■天 寿
来月私は、七十歳の古希を迎える。古希とは、
七十歳まで生きるのは、
「古来、稀(まれ)なり」というところからきている。
松下幸之助は、九十四歳で亡くなられたが、常々「百二十歳まで生きたい」
と言っておられた。言いはじめは八十を過ぎてから…
当時の国家主席”鄧小平”の招聘で中国へ行ってからです。
幸之助は鄧氏との会食で、「八十を過ぎて、自分は長生きし過ぎたようだ」
と話したところ、鄧氏が「いや、中国には天寿
(天からいただいた寿命)
は百六十歳という言い伝えがあります。八十歳は丁度折り返し点!
まだまだですよ」
幸之助は、これが嬉しかったようで、日本に戻ると、
「自分は百二十歳まで生きる」と言い始めたのです。
若い頃から病弱だった幸之助。いつも言っていたのは、
「僕は病気から逃げたことなかったで…病気と仲よく付きあってたんや。
病気を恐れとったらあかん…病気は恐れて逃げとったら、あとから追い
かけてくる。病気と親しくなれば、病気のほうから卒業証書をくれるもんや」
「木野親之の経営問答」より
899 【心と体の健康】
~般若心経~ 「大乗仏教の教え(5)」
大乗仏教の基本教理は”空”…
「物を実体視するな。差別するな。よしんば差別をしても、その差別にこだわるな!」
と説く。
私たちは日頃様々なモノを比較して、そのことに”こだわり”生きている。 ある者は、人より自分は「貧しい」と思い込み、
「不幸だ不幸だ」と嘆いている。
般若心経の教えでは、「豊かさ」も「貧しさ」も”空”である。
「自分は貧しい」「自分は豊かだ」と思うのは、
何かと比較して実体視することからくる”こだわり”なのです。
「荘子」にも、大乗仏教の言う”空”
によく似た教えがあります。
『荘子が山中で、枝や葉が生い茂った大木を見た。弟子のきこりが、
その木の前で足を止めても、伐採を命ずることなく、通り過ぎてしまった。
木こりが理由を尋ねると、「あの大木は、節や曲がった枝が多く、
材木には向かない…脳なしの役立たずだ」と答えた。
その夜宿の主人は、鵞(が)鳥を殺してもてなそうとした。
召使が主人に尋ねた。「一羽よく鳴くが、
もう一羽は鳴かない。どちらを殺したものでしょう…」
主人は「鳴かないほうを殺せ」と命じた。
次の日、弟子が荘子に尋ねた。
「山中の大木は、能無しの役立たずのお陰で、伐られずに済んだが、
鵞鳥は能無しのために殺されてしまった。先生は、有能と無能のどちらがよいとお考えですか」
荘子は答えた「わしは有能でもない、無能でもない…その中間だ。しかし世間では、
有能か無能かで悩んでしまい、わずらわしさから抜け出せないでいる。
人間の営みを見てごらん…会えば別れ、完成すれば破壊し、角突き合っては傷つき、
高貴の身分になると害に遭遇し、賢者は謀略にかかり、愚者はだまされる。
無能な大木…鳴かない鵞鳥と…違ったものを比較しようとするのが、そもそも間違いなのだ』
イエス・キリストは、弟子たちが「誰が偉いのか?」と言い合っていたとき、
黙ってペトロの足を洗い始めた。
そうしたイエスの行為…人の足を洗うのは、
当時は身分の卑しい奴隷の仕事でした。あえて自分を、弟子よりも下の愚人になって、偉いの・
偉くないのと、優劣をつけようとする弟子たちの愚かさを、身をもって示したのです。
「理念と経営8月号/荘子に学ぶ」