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禅僧・関 大徹 「心…便所掃除も修行の内」

■つれあいにモノ申す                              中日新聞
 
[産地物にかぎる]
干物が大好きな夫が、産地からアジの干物を30枚もお取り寄せ。
夕食の時「やっぱり産地直送は違う…絶品、うまい!」
私は言えませんでした…
2日前にスーパーで買ったのを、先に焼いたのです。
 
[平坦な坂道が好きな主婦]
三十数年前に、私たち夫婦が挙げた結婚式で、友人が…
「人生には上り坂、下り坂、そしてまさかの坂道がある」 スピーチした。
 私の結婚生活を振り返ってみると、「まさかの坂」ばかり…
 さすがに最近は「とさか」に来ています。
                    
[…っぱなし]
開けっぱなしの戸、脱ぎっぱなしの服、食べっぱなしの食卓、
ほうりっぱなしの妻…さて、この後はどうなる?
 
 
863 【心と体の健康情報】
~禅僧・関 大徹~ 
「心…便所掃除も修行の内」
 
人生の書、禅僧・関 大徹の「食えなんだら食うな」からの抜粋です。
 
どこの禅寺も掃除が行き届いている。もし、 掃除の出来ていない禅寺があるとたら、それは禅寺でも何でもなく、ただの居住空間にすぎない。
禅寺がすがすがしいのは、 坊さんが経を読む以上に当たり前のことであり、何も驚くにはあたらない。
 
それよりも、禅寺を見ていただくなら、もう一つ確かなところを見てほしい。 それは便所である。禅寺の便所は、ただ排便をするという、 人間の生理的欲求に応えるだけでなく、”修行の場所”なのである。言葉はきたないが、禅宗では、糞を垂るのも修行である。
 
便所は、隅から隅まで磨きあげ、小のほうの便器に、 青々とした杉の葉が入れてある。
現在、永平寺の貫主であり、曹洞宗管長でもあった秦慧玉(はたえぎょく) 禅師は、十三歳の年から正眼僧堂で修行をされ、それが身にしみていたらしい。
永平寺へあがって、副貫主になられてからも作務を怠らず、 とりわけ便所掃除は入念にやっておられる。
 
吉峰寺を再興された田中仏心和尚も、永平寺の便所掃除を、 亡くなるまで続けれた。旅に出るときは、 便所掃除用の雑巾を油紙に包み、どこの家、どこの宿泊まっても、夜間こっそり便所掃除をしたという。
仏心和尚にとっては、行く先々みんな修行場所だったのである。
便所掃除をしない禅僧など、禅僧とは言えないのである。
 
吉峰寺で、嫁入り前の娘を預かったことが何度かある。
私が便所掃除をしていのに驚いて、自分もしなければと手伝い始めた。
嫁入りするときに、余計な道具は要らない…雑巾が二枚あればよい。
一枚は普通の、一枚は便所掃除用の…。
 
そうして、陰ながら人様に気持ちよく過ごしていただくために、労を惜しまぬ嫁になれば、これにまさる幸せはあるまい。
一般の人にも同じことを言いたい…特に、社長とか管理職にある人に、 その心構えがほしいのです。

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