人生は登山のごとし
新年明けましておめでとうございます
■「運命を引き受けよう」
東レ経営研究所・佐々木常夫特別顧問は、六歳の時父を亡くした。
男の子四人をもうけていた母は、27歳で未亡人になって身を粉に
して働き、子ども4人を大学まで出しました。
母は愚痴一つ言わず、いつも笑顔を絶やさず、私たちを育てあげ
ました。母のしつけで、もっとも多く幼い私の心に響いた言葉は、
「運命を引き受けよう」でした。
自分の人生で起こったことは、悲しみも苦しみも幸せも、そのまま
すべて引き受け、その中で最大の努力をして、自らの人生を生きて
いこうということです。
「理念と経営1月号・新しい日本を創ろう」
927 【心と体の健康】
~幸せな人生~ 「人生は登山のごとし」
人生は高く険しい山のごとし…
昭和初期に日本の”電力王”と言われた松永安左衛門は、人生を登山に例えて・・
「面倒だの、億劫だのという贅沢は山が許さない。 道という道もなく、水を求めるにも困難である。
最大危険を冒し、最大努力をもって、緊張の連続で、一瞬の油断も許されない。
道を探し求めて、決断力も必要である。
最大の辛苦と闘い、やり通す確固たる信念を持たなくては、登頂ができない。
山登りに必要なのは度胸である。 また、度胸だけでなく、一歩一歩堅実に踏みしめ、軽率と不謹慎を慎む心も必要である…人生もまた同じである 」
富士山最後の”強力”として、昭和48年から21年間、延べ400回も、冬の山頂の測候所に、食料や書類を命がけで運んだ、並木宗次郎という人物の物語です。
烈風とアイスバーンに閉ざされる冬場の半年間、十日おきに30キロもの荷物を背負って運び上げる、”強力”を務めた男の人生は、壮絶でした。
昭和44年に結婚・・子宝にも恵まれ、幸せな人生を送っていたが、それも長くは続かなかった。長女が3歳になる直前、彼女の目が悪性腫瘍に冒され、両眼を摘出…全盲になってしまいました。
夫婦助け合い、病院と家を往復する生活を二年半続けているうちに、仕事に影響するようになり、欠勤が増え、破産寸前の経済状態に追い込まれてしまった。
並木さんはワラをもつかむ思いで、時間の拘束が緩やかで、高給を稼げる強力の仕事についたのです。
その後3人目の子を授かるも、看病疲れと生活苦で、妻は自殺。妻を失った悲しみから、自暴自棄の生活に陥るのです。
幼い三人の子どもを、男手一つで育てながらの強力稼業。子どもたちがお腹を空かせて待っていると、尻セードのものすごいスピードで、山を下ったこともあった。
そうした苦労に加え、落石の大惨事、遭難者の救出、行方不明者の遺体捜査、仲間の殉職、自身の滑落事故と、数えきれない出来事が並木さんを襲った。
災難を乗り越えながらの、苦労の連続の人生…特に登山が好きだったわけではない。生活のため、子どもたちのために、強力を続けるしかなかったのです。
今は、沢山の感謝状と共に、5人の孫に囲まれ、幸せな老後をすごしている。