1821)は、 江戸中期の国学者で、武蔵児玉(現・埼玉県本庄市)に生まれた。5歳のときの病がもとで、7歳で失明。
母の死がきっかけで、学問を積んで立派な人間になることを志した。
13歳の時江戸に出、雨富検校に入門。按摩修行に励むも不器用ゆえ、学問が身に付かず絶望…自殺も考えた。
その後、賀茂真淵に国学を学び、卓抜した記憶力により、和漢の学に通暁し、検校・総検校となる。幕府保護の下に「和学講談所」を建て、門下に碩学を輩出。
『群書類従』に続き、『続群書類従』を編纂。34歳に始まったこの大事業の間、出版成就を願って、般若心経読誦は、42年の間に百万遍の読誦を2回繰り返したと言われている。
ヘレン・ケラーは、幼い頃両親から「塙保己一を手本にするように」と教育された。昭和12年来日した折、塙保己一記念館を訪れている。
塙保己一は、盲目という不遇の境遇にあって、常識を超える努力を生み出す…その元になるエピソードがある。
[エピソード1]
雪のある日、保己一は平河天満宮へ参詣に出かけた。
折悪しく、高下駄の鼻緒が切れたので、境内の版木屋(出版業者)の店に入り、紐をいただきたいと頼んだ。店の者は無言で、保己一の前に紐を放り投げた。
目の不自由な保己一…ようやく手探りで探し当て、鼻緒をすげようとする。それを見た店の者は、手をたたいて笑いこけた。
保己一はいたたまれず、すごすご裸足で逃げるように店を出た・・
その後、苦心の末に『群書類従』を出版することになった。
保己一は幕府に、版元になんとこの版木屋を推薦したのです。
何も知らない判木屋の主人…保己一に推挙のお礼を述べた。
「私が今日あるのは、あの時の皆様の冷たい態度のお陰です。目が悪くても、人から必要とされる人間になれば、決してあのような態度をされないだろうと、努力を積み重ねたのです。その結果、このような立派な本を出すことが出来ました。お礼を述べたいのは私の方です」
と、見えない目に深い喜びを浮かべ、語ったといいます。
[エピソード2]
和学講談所で「源氏物語」の講義をしている時、突然風が吹いてロウソクの火が消えたことがあった。保己一はそれとは知らず講義を続けたため、弟子たちが慌てた…「目あきというのは不自由なものじゃ」と保己一は冗談を言った。
人には、それぞれ隠れた能力がある。ハンディを背負って生きることは、大変不利なようですが、不遇を克服しようと、ひたすら努力を続けるうちに、潜在能力が開花してくる。
健常者には及ばない能力が開花して、後世に名を残す偉業を為しとげたのです…ヘレンケラーや中村久子もそうです…運命を切り開くのは己なのです。
一に努力、二に努力…”努力”が、不可能を可能たらしめるのです。