■老いを考える
ビデオ撮りしておいた、山田太一原作NHK土曜ドラマ「キルトの家」
を、先週土曜夜じっくり見た。「キルトの家」は、団地で一人暮らしを
している、寂しい老人たちの物語です。
近い将来避けて通れない”老い”・・自らの将来の姿を客観的に
見つめ、考えさせるドラマでした。
三十年前を振り返ると、金沢の近郊に次々立派な団地が 造成され、
郊外は活気にあふれていた。
私が生まれ育った、武家屋敷のある長町界隈は、土地を求め、
家を新築して引っ越していく人で、空き地と有料駐車場ばかりの
町になった。
挙句は少子化で、市中心部の三つの小学校は一つに統合され、
私が通った長町小学校も廃校になった。
あれから三十年・・今は、郊外の団地が、老人ばかりが住む、
ひと気のない、寂しい町になってしまった。
939 【心と体の健康】
~幸せな人生~ 「老いを考える」
超高齢化社会になって、定年後に、現役時代に匹敵する長さを生きる人が、大多数を占めるようになった。
老いの先に必ずやってくる”介護”・・その介護が今、社会問題の一つになっている。
家族の中に、介護を要する年寄が生じた時、多くの家庭で「誰が介護するのか」が問題になり・・なすり合いの嵐が吹く。
結婚すれば子どもができる・・子どもが生まれたら育児をするのは当たり前と思っている。同様に、家族に年寄がいれば、介護は避けて通れない…その時になつて困ることなど、ないはずである。
ところが、覚悟ができていない。「介護は大変な問題だ」と、介護する側に都合のいい、あるいは都合の悪いイメージで、片付けられてしまう。
介護老人を抱えたばっかりに、家庭内がおかしくなったと、被害者意識に陥るのです。
誰であれ、老いは必ずやってくる・・介護も必ずやってくる。”老いる”とは、一人で出来ることが一つずつ減っていき、人の手を借りなければ日常の生活ができなくなる・・あたり前のことなのに・・私たちは”老い”を社会問題として語ろうとする…それには、理由が三つあります。
一つは、老いが”介護する側”からばかり、語られることにある。
”介護される側”の年寄は、「迷惑をかけて申し訳ない」という意識があり…また、家族が無理をしているのが分かるので…「ああしてほしい、こうしてほしい」とは、申し訳なくて言えないのです。
わずかでも、不服を言おうものなら、「少しは、介護する私たちのことも考えて!」と言い返され・・争いになる。介護される側は、何も言わない方がいいと、口をつぐんでしまうのです。
介護される年寄は、家族に老いを語りにくい。だからどうしても、介護する側の問題として語られてしまう。
介護に多くの時間を割かれ、会社を辞めざるを得なくなって、暮らしにひずみや無理が生じるケースが多いからです。
介護に疲れ、人の助けを求めようにも、解決策が見当たらず、悩むことになる。介護に解決策はない! 介護などなければいいと思っても、どうなるものでもない。
介護を問題として見るのではなく、”課題”としてとらまえ、介護することに意義を見出していくことです。(つづく)
大谷大教授・鷲田清一「老いといういのちの相」
少子化が、介護家庭に重くのしかかってくる。
私の親の代に比べ、何倍も老人介護が困難なものになっている。
両親と同居していた私・・妻は、私の事業を手伝う傍ら、父母に付き添い、亡くなる最後まで世話をやいてくれた。幸いなことに、当時、私の姉と妹が金沢にいて、交代で介護したのです。
次は、私たち夫婦の番です・・介護してくれる家族は?
息子の”嫁”一人の肩に、私たち夫婦と、実家の両親(三姉妹の長女)、四人の介護が重くのしかかる・・夫は当てにならない。周りを見渡しても、長男の嫁と、嫁いだ娘・・二人以外に、親を介護できる家族はいないのです。