■「羽生流・勝利の五ケ条」
第69期将棋名人戦七番勝負…羽生名人が0勝3敗の崖っぷちから、
6月8日の第六戦に勝って…3連勝…森内挑戦者と3勝3敗の五分に
…6月21~22日の第七戦に持ち込む粘りをみせた。
将棋界初の「七冠達成」の記録を持ち、勝率七割を誇る羽生善治名人。
オリンピックを目指すアスリートたちに、「羽生流・勝利の掟」を講義した。
テーマは「決断力」…以下、勝つための五ケ条です。
(1)直 感 力…
長く考えた答えが正しいとは限らない。
これまでの経験を基にした直感力が最優先する
(2)大 局 観…
先入観にとらわれず、広い視野で物事を判断する
(3)見 切 力…
必要かどうか分からない用件は、思い切って捨ててみる
(4)忘 却 力…
失敗したら原因を反省するが、後にそれを引きずらない
(5)裏切らない…
自分自身を、そして周囲を裏切ってはいないか?
「やれることは全部やった」という自負があれば、胸を張って決断できる。
勝負…その一瞬に、自身の決断力が試される。
”ここぞ”の場面で、しっかりと決断できる精神力が、勝利へと導く。
872 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~歴史から学ぶ~
「火の用心 お仙泣かすな…」
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」
ご存知、日本一短い手紙…この手紙を書いた”本多作左衛門重次”という人物を知る者は少ない。
1530年現在の岡崎市に生まれ、7歳の時から松平家三代に仕えた人物です。
三河一向一揆の際、戦功を上げ、
家康が三河を平定した後、「三河奉行」に任ぜられて、三河の地に知行を与えられた。作左衛門は、生まれつき勇猛果敢、
豪快にして正直な人間であった。
作左衛門の武勇を語るなら…元亀3年(1572)三方ケ原の闘い…
3万の武田軍に徳川軍は左翼を破られ、中央を崩されて総崩れとなった。
作左衛門は身に多数の傷を受け、身動き出来ないほどであったが、
主君家康が死にもの狂いで退却するのを見て、最後の力を振り絞って敵を倒し、騎馬一頭を奪って家康の後を追い、
襲いかかる敵を倒しながら城に着き、家康の命を救った。
天正3年(1575)長篠の戦いの折、陣中から妻に宛て書いたのが、
上記の手紙である。
このようなずば抜けた戦いぶりから、人々は「鬼作左」「鬼殿」と呼ぶようになった。
一軍の将として、数々の武功を重ねただけでなく、兵糧の備蓄、新領・
駿河の国の政務、家康出陣中の守城役、
岡崎城城代を務めるなど、多岐に渡り能力を発揮した。
小牧・長久手の戦いの後、天正12年(1584)、我が子”仙千代”
が秀吉の人質のような状態になったとき、
巧みに秀吉を欺いて、仙千代を京都から連れ戻している。
天正14年、家康が秀吉の要請に応えて上洛する際、秀吉の母”大政所”
が人質として岡崎に下向した。
作左衛門は、伊井直正と共に守護するが、居館の側に薪を積み、
京都に異変が起これば、直ちに火を付ける体勢をととのえ、大政所を虐待した。
6年後の天正18年、太閤秀吉が小田原攻めの途中、駿府城内で秀吉・
西方武将が居並ぶ面前で、
作左衛門は家康を諫言した。小田原攻めの後、秀吉が駿府城に宿陣したとき三度、作左衛門を呼んだが、応じなかった。
更に、岡崎城見参御免の事件などで、関白が激怒したと言われている。
関白から作左衛門殺害の命が下ったが、
家康は作左衛門を隠して病死と報告…
閉居させた。
関白に遠慮した家康は、作左衛門に三千石の知行を与えるに留まったが、
一言の不平も言わなかった。
1596年、68歳で没した。自分を捨て、
ひたすら主君家康に尽くした作左衛門…
人々は「三河武士の鏡」とほめたたえた。
家康は、作左衛門の功を忘れず、関が原の戦いに勝ち、天下人となった後、
作左衛門の子”本多成重(お仙)”を、越前丸岡城主、 四万石の大名に取り立てた。
百万石加賀藩西方に隣接する越前丸岡。万に一つ、
加賀藩が幕府に反旗をひるがえすようなことがあれば、上洛を妨げる要所となる。家康はその要所を、作左衛門の子孫に与えたのです。
一筆啓上の本多作左衛門…私たちの故郷と、意外なところでつながっているのです。